2014年12月6日土曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第5番ニ長調K175、ロンドニ長調K382(P:イエネー・ヤンドー、マティアス・アンタル指揮コンチェントゥス・ハンガリクス)

モーツァルトのピアノ協奏曲は第27番まであるが、そのうち実質的な最初の作品が第5番ニ長調である。この曲は1773年、モーツァルトが17歳の時ザルツブルクで作曲された。若書きの未熟な作品だと思ってはいけない。それどころかさすが天才の作品である、と素人の私でも言いたくなるほど、充実した作品であると思う。

後半の、特に第20番以降の作品が、歴史に名を残すとはまさにこういうことかと思うような溢れる先進性と類まれなる完成度、そして完璧な芸術性を備えているために、モーツァルトの初期のピアノ協奏曲はあまり取り上げられることが少ない(例外は第9番だろう)。けれども交響曲の初期先品とは異なり、これらの作品はどれ一つをとっても、モーツァルトの素晴らしい音楽を堪能できる。第5番にして早くもこんな作品を作っていたのだと改めて感心する。

思えばモーツァルトを聞く喜びの原体験は、このような作品だったかと思う。天真爛漫と言えるような楽天的な響きの中にもエレガントな才能を感じさせることで、非の打ちどころのない、丁度いい乾いた明るさを持っている。リズムは落ち着きながらも小気味良く滑らかにすべり、すべての和音は耳を洗うように心地よい。その音符は適度な度数を持って上がったり下がったり、その間をピアノが駆け抜けていく爽快感。お正月の朝のような新鮮な気持ちになる。

第1楽章のアレグロはまさにそのような曲だ。このような形容詞をここで書きならべてしまうと、このあとの作品で何を書くべきか迷うが、まあそんなことはどうでもよいだろう。とにかく次から次へとメロディーがあふれ出てくる若きモーツァルトの、屈託のない感性がとても心地よい。

第2楽章のアンダンテの、春の野原で戯れるような気持ちにしばし我を忘れる。音楽を聞く喜びとはまさにこういうことを言うのだ、などと考えながら。何の気取ったところはなくても、このような曲をスラスラと書けたというのは、驚くばかりである。

曲が曲だから、どのような演奏で聞いても素晴らしいに違いはないのだが、私のモーツァルトのピアノ協奏曲体験を深めた最初の一枚から、ナクソス音源の録音を久しぶりに聞いてみた。まだCDが高かった頃、モーツァルトのピアノ協奏曲全集は、私にはなかなか手が出なかった。ペライアも内田光子も、とてもいい演奏ではあるが、これらは発売直後で大変高かった。それに比べると一枚あたり1000円で買える新譜録音は衝撃的だった。

私はイエネー・ヤンドーというハンガリー人ピアニストの演奏する全集を、上記の理由から買うことになった。だがその演奏は予想に反して、大変充実したものだったのである。録音もいいし、伴奏と努めるオーケストラもまったく不足がないばかりか、下手なメジャー録音よりはるかにいいのである。 強いて言うならストレートな、さっぱりとした演奏である。それだけにモーツァルトの曲の良さが飾り気なく伝わってくるところに好感が持てる。ビギナー向けの全集ということである。初期の作品は、そういうわけでこの録音さえあれば、当面は良かった。

いや実はカップリングされた第26番K537「戴冠式」もめっぽう素晴らしい。「戴冠式」は晩年の作品ながら初期の作品のように気取らない作品なので、このニ長調の組合せは、この全集の中でもとりわけ完成度が高いような気がする。

第3楽章は再びアレグロとなって、ティンパニーも加わる充実した曲だが、モーツァルトはこの曲を大変気に入り、しかも後年、第3楽章を新たに作曲している。それがロンドニ長調K382である。この曲は独立した曲としても有名で、コマーシャルに使われたり音楽番組の開始音楽に使われたりしている。一度聞いたら忘れられないような曲である。パッパッパと刻むようなリズムはこの当時の流行だったのだろうか。そう言えばハイドンのこの頃の作品にも、似たような節の曲があったような気がした。


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