
ハイドンの音楽を聞くと、その洗練されたエレガンスとでも言おうか、こんな気品に満ちた音楽はほかに真似できないのではないか、と思う。交響曲の中でその極め付けではないかと思うのが、この第2楽章である。誰の演奏で聞いてもそう感じるが、特に私が出会った演奏なかで、最もその思いがするのはトーマス・ビーチャムによる演奏である。この演奏は1950年代のもので辛うじてステレオ初期に間に合った。おかげで今聞いても新鮮である。
第2楽章の「時計」は変奏曲になっており、同じメロディーが様々に形を変えて現れる。最初はその様子がとても印象的であった。一瞬止まってまた音楽が動き出すところなど、これがハイドンのユーモアのセンスなのかと思ってみたりもした。ところが初めて全曲を通して聞いたとき、「時計」などというシックな感じは第2楽章のみで、そのほかの楽章は骨格のしっかりしたハイドン晩年に相応しい規模の作品である。低い弦の響きで始まる荘重な序奏は、夜明け前の趣きである。この頃の作品には常に長い序奏が付けられているが、この作品も例外ではない。どこかベートーヴェンの初期の作品に似ている。
この曲は全体的にそろっと始まる主題が印象的である。第1楽章もそうだが、音楽そのものは複雑である。この雰囲気は第4楽章に通じている。第4楽章はフーガが続く。編成が大きい演奏で聞くと迫力もあり、「時計」などという可愛らしい名前が付けられていることに違和感さえ覚える。また10分も続く第3楽章では、独特な中間部も忘れられない。ここで活躍するのはフルートを主役とする木管楽器群である。弦楽器が低音で曲を支える。
ヨッフムの颯爽とした演奏やカラヤンの洗練された響きもいいが、ビーチャムの古風なたたずまいを湛える演奏も捨てがたい。ゆっくりなところもひとつひとつ丁寧でありながら、音楽が重くなっていないのはさすがというべきだろうか。まだ音楽が手軽に聞けなかった時代、おそらく多くの人が、古くから抱いていたハイドンのイメージの愛すべき演奏がここにあるような気がする。
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