2018年1月31日水曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K595(P:クリフォード・カーゾン、ジョージ・セル指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

ギレリスによるこの曲の演奏が私の個人的なベスト盤であることは先に書いた。そしてその状態を変えたくないとも思っている。同時にそれは、この曲を気軽に聞けなくさせてしまっていると言っても良い。だから、そういう特別な演奏ではなく、もっと気軽に聞きたいときにどうするか、という問題があった。

K595は天国の音楽で、夭逝したモーツァルトを象徴する音楽、と私は思っている。その演奏は繊細で、そっと人の心に寄り添いながらも、一面で醒めた部分がそれとなくないといけない。このような演奏としては、何をおいてもカーゾンの演奏を思い起こす。実際そのレコードは、モーツァルトの演奏史上の名演と言ってもいいほどの評価である。

彼は第20番と第27番をベンジャミン・ブリテンの指揮で、そして第23番と第24番、それに第26番「戴冠式」をイシュトヴァン・ケルテスの指揮で、それぞれ録音している。前者が1970年の録音で、この2曲を収録したCDが世に名高い。

だが私はまたしてもこれらの演奏を聞いたことはなく、ここではカーゾンが1964年に演奏したものを取り上げることになった。録音はブリテン盤の6年前だが、リリースされたのは2000年頃で、録音嫌いだったカーゾンとしても特に遅い、死後20年近く経ってからのリリースだったと言うことになる。

ここで驚くべきことには、この録音はDECCAの正規の録音だということで、名プロデューサーのジョン・カルショーの名前が記載されているし、何と伴奏がジョージ・セルとウィーン・フィルという贅沢なものだということである。演奏は実際、その名に恥じない名演であると思う。

セルはクリーヴランド管弦楽団との演奏のように、すべてが機械のように正確、というわけではないところが興味深い。ウィーン訛りの、ややテンポが動く様子が第1楽章からわかるが、カーゾンのピアノが入ってくるとピタリと合わせ、きっちりと、しかし無機的にならず、言わば質実さの中にこそ宿る澄まされた感性がモーツァルトの孤独感を強調している。

この状況がもっとも良く表れているのが第2楽章で、クラリネット協奏曲と同じ時期に書かれた曲の「しみじみと語りかける演奏は涙なくして聞けないほど(2005年のライナー・ノーツより)」である。

私は最近数多くの街道歩きや散歩を繰り返し、その間中、音楽を聞くことが多い。ギレリスの演奏は、澄んだ夜に聞くととてもいい。それに対し、セルの伴奏によるカーゾンの演奏は、日中の陽気の中で聞くのが好きだ。だがどちらの演奏も第2楽章になると、時間が止まり、どこか違う世界に漂うような感覚に襲われる。静かな音楽なのに、その他の雑音が耳に入らなくなる。消え入るような小さな音にも、そうとは感じさせないながらも確固たる感覚が宿っている。つまり他の者を寄せ付けないほど悟りきったゆえに自由で豊かな心象が感じられるのである。名曲ゆえに名演奏は多い。けれども、この感覚が表現されている演奏には、なかなか出会うことができない。

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