2014年12月29日月曜日
ホイアンへの旅-⑥ダナンへ
魅力的なホイアンの滞在も何日かが過ぎ、一通りの観光も終わったので、私たちはお土産などを買う必要に迫られていた。ホイアンの町で買えるものは、いつも同じものであった。あれだけ多くの店がありながら、売っているものはどの店も同じものだったのだ。すなわち仕立屋、民芸品、ベトナム料理に使う香辛料やコーヒーなどである。それ以外のものを買おうとしても、どこにあるかもわからない。ある日私はビーチボールを買いに町中を歩き回ったが、あのビニールでできた、日本ならどこにでもあるような浮輪の類(はおそらくすべて中国製なのだが)を発見することができなかった。
つまり工業製品、それに流行の品々はどこにもないのである。
ホイアンの若者は、このような古い町に住んでいることを息苦しく感じているようであった。私たちが服や鞄やそういった少し高級なものを手に入れようと町中をさまよっていると、「ビッグCへ行くといいわよ」と仕立屋の若い女性が教えてくれた。ビッグCとはダナンにあるショッピングセンターだそうである。そして嬉しいことに無料の送迎バスがホイアンからも運行されているらしい。「私は毎週、でかけていたわ」とその女性はいいながら、観光地図に送迎バスの停留所を書いてくれた。そうとなれば是非行ってみよう、ダナンからはタクシーで帰ることもできる。そういうわけで炎天下の町をバス停目指して歩き始めのはいいのだが・・・。
行けども行けどもそれらしいものがない。道行く人にビッグC行きのバス停はどこか、と尋ねても「もう少しだ」「俺のバイクに乗っていかないか」となって、やがては「ノー・サンキュー」。ある中級ホテルのロビーで尋ねると、バスの便は少なく、ローカルバスで行くとよい、とのことであった。ローカルバスのターミナルは、そこからすぐ近くの幹線道路に面している、という風にその地図では見えたのだが、地図は観光地図で縮尺もいい加減、さらに郊外になると遠いところもすぐ近くにあるような書き方がしてあることに私は気付いた(あとでわかったことだが、やはりガイドの地図で一番すぐれているのは、日本語では「地球の歩き方」である)。
大変な暑さの中を家族3人が歩き、やっとたどりついた地元のバス停には、一台のオンボロバスが泊っていて、車体に張られたシールのアルファベットの文字から、そのバスはダナンとホイアンを往復するバスであることがわかった。時刻表を見ると1時間おきという風に見えたので、そういう場合は乗り込んでしまうのが確実な方法である、というバックパッカーの掟に従い、暑い車内に入った。やがて運転手や車掌、それによくわらない人々が三々五々乗り込んできていよいよ出発の時となった。
暑い車内に土埃が舞い込むのを防ぐため、バスは窓のカーテンを閉める。さらに道がでこぼこで常に時速20キロ程度の速さである。そしてこの速さだとダナンまでは1時間はかかると思われた。私たちは睡魔に襲われながらも、開けたまま走るドアから車外へ転落しないように注意していた。途中から道は少し広くなり、大理石を産出する仏教寺院の山(マーブルマウンテン)が見えてきた。ダナンはもうすぐであった。写真などをパチパチとっていたら、後ろから日本語で話しかけてきた若い学生風の女性がいた。「あなたは日本人ですか?」
彼女はホイアンで日本語を学びながら、ホイアンでガイドのアルバイトをしているとのことであった。私がビッグCへ行くと告げると、そこは彼女の家の近くであり、一緒に降りましょう、行き先を案内してあげますよ、と言うのである。そう言えば私たちは、どこで降りればいいのか見当がついていなかった。一応車掌風の太った中年の女性に「ビッグC」と連呼しておいたのだが、バスは繁華街を右に左に走り、確かにどこでおりたらいいのかわからない。
こういう旅行は何とかなるもので、私たちは彼女の案内に従い、ある地点でバスを降りた。彼女はビッグCへの行き方をカタコトの日本語で伝え、私は感謝を申し上げてわかれた。その地点から汚いところを10分程度歩くと、確かにビッグCはあった。もし彼女に会えなかったら、私たち家族はダナンの町でさらに迷っていたに違いない。
彼女はバスの料金のことを訪ね、私が払った金額を言うと「それは良心的な方です。よかったですね」と言った。あとで知ったことだが、何でも料金表のないベトナムでは、公共バスでさえも料金が不明瞭で、特に外国人には何割増しかの料金になることが慣例化しているようである。しかもその裁量権は車掌に委ねられている。いやもしかしたら車掌は、当然のように外国人からは多くを徴収しようとする。あたかもそれが観光客に課せられた義務であるかのように。
ビッグCはダナンにあるショッピングセンターだったが、我が国で言えば、中小都市にある西友かイオンのようなところであった。KFCというファーストフードがあったので、疲れた体にコーラを流しながら休んでいたら、ビル自体が暗くなった。それは数分続いた。つまり停電であった。この停電のおかげでエスカレータが動かなくなっていた。私たちはカートを引きづりながらスーパーマーケットの中をうろうろした。久しぶりに味わう都会の雰囲気であった。
入り口にたむりしているタクシーの一台と交渉し、帰りは多くの荷物を抱えて一気にホテルに帰り着いた時には日も傾きかけていたが、私たちはさっそく水着に着替え、プールで一泳ぎした。バス内で出会った彼女によるとダナンに暮らす日本人は数百人とのことであった。夜になると空に大きな月が現れた。満月は今週末とのことであった。私たちが帰国する前の日の土曜日の夜は、ホイアン中が灯籠祭りで賑わうとのことであった。私たちは満月の夜をホイアンで迎えることができるのを嬉しく思った。ホテルのそばの行きつけのレストランの中庭にある池でカエルを見ていると、息子は帰りたくない、みたいなことを言った。何もない夏の夜は、まさにそれゆえに、とても有意義で気持ちのいい時間であった。
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