2024年1月14日日曜日

東京都交響楽団第991回定期演奏会Cシリーズ(2024年1月13日東京芸術劇場コンサートホール、下野竜也指揮)

朝から快晴だった空がにわかに曇りはじめ、雷雨となって初雪が降った。コンサートが終わったら路面が濡れている。この間わずか2時間あまり。昨今の天候不順を象徴するかのような、なかなか大変な一日だなあ、と思った次第。

都響の定期を聞くために池袋まででかけた。Cシリーズとなっているこの演奏会は、わずか1日だけのコンサートである。指揮は鹿児島生まれの下野竜也で、先週聞いた東京音楽コンクール優勝者記念演奏会に引続き3回目。私は広島交響楽団を指揮した「エグモント」の演奏をテレビで見て以来のファンである。だが経歴を観ると、本格的に音楽を志したのは遅く、年齢も私よりたった3歳しか違わない。しかし徐々に頭角を現しているように見え、内外の各地のオーケストラからはひっぱりだこである。

最近は行くべき演奏会をプログラムで決めている。今回は今年生誕200周年を迎えるブルックナー、しかもその交響曲第1番である。ブルックナーが作曲した最初の交響曲(習作を除く)で、それなりの完成度があり楽しい曲なのだが、演奏される機会はとても少ない。そしてプログラム前半にはモーツァルトのピアノ協奏曲第24番K491が演奏される(ピアノ独奏:津田裕也)。この2曲、ともにハ短調である。今回のコンサートに足を運ぶ理由はもちろんブルックナーだが、その前に弾かれるK491が決め手でもあった(なぜなら私は、同じ時間帯に横浜で演奏される小泉和裕のチャイコフスキー「冬の日の幻想」と迷ったのだが、プログラム前半のソリストが先日聞いたばかりのヴァイオリニストだったことが大きい)。

もっとも公演が始まって最初に演奏されたのは、バッハの「G線上のアリア」であった。オーケストラとともに静かに登場した指揮者は、思いを込めてこの曲を指揮、静謐な中に温もりを湛えた演奏は、能登半島地震の被災者に捧げられた。

モーツァルトのピアノ協奏曲はほとんどが長調で作曲されており、短調の作品は第20番K466とこの曲だけである。劇的なK466に比べると地味だが味わい深い作品で、特に心情が胸に迫る第2楽章が大好きだ。ただ私がこれまでに聞いたこの曲の演奏は2回ともN響定期で、まだ若かったからいつも3階席だった。アンドレ・プレヴィンの演奏もそういうわけで記憶に残っていない。そんな反省もあって、今回は1階席の前から5列目。ピアニストの息遣いまで感じられる席に陣取った。ここからは弦楽奏者が譜面をめくる音も聞こえるが、管楽器と打楽器は全く見えない。

さて津田裕也という仙台生まれのピアニストを聞くのは初めてだったが、彼は優しくも心を込めてこの作品を演奏し、余計なものをできるだけ加えないその真摯な姿は、モーツァルトの魅力を引き出すのにもっとも重要な点であることを熟知しているかのようだった。ほのかに暗いメロディーは、そのまま曲を通して揺らぐことはなく、そのことがいっそうこの曲の統一的な心情ーそれは絶望感と言ってもいいかも知れないーを引き立てた。思えば一向に支援の進まない被災地の状況に、お正月から私たちは焦り、怒り、そして今では祈ることをも通り越して憐れんでいるのである。後年のモーツァルトの心情を垣間見るような、ごく自然な演奏に私はとても好感をもった。

鳴りやまない拍手に応え、カーテンコールは3回にも及び、アンコールにベートーヴェン の「6つのバガテル」より第5番ト長調が演奏された。この美しい曲をしみじみとききながら、メンデルスゾーンが聞いてみたいと思った。帰宅して検索してみると、何と彼のメンデルスゾーン作品集がリリースされているではないか。しかもその中に私が愛する「無言歌集」のいくつかが収録されている。これは是非聞いてみたいと思った。

休憩時間に再開されたバー・カウンターでコーヒーを飲む。席に戻ってみると何と周りにいた人の何人かがいなくなっている。これらの人々はモーツァルトを聞いだけで帰ってしまったのだろうか。私の右斜め前に座っていた人もどこかへ消えて、私の位置からは障害なく指揮台が見えることを嬉しく思った。今から始まるブルックナーの交響曲第1番は、もちろん初めて実演で聞くのだが、遅咲きのブルックナーらしく最初から晩年の作品と変わらない充実した作品である。

もっとも今回演奏されるのはウィーン稿(1890/91年)というもので、これは最初の出版時の稿(リンツ版、ノヴァーク版などと言われる)とは異なるものだ。改訂作業はブルックナーが交響楽団第8番を書いた後に1年以上を費やして行われているから、その完成度は晩年のそれに引けを取らないのではないかと想像がつく。ただ私は他の作品と同様に、ブルックナー作品の稿による違いに疎いので、ちょっと聞いただけでは良くわからないのである。

ただこの交響曲第1番に関しては、印象が随分違うように思う。端的に言えば、速くて鳴らしまくるリンツ版に比べ、ウィーン版はより円熟味が増している。いわゆるブルックナーの音楽に慣れ親しんだ身としては、ウィーン版の方がしっくりくる。例えば第3楽章のテンポは、ウィーン版の方がいくぶん遅めである。

第1楽章はいわゆる「ブルックナー開始」ではなく、そのことに少し驚くが、全体に聞きやすい曲である。第2楽章アダージョもブルックナーをずっと聞いていたいと思いたくなるに十分で、これは実演で聞いてもまったくその通りであった。演奏にムラがなくて、つまりは完成度が高い証拠だろう。そして第3楽章!「生き生きと」と題されたスケルツォは、前方で見ているとヴィオラと第1ヴァイオリンの掛け合いが楽しく、終楽章の情熱的な高揚も見事だった。

もう少し余韻に浸っていたかった気もするが、すぐにブラボーが多く交じった拍手が沸き起こり、指揮者も満足した様子で何度も舞台に登場、各楽器の合間を進んでプレイヤーと握手を繰り返し、最後に楽譜を高らかに持ち上げて喝采をさらっていた。ブルックナーを得意としていた朝比奈隆の助手の経歴もある下野は、日フィルの定期でも第3番を指揮する予定だ。私はこれで聞いていないのが第2番だけとなった。都響のブルックナー・チクルスは昨年秋に小泉和裕が振っている。これも名演だったようで、私は聞き逃したのを後悔しているのだが、知る限り今のところ第2番のコンサートは見当たらない。

薄暗くなった池袋の街を早々に出る。いつのまにか気温が一気に下がって真冬の寒さになっていた。火照った体を心地よく鎮めながら、これはまさしくヨーロッパの冬のようだと思った。

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