よく知られているようにこの歌には、ピアノ伴奏で歌われる版と、管弦楽を伴奏として歌われる版がある。そして後者においては、男声歌手の場合と女声歌手によるものに分類される。私が持っているCDのひとつは、ウィーンゆかりの歌手クリスタ・ルートヴィヒによるもので、伴奏はカール・ベーム指揮のウィーン・フィルである。カール・ベームによるマーラーというのは大変珍しく、このCDもザルツブルク音楽祭の放送録音である(1969年)。演奏について先に記すと、この録音は不完全なステレオながら安定した歌声が、レトロな雰囲気の伴奏に乗って前に出てくる感じが何ともうるわしい。
「さすらう若人の歌」(Lieder eines fahrenden Gesellen )は4つの部分から成る15分程度の曲である。マーラー自身の失恋が影響しているといわれるその歌詞は、穏やかに始まるかと思えば、エキセントリックに叫び、最後は悟るかのような雰囲気で終わる。昇華というようりはモヤモヤもがく苦しみの中に、何か光を見出そうとするかのような、とはいえそれが結局は解決しない、というような全体に暗い雰囲気である。つまりマーラーらしさというのは、このような最初の段階から確立し、一貫しているようにも思える。
- 恋人の婚礼の時 (Wenn mein Schatz Hochzeit macht)
- 朝の野を歩けば (Ging heut' morgens übers Feld)
- 僕の胸の中には燃える剣が (Ich hab' ein glühend Messer)
- 恋人の青い目 (Die zwei blauen Augen)
これに対して自然の素晴らしさは喩えようもない。光が降り注ぎ、小鳥がさえずる。マーラーの心を落ち着かせるのは、このような自然との対話であった。「巨人」の第1楽章はここのメロディーである。私は歌が付くここのメロディーがやはり好きである。
マーラーを苦しめたのは、直接的には失恋だっただろう。だがこの歌はそれを超えて訴えかける。この世のあらゆる苦しみについて、決して消し去ることのできない苦しみについて・・・聞く人それぞれの人生で持つことが避けられない苦悩・・・いわば普遍的な苦しみとして、この歌を理解しようとするだろう。だからこそ、これは若い人の歌であると同時に、この世に生きる人すべてに共通する歌だと思う。
永遠の苦しみは決して消し去ることなどできない。できるのはただ心を落ち着かせることだけだ。
街道のそばに、一本の菩提樹がそびえている。
その蔭で、はじめて安らかに眠ることができた。
菩提樹の下、
花びらが私の上に雪のように降り注いだ。
人生がどうなるかなんて知りもしないが、
全て・・・ああ・・・全てが、また、素晴らしくなった。
全て!全てが、恋も、苦しみも、
現(うつつ)も、夢も!
0 件のコメント:
コメントを投稿