クリスマス・イブの夜、パーティが開かれている。少女クララはドロッセルマイヤーおじいさんからくるみ割り人形をプレゼントされたが、兄フリッツと取り合いになり壊れてしまう。みんなが寝静まった夜、おじいさんに治してもらったくるみ割り人形は、人形の兵隊を率いてネズミの軍団と戦う。クララが投げつけたスリッパで勝利したくるみ割り人形は王子になっていた(王子は冒頭で呪われ、くるみ割り人形になっていたのだ)。王子はクララをお菓子の国に招待し、登場人物たちが踊りを繰り広げる。
このストーリーからもわかるように、チャイコフスキーが作曲した三大バレエ音楽のひとつ「くるみ割り人形」は、クリスマスの時期に世界中で上演される。私もこれまでの人生でたった1回だけ実演で見たバレエは、この「くるみ割り人形」であった(1995年末、ニューヨーク・シティ・バレエ)。
赤いカーペットが敷かれた劇場に着飾った親子連れが大勢見に来ていた。どの客もお金持ちに見えた。特にアメリカの女の子はドレスを着こみ、これから始まるおとぎ話を楽しそうに待っていた。私も今の妻となる女性とここに来ていた。観光客も大勢いた。ホリデー・シーズンのニューヨークはおそらくもっとも華やかな時期である。あの凍りつくような寒さにもかかわらず。
有名な序曲や行進曲は、このバレエを見たことがなくてもどこかで耳にしたことのある曲だろうと思う。それもそのはずでこのバレエ曲の中の名曲の数々は、作曲者自身によって組曲にアレンジされている。この組曲版「くるみ割り人形」は、コンパクトでとても親しみやすいため、録音の数も多い。そして何より現実的な問題として、かつて2枚組のLPやCDを買う予算のなかった聞き手にとって、この組曲はお手軽な入り口だった。だが全曲盤も今では1枚のCDに収まるようになった。
ワレリー・ゲルギエフがマリインスキー劇場管弦楽団(CDではキーロフ歌劇場管弦楽団となっている)を率いて1998年に録音した演奏がそのひとつである。この曲は他の演奏に比べ演奏時間が短いので、このようなリリースが可能だったのだろう。実際に踊る場合には、少し速すぎるのかもしれないが、そのようなことはよくわからない。私はそれでも全曲盤を、単に音楽を聞くだけの楽しみとしても好んでいる。
組曲版と全曲版とでは、曲の並び順が多少異なる。だが後半の第2幕において次々と登場する踊りがこの曲の楽しさであることには違いない。実際に見ても後半になると、知っている音楽が次々と出てくるので身を乗り出して見てしまう。バレエなど興味がなかった私でも、そうだったのだから。
下記に、その全曲版の演奏順を、組曲版で取り上げられている曲に★を付け並べておこうと思う。私が全曲版を好むのは、このような有名な曲に挟まれた曲にも味わいの深い曲があるということに加え、これらの有名曲が少しでも間をおいて、時間をかけて登場してほしいからである(それに「花のワルツ」で終わってしまうのも味気ない)。
チャイコフスキーは叙情的な音楽があふれ出る作曲家だった。音楽の近代化では遅れてきたロシアにあって、洗練された音楽性とやや陰りのあるメロディーがブレンドされている様は、聞き手を間違いな音楽を聞く楽しみに浸してくれる。管弦楽団のゴージャスな響きは、まさにクラシック音楽を聞いている気分にしてくれるのだが、かといってその雰囲気は素朴でもある。かつてロシアでは、もしかしたらとてつもなく寒い劇場で、みなコートなどを来て見ていたのではないかと思う。だから寒い日の夜の散歩に持ちだすにも心地よい。
この曲を初演したサンクト・ペテルブルクのマリインスキー劇場は、演奏に対する意気込みも並はずれたものではなかったかと思う。まるでこれこそ私たちの音楽ですよ、と自信たっぷりに演奏するかのおうな素晴らしい腕前を、優秀な録音が支えている。ゲルギエフの指揮もまたしかりである。この曲の録音には数多くのものが出ているが、その中でも屈指の演奏ではないかと思う。子供向けの音楽だと思うなかれ。この演奏で聞くチャイコフスキーは、大人にとっても、かつて子供だった頃に味わったクラシック音楽を聞く楽しみに満ち溢れている。
【演奏順】(★は組曲に取り上げられている曲)
1)序曲★
2) 第1幕
第1曲 クリスマスツリー
第2曲 行進曲★
第3曲 子供たちの小ギャロップと両親の登場
第4曲 ドロッセルマイヤーの贈り物
第5曲 情景と祖父の踊り
第6曲 招待客の帰宅、そして夜
第7曲 くるみ割り人形とねずみの王様の戦い
第8曲 松林の踊り
第9曲 雪片のワルツ
3)第2幕
第10曲 お菓子の国の魔法の城
第11曲 クララと王子の登場
第12曲 登場人物たちの踊り
スペインの踊り
アラビアの踊り★
中国の踊り★
ロシアの踊り★
葦笛の踊り★
ジゴーニュ小母さんと道化たち
第13曲 花のワルツ★
第14曲 パ・ド・ドゥ
ヴァリアシオン
金平糖の精の踊り★
コーダ
第15曲 終幕のワルツとアポテオーズ
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