
そのような作品であっても、いざ実演となるとなかなか触れる機会などないのが我が国のオペラ事情である。最近では数多くの引っ越し公演もあって以前ほどではないものの、チケット代はやたら高いし、それがいい公演になるとは限らない。「ばらの騎士」のような人気作品であっても前回の我が国での公演は(ブックレットによると)2011年の大震災直後の4月、同じジョナサン・ミラー演出の公演だったということのようだ。いくらカラヤンやクライバーの伝説的名演を論じてみたところで、実際に一度も見たことのない作品だとしたらやはり説得力に欠けるだろうし、第一何か大きな穴のあいた服を着ているような滑稽な感じである。
私が大学生だった頃、ウィーン国立歌劇場の来日公演があり、カルロス・クライバーによる上演が東京で見られた。私の知り合いはかなりの出費とものすごい努力の末このチケットを手に入れ、わざわざ大阪から出かけて行ったのだが、その経験は圧巻の一言であったと聞かされた。実際は大学生の見るこのオペラがどのような印象をもたらしたかはよくわからない。中学生でも最後の二重唱の美しさを語るのがいるが(その美しさは私も高校生の特に知ったのだが)、それでもこれは純粋に音楽的な要素によるものであろうと思う。シュトラウスの精緻にして現代的な響きは、少年の私にはちょっと敷居が高すぎた。
このオペラの良さはやはりある程度歳をとってからでないと味わえないのではないか。だがそうやって実演はおろか、CDでさえ真剣に聞くことのなかったこのオペラを一生の間に何度見ることができるのだろうか、と最近は真剣に思う。それでこの公演がどういうものであるかはさておき、まずはお金を払って時間を割いて、実際に見る機会があれば行こうと思っていた。何も「ばらの騎士」に限ったことではないのだが。
今回の公演では元帥夫人(マルシャリン)にアンネ・シュヴァーネヴィルムス(ソプラノ)、オクタヴィアンにステファニー・アナタソフ(メゾ・ソプラノ)、ゾフィーにアンケ・ブリーゲル(ソプラノ)、オックス男爵にユルゲン・リン(バリトン)、ファーニナルにクレメンス・ウンターライナー(バリトン)という布陣であった。この5人はいずれもドイツ語圏の出身である。それに指揮者のシュテファン・ショルテスを加えれば、ウィーンゆかりの音楽家が勢ぞろいといったところだろうか。実際、オクタヴィアンとゾフィーによる最後の二重唱は、極めつけといってもいいほどの出来栄えで、ここのわずか10分程度だけで私は結構満足であった。4階席一番奥で聞いていても、音楽は天井をつたって会場を満たしたし、その歌声はオーケストラと見事に溶け合って極上の時間をもたらした。
今回、東京フィルハーモニー交響楽団は、満足すべき水準の響きであった。これくらいなら充分である。そして歌手たちはみな良かったと思う。ただ私は残念なことに、誕生日祝いに家族にもらったオペラ・グラスを持参するのを忘れてしまった。このことでバルコニーからはほとんど歌手や指揮者の表情を見ることができなかった。一挙手一投足にまで見事な音楽が付けられているはずの舞台が、いつも遠くにしか見えない。加えて私は最近白内障ではないかと診断され、ただでさえ遠くがかすんで見えるのである。オクタヴィアンのアナタソフは、とても素敵な「美男子」ぶりだったようで、その仕草の美しさは何となくわかったのだが、それが精いっぱいであった。
オックス男爵の女性を軽蔑した振る舞いは見るものの気持ちを高ぶらせるほど見事だったし、元帥夫人のむしろ威厳を感じさせるような高貴な振る舞いも素晴らしかったと思う。一方、ファーニナルは何かボケた感じに思われ、ゾフィーは歌唱こそ見事だったが、何か田舎のおばさんのような衣裳?に思えた。舞台の照明は奇麗で、窓から差し込む光(もう少しやわらかくてもいい)は新しすぎる道具と、さほご豪華でもない調度品に照らされて、あまり気品を感じさせない。第3幕のレストランに至っては、そこだけがほの暗くて薄汚れた屋根裏部屋のようでもあり、いっそ第1幕や第2幕と同じ部屋の作りにしておけばよかったのではないか、と私には思えた。
その日も朝から猛烈な勢いで仕事を片付けてきたところだ。睡魔に襲われそうになったのはむしろ当然だった。いつもシュトラウスの音楽を聞くと、想像していたのとははるかに違う世界に自分が浸るのを発見するのだが、今回は、そういう瞬間は最終幕の最後まで来なかった。そのことが残念でならない。もっと体調が良ければ楽しめたのかも知れない。でもだからと言って、この公演に出かけたのが失敗だったとは決して思わない。それどころか私は初めて見た「ばらの騎士」を、これでやっと少しは語ることができる。そしてできれば次回は・・・それがもう一生来ないかも知れないが・・・別のプロダクションで見てみたい。
個人的には残念な今回の上演でも、最後の二重唱の時だけは、私を恍惚の中に連れて行ったことを繰り返しておきたいと思う。音楽が2人の女声と完全に溶け合って会場を満たしたその時間が、過ぎて行ってしまうともう消えてなくなるという、そのことの悲しさの中に宿る最上の瞬間。それはまさに「ばらの騎士」のテーマそのものである。それから舞台の袖へと消える2人の若い男女・・・若いということはいいな・・・と、おそらく会場にいた多くの大人がそう思ったに違いない。あっ、それから私がもし人生をやりなおせるのなら、映画監督になってこの物語をベースにした恋愛映画を撮ってみたいと思った。世紀末のウィーンではなく、バブル崩壊後の日本を舞台にして。
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