2018年1月16日火曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調K488(P:アリシア・デ・ラローチャ、コリン・デイヴィス指揮イギリス室内管弦楽団)

冬の関東平野は雲一つない青空が続くのが特徴で、今年もまたそのような日々が途切れない。けれども大阪生まれの私は、冬と言えば時折曇ったり、晴れたりするものだという印象が強い。西高東低の気圧配置は、シベリア気団から吹き降ろす北西の季節風が日本海上で湿気を含み、裏日本に大量の雪をもたらす。その風が太平洋側に到達するときには乾いたものとなって、真冬の晴天をもたらす。

ところが関西地方は、この日本海側と太平洋側を隔てる山が低い。北風に乗った雲は、丹波の山々を経るうちに少しずつ少なくなるが、大阪に達する時にも完全にはなくならないのだ。冬の大阪平野の上空には、このような千切れ雲がぽっかり浮かんでいて、その量や通り過ぎる速さによって冬の寒さが変わる。これが京都になると、雲の量も多くなり、時に雨や雪が降る。

主婦は洗濯物が乾かないと嘆くが、この関西の冬空が私は好きだ。なぜこのような話をするかというと、モーツァルトのピアノ協奏曲K488ほど陰影に富んだ曲はないと思うからだ。この曲は第22番から第24番まで続く一連のピアノ協奏曲として、1786年頃に作曲された。丁度「フィガロの結婚」が上演された頃で、このあたりを境にしてウィーンにおけるモーツァルトの人気にも陰りが見えてくる。だから、有り余る才能を持ちながら、それが認められない天才の内に潜む心の闇・・・K488ほど、その深い心情を吐露したような作品はない、と私も若い頃から思ってきた。

それは第1楽章の淋しいメロディーからしてそうで、クララ・ハスキルのモノラル録音に耳を傾けながらストーブにあたってい暖をとっていたりするレトロな光景が目に浮かぶ。そして第2楽章に至っては、もうどうすることもできない哀しみ・・・それは切々を胸を打ち、冬の深夜で一人孤独に耐えるような光景になってゆく。第3楽章では、何か吹っ切れたように前を向いて歩きだすが、その時の心情はあくまで自信を見つめる内省的なもので、早すぎないリズムと、時に木管とからみつつ音域を上り下りするピアノの調べは、この曲をモーツァルトの最高作品、いや少なくとも古典派における協奏曲の最高峰に位置づけられる、とまあこんな具合である。

だがそれほどの曲にもかかわらず、この曲の決定的な名演奏に巡り合わない。ハスキルの演奏は確かに良いし、あるときはこれこそK488と思っていたが、何分録音が古い。モノラル録音の情報量は、ステレオのそれに比べると圧倒的に少なく、情報が少ないが故の効果とでも言うべきものによって、実際に聞いたのとは違う要素が付け加わっているようにすら思えてくる。

おそらくこの曲の演奏は、何も足さず、何も引かないというのがいいのかも知れない。何せモーツァルトはこの曲を、それまでとは次元の違う入念さを持って作曲したらしい。ピアノ・パートを完全に書き終えてから、他の部分を作ったという。その証拠にこの曲には、ただ一つのカデンツァ部分が第1楽章に挿入されてえおり、しかもそのカデンツァさえも彼自身が書き残しているからだ、という。そういえばこの曲の自由度は少なく、それはすなわち、モーツァルト自信がこの曲の完成度にこだわったからだ、と言うのだ。

だとすれば、この曲はできるだけ装飾を排し、可能な限り自然で、何もてらうことなく音楽をありのままに奏でるような演奏で聞きたい。そう思いながら数多くの演奏に接してみた。時には、オリジナル楽器を用いたピュア・トーンで聞いた方がいいのではないか、と思い、メルヴィン・タンとロジャー・ノリントンの演奏や、ルドルフ・ブッフビンダーとニクラウス・アーノンクールによる演奏にも触れてみた。タンの世評高い演奏はまさに自然体で、まるで春の野を行くようでもあり、第3楽章などはそれなりに愛らしく素敵ではあるが、この曲の持つ影の部分が少ない。つまり快晴の東京で聞くならいいが、湿度の高い大阪の冬には合わない。

聞いていけばみつかるもので、私の最もお気に入りの演奏は、意外なことにスペイン生まれの女流ピアニスト、アリシア・デ・ラローチャの再録音である。バックをコリン・デイヴィスがしっかりとサポートしていて、伴奏にも風格があり、それでいて音楽そのものの魅力が、一切の飾り気もなく、それでいて愛しむようなタッチで繰り広げられる様は、モーツァルトの演奏に必要なものと不要なものが何かを再認識させてくれる。

ラローチャはショルティと共演した古い録音があるため、この再録音の時にはすでに高齢で、いまさらまた何も、と思った程だ。90年代に嵐のようにリリースされる有名演奏家の再録音に辟易としていた時期である。そのような中に埋もれ、あまり見向きもしなかったが、今聞いてみるとこれがなかなかいい演奏である。特にこのCDは第24番ハ短調と収録されており、こちらの方もすこぶるいい。

第22番変ホ長調と同様にオーボエ・パートをクラリネットに置き換え、それによってふくよかでしかもひしひしと胸に迫る曲になっているような気がする。K488の魅力は、クラリネット協奏曲と同様、イ長調の魅力であり、さらにオーボエを欠く変ホ長調には交響曲第39番がある。この3つの作品に共通するモーツァルトの作品は、私の個人的なイメージで言えば冬の空。それも雲が時折太陽を覆う、不意に寒さの身に染みる青空である。

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