
「無」の方の「ゼロ」は「Null」と言うことがある。手元の英語の辞書でnullを引くと「無効の」「価値のない」「空の」などと言った意味が記載されていた(ジーニアス英和辞典)。この言葉の語源について一度きっちリ調べてみたいと思っているのだが、ドイツ語でNullteというと零番目という意味となり、このNullteがブルックナーの交響曲ニ短調の、いわばニックネームとなっている。交響曲第0番と言われる作品である。
この作品が我が国で初演されたとき、その模様はNHKテレビで録画放送されたのを覚えている。当時私は中学生で、地元大阪の大フィルがテレビに登場するのが珍しく思ったからだろう。演奏は朝比奈隆だった。ブルックナーの作品自体、まだ珍しい時代だから、私の最初のブルックナー体験になったことに相違はないのだが、その時の印象は「何もない」。演奏も凡庸だったと思うほど何かとりとめのない、地味な作品だと思った。それから私は交響曲第4番「ロマンチック」を始めとして第7番、第6番、第3番「ワーグナー」といった作品を好むようになって、改めて第0番に戻ってきた。この作品を、まあちょっとは聞いてみようかと思ったのだが・・・。
この時に買ったCDがポーランド人の作曲家でもあったスタニスラフ・スクロヴァチェフスキであった。1999年の録音で、この時に録音された一連の演奏はブルックナー全集となっている。後に買った第7番などは1990年頃の録音だから、全集の最後の方に録音されたことになる。だがこの録音を聞くと、すでに若い頃からブルックナーらしい音楽が作曲されていたことがわかる。
第1楽章の静かな雰囲気はまるで室内管弦楽のための作品のようだし、第2楽章の美しく透明な響きは、私には冬の夜の運河に映る都会の灯に奇妙にマッチして、何も考えすに佇む心落ち着く時間を想起させる。それもそのはずで、私は冬の夜にひとり散歩をしながら、ブルックナーを聞くことが多い。特に明日からまた忙しい一週間が始まると言う前の、日曜日の夜がいい。この時間帯、都会の片隅の運河界隈には、犬を散歩させる人たちや釣り糸を垂れる若者、ジョギングに勤しむ人など、様々な人々が残りわずかな週末の時間を過ごす光景を目にすることができる。もちろんそのそばを私はウォークマンでブルックナーを聞きながら通り過ぎる。
スクロヴァチェフスキは2000年以降の東京の音楽シーンにあって、ちょっとした巨匠であった。読売日本交響楽団やNHK交響楽団にたびたび客演し、もう80代にもなるというのに矍鑠とした姿で指揮台に登場しては、椅子にも座らず暗譜で見事なベートーヴェンやブルックナーのシンフォニーを聞かせてくれたからだ。ファンも多かった。彼が指揮する時には、あの広いNHKホールの3階席もほとんど埋まった。私も「エロイカ」を聞いて耳を奪われ、ブルックナーの作品に聞き惚れた。記念にCDを買って帰り、心地よい眠りについた記憶も新しい。けれども90歳を超えてなお現役のスクロヴァチェフスキも、とうとう帰らぬ人となった。
骨格のしっかりとしたゆるぎない演奏は、彼自身が作曲家でもあり、特に20世紀音楽に対して特別な感覚を有しているからではないかと思う。ある時な擬古典的な、ある時は前衛的なこの時代の音楽は、科学技術の時代の音楽である。それでもオーケストラという、すべて人の手による楽器集団を彼はリアリスティックに裁いて見せる。一点の違いもおろそかにしない音楽は時に冷たく感じることもあるが、現代の電子楽器に気になれた耳には、そういう演奏で聞くモーツァルトやベートーヴェンもまた、フレッシュであった。そして私はまた彼自身の作品を耳にすることもあった。だがもうその音楽を生で聞くことはできない。
ブルックナー自身が「取るに足らない」と名付けた第0番交響曲は、45分にも及ぶ大作ながら静かで落ち着いた曲である。第3楽章になってスケルツォとなり、やや躍動的になるが、第4楽章はまた内省的である。録音も少ないこのような曲が、コンサートで取り上げられることもほとんどなく、従って耳にする機会もほとんどない。大作曲家が「ゼロ」と名付けたという事実によって、この作品は良く知られている。その珍しい曲を真面目に、そしてきっちりと演奏しているのがスクロヴァチェフスキの録音である。
このCDには作曲家としてのスクロヴァチェフスキ(ミスターSと言う)の側面も感じることが出来る。余白(といういい方が相応しいのかわからないが)に弦楽四重奏曲ヘ長調から第3楽章「アダージョ」を管弦楽曲に編曲したものが収録されているからだ。この曲を初めて聞いたが、第7番の交響曲第2楽章を思わせるような、大変美しい曲に聞き惚れてしまった。それはまさしくブルックナーの交響楽そのもので、もしかしたら第0番なっかよりもずっと聞きごたえのある曲に、私には感じられた。
私のスクロヴァチェフスキとの出会いとなったこのCDを改めて聞きなおすことにしたのは、彼の訃報に接したからに他ならない。そして例によって冬の日曜日の夜の都会で運河の向こうにそびえる高層建築を眺める。時折モノレールが音をたてて通り過ぎてゆく。勤労者として明日からの一週間に備える、少し緊張感を感じるそんな時間を、無機的な都会の夜景の中で過ごすとき、スクロヴァチェフスキの演奏するブルックナーほと似合っているものはないと感じる。