つまり生で聞く演奏は、視覚的要素も大きいということである。そのことを改めて実感した次第。そう、いつもNHKホールの後方の席は、あまりよく見えないことによって、音の印象まで損なっているということである。これを避けるには1階席に座るしかない。しかも両翼はオーケストラ全体が後姿になるくらい幅が広いので、音も拡散してしまう。直接波がしっかり届く1階席の中央のみが、真に満足できる位置と言えるが、その1階席は傾斜が浅くて前の人に隠れるし、N響は舞台の後方に並ぶので最前列以外のプレイヤーが見えない(やたら肩が凝る)。
さて、ソヒエフの音楽はこのような悪条件にもかかわらず極めて精緻で、一音一音が確信に満ちている。フレーズの長さも各楽器の強さも、すべてが的確である。驚くのは、そこまで精密な指示をしておきながらオーケストラが伸び伸びと弾いていることだ。褒めることで実力を発揮する駅伝チームのように、オーケストラから実力以上の力を引き出す、というとどこまでわかって書いているのか、と言われそうだが、まあ素人から見てそういう風に思うのである。
Cプログラムは休憩なしの1時間。そのためにわざわざコンサート会場へ足を運ぶのがちょっとつまらない気もするのだが、その短いプログラムの最初にリャードフの交響詩「キキモラ」が演奏された。年代的には20世紀初頭で、マーラーの時代。プロコフィエフは弟子にあたる作曲家だから、後半のプログラム「ロメオとジュリエット」の前に置かれるに相応しいということだろうか。
その「ロメオとジュリエット」は有名なバレエ音楽で、通して演奏すれば2時間半を要する大曲だが、その中から抜粋された組曲がコンサートではよく取り上げられる。それでも第1組曲から第3組曲まであって、全部を演奏するとそれなりの時間を要することから、さらに抜粋されることがほとんどである。今回はその抜粋をソヒエフが行い、演奏順序も入れ替えて45分程度の組曲に仕上げている。その演奏順は以下の通り。
- モンタギュー家とキャピュレット家(組曲第2番第1曲)
- 少女ジュリエット(組曲第2番第2曲)
- 修道士ロレンス(組曲第2番第3曲)
- 踊り(組曲第2番第4曲)
- 別れの前のロメオとジュリエット(組曲第2番第5曲)
- 朝の踊り(組曲第3番第2曲)
- アンティル諸島から来た娘たちの踊り(組曲第2番第6曲)
- 朝の歌(組曲第3番第5曲)
- ジュリエットの墓の前のロメオ(組曲第2番第7曲)
- 仮面(組曲第1番第5曲)
- タイボルトの死(組曲第1番第7曲)
「ロメオとジュリエット」では有名な第2組曲がよく演奏されるが、ソヒエフ版も第2組曲を基準として最初の5曲は組曲2番を順に並べたもので、有名なメロディーが続く。第5曲まで行ったところで第3組曲から「朝の踊り」が差しはさまれるが、この第3組曲は滅多に聞く機会がない。2分ほどの短い曲だが、バレエが目に浮かぶような楽しい曲で威勢がよくソビエト風。
第2組曲に戻って静かで不安定な「アンティル諸島から来た娘たちの踊り」となり、そして再び第3組曲から「朝の歌」。いずれもバイオリンのソロ(本日は郷古廉)が活躍する。そして第2組曲に戻り悲劇的な「ジュリエットの墓の前のロメオ」が胸を打つ。消え入るように音が遠ざかってゆく間、広い会場が静まりかえる。ここまではストーリー通りなのだが、最後の2曲は第1組曲からのメロディーである。「仮面」の行進曲風のメロディーは、ちょっとしたアクセントになっていた。そして最後は「タイボルトの死」。弦楽アンサンブルの速いリズムに乗って、多くの楽器が競演する様は興奮に満ちたもので、このコンサートの最後に相応しい音楽的効果を生んでいた。
今東京で、ソヒエフは何を演奏しても行ってみたい指揮者である。来週はサントリーホールで「エロイカ」のコンサートが予定されているのだが、大いに残念なことにすべての席は早々に売り切れている(同じ演目が大阪でもあるが、これも完売)。ソヒエフのベートーヴェンは昨年聞いた第4番の名演が思い出されるので、これは是非とも聞いてみたいのだが、それが叶わないのはもどかしい。そして来年は、とうとうショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」が組まれている。
冒頭に述べたが、改めて思うにNHKホールの3階席はさほど音の悪い席ではない。にも拘わらず演奏が印象に残らないのは、視覚的な印象に乏しいからだ。だからなるべく前の方で聞いた方がいい。もちろん前で聞くと音もいい。聴覚と視覚にそれぞれ半分ずつの値段を払っていると考えるべきかも知れない。それにしても何十年もコンサートに通いながら今までわからなかったのは、そういうことだったのだ!
0 件のコメント:
コメントを投稿