2024年1月19日金曜日

東京都交響楽団第992回定期演奏会(2024年1月18日サントリーホール、ジョン・アダムズ指揮)

コンサートの会場で配られる大量のチラシの中に「これは事件だ!」と書かれたものが目に留まった。現代で最も有名な作曲家の一人ジョン・アダムズが都響の定期を振るというのである。アダムズは1947年生まれだから、76歳ということになる。私は現代音楽に疎く、グラスなどとともにミニマル音楽の担い手という程度の、ありきたりの評判しか知らないのだが、自作を世界各地のオーケストラで指揮することも多く、欧米では引っ張りだこのようである。

そのアダムズが来日し、我が国のオーケストラを初めて指揮する。都響は在京のオーケストラの中でも近年特に意欲的なプログラムを組んでいるが、今シーズンの目玉のひとつがこのコンサートであることは疑いようがない。プログラムは当然すべてがアダムズの作品で、前半には本邦初演となる「アイ・スティル・ダンス」(2019年)、それに弦楽四重奏団との協奏曲「アブソリュート・ジェスト」(2011年)、後半には代表作「ハルモニーレーレ」(1985年)となっている。弦楽四重奏団には若きドイツのエスメ四重奏団が登場する。私にとってのアダムズは、2019年にN響定期で聞いた「ハルモニーレーレ」以来だが、この時に指揮をしたのは当曲を初演したエド・デ・ワールトだった。

コンサートは2日同じプログラムで行われる。最初がサントリーホール、翌日が東京文化会館である。アダムズの人気がどれほどあるのかわからないが、相当玄人好みであることは確かだろう。2日間、会場を埋めるだけの聴衆がいるのだろうかと思ったが、そこはさすが東京である。多くの音楽関係者、学生なども含め結構な人で会場が埋まっており、その雰囲気もいつもと違い興奮に満ちていた。あとで知ったが、我が国の有名な作曲家や評論家が詰めかけ、それに現代音楽のもう一人の第一人者で、コロナ禍を機に日本への移住を決めたテリー・ライリーもいたそうである。あちこちで挨拶を交わす人が多数。

多くの打楽器を含むオーケストラが舞台いっぱいに並び、やがて指揮者が登場すると熱い拍手。間もなく日本初演の「アイ・スティル・ダンス」が始まった。わずか8分の曲ながら、初演したマイケル・ティルソン=トーマスは「スーパー超絶技巧曲」と評したそうである。2階席奥からはよくわからなかったが、和太鼓やエレクトリック・ベースも登場する。だからというわけではないが、まあ素人の私には「祭り」の音楽に聞こえる。

続く「アブソリュート・ジェスト」については詳しい解説が必要である。配布されたブックレットには作曲者本人による長い文章が掲載されている。ここにそのまま掲示したい思いに駆られるが、著作権上それが可能かよくわからない。よってここに一部を抜粋したいと思う。まずこの曲の特徴は弦楽四重奏と競演するということである。その形態が音楽上どう成立するのか、とても興味深かったのだが、アダムズは「単純に配置の問題」がある他にも、両者の「アンサンブルを同時に成り立たせるのは」極めて困難だと語っている。舞台上で指揮者の周りに登場したエスメ四重奏団は、チェロ奏者以外起立したままだった。長身で若い彼らのみがカラフルな衣装をまとい、存在感が示された。そして驚異的に、弦楽四重奏がオーケストラに溶け込みつつも独自性を発揮し、決して埋もれない。それはやはり技巧性によるものが大きいと思う。

音楽はストラヴィンスキーの「プルチネルラ」を聞いて触発されたそうだが、全編に亘って様々な曲の主題などが登場する。その多くがベートーヴェンであり、弦楽四重奏曲やピアノ・ソナタの曲も含まれるが、聞いていてわかりやすいのは交響曲のいくつかである。このようなものをパロディーと呼ぶのは、たとえAbsolute Jestが「徹底的な悪ふざけ」という意味であっても的を得ていないのかも知れない。なぜなら解説書には、「最も純粋に『創造的な』作業」であり、多くの大作曲家と同様に「他の作曲家の音楽を内面化し、『自分のものとする』手法」であると述べている。

25分にも及ぶこの複雑な曲を聞きながら、飽きることはなかったが、この曲の初心者としては全体に何を聞いてるのかよくわからない混乱が生じたのは事実である。それが意図されたものかどうかはよくわからない。演奏かは相当大変だったようにも思う。あっけにとられるまま終わったが、満場の拍手は鳴りやまず、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番より第2楽章がアンコールに演奏された。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏は現代音楽にも通じるような融通無碍さを持っていることは多くの人が語っているが、こうして最新の現代音楽の直後に聴いて違和感がないどころか、その連続性のようなものも感じることができる。逆説的にベートーヴェンの先進性が強調されたような気がした。

後半の「ハルモニーレーレ」については、もはや古典的とも言えるくらいにこなれた作品として録音も多く、私も実演2回目である。検索をしてみると、初演したエド・デ・ワールトを筆頭に、サイモン・ラトルやパーヴォ・ヤルヴィ、それにベルリン・フィルをアダムズ自らが指揮した演奏などがヒットする。冒頭から延々と続く和音の連続は、妻に言わせれば「レコードの針が飛んだような」曲である。全般にアダムズの作品は、まるでモーツァルトのようにずっと音楽がワンワンと鳴っている感じだ。編成も大きく、エネルギッシュでリズムの変化が面白い。そして「ハルモニーレーレ」はその中に緩徐楽章とも言える部分が何回か現れ、それは後期ロマン派に通じるムードが漂う。

様々な要素の延長上にある現代音楽をちゃんと聞こうとすれば、中世の音楽から古典派、ストラヴィンスキーやシェーンベルクに至るまで、音楽史を俯瞰して理解している必要がある。だがアダムズは、そうでなくても楽しめる音楽である。特に「ハルモニーレーレ」のような作品は、作曲されてからすでに40年近くが経過していることを思わずにはいられない。私が音楽を聞き始めた1970年代に「春の祭典」がそうであったように、本作品は各地のオーケストラのレパートリーとして定着していきそうな気がする。それにしてもアダムズの音楽は、ずっと聴いていると一種の陶酔感をも感じる麻薬のような音楽だと思った。

ひとりのアマチュア・リスナーとしては、よくわからないなりに多くの発見のあった演奏会だった。おそらく芸術作品というのは、そういうものだろうと思う。音の重なりが表現する多様な感覚に、まだ新しいものがあるのだということに改めて驚くとともに、ベートーヴェンの音楽がかくも多様で先進的なものとして再現され得る可能性を秘めていることに感動した。猛烈なブラボーの嵐は楽団員の退場後も続き、指揮者とクヮルテットが再度舞台に登場。残った大勢の聴衆の拍手を受けていた。

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