2018年1月8日月曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K482(P:ロベール・カザドシュ、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団員)

モーツァルトがぴピアノ協奏曲第22番を作曲したのは1785年のことである。この頃からモーツァルトの音楽は、次第に複雑、深遠なものとなり、さながら作曲家の内面を吐露するような作品になっていくとされている。実際、続く第23番はハスキルの名演奏に代表されるように、ひしひしと寂寥感に溢れ、その傾向は二番目の短調作品である第24番でさらに深まると思う。

第22番と第23番の対になるに作品でモーツァルトは、オーボエを省いてクラリネットを用いている。 その斬新さが作品に及ぼした影響については、私の音楽的知識ではうまく語ることはできないのだが、この第22番は非常に木管楽器が目立つ作品である。特に第2楽章の中間に長々と続く、木管楽器のみによって醸し出される協奏交響曲の如き趣きは、それまでの作品にない側面を表しているように感じられる。

一般に「ロマン派」と呼ばれる音楽は、ベートーヴェンより後の作曲家に付けられる区分だが、実際にはベートーヴェンの中盤以降の音楽にその傾向が見られるということになっている。だが、当時ピアノの技術的進歩に伴って、ピアノの持つ広音域の表現力を駆使し、力強くダイナミックに表出されるようになっていく音楽は、ベートーヴェンより前、すなわちモーツァルトですでに一つの方向を示しつつあったのではないか。その先駆けとなる作品が、もしかしたらこの第22番かも知れない、などと想像してみた。

いや私はかつて、ピアノ協奏曲第9番「ジュノーム」でそのような傾向があると書いた。主な理由は第3楽章における中間部で、独立した部分が急に現れることにある。この部分を優れたピアニストで聞くと、その前後との対照が見事に表現され、聞くものを次々と違う世界へと誘ってくれるような気がしてくる。

そのような特徴のある部分を、この第22番も持っている。ただ第9番と違うのは、第2楽章ですでに、深々としたある種ロマンチックと言ってもいい表現に、冒頭から入ってゆくことだ。第1楽章の堂々として快活なメロディー、第3楽章のうきうきとした主題に挟まれた二つの部分と織りなす光景。第22番のピアノ協奏曲は、このように実に多彩で、変化に富み、聞くものに様々な表情を見せる作品である。

フランス人のピアニスト、ロベール・カザドシュがジョージ・セルとともにコロンビア・レコードへ録音した一連の演奏は、長い年月を経た今でもレコード史上に燦然と輝いている。録音されたどの曲を聞いていてほれぼれするのだが、特に第22番は、私の最大のお気に入りである。

カザドシュ(フランス語では子音に挟まれた単独のsの音は濁るという法則があるのでこう書くが、一般にはカサドシュと言われている。どちらが本当かはよくわからない)の演奏は明るく快活で、時にセルの規律正しい演奏に乗るとまるで行進曲のようになると思われがちだが、実際には微妙な表情付けが見て取れる。例えば第26番「戴冠式」では、両端楽章の、それこそ行進曲のようなメロディーとは打って変わって、第2楽章の静けさは筆舌に尽くしがたい。規則正しい生活をしていると、かえって自然の微妙な変化にも気づくように、これに勝るものはないほどの絶品である。

同じことが第21番の第2楽章にも言える。第2楽章だけを取り上げれば、圧倒的にカザドシュの演奏に軍配が上がる。そして第23番も第27番も、私は一流の演奏であると信じる(だがこの2曲についてはいい演奏が沢山ある。ついでに言えば、第25番を欠いているのが大変惜しい)。そしてまた第22番は、それ自体目立たない作品ながら、この演奏が私の脳裏を離れない。第1楽章の冒頭から終楽章のコーダまで、ほれぼれするような音の行進は、厳格な正しさの中にあってこそ可能な、精緻で微妙な音色変化を印象づけ、聞き手に途切れることのない集中力を維持させつつ、陶酔の世界へと誘う。まるで名人芸のような演奏である。

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