2023年8月11日金曜日

リスト:管弦楽曲集(ジュゼッペ・シノーポリ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

猛暑の中を金沢へと向かう北陸新幹線「かがやき」の車窓からは、早くも妙高高原の美しい景色が広がっている。上信越の山々は木々も青く、高い山の稜線はくっきりと快晴の空と見事なコントラストを描いている。トンネルまたトンネルの線路が、かつては何時間もかかった山越えルートを一瞬のうちに北陸へと運んでいく。今日は金沢で、旧い友人と落ち合い、その後、五箇山を経て富山まで行く。予約してある居酒屋で味わう日本海の幸とお酒に舌鼓を打ちことを想像していると、早くも唾液が出てきそうである。

中部山岳地帯の雄大な光景を目にしてリストの「前奏曲」が聞きたくなった。Spotifyで検索したら、ジュゼッペ・シノーポリがウィーン・フィルを振った演奏のアルバムが先頭に表示された。満員の列車は早くも上越市内を快走している。リストは、ピアノの名手として超絶技巧を駆使した作品を数多く作曲し、その多くは自ら演奏することによってテクニックを披露することを目指した。ちょうどバイオリンにおけるパガニーニのように。しかし、リストはまた管弦楽曲において交響詩の分野を確立した作曲家でもある。その代表的な作品として「前奏曲」をあげることができる。

さらにリストは、ピアノ連弾用に作曲した19曲からなるハンガリー狂詩曲の一部を管弦楽曲に編曲している。最も有名なのは第2番で、千変万化するリズムが特徴の民族音楽をベースにしているから、数々の個性的演奏が目白押しである。カラヤンのねっとりとした演奏に舌を巻いていたが、晩年のショルティがいともすっきりと鮮やかにオーケストラをドライブして見せてくれたことは記憶に新しい。曲は交響詩「オルフェウス」に移っているが、その間に列車は日本海岸に出て西進している。早くも糸魚川を通過した。紺碧の海を眺めていると、ここはスペイン北部とフランスにまたがるバスク地方のように見えて来た。

地形的に日本を東西に分ける中央地溝帯がこの辺りを通っている。もっとも険しい日本列島の難所を、何事もなかったように新幹線は走る。関西の奥座敷である北日本地方は、このようにして今や東京文化圏に入りつつある。交響詩「オルフェウス」が静かに曲を閉じたとき、列車は富山平野へと入った。続く曲は交響詩「マゼッパ」。いきなり不気味な和音がさく裂する。富山湾の向こうに能登半島が見える。新幹線はあまりに早いので、音楽が終わるまでに終点に着いてしまいそうである。

シノーポリの演奏は、古くから定評あるカラヤンやショルティの演奏を更新して、リストの管弦楽曲に新しい風を引き込んでいる。イタリア風の流れるメロディーを加味し、しかもメリハリのある迫力を失っていないどころか、最新録音に支えられて低弦の響きも十分に厚く、オーケストラ音楽の魅力を最大限に引き出している。ウィーン・フィルのふくよかな響きも堪能でき、満足の行く一枚。高くそびえる北アルプスの山々を眺めていると、この曲がナチスによって利用されたことも納得できる。

収められた最後の「ハンガリー狂詩曲第2番」は、私が初めて聞いたクラシック音楽の一つで大変懐かしいのだが、何度聞いても飽きない曲である。久しぶりではあるが、しみじみと音楽に浸っているうちに、列車は倶利伽羅峠を超え、金沢市内をゆっくり走っている。金沢が東京からわずか2時間半で行けることに驚きを隠せないが、その新幹線も来年には敦賀まで延伸される。これでとうとう福井県までもが首都圏からの日帰り圏内となるのは時間の問題である。ただし能登半島となると今でも奥地である。私は富山で友人と別れた後、ひとり輪島まで足を延ばす予定である。金沢からさらに2時間以上の道のりである。

立山連峰

【収録曲】
1. 交響詩「前奏曲」
2. 交響詩「オルフェウス」
3. 交響詩「マゼッパ」
4. 「ハンガリー狂詩曲」第2番

2023年8月2日水曜日

PMFオーケストラ東京公演(2023年8月1日サントリーホール、トマス・ダウスゴー指揮)

半月も続いた猛暑が、突然の落雷と驟雨によって中断された。午前中に34℃にも達した気温は、22℃まで急降下。けれども秋の気配というには早すぎる。まだ8月になったばかりだというのだから。

パシフィック・ミュージック・フェスティヴァル(PMF)がレナード・バーンスタインの提唱で始まってから、もう33年目だそうである。夏の暑い時期に、北の大地札幌で開催されるアカデミーでは、その期間だけ編成される若者のオーケストラが連日コンサートを開く。私は札幌での公演こそ聞いたことはないのだが、その最終公演を東京で行うようになってから、一度だけ聞いた。それは2019年のことで、ワレリー・ゲルギエフが指揮するショスタコーヴィチの交響曲第4番などであった。この公演には上皇夫妻もお見えになり、大変感動的な演奏会だった。

そういうことがあったので、このたびコロナ禍を経て催される公演に、私はいそいそとでかけた。プログラムは前半がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲で、後半がブルックナーの交響曲第9番である。メンデルスゾーンの独奏を務める金川真弓も初めてだが、デンマーク人指揮者のトマス・ダウスゴーの演奏を一度聞いてみたいと思っていたことが大きい。

プロフィールを読んでわかったことには、ダウスゴーはバーンスタインの弟子の一人であり、そして小澤征爾のアシスタントとしてボストン交響楽団を指揮していたそうである。またこれまでには単身、都響や新日フィルにも客演しているようだから、我が国に馴染みがないわけではない。しかし私はこれまで彼の演奏に接したことはなく、輸入盤のベートーヴェンやシューマンのCDを良く聞いていた。かつて「レコード芸術」という音楽雑誌があった(と、過去形で書かなければならないのは、とうとうこの雑誌が休刊に追い込まれたからだ)が、その数少ない魅力的なコーナーに、輸入盤の紹介欄があった。ダウスゴーはメジャーなレーベルの録音こそないが、ここで紹介されるBISレーベルからのリリースは、けっこう評判が良かった。

そのダウスゴーが今回初めてPMFに参加し、ブルックナーの交響曲第9番を指揮するということがわかった。ブルックナーの交響曲第9番は遺作で、完成された第3楽章(アダージョ)で終わることが多い。しかし今回演奏されるのは、第4楽章を補筆した完成版だという。補筆に参加したのは4名の作曲家で、サマーレ、フィリップス、コールス、そしてマッツーカという人だそうだ。その頭文字をとって「SPCM補筆完成版」と呼ばれるらしいが、それは1986年のことである。有名なサイモン・ラトルの演奏は、この補筆完成版の最初の録音である。

それから30年以上が経過し、この校訂版第4楽章は何度か改訂されている。今回の演奏は2012年改訂版と紹介されているが、ならば我が国で初演のようなものではないだろうか?また第1楽章から第3楽章までは、コールス校訂版ということになっている(2000年)。そういうわけで、今回注目したもう一つの理由は、この第4楽章付きの最新の「ブル9」というわけである。

さて、8割程度客席の埋まったサントリーホールの2階席奥に座った私は、随分若い人が多いという印象を受けた。静かに始まったメンデルスゾーンは、とても丁寧に、時にテンポを抑えてじっくり聞かせる今流行りの演奏で、かつてのようにさらさらと流れていくだけの音楽にはなっていない。メンデルスゾーン特有の中音域の甘いメロディーが、独奏ヴァイオリンと溶け合う様子は、私を久しぶりに音楽を聞く喜びへと誘った。

メンデルスゾーンは私の好きな作曲家の一人ではあるにもかかわらず、そう言うことが何故か恥ずかしかった。けれどもある時、池辺晋一郎氏がテレビでメンデルスゾーンが好きだと言ったのを見て以降、私も堂々とそういうことにした。すこし涼しくなった今日の東京で、このメンコンの音とリズムは、とても私の耳に馴染んだ。同様に感じた客も多かったに違いない。何度もカーテンコールに呼び出された金川は、アンコールにガーシュインの「サマータイム」(ハイフェッツ編)を演奏した。

短期間のうちに、オーケストラ経験の乏しい若手の編成から、そこそこの音色を出すものに仕立て上げるのは並大抵のことではないだろう、と思った。メンデルスゾーンといいブルックナーといい、中音域を重心とする中欧独特の重厚感に加え、特にブルックナーでは金管楽器のアンサンブルが決定的に重要である。それを若いオーケストラが挑戦するというのだから、こういうことはすでに当たり前になって久しいとはいえ、驚きである。

さてそのブルックナーだが、私はこの第9番の交響曲の魅力を、まだよくわかっていないと思っている。実演で聞くのはこれで3回目。同じ作曲家のの交響曲と比べても、少し変わった曲のような気がしている。演奏も難しいのではないかと思うのだが、この曲の名演奏は数多い。オーケストラは前半よりもメンバーが大きく増え、特にティンパニのそばにはなぜか3名のプレイヤーが座っている。どういうことかと思っていたら、曲の途中で交代した。

演奏は終始速めで、しかも熱い。ブルックナーの演奏には大きく分けて2つの傾向があると思っている。1つは統制を効かせて豪快に鳴らすタイプで、もう1つは流れに任せるかのように自然体を装うタイプ。コアなブルックナー・ファンには、後者を好むように思うが、この日の演奏(そしてかつて私が聞いたすべての第9番の演奏)は、前者である。PMFを創設したバーンスタインもこの曲を録音しているが、やはり前者。問題はにわか編成のオーケストラが、その豪快な金管アンサンブルと、重厚な弦楽をミックスさせ、かつ安定した響きを維持する音楽を実現できるか、ということであったが、第1楽章の冒頭を聞いた時からこれは杞憂に終わった。

崇高なブルックナー休止を含むどの楽章も、念入りに仕上げているだけでなく、聞き所満点だった。特に第2楽章のスケルツォは、息もつかせないような集中力で、唖然とするほどだった。一方、第3楽章のアダージョは、私がいまだに本気で感動した演奏に巡り合っていない曲で、今回も大変な熱演だったとは思うが、どうにも酔わないものに終始した。

本来ならここで終わるのが慣例である。それでも1時間かかるこの曲に、さらに続きを付け足したのが今回の演奏だった。しかしこの説明は誤解を招くだろう。なぜならブルックナーは死の当日まで、最終楽章の推敲を重ね、すでに多くの部分を作曲し終えていたからだ。そういうことがあるので、最近は補筆版の演奏が増えているようだ。今回の演奏もそういうわけで、続きがあって、全曲は80分にも及ぶものとなった。

初めて聞く「第4楽章」は、しかしながらちょっとブルックナーの音楽とも異なっているようにも聞こえた。いやもともとこの曲には、第8番までのブルックナーの作品とは若干異なったムードがあると思っているので、それはそれでいいのだろう。私は学者でも音楽家でもないから、こういう機会は大いに嬉しい。第4楽章が聞けるなんて、何か得をした気分であった。

20分にも及ぶ長大な終楽章のコーダが終わっても、タクトは長く振り下ろされなかったのだが、その長い「休止」の間、満場の観客の誰一人として拍手をしなかったことが印象的だった。やがて耐えきれなくなって、だれかがブラボーを叫ぶと、堰を切ったかのように嵐の拍手が沸き起こった。2階席の後方からは、各セクションが起立するたびに歓声が沸き起こり、ロック・コンサートのようでさえあった。何度も舞台に登場するダウスゴーは、とうとうオーケストラが引き上げてからも舞台に現れ、総立ちの客席から大きな歓声を浴びた。気が付いてみると、時計は9時半を回っていた。

コロナ禍による変則的な公演は姿を消し、コンサート会場はすっかりもとの光景を取り戻したように見える。私にとっての今シーズン(2022-2023)のコンサート通いも、これで終わりを告げた。会場入り口でもらった大量のチラシを自宅に持ち帰り、来シーズンのプログラムを眺めている。健康状態が持ちこたえる限り、月1回は会場へ足を運びたいと、今から心待ちにしている。

2023年7月31日月曜日

シベリウス:管弦楽曲集(ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団、ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団)

シベリウスは疑いなく北欧最大の作曲家で、そのレパートリーは歌劇から室内楽曲にまで及ぶ。とりわけ7つの交響曲とヴァイオリン協奏曲が有名だが、それ以外にも数多くの管弦楽曲がある。最も有名にして、祖国フィンランドの第2の国歌ともいうべき交響詩「フィンランディア」を筆頭に、たくさんあるこれらを一つのディスクに集めたものがよく売られていた。私も楽しい「カレリア」組曲が聞きたくて、シベリウスの管弦楽作品集をコレクションに加えた。といっても新譜は高くて買えないから、いわゆる「ベスト100」の類の廉価版の中から、最も注目していたやつを物色した。それは私の生まれた年に録音された英国の指揮者ジョン・バルビローリのもので、マンチェスターにあるハレ管弦楽団を指揮した一枚だった。

EMIから発売されていたそのCDは録音がややぎこちなく、田舎のオーケストラをのせいか、とてもローカルな雰囲気が漂っていた。「カレリア組曲」の行進曲などは、丸でチンチン電車に揺られるかの如き趣である。だが、そこが私のお気に入りとなった。このディスクには、「フィンランディア」「カレリア」組曲のほかに、劇付随音楽「死」から改編された有名な「悲しきワルツ」、「ポホヨラの娘」、それに組曲「レミンカイネン」から「レミンカイネンの帰還」が収録されていた。特に「レミンカイネンの帰還」は有名な「トゥオネラの白鳥」を含む一時間近くある全曲の最後の曲で、その後私はこの作品を通しで聴いて感動し、全曲盤を購入するきっかけとなった。

このCDにはシベリウス作品の、いわば王道とも言うべき作品群が収められているのだが、もちろん、これ以外にもたくさんの作品がある。それらに実演で触れる機会は、残念ながら皆無に等しい。しかし私と同様、いつも同じ曲ばかり聴いていたのではつまらないと感じるリスナーが、全世界に一定数いるのだろう。新たに目にした一枚は、私が持っている唯一のシベリウス管弦楽曲集の選曲を巧妙に避けていた。特に私は、バルビローリのCDにはなかった「エン・サガ(伝説)」という。20分あまりの曲が聞きたかった。シベリウスの管弦楽作品は、この曲のように北欧の伝説を題材に取ったものが多いが、その中でも最初期のものである。この曲を初めて聞いた時は、何かドラマの主題歌のように感じられた。

この曲を最初に収録したCDが目に留まって聞いてみたら、なんと「悲しきワルツ」以外はバルビローリ盤との重複がないのである。このようにして私はまた新しいシベリウス作品集を手に入れた。これはシベリウスのスペシャリストとして2度も交響曲全集を録音しているリトアニア生まれの重鎮ネーメ・ヤルヴィが、スウェーデンの地方都市にあるエーテボリ交響楽団を指揮したドイツ・グラモフォン盤である。定評のあるヤルヴィだからこそ、こういった企画が可能だったのかもしれない。初めて触れる曲、例えば「ロマンチックなワルツ」や「春の歌」のような親しみやすい曲の魅力もさることながら、このディスクの最大の聞かせどころは「タピオラ」である。

「レミンカイネン」も「ポホヨラ」も「クレルヴォ」も、いずれもフィンランド最大の民族叙事詩「カレワラ」から採られている。この叙事詩からの作曲は、シベリウスのいわばライフワークと言っても良かったのではないか。それらの中でも、晩年に作曲された「タピオラ」は1925年の作品で、これ以降には主要な作品は作られていない。「最高傑作」とも言われるこの20分足らずの作品を、今回私は初めて聞いた。凝縮された、濃厚な音楽は時に荘厳で格調高いが、決して楽しい感じのする作品ではなく、交響曲の一部を聞いているようである。それでも北欧の自然を見るようなシーンの連続で、飽きることはない。交響曲第6番や第7番と並行して作曲されたようで、いわばシベリウス音楽の最高地点のような作品である。

今年も長かった梅雨がようやく明けた。梅雨末期から早くも続く猛暑、酷暑の中で、私はシベリウスに耳を傾けている。夏でも爽やかな北欧の作品を聞けば、少しは涼しく感じられるからというわけではない。むしろヤルヴィの厚ぼったい演奏は、まるでセーターを着ているようである。一方、バルビローリの素朴な演奏は、北部イングランドの湖水地方のイメージしながら聞いている。


【収録曲(バルビローリ盤)】
1. 交響詩「フィンランディア」作品26
2. 「カレリア」組曲作品11
3. 交響詩「ポヒヨラの娘」作品49
4. 「悲しきワルツ」作品44-1
5. レンミンカイネンの帰郷

【収録曲(ヤルヴィ盤)】
1. 交響詩「エン・サガ(伝説)」作品9
2. 交響詩「春の歌」作品16
3. 「悲しきワルツ」作品44-1
4. 「鶴のいる情景」 作品44-2
5. 「カンツォネッタ」作品62a
6. 「ロマンティックなワルツ」作品62b
7. 交響詩「吟遊詩人」作品64
8. 交響詩「タピオラ」作品112

2023年7月25日火曜日

モーツァルト:歌劇「魔笛」(The MET Live in HD Series 2022-2023)

モーツァルトは、いわゆる「ダ・ポンテ三部作」において、それまでの常識を覆し人間性あふれるドラマとしてのオペラ作品を世に問うた。しばしばいわれているように、これらの作品(「フィガロの結婚」、「コジ・ファン・トゥッテ」、「ドン・ジョヴァンニ」)は、極めて下世話な内容ですらある。ちょうどフランス革命が起きて、その影響がウィーンへの波及しようとしている頃、音楽は一部上流階級のものから一般市民のものへと移りつつあった。しかし、そのモーツァルトが作曲したひとつの頂点とも言うべき作品「魔笛」については、再び古い世界に回帰しているように見える。

例えば、この物語は時代設定も場所も不確かである(紀元前のエチオピアと言われたりする)。確かに、キリスト教的価値観はさほど感じられず、それまでヨーロッパが規範としてきたモラルからかなり逸脱しているように見える。しかし、それに代わって登場するのは、秘密結社フリーメーソンの何とも形容しがたい教条主義である。特に第2幕で繰り広げられる数々の試練をカップルに課す集団は、ザラストロを頂点として密会を催し、しばしば意味不明の儀式を繰り返す。

このような効果を薄めるかのように、パパゲーノという非常に庶民的かつ魅力的なキャラクターがアンチテーゼとして登場し、モーツァルトは彼にこそ魅力的なアリアを数多く作曲している。「魔笛」のテーマは、いわば二つの世界の対比であり、時に価値の逆転が試みられる。オペラ先進国イタリアの言葉で書かれた、ありのままの人間性を表現する新しい趣向は、ドイツ語圏では時期尚早だった。だがこの作品は、ウィーンの庶民のための劇場で、数多くの効果音をふんだんに盛り込み上演された。メルヘンの仮面まとった「魔笛」も、そのときどきの時代に通じるヒューマンなドラマ性を表現することは可能であり、その余地は充分にある、と現代の演出家も考えたのであろう。このたびMETで、長らく続いたテイモアのファンタジックな演出の後を受け、新しいサイモン・マクバーニーの舞台が、このようにして出来上がった。

ここではいくつかの斬新な演出が試みられた。まず、驚くべきことに広大なオーケストラピットは、通常の深い場所から舞台のすぐ近くの高さにまで吊り上げられ、客席からもよく見える。役者に変わって演奏されるフルートやグロッケンシュピールを担当する奏者と歌手が、しばしば交流する。幕間のインタビューでマクバーニーが語っているように、初演当時、オーケストラは舞台にもっと近かったのだ。それだけではない。舞台正面に映し出されるプロジェクションへの投影と様々な効果音が、舞台で生で演じられるのである。

その様子は、旧来の演出と最新鋭の演出が混在するという面白いもの。例えば序曲が始まり、スタッフが黒板に「AKT1」などと書いていくと、それがそのままカメラを通して、紙芝居のように、筆跡と共に舞台のスクリーンに映し出される。一方、パパゲーノが鳥を追いかけるとき、その鳥の姿と音を表現するのはノートの切れ端を持った黒子たちで、これをパタパタと揺らすことで鳥を表現している。また、パパゲーノがボトルに入った水をごくごくと飲むときの音は、舞台右横の効果音担当者によって、演技と同時にマイクを通して拡声される。このような斬新な取り組みによって、舞台は台詞のシーンにおいてさえ集中力を切らすことができない。

集中力を維持するだけの推進力を与えるのは、この演出だけではない。コントラルト歌手だったナタリー・シュトゥッツマンによる指揮がまた見事の一言に尽きる。彼女の音楽は古楽奏法も踏まえたもので、私はあの素晴らしいクラウディオ・アバドの演奏を思い出した(このアバドの「魔笛」は、私が入院中に病室で聴いた当時の新譜で、一気に流れるように音楽が進む様子がとりわけ印象に残っている)。

モーツァルトとシカネーダーが試みた価値の転換は、「ダポンテ三部作」だけでなく「魔笛」の隠れたテーマでもあったのだろう。そのことを強調するように、この舞台は現代における価値の大転換を推し進めてみせる。まず登場するタミーノ演じるのは小柄な黒人ローレンス・ブラウンリー(テノール)である。美しく透き通った声の持ち主である彼を、この舞台の主人公に抜擢した、ということだが、そもそもタミーノを黒人歌手が演じることなど、少し前までは考えられなかった。蛇に襲われた彼は3人の侍女によって服をはぎ取られ、下着姿となる。その3人の侍女は、大変失礼ながら美人ぞろいという風貌ではない。

一方、悪の象徴であるモノスタトスを、スーツを着た白人ブレントン・ライアン(テノール)が演じる。さらに過激なことに、3人の童子に至っては、まるでストリート・チルドレンのようにみすぼらしくやせ細り、ぼろ布をまとっている。極めつけは夜の女王で、彼女は腹黒い側面をことに強調して醜悪な容姿の上、車椅子に座って「夜の女王のアリア」を歌い切る。ここまでくると、もはや少し悪趣味ではないかとさえ思えてくる。高貴なはずの役が醜く、悪の権化はさらに低俗な様相を放つ。だから、まるで地獄絵のように暗く惨めなのだが、そこに流れるのはまぎれもなく、モーツァルトの清らかなメロディーに他ならない。ダークサイドが思う存分強調されているにもかかわらず舞台を観て辛くないのは、新しい効果満載の演出と絶え間ない美しい音楽の故である。

私がもっとも感心したのは、パミーナを初めて通しで歌ったというエリン・モーリー(ソプラノ)。登場人物の中で彼女が一番「普通」である。パミーナに登場人物の標準ラインが引かれている。夜の女王役のキャスリン・ルイック(ソプラノ)は、定評ある驚異的な歌声だが、その頂点すなわち第2幕「復讐の炎は地獄のように燃え」で超絶技巧が炸裂し、演技を含め圧巻である。彼女はカーテンコールでもひときわ大きな声援を得ていたが、自身も感極まって涙をこらえていたところを見ると、会心の出来だったのだろう。ザラストロを歌うスティーヴン・ミリング(バス)は貫禄のある歌声を会場に響かせる。

一方、大活躍のパパゲーノはピアノも得意とするトーマス・オーリマンス(バリトン)。有名なアリア「娘か可愛い女房が一人」でグロッケンシュピールを自ら引いて歌いこなす。パパゲーノは要所要所で愛すべきキャラクターを演じるが、オーケストラの前にも設けられた細い通路(いわば「花道」)で演じ、さらに彼はそこから観客席にまで降りて歌うのだ。見慣れた「魔笛」の演出にはこれまで数々のものに接してきたが、まだこのような演出が可能だったのかと感心しきりであった。

最近、私はコンサートに出かけてもあまり感動することはなく、同じプログラムを聞いた人がtwitterなどで「涙を流した」などという表現に接するたびに、自分は今や心のゆとりを失い、ついには感動する心を持たなくなってしまったのだろうかと思っていた。しかし、この「魔笛」の映像を見ながら、私は久しぶりに聞くモーツァルトに耳を洗われ、次々と現れる斬新な演出に釘付けとなり、体は硬直、目頭が何度も熱くなった。これほど心を動かされたMETライブは久しぶりである。

モノスタトスと怪獣たちが魔法の音色によって次第に融和されていくシーンは輪になって踊るダンスとなるなど、ことごとく新しい試みが施され発見の連続である。そして最大の特徴は、最後のシーンで夜の女王が地獄に堕ちることはなく、パミーナと和解することだ。パミーナは、自分の母親である夜の女王と熱く抱擁を交わす。これこそが新しい創造で価値の逆転である。感動的でマジカルな舞台、モーツァルト、そして暑い休日の午後の銀座だというのに、客席はそれまでの公演に比べてもまばらだったのはなぜだろうか?おそらく原因は二つある。一つはチケットが高額だからだ。いつの間にか値上げされている。もう一つは、新調された客席の椅子が中途半端に心地悪く、腰を痛めかねない角度になっているからだ。

とは言え、それらを覚悟してでもこの公演を見る価値はある。「魔笛」の直前に演じられた新演出の「ドン・ジョヴァンニ」(ここでも指揮はナタリー・シュトゥッツマンである)を見逃したことを後悔した。だが、東劇ではまもなく夏休み恒例のアンコール上映が始まる。このシーズンに見逃した作品を、このチャンスに見ることができる。今から楽しみである。

2023年7月9日日曜日

東京交響楽団第189回名曲全集(2023年7月8日ミューザ川崎シンフォニーホール、下野竜也指揮)

様々なブログを検索していると、東京中で開催される数多のクラシック音楽コンサートを、実に頻繁に出かけては感想を記しているものに出会う。夏休みに読書感想文を書くような思いで、聞いた音楽を逐一文章化するという努力を、自分も時々やっていて思うのだが、相当な労力がいる。そういうことを趣味にして居る人が他にもいるというのも驚きだが、それ以上に驚くのは、それだけ多くのコンサートに出かけるだけの経済的、時間的なゆとりと、そして関心の継続である。

普通にサラリーマンをやっていると、これらを維持するのは非常に難しい。だから行けるコンサートは週末のものに絞るとか、来日オーケストラやオペラのような高価なものは、行きたいと思っていても断念する決断が必要だ。そのようにしてやりくりした演奏会を、月に1度か2度のペースで行こうと思ってきたし、実際行っている。だがここへきて、音楽への興味・関心が、かつてほど高次元で維持できなくなってきているのは、歳のせいかも知れない。特に数年前に腰を痛め、しばらくは座席に座っていることさえも困難だった。また同じ時期に白内障にかかり、目がかすんで見えなくなった。プログラム・ノートも読めず、字幕を追うのも困難になった。

だが、クラシック音楽の会場には今日も多くの人が詰めかけ、中には杖がないと歩行が困難な老人が大勢いる。彼らは音楽を生で聞くことの喜びのためには、不自由な体に鞭打ってでも出かけたい意欲をお持ちなのだろうと思う。自分には音楽に対する情熱が不足しているのではないか、とさえ思う。特に休憩のない長い曲(マーラーやブルックナー)、あるいはオペラの公演において、そう感じることが多い。こんなにも沢山の人が、お金や時間を惜しまないだけでなく、体調までも必死に維持しながら来場している!

クラシック音楽のコンサートにも、珍しい曲や難解な曲にチャレンジする定期演奏会のようなコンサート(は、質の高い真剣勝負となることが多い)とは別に、いわゆる名曲プログラムもあって、親しみやすいポピュラーな曲をプログラムに乗せるものもある。各オーケストラもそのような構成になっていて、東京交響楽団も「名曲全集」というシリーズがある。私は滅多に行かないのだが、今回のプログラムはちょっと変わっていた。夏休みということもあるのだろう。我が国を代表するアニメ・特撮の類である「ウルトラマン」と「宇宙戦艦ヤマト」の音楽を、それぞれ交響曲に仕立てた作品を並べたのだ。これらの曲は、滅多に演奏されているわけではないのだから、「名曲」と言って良いのかどうかわからないが、それでもたまにはこんなコンサートも面白いかな、と思って席を予約した。会場はミューザ川崎シンフォニーホール。

プログラムの前半は、特撮テレビ番組「ウルトラマン」の作品で音楽を担当した冬木透が、シリーズの音楽を用いて4楽章構成の交響曲にした2009年の作品である。この作品を初演したのも東京交響楽団なので、今回が2回目ということになる。初演は作曲者自身の指揮だったとのことだが、今日の指揮は下野竜也である。

さて、私はその年齢から「ウルトラマン世代」ということができる。特に小学校に上がるか上がらないかの頃、毎日家に帰ってきてはテレビにくぎ付けになっていたのは「帰って来たウルトラマン」だった。この時のことは以前にも書いたが、この「帰って来たウルトラマン」の主題歌は、すぎやまこういちの作曲である。一方、「ウルトラセブン」のような他の多くの作品は、その劇中で用いられる音楽を含め、冬木のものがほとんどである。それらの音楽が次から次へと登場し、フル・オーケストラによって演奏されるのか、と思っていたらそれは第1楽章のみで、緩徐楽章になるとトランペットのソロが美しいメロディーを吹くムード音楽のようなものになったのは驚いた。この音楽はハープやオルガンの伴奏にも乗ってうっとりするほど綺麗なメロディーで、第2楽章が終わった時点で拍手が沸き起こりそうになったほどである。

第3楽章のスケルツォ風の音楽と、第4楽章でのコーダ(フルートで「帰ってきた」のメロディーが聞こえた)の音楽は、できればもう一度聞いてみたいと思っているが、そのような機会はないし手段もない。全体に、ちゃんとしたシンフォニー・オーケストラによって演奏される耳に心地よい音楽の美しさもさることななら、この作品は単に有名なメロディーをつなぎ合わせただけの陳腐なものではないということである。確かに冬木透という作曲家は、蒔田尚晃という名で数々の純音楽作品を作曲しているそうだ。

休憩をはさんで演奏されたのは、交響曲「宇宙戦艦ヤマト」である。松本零士のよるこのアニメ作品のテーマ音楽は、大阪生まれの作曲家、宮川奏が作曲したことで知られている。テレビで放映され、日本中のファンをくぎ付けにした世代は、私よりは少し後になるのだが、丁度3つ歳下の弟がテレビで見ていた影響で、音楽も含め私も良く覚えている。この音楽を交響組曲にしたものをラジオで聞いたことがあって、それは有名なメロディーが次々と出てくるものだったが、30分もなかったように思った。今回演奏されたのは、それとは異なるものだった。

作曲したのは羽田健太郎で、1984年にN響によって初演されているというから、もう40年近く前の作品ということになる。第1楽章「誕生」、第2楽章「闘い(スケルツォ)」、第3楽章「祈り(アダージョ)」、第4楽章「明日への希望(二重協奏曲)」という構成。交響曲という体裁を取りながら、何やらてんこ盛りのような作品で、最終楽章にはソロ・ヴァイオリン、ピアノ、それにヴォーカルまでもが登場する。

今回の演奏に参加するこのソリスト人は、なかなか豪華である。まずヴァイオリニストには三浦文彰、ピアノは高木竜馬という若い2人。オルガン横の客席最上段にはソプラノの隠岐彩夏があの有名なヴォカリースを突如歌いだす。このシーンを初演時にテレビで見ていたという指揮者の下野は、震えるほど感動したと述べているが、やはり幼少の頃の経験は例えようもなく新鮮なのだろう。

下野の指揮は大変充実したもので迫力があり、オーケストラもそれに応えてなかなかの力演だった。特に終楽章のコンチェルトになってからは、ショパンまでも弾きこなした羽田健太郎ならではの難しい旋律も数多く、まるでラフマニノフでも聞いているかのような部分もあったが、そこにヴァイオリンも絡んで聞きごたえ十分であった。だが音楽は区切られており、やはり交響組曲とでもした方がしっくりいくような気がした。また第2楽章と第3楽章は、まるでミュージカルのような音楽だった。

ミューザ川崎シンフォニーホールでは暑い夏になると、サマー・フェスティヴァルが開催される。今年も東京中のオーケストラが登場し、魅力的なプログラムが組まれている。そのいくつかには来てみたいと思いつつ、何となく気が滅入るのも事実である。それはあの川崎駅の雑踏を避けることができないことと、螺旋状になった会場が好きになれないことだ。縦に長い分、サントリーホールなどよりは音が拡散する。従って近くで聞くのと、少し離れるのとでは随分印象が異なると感じた。

2023年7月2日日曜日

シベリウス:交響曲第5番変ホ長調作品82(コリン・デイヴィス指揮ボストン交響楽団)

新幹線に乗って日本各地へと向かいながら、このブログの下書きをすることが多い。今日も、朝6時12分発山形新幹線つばさ121号の車内で、この文章を書いている。小雨の降る梅雨空の向こうに、安達太良山が見える。丁度福島県内を通過中である。今日は月山の麓を通って鶴岡まで行く。

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シベリウスの7曲の交響曲のうち、もっとも完成度が高い(と私が思う)第5番といえども、さほど詳しく知っているわけではない。初めて外国のオーケストラを聞いたのは、オッコ・カムの指揮するヘルシンキ・フィルの来日公演で、大阪でも演奏された交響曲全曲演奏会の中から、交響曲第2番と第5番、それに「フィンランディア」という名曲プログラムの初日を、当時中学生だった私は友人と聞きに出かけた。このとき、第5番の曲を初めて聞いたのだが、当時、我が家にこの曲のレコードはなく、他に聞くことのできるメディアと言えばNHKのFM放送くらいだが、運よくこの曲が流れることもないわけで、それはつまり、まったく初めて演奏会で聞いたということになる。だから、というわけではなのだが、曲のことをほとんど覚えていない。ただ最終楽章のコーダで、長い休止を伴う6回もの連打が印象に残った。

緊張感を持って一気に演奏される、まるで一筆書きのような曲である。演奏時間は長くもなく短くもない。3楽章構成。第1楽章はもともとの初稿での第1楽章と第2楽章を合わせた構成となっているらしく、前半と後半で趣がやや異なる。だが続けて聞いても違和感はなく、これはこういう曲なのだと思っていた。もともとシベリウスの交響曲は、形式が自由である。長い序奏が続き、何かとりとめのない音楽がもやもやと続く中で、やがて輪郭が見え、はっきりとしたモチーフが形成されてゆく。季節が次第に移り変わり、長かった冬がようやく終わると、そこからは陽気な音楽だ。陽気と言ってもそこは北欧である。陽光まぶしい南欧のそれとは違い、清涼感ただよう乾いた青空の冷たい空気。

コリン・デイヴィスのような骨格のはっきりとした、重厚感のある演奏が好みである。しかしこのほかの演奏をあまり聞いたことはない。第2楽章は緩徐楽章となっているが、ここでは独特のリズムが全体を支配している。この主題は何度も変奏されてゆくが、最終部ではとても幸せな気分になる。この曲は前作の交響曲第4番とは対照的に、シベリウスの生誕50周年を記念して演奏されるために作曲されたことを思い出す。第1次世界大戦中に作曲された交響曲としては、異例の陽気な曲である。

交響曲では、終楽章への間を置かずに演奏される例が最近は目立つ。シベリウスの交響曲第5番などはそのように演奏すると効果的である。まるで一筆書きのような、と私は書いたが、そのスタイルはこの第3楽章にこそ当てはまる。直線的で、シベリウス独特のメロディーが緊張感を保ってコーダへと走る。トレモロ、低弦の響き、そして金管楽器のぞくぞくするようなアンサンブル。良く考えてみると、第2楽章と第3楽章はいずれも3拍子の曲である。このことが曲に躍動感と緊張感の持続を与えているのかも知れない。終楽章の次第に高揚しながらコーダに向かう様子は、短いながらも鮮やかである。

コリン・デイヴィスのシベリウスは何種類かあるが、ここでは珍しくボストン交響楽団を指揮している。記憶が正しければ、デイヴィスのシベリウス録音の最初のものがこれで、このあとRCAに録音したロンドン響との演奏、さらにはLSO Liveのレーベルから出ている晩年の全集もある。円熟の演奏にも捨てがたいい魅力があるが、若い頃の演奏が好きである。

2023年6月7日水曜日

ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団))

韓国・ソウルにある梨泰院と言えば、先日は混雑による大事故の発生した若者の街であるが、ここはかつてから米軍基地のそばにあるところで、今では珍しくもない西洋風のお洒落なお店やレストラン、それに大量の(偽物の)カバンや靴などを売る商店が立ち並ぶ一角だった。私はまだ韓国旅行にビザの必要だった1986年にここを訪れた。ソウル・オリンピックの2年前のことである。

当時の韓国は物価が安かった。私はここへ行けば、安い輸入物のCD(それは私にとって、ヨーロッパから直輸入のクラシック物に限られる)が手に入るのでは、などと考えた。靴やリュックサックなど一通り買い物を済ませて、私は一軒のレコード屋に入った。当時CDは発売されてまだ月日がたっておらず、韓国では皆無の状況だった。代わりに目にしたのは、大量のカセットテープである。ヨーロッパで録音されたカセットテープに、ハングルで書かれたカバーを付けて売られていて、メジャーなレーベル(ドイツ・グラモフォンやデッカなど)は英語でも表記されているから、何の曲の誰の演奏かは簡単にわかった。ステレオ録音のカセットは、1つあたり数百円程度だったと思う。

そこで私は、いくつかのカセットを買った。ひとつはヨーゼフ・クリップスがウィーン・フィルを指揮したベートーヴェンの「田園交響曲」で、これは無名のレーベルのものだったが音がひずんで聞けたものではなかった。もう一つはフィリップスから発売されていたベルナルト・ハイティンクによるブルックナーの「ロマンティック交響曲」だった。我が家にはブルックナーのレコードが一枚もなく、一度は聞いてみたいと思っていたのかも知れない。ハイティンクのブルックナーは、全集として完結したロイヤル・コンセルトヘボウ管とのものであった。このカセットは音質が良く、私は初めて聞いたブルックナー作品の録音となった。

交響曲の一部のみということであれば、ブルーノ・ワルターが指揮した「ロマンティック交響曲」の第1楽章のさわりの部分(第1主題)が「音のカタログ」と称される非売品のカセットテープ(CBSソニー)に、わずか40秒ほど録音されていたものを聞いている。この演奏はふくよかで味わいがあり、とてもいい曲のように感じていた。そういうことがあって、ソウルでハイティンクのものを買ったのかも知れない。

当時ブルックナーの聞き始めに相応しい交響曲は、圧倒的に第4番だった。実際これ以外の曲にお目にかかることは、ほとんどなかった。初心者にハードルが高いブルックナーの音楽は、マーラー以上に遠い存在だった。そして多くの聞き手がそうであるように、どこがどういいのか皆目わからない日々が続いた。散漫で冗長な音楽。これが私のブルックナーの第一印象だった。

それでも「ロマンティック」という愛称を持つ交響曲第4番だけは、我慢して聞き続けた。最初に買ったブルックナーのCDは、やはり第4番だった。演奏はリリースされたばかりのクラウディオ・アバドが指揮するもの。オーケストラは何とウィーン・フィル。アバドはウィーン・フィルとベートーヴェンをはじめとする全集を録音していたので、驚くことはないのかも知れないが、アバドのブルックナーというのは意外だった。何もアバドまで、と思った。ウィーン・フィルはブルックナーのこの曲を初演したオーケストラでもある。だから誰でもいいというわけではない。最晩年のカラヤンがウィーン・フィルとブルックナーを演奏したのはわかるが、何もアバドが指揮することはないだろうと思ったのである。

ところがこの演奏はなかなかいい。特に第3楽章と第4楽章はちょっとした印象を残す。前半は録音レベルが少し低いもののウィーン・フィルの流れるような美音によって、アルプスを越えて到達するイタリア半島の、比較的なだらかな山々を連想するように、角が取れたいい雰囲気に仕上がっている。これだとBGMにしてもいいな、などと適当なことを考えた。その後忘れ去られ、誰にも注目されないCDかと思っていたが、いまでもこの録音は、ちょっとは取り上げられる。けれども全集に発展することはなかった。

ブルックナーの交響曲全集をリリースする指揮者は限られている。カラヤンやハイティンク、それにヨッフムなどは例外中の例外で、ジュリーニでも後半の3つのみ、そもそも録音のない有名指揮者も多い。そして何とあの歴史的名盤と言われるカール・ベームによるこの曲の録音も、たった1回切り、しかもベームの他のブルックナーの録音には出会ったこともない。そのベームのレジェンドを買い求めたのは、90年代のことだった。

だが私はどういうわけかこの演奏にあまり感動しなかった。そもそもデッカの当時の録音には、何か過大評価されているようなところがあったかも知れない。いやそもそもベームという指揮者は、ブルックナーの指揮者なのだろうか、とも思った。いまでも時々取り出して聞いてはいるが、完成度が高く欠点のない演奏ながら、酔うというところがない。音楽が即物的でリアリスティックな指揮者のベームは、シュトラウスやモーツァルトで発揮した威力をブルックナーで発揮することはないのかも知れない。それ以降、私は実演でブロムシュテット指揮による大名演を接した以外は、この曲からしばらく遠ざかってしまった。ハイティンクのブルックナーの再録音は、ウィーン・フィルとなされつつあったが、全集に発展することはなかった。私はしかし第3番を買った。そして第7番や第8番の魅力に取りつかれた。気が付いてみると第4番は、なかなかいい演奏に巡り合えない曲になっていた。

転機が訪れたのは、ギュンター・ヴァントが最晩年に至ってベルリン・フィルにしばしば呼ばれ、いくつかの交響曲を録音し始めた時だった。私は来日公演(北ドイツ響)のチケットを取りたくて、発売日の午前10時に一生懸命電話をかけ続けたが、つながるまえにすべての座席は売り切れてしまった。健康問題で公演がキャンセルされたチェリビダッケに次ぐ失望だった。プログラムはチェリビダッケと同じブルックナーだった。テレビで見たその第9番の演奏は、客席に異様な雰囲気が漂う歴史的演奏だった。そのヴァントがベルリン・フィルとライヴ収録したCDが発売された。そしてこのCDこそ、望みうる最高の「ロマンティック交響曲」の演奏ではないかと確信したのである。

第1楽章はウィーンの朝もやの中にホルンがこだまする。この「ブルックナー開始」の印象的な冒頭は、すぐに神々しく朝日が昇るかのような第1主題へと発展するが、そこに至るまでの精緻な音色が、これほど多彩で印象深く刻まれたことはないのではないか、と思った。すべてのフレーズに推敲の跡が聞き取れる。技量は申し分のないベルリン・フィルだが、相当入念な練習を繰り返したに違いない。妥協を許さないその姿勢は、時に厳しすぎて息苦しいとさえ感じられるのも事実である。だが、この曲に関する限りその心配は無用だ。むしろ改訂を繰り返したこの曲の欠点をすべて覆いつくしている。

第1楽章ですでに、いくつかの聞き所が訪れる。ヨーロッパ中央部の音は、中音域の弦楽器に象徴されると思っているのだが、その音色がとにかく素晴らしいのである。そこに絡むホルンと木管楽器のブレンドは、組み合わせが変わるたびに表情を変える。そして音色だけでなく、音の大きさやテンポまでもが、考えに考え抜かれている。ソナタ形式と言われても、演奏に感心しているうちにどの主題がどうの、などと考えていくことがどうでもいいことに思えてくる。通俗的でやや軽薄に感じる第1楽章も、ぐっと引き締まっていい塩梅となっている。

第2楽章のアンダンテは、小さな音の変化が巧妙で聞き飽きることがない。このあたりアバドの水のような演奏で聞くのとは様子が違う。そして私がもっとも好きな短いフレーズは、第2楽章が始まって数分後に訪れる。弦楽器が突如そしてアンサンブルを奏でる、わずか1分足らずの、ここのフレーズを聞き分けるのが、私のちょっとしたこだわりである。ハイティンクもいいが、このヴァントの演奏が悪かろうはずがない。以降、消え行っては静かに沸き起こる第2楽章の何回かのクライマックスも、ベルリン・フィルの技術に支えられて申し分がない。

狩の音楽である第3楽章の明るく躍動的なスケルツォは、極めて平凡なトリオの部分などが、素直に演奏すると噴飯ものになる恐れすらあるのだが、ここでもヴァントは丁寧にその欠点を補うことに成功している。金管楽器の美しさを感じるこの楽章のアンサンブルは、何度聞いても飽きることはない。これほど印象に残るブルックナーの曲はないとも言える。改訂に次ぐ改訂ですべて書き換えたという第3楽章は、ポピュラーな名曲である。

さてもっとも長大な第4楽章が始まった。この楽章は冒頭から聞きものである。だがどことなく捉えどころがなく、尻切れトンボのように終わるのでちょっと拍子抜けするときがある。この楽章は稿によって随分異なっているらしい。ヴァントの演奏は1878/80年稿ということだが、細かいことはよくわからない。クレッシェンドが何の濁りもなく聞こえてくるブルックナー交響曲の真骨頂を堪能できる。録音されたメディアで聞く演奏は、間違いを犯す心配がないので、安心して酔うことができる。ワーグナーのように、できれば音響装置を贅沢に投資して、大音量で聞いてみたい。だが家族のいる都心のマンション暮らしでは、それも将来にとっておかなくてはならない。そう思ってもう何十年もが経つ。ヘッドフォンで聞くしかないが、最近は実演で聞くことのほうが楽しい。

ブルックナーの交響曲はプログラムに上ることも少なくない。かつてはブルックナーと言えば「ロマンティック」だったが、最近はどうも様子が違う。それでもこの曲の魅力は、明るさと親しみやすさにあると言える。私はこの曲が好きだ。だが好きな曲であればあるほど、演奏について書くのが難しい。どの演奏がいいのかも、なかなか難しい。だが、どんな演奏であっても曲の魅力を超えることはできないだろう。実演については、それが1回限りのものであるからこそ、常に聴いてみたいと思う。

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(追記)上記で述べたディスクのうち、クラウディオ・アバドによるものはノヴァーク版、ギュンター・ヴァントはハース版である。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...