ワーグナーよりヴェルディを、モーツァルトよりもベートーヴェンを好む私にとって、「コジ・ファン・トゥッテ」や「ドン・ジョヴァンニ」と並んでどうしても見ておきたいオペラが、「フィデリオ」であった。なにせあのベートーヴェンが作曲した唯一のオペラなのだから。それもベートーヴェンは当初「レオノーレ」として作曲したこの作品を生涯に亘って改訂し、序曲を3回も書きなおした(つまり4曲もある)のである。
ベートーヴェンのいわばライフワークにもなってしまった歌劇「レオノーレ、または夫婦の愛」はフランスの作家ジャン・ニコラ・ブイイによって書かれた台本をもとにしている。この作家はさして有名ではなく、もしベートーヴェンが「フィデリオ」という作品を残さなかったらおそらく後世に名を残していなかったのではないか。
私は小さい時から「レオノーレ」序曲に親しんできた。第1番も素敵だが、何とも出来そこないのような第2番も魅力的だし、それに第3番などは単独でも演奏される見事なものだ。けれどもベートーヴェンはこの3つの序曲では満足せず、まったく一から「フィデリオ」序曲を作曲するのである。そのように考えると、ますますこの作品に興味が沸く。4つの序曲はそれだけでもベートーヴェンを感じさせる作品だが、そのように始まる2時間余りの作品がすべてベートーヴェンの音楽で満たされる・・・そう考えるだけで私はわくわくするし、実際ベートーヴェンの音楽は何をどのように聞いてもベートーヴェンらしさに溢れている。
そのようなベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」が新国立劇場で上演されるという。しかも問い合わせて見れば、まだ席が残っているというのでいてもたってもいられなくなり、そのプレミア公演を電話予約、一人ででかけた。この公演の演出はマルコ・アルトゥーロ・マレッリという人。フロレスタンにトーマス・モーザー、レオノーレにガブリエーレ・フォンタナ、ロッコにハンス・チャマー、ドン・フェルナンドに河野克典、ドン・ピツァロにペテリス・エグリーティス、マルツェリーナに水嶋育、他という配役、ミヒャエル・ボーダー指揮の東京フィルハーモニー交響楽団。
この公演、私は一生の思い出に残るものとなったのだが、当時のメモには「ここへ記すにはあまりに書くことが多すぎる。この一曲だけでもベートーヴェンがいかに素晴らしいかを語ることができる」と書いている。「前年のベルリン・フィルの来日公演で、サイモン・ラトルの指揮する『フィデリオ』を見逃しているので、今回思い立って出かけたが、一生に一回見るかどうかわからないようなベートーヴェンのオペラは、たとえそのC席に2万円近い値段を払ってでも出かける価値はある。それにしても演出、指揮、それに歌手も良かった。新国立劇場も支配人が新しくなって、ずいぶん意欲的な演出が多いようである」。
舞台は「ドン・ジョヴァンニ」と同じスペイン。政治的な陰謀で不当に牢獄に監禁されているフロレスタンを救うため、男装して刑務所に取り入り、見事目的を果たす妻レオノーレの物語である。えげつないことが起こる舞台としてしばしばオペラに登場するのがスペイン、その牢獄内で政治犯の殺害が実行されようとしているのだから、その舞台が華やかであるはずがない。しかもここで歌われるのは若者の情熱でもなければ不倫でもない。正義と夫婦愛を湛えるベートーヴェンの音楽は、武骨であり歌の変化に乏しく、しかも喜劇的な会話はユーモアのセンスに欠ける。
それでも私は「フィデリオ」が好きである。いや一時期私は「フィデリオ」に嵌(はま)っていた。ベーム盤を筆頭に何種類ものCDを持っているし、バーンスタインの歴史的公演を記録したDVDも持っている。「フィデリオ」の魅力はまさにそのような武骨な音楽にある。ベートーヴェンの初期の作品や「エグモント」のような、単調な中にも不器用な歌が流れる第1幕も見どころは多いが、第2幕の後半で力強く高らかに歌われる自由と人類愛に満ちた音楽は、滑稽なストーリーやこれがオペラであることをも忘れさせるほどの高揚感と精神性に溢れ、見るものを感動させるのだ。これは劇というよりも音楽に酔うオペラである。
その昂りを助長させる仕掛けとして、マーラーがウィーンの歌劇場時代に慣例化したのが、フィナーレ前の「レオノーレ」第3番の挿入である。ところが最近は原典主義が流行り、この素晴らしい慣例を実施する公演が少ない。アバドやラトルのような最近の録音だけでなく、今回の公演でもこれは「省略」された。従って私はバーンスタインのビデオで見ることのできる1978年のウィーン・ライヴでこそ最高の「フィデリオ」が味わえる。ついでながらこの公演では、フロレスタンをルネ・コロが、レオノーレをグンドゥラ・ヤノヴィッツが、マルツェリーネをルチア・ポップが、ロッコをマンフレート・ユングヴィルトが、さらにはドン・ピツァロをハンス・ゾーティンが歌っている(ドン・フェルナンドのみCDでのディートリヒ・F=ディースカウからハンス・ヘルムに変わっている)。録音は悪いが往年の記録として圧巻である。
※かつて短波放送に親しんだラジオ少年としてひとこと。ドイツ海外放送(DW)のIS(インターバル・シグナル)は「フィデリオ」の一節が使用されていた。それがどの部分かは、私はなかなか特定できなかった。よく聞くとこのメロディーは第2幕のフィナーレで司法長官ドン・フェルナンドが歌う「兄弟が 自らの兄弟を探しに来たのだ そして救うのだ 自らが喜んで救える者を」という箇所だろうと思う。東西冷戦の頃、西ドイツの首都はベートーヴェンの生まれた町ボンにあった。そこからそう遠くないケルンにDWの本社はあった。この兄弟とはもう一つのドイツ、すなわち東ドイツのことを指す。そして西は東を救出に来た気高き妻、レオノーレということになる。
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