2012年9月8日土曜日

東海自然歩道⑧(大原~延暦寺根本中堂)

約1年ぶりの大原で東海自然歩道を再開した時には、私たちは高校生になっていた。4人とも行く高校が異なることとなったが、入学式の直前に何とか再会し、新しい生活を想像しながら京都へと向かった。今回の行程は京都からいよいよ滋賀県へと入る道で、あの比叡山の登山となる。延暦寺の境内を通るので、見所の多い区間である。

東海自然歩道のガイドは多くが下りのルート、すなわち東京を起点として大阪へ向かう。この場合、延暦寺へのコースは坂本からの上りである。ケーブルカーも敷設された上り道はなかなか急で、大変なコースだと思われた。しかし私たちは京都側から登るので、この区間は下りとなる。そういうわけでこれはラッキー、とばかりに三千院の前を素通りして歩き出す。

延暦寺は日本の仏教界においてはリーダー的な存在で、最澄の開いた天台宗の総本山は長らく(そして今でも)中心地である。ところが京都から見ると比叡山は、北東方向の山の一つではあるが、そこからお寺の一部が見えるわけではなく、ましてその登山道が整備されているとも言い難い。バスも通っているが、狭い道をくねって行く。織田信長が火を放った「迷惑な存在」も、丸でそれを隠すかのようにひっそりと裏側にいる、という感じである。

昔から延暦寺への道も、敢えて言えば目立たないものとして存在し続けたのではないかと思うほど、大原からの行程は山道そのものである。細く険しい上り道であった。景色が良いというわけでもなく、歩く人も多くはない。そのような道だからこそ、ここは修行の場として存在してきたことを思わずにはいれらない。「千日回峰行」などという気が遠くなるような修行が、千二百年にも及んでなお今でも行なわれている。

私たちは修行僧にこそ会わなかったが、その代わりに急な山道を越えてドライブ道へとたどり着いた時には、喉がからからに乾いていた。修行では飲まず食わずでここを歩き通すから、ジュースの販売機などという俗物は始めから用意されていないのだろう。だが、あまりの喉の渇きに、持ってきた水筒の水が早くも底を着き、私たちは自販機を目指して歩き続けた。そしてとうとう駐車場のそばに来た時、そこに500ミリリットル入りのHi-Cアップルが入った自動販売機が設置されていることに気づいた。傾きかけたその機械は嬉しいことに壊れてはおらず、しかも購入者が少ないためか、その缶は極めて冷たく保たれていることが想像された。私たちは一目散に買い求め、一気に飲み干した。その感覚は今でもよく覚えている。私たちは「解脱」などということからはかけ離れた存在として延暦寺に入った。

「五体投地」という、チベット仏教にも通じるような「密教」の儀式があることは瀬戸内寂聴の本で読んだ。その流れが我が国の仏教の本流である。奈良時代の「南都六宗」の腐敗によって新しい仏教への期待が高まった平安時代に、遣唐使として派遣されるエリート僧は、大乗の教えの中から密教の教学を日本に持ち帰った。大津のふもとの村の出身だった彼は延暦寺を建立したが、その中から鎌倉時代の新しい仏教の開祖が次々と誕生する。すなわち法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、さらには日蓮(日蓮宗)などである。

その延暦寺の中心が「根本中堂」ということになる。私は以後合わせて3回ほどここに行ったが、最近20年以上は出かけていない。寒いお正月明けの頃に、焚き木がしてあったのを覚えているが、その時を含め、ちゃんとお参りしているとは言い難い。近いうちに再び訪れてみたいと思っている。

密教と、さらに古くからあった山岳信仰のようなものが結びついて発展したのが我が国の仏教であると思う。しかしそれは仏陀がインドで開いたオリジナルな仏教とはかなり異なっている。私はその元の仏教なるものに大変関心が高いのだが、そういうことについてはまた別の機会に書きたいと思う。

東海自然歩道は根本中堂からまっすぐ大津側に下っていく。琵琶湖の風景が開け、晴れていればなかなかの風景である。だがその日は天候が悪く、今にも雨が降り出しそうな雰囲気であった。そのため私たちはバスで京都市内へ戻ることとし、下りの区間は次回に歩くことにした。ドライブウェイから雲の合間に見える琵琶湖もなかなか美しかったが、山中越と呼ばれる峠道を京都白川通に向けて下るあたりは道路も狭く、やはり京都の閉鎖性を思わずにはいられない。ここが近江と京の主要な道路であったというのだが、県道として整備されたのは昭和に入ってからであり、そしていまでもそこは大雨の時には規制されるようなところである。

京都の少し裏側の山で、日本仏教の総合施設とも言うべき延暦寺は、京からは分け隔てられて存在している。しかしそこがしばしば都の政治家から疎んじられる存在となったばかりか、そこから改革的に派生した鎌倉時代の新興勢力を含め、しばしば都の政治を脅かした。いまでも異様なその存在は、高校生の私にも強い印象を残した。

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