
イエネ・ヤンドーがピアノを弾いたナクソス盤で第3楽章を聞いた時だった。鳥の鳴き声をまねたようなかわいい音が、ピコピコと歩くようなリズムに乗って出現する。ピアノがそれに絡まり、行進曲のようなリズムに乗って音楽は進んでゆく。なんと心地の良い音楽だろうかと思った。モーツァルトのピアノ協奏曲は第20番以降が大変な高みに達しているが、そのようなレベルでない曲のほうが楽しめる場合がある。気さくに聞きながら、音楽の質を落としなくないとき、この曲は最適な時間を与えてくれる。
その素敵な第3楽章は、モーツァルトの飼っていたムクドリをイメージしているという。などほどそうだったのか、それでまるで鳥刺しパパゲーノの歌のようなメロディーがここに現れるのか、などと納得した。それからこの曲が好きになった。モーツァルトのムクドリの音楽を聞くのは、愉悦のひと時である。どの演奏で聞いても、それは感じられる。
初めて第1楽章を聞いた時も、やはり忘れらない。さりげないオーケストラの響きが、吹き抜けていく春風のようにさわやかだった。ゆっくりと落ち着いた演奏もいいが、少し浮き立つような演奏も悪くない。アバドの音楽、とりわけモーツァルトの演奏は、素顔の演奏とでも言おうか、調味料を加えていないオーガニック料理のようだ。上澄みの一番澄んだところだけを使って、きれいに無駄なく、飾り気なく。それが物足りない、生真面目で楽しくない、と言う人もいる。だがここにピレシュのピアノが加わると、作為の感じられない即興性が、控えめな感情に乗ってオーケストラと打ち溶ける。素材を生かした料理は、質素な器が似合うかのように。
第2楽章。このアンダンテの素晴らしさを讃えた偉人は多いようだ。だがそんな予備知識がなくても初めて聞く人をどこか遠くの世界に連れて行ってくれる。ここに聞くことのできるのは、第20番以降において幾度となく出現する別世界への、いわば入り口である。晩年のモーツァルトが孤独で、しばしば淋しく、その心は誰にも理解できないほどに寂寥感に満たされていた、と考えるのは勝手である。だがまだそこまでいかないこの時期に、こんな美しくも悲しい音楽を書いていたのだ。
モーツァルトはおそらく純真で、心の優しい人だったのだろうと思う。小さな子供がそのまま大きくなったような人・・・心が未熟でも人懐こくて優しい人。そういう人の音楽のような気がする。このように想像するのも、まあ勝手なことではあるのだが。
この作品についていつも語られることも一応書いておく。モーツァルトはこの曲を、優秀なピアノの生徒だった女性バルバラ・プロイヤーのために作曲した。出来栄えには自信を持っていたようで、姉のナンネルに、この曲を含むどの曲が気に入っているかと尋ねる手紙が残されている。1784年の作品。
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