2014年8月30日土曜日

メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」(オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団)

思いついた時にしかいい文章が書けないのと同じように、有名な作曲家も、いつもいいメロディーがひらめくわけではないようだ。そのタイミングは予測不可能で、いいアイデアは往々にして散歩中やベッドの中でひらめくものだ。メンデルスゾーンもスコットランドのお城を訪れた際に、この音楽がひらめいたようである。

そのメロディーがスコットランド風であることを意識したかどうかはわからないが、この曲を聞く後世の人はみな、このメロディーからやや曇りがちで時に肌寒いスコットランドの古城の風景をイ
メージすることになる。確かに第1楽章のメロディーは憂愁に満ちて忘れ難い印象を残す。さらに第2楽章では木管楽器が奏でるメロディーは、どこか民謡風で音のスケッチブックを開いているような感じだ。そして第3楽章のほの暗いメロディーも、ロマン派の香りが出て素晴らし。マーチ風の第4楽章もメンデルスゾーンらしさが伝わってくる。

秋が来て、このような曲をひとりじっくり耳を傾ける時を持てるのは、いたっい何年ぶりだろうかと自問してみる。昼下がりの公園のベンチにたたずみながら、高い空を眺めている。そういう時に相応しい演奏というのは、少し迷ったが、やはり有名なクレンペラー盤ということになろうか。この演奏は今となっては古風であり、そして独特である。

何か大海原を大型船で行くようなゆったりとした感じは、現代の都会風でせっかちな演奏からは逆立ちしても感じられない雰囲気を持っている。別に今の演奏が良くないと言っているのではないが、こういうレトロな演奏はもはやあまり聞かれなくなってしまった。

第1楽章の第2主題が入るところは、この演奏の全体の白眉だし、第2楽章の明るくてしかもしっとりとした味わいも捨てがたい。典型的な演奏ではないかもしれないが、クレンペラーの演奏にしかない深い味わいがここにはある。そえは私の好みでもあるし、他の指揮者に求めることもできない。

私はメンデルスゾーンが、この曲を完成させるまでに12年もの歳月を要したことを知り、このタイミングで取り上げるか迷った。彼がベルリンでバッハの「マタイ受難曲」を蘇らせた直後のイギリス旅行は、しかしながら彼の音楽人生にとってかけがえのないものであったし、その間に書かれたこの交響曲こそ、メンデルスゾーンの5曲の交響曲の中でももっとも素敵なものだと信じることができる・・・クレンペラーのような良い演奏で聞けば・・・。


注)クレンペラーの「スコットランド」には、フィルハーモニア管弦楽団を指揮した当盤の他に、バイエルン放送交響楽団による録音もある。ここでは独自のコーダが用いられ、明るいエンディングではなく短調のまま終わるそうである。

2014年8月20日水曜日

メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲(初期の作品)(ヘンシェル弦楽四重奏団)

クラシック音楽をもう30年以上も聞いてきたが、それでもこういう経験をするものだと思った。何度かきいているうちに、それまでは大したことないと思っていた曲が急に何か素敵に思える瞬間があるのである。最近ではメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲がそうだった。

「今さら何言っているの?」という向きも多いだろう。だが私にとっては実は、ごく最近まで特に見向きもしなかった作品である。それが急に素敵に思えてきた。メンデルスゾーンの作品を順に聞いてきて、そろそろクァルテットでも思っていたところ、なかなか良いCDが手に入らない。もともとそれほど有名な曲ではないし、CDは全部で3枚もの長さになるのだから結構な出費である。それではと最も安かった最近のCDを手に入れた。それがヘンシェル四重奏団によるArteNova盤だった。

この演奏を最初に聞いた時はちっとも良いとは思わなかった。もっとラディカルな演奏の方が良かったかな、などと考えていた。だがそれでもあきらめずに聞いていたところ、3回目か4回目にしてやっと流れに乗るような聞き方ができるようになった。ヘナヘナとした演奏だと思っていたが、それなりにきりっとして、歌うところは歌うなかなかいい演奏だと思えてきた。ではどのような曲か、これから作曲順に見ていく。今回は14歳から20歳頃に作曲された初期の3作品について。

  ①弦楽四重奏曲変ホ長調(1823年)
  ②弦楽四重奏曲第2番イ短調作品13(1827年)
  ③弦楽四重奏曲第1番変ホ長調作品12(1829年)

これらの3曲はいずれも20代の作品で、晩年の作品と比べやはり違うと言わざるを得ない。これらの3作品には、いずれも共通した特徴がある。

まず全体に非常にのびやかである。若い、ということもあるだろう。全体にみずみずしく屈託がない。これらの作品が、その年齢を思わせない完成度を誇っているのは他の作品でも言えることで、この天才作曲家のまばゆいばかりの感性にはいつも驚く、と同時に好感が持てる。作曲年代では3つのうち最後となる第1番がもっとも印象に残った。民謡風(ユダヤ風?)の第2楽章を始め、音楽は親しみやすい(この楽章は「カンツォネッタ」と呼ばれ単独でしばしば演奏される)。

番号のない変ホ長調もなかなかの曲である。モーツァルトのような愛らしさは、第3楽章のメヌエットを頂点に全体にいきわたる。第2番はこの中では一番特徴的だが、それは単調であるからかもしれない。とりわけ第3楽章は印象的で、A-B-A-Bの緩急の差が見事である。

私はこれらの作品をiPodで聞きながら、カフェの涼しい席でしばし読書をするのが楽しくなっている。集に1回くらいの割合で、私は1時間余りをそこで過ごす。少し大きめのボリュームで聞く弦楽四重奏曲とホットコーヒーの組み合わせは、残暑の厳しい夏の日に相応しく、なかなか心地よい。

2014年7月15日火曜日

ベッリーニ:歌劇「清教徒」(パリ・オペラ座・ビューイング2013-2014)

音楽史の本を紐解けば、ベッリーニの最後の歌劇「清教徒」についておおよそ次のような記述に出会う。ベルカントの時代もこの頃になると、ドラマ性を帯び始める。アンサンブル・オペラとして歌また歌の競演が繰り広げられるベルカントの中のベルカントとも言うべき作品である。第2幕にはドニゼッティの「ルチア」にも影響を与えた「狂乱の場」があり、最終幕でのテノールの最高音は何と三点へ音にも達する、云々・・・。だが私は「清教徒」をこれまで・・・極めつけとも言うべきサザランドとパヴァロッティのCDを持っていながら・・・実はほとんど聞いたことがなかった。

昨年は「ホフマン物語」や「ファルスタッフ」など、なかなか見応えのある作品で見る者を魅了したパリ国立歌劇場のライブ・ビューイング(とは言っても「ライブ」ではなく実況録画されたビデオ上演)の今シーズンのプログラムとして「清教徒」が掲載されてたことを知った私は、川崎のTOHOシネマズに赴いてこれを見ることにした。舞台は17世紀のイングランド、王党派と清教徒の戦いが繰り広げられる中で結婚を誓い合う男女は、それぞれ別の派閥の出身で、いやが上にもこの政争に巻き込まれる。「一見ロメオとジュリエットのような話だが、父親はその結婚を許すのです。ただそれだけ!」と解説のおじさんが冒頭で述べると、ピットにミケーレ・マリオッティが登場し、美しいメロディーが流れだした・・・。

舞台にこしらえられていたのは、骨組みだけでできた建造物で、その様子は「丸で鳥かごのようだ」。その中の一室にベッドが置かれており、女性が寝ているところからこのオペラは始まった。彼女はソプラノのマリア・アグレスタで、エルヴィーラ役としてほとんどずっと出ずっぱりの3時間となる。清教徒のエルヴィーラは、王党派の騎士アルトゥーロ(テノールのドミトル・コルチャク)と恋仲で、伯父のジョルジョ(バスのミケーレ・ペルトゥージ)の計らいでめでたく結婚できることになった。

回転する鉄の骨組みの下で多くの合唱団が歌い、そこに歌が絡む。独唱というのはほとんどなく、すべてが二重唱、三重唱の類である。ひたすら歌は明るくで伸びやかである。演出はロラン・ペリという人で、幕間のインタビューに登場したようだが、私は休憩時間にポップコーンを買いに行ったので見逃してしまった。

長い第1幕では、あまりに歌が楽天的に続くので少々食傷気味にもなったが、面白いことに私を驚かせたのは、第2幕後半で歌われたバスとバリトンの二重唱「ラッパを鳴らせ」の、トランペットも登場してのゾクゾクするようなシーンであった。ここの感銘はちょっとしたものだったが、その理由はこの映像を見ていく内に次第に明確となった。歌手の出来栄えに、集中力と感銘の度合いが比例していたからである(と思う)。すなわち、この上演の最高の出来栄えは、バスのペルトゥージだったと思う。彼の登場する場面はいずれも、一層引き締まって聞こえたし、そのことは客席も気がついていたようだ。

主役のアグレスタもペルトゥージと同じくらいの素晴らしさで、「リボンが首筋を撫でるような」美声は適度に力強くもあり、第1幕第2場の最後のアリアではふらつくことなく最高音を広い会場に高々と震わせていた。この二人が今回の成功の要因であったことに比べると、アルトゥーロの恋仇リッカルドを歌ったバリトンのマウリシュ・クヴィエチェンは、やや声の質がベル・カント向きではない。一方、アルトゥーロを歌ったコルチャクは、最高にスリリングな歌を披露することができるというただそれだけで十分に見応えがあったとは思うが、欲を言えばどうも一本調子というか、メリハリに乏しいというか、なんとなく物足りないと感じたのも事実である(贅沢な話である)。このことに拍車をかけたのは、もしかすると指揮者のマリオッティの、いささか平凡な指揮だったかも知れない。もし指揮がもう少し陰影に富んでいれば、歌はもっと引き立ったかも知れない・・・。

総じて上演水準が高いとは言うものの、緊張感を維持することが難しいのはベルカント・オペラの宿命だと思われた。考えてみれば「清教徒」は、最低でも4人の強力な歌手が揃わないと名演にはなりえない。上述のリチャード・ボニングの指揮するCDは、サザランド、パヴァロッティ、カップチッリ、ギャウロフという夢の様なキャストが、それぞれ最高地点の出来栄えを残しているが、これを上回るというのもちょっと想像しにくい。だから今回の上演は、現在望みうる最高のレベルにチャレンジした記録として好意的に評価すべきなのだろうと思う。

アルトゥーロは結婚式の直前に、処刑されたチャールズ一世の王妃ヘンリケッタの逃亡を助け、そのことがもとで捉えられる。恋に敗れたと思ったエルヴィーラは発狂し、鉄骨の「鳥かご」の中を行ったり来たり。有名な「狂乱の場」は、おそらくこのオペラの見どころである。だが、それ以外の第1幕、最終幕にも綺麗な歌は山ほどあるので、BGMのようにずっと鳴らしながら日がな一日を過ごすのも悪くはない。ロッシーニのようなコロラトゥーラや早口言葉の連続でもなければ、ヴェルディが目指した心理描写にも欠くという作品も、それはそれでないと寂しくなる。ヴェルディの初期作品が好きな私には、それなりに楽しめる作品だと思った。

2014年7月13日日曜日

映画「パガニーニ」(2013年、ドイツ)

好きなクラシック音楽についてこのブログに書いている以上、昨日見た映画「パガニーニ、愛と狂気のヴァイオリニスト」についても少し感想を書いておかねばらない。私は映画評論家でもなければ音楽評論家でもないから、ここに書く内容は一愛好家、つまりは素人のそれである。もしまだこれから見ようと思っている方におかれては、以下の文章を読むかどうかの判断はお任せする。一部ネタがバレてしまうことは確かだが、私の文章力では、だからといって実際にこれから見る人にとって妨げになることもないとも思う。

この映画のテーマは、神によって楽器の才能のみを与えられた男の悲劇である。そのことは終わりの方のシーンで、パガニーニ自らが病床に伏しながら言うセリフに象徴されている。彼はかつてロンドン公演の際に知り合った指揮者ワトソンの娘シャーロットに対し、その恋が遂げられないことをいまだに嘆いている。ヨーロッパ中を席巻した超技巧派も、本物の恋に苦しむ。年老いた彼は自筆譜を送り、自分の音楽を残そうとする。ここにあるのは等身大の、ひとりの哀れな音楽家の姿である。

パガニーニが自分の作品をコピーされることを恐れ、自筆譜を燃やしてしまったというのは有名な逸話である。だが彼は自分の音楽家としての人生を、その終盤になって振り返り、水銀中毒によって蝕まれた体を横たわらせながら手紙を書くのだ。

この映画のタイトルは「The Devil's Violinist」という。悪魔はパガニーニにヴァイオリニストとしての類まれな才能だけを与え、それ以外は与えなかった。悪魔は彼の体を蝕み、破壊する。ギャンブルや酒、それに愛欲に溺れ、あるときは自分の楽器をさえ賭けの担保とした(これも実話である)。そこに現れる一人の男、ウルバーニとの出会いと関係がこの話の中心である。ウルバーニはあるとき突然パガニーニの前に姿を表し、無条件でマネージャになることを契約する。彼こそがパガニーニの才能を見抜くことができるという、悪魔の使いだったというわけである。

ロンドン公演においてウルバーニは、その公演を成功すべくこの狂気のヴァイオリニストを公私にわたってマネージする。新聞記者を利用して記事を書かせ、一方で女性運動家をも誘惑する。音楽産業の隆盛を誇るロンドンは、当時のヨーロッパの「成功すべき都会」であった。彼はコヴェントガーデンでリサイタルを開き、その価格を釣り上げる。席は最初売れ残るが、そこに姿を現したのは英国王であった!彼はその場で即興を披露する。それが「英国国歌による変奏曲」で、この曲もパガニーニの作品であることを初めて知った。

少しできすぎた話であろうし、ここで滞在中に親しくなった指揮者の娘シャーロットが歌う英国的な歌詞のついた歌は、確かにパガニーニのメロディーを使用しているとは言え、この映画のために作られたのではないかと想像する。ついでに言えば、エンディングで流れるシューベルトの「魔王」のパガニーニ風の変奏曲も、彼の作品ではない(ただシューベルトが大金を支払ってまでパガニーニの演奏会に出かけ、その音楽を絶賛したのは有名である)。

全体にパガニーニの作品が流れているのは当たり前と言えばそうだが、やはりあの底抜けに明るく、しかも時にメランコリックな音楽にはいつもうっとりさせられる。リストもラフマニノフも、あのヴァイオリン協奏曲第2番「カンパネッラ」を編曲しているが、ここのメロディーが随所に登場するのは当然であり、極めて印象的である。だが、もっとも心に残ったのは、パガニーニが滞在するアパートを抜けだして酒場へ向かい、そこでギターを交えた即興演奏を披露するシーンである。

パガニーニは素敵なギター曲やギターとヴァイオリンとの二重奏を残しているが、ギターといえばその源はリートであり、リートの本場イギリスの民謡は、南国のパガニーニにうまく融け合って哀愁を帯びる。だから監督バーナード・ローズ(彼は脚本も書いている)は、こういうシーンを入れたかったのだと思った(ついでに彼はベートーヴェンを描いた映画「不滅の恋人」の監督だそうだが、私はプラハへ向かう郵便馬車に合わせて交響曲第8番の第3楽章が使われていたのを大変良く覚えている)。

この映画の最大の見どころは、俳優がヴァイオリニストを演じているのではなく、ヴァイオリニストが俳優を「演じている」という点だろう。ドイツ人のヴァイオリニスト、デヴィット・ギャレットである。彼は超技巧的な作品をもちろん自ら演奏している。パガニーニらしい風貌に化けているのも興味深いが、彼はあるとき理解ある一人の父親として息子の前に現れる。だが弟子を含めこの放蕩音楽家を継ぐものはいなかった。

なぜ彼がこのような天才的ヴァイオリニストになることができたのだろうか。それは映画の最初のシーンで語られるわずか数分の映像に見て取れる。彼は幼少時代に父親から厳しく指導されながら育ったのである。だからウィーンで再会した息子が家庭教師に叩かれたと知って、この家庭教師を即刻追い出す。このようなシーンは、おそらく現代の観客を意識したものだろうと思う。

200年以上も前のヴァイオリニストの、謎につつまれた生活を描いた作品だというのに、会場はほぼ満席という、最近の記憶にはほとんどないような状況であった。

2014年7月2日水曜日

ハイドン:交響曲第89番ヘ長調(ブルーノ・ヴァイル指揮ターフェルムジーク)

流れるように美しい旋律も、良く聞くとハイドンならではの驚きと変化が随所に散りばめられ、それはそれで聞いていて楽しい作品である。特に全楽章を通して、そこここに現れるフルートを中心とした管楽器は、丸で木のこずえを行き来する小鳥のように愛らしい。

この曲でハイドンはまた違った曲調を試しているようにも思える。第1楽章のやさしいメロディーに続き、アンダンテの第2楽章は、相対的にさほど遅くはなく、朝の散歩のように明るく陽気である。一方第3楽章は民謡風で、やはりフルートが活躍する。全体的に牧歌的でのどかな曲に思える。

ベルリン・フィルを指揮したサイモン・ラトルの演奏も完成度は高いが、このやや目立たない曲にあってはいささか大人しく、真面目である。一方ブルーノ・ヴァイルの指揮するターフェルムジークは、古楽器の音色を活かし、快速のテンポでこの曲を都会的に仕上げながら、陰影を強調している。

第4楽章でリズムが一瞬「溜め」を打って流れていくところが何度かある。木管が絡み、短調になったり長調になったり、速いテンポを追いかけていると小気味よい気持ちがしてくる。

2014年6月27日金曜日

ハイドン:交響曲第88番ト長調(ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団)

第88番、第89番の交響曲は「トスト交響曲」と呼ばれている。終盤に向けて一層の円熟味を増すハイドンの交響曲も、第88番はまたひとつの枠を抜けだした作品であるように思う。その音楽的な深みからか、この曲を録音している指揮者が昔から多い。それも巨匠と呼ばれる指揮者が、丸で申し合わせたかのようにこの曲で競演している。

フルトヴェングラー、ベーム、セル、クナッパーツブッシュ、バーンスタイン、ライナーなど思いつくだけで錚々たる布陣。それまでの曲にこれほどの取り上げられ方をされている曲は思いつかない。そしてこのブルーノ・ワルターがコロンビア交響楽団を指揮した一枚も、その中に名を連ねる。なぜだろうか。それはこの曲が持つ、革新的とも言えるロマン性にあるのではないだろうか。

第2楽章を聞くと良い。この楽章は丸でシューマンのようだ(そう言えばひところ、フルトヴェングラーのレコードはシューマンの交響曲第4番との組み合わせだった)。ここだけを聞くとこれがハイドンの作品であると気づくのに時間がかかる。

第1楽章の、実に丁寧で細部にまで神経を行き渡らせた正確な序奏部分を聞くだけで、この演奏が今なお数多くの録音の中でも十分に歴史に耐え得る完成度を誇り、新鮮さを失っていないことに気付く。かつてLPレコードで聞いたコロンビア交響楽団との一連の録音では、ステレオ初期の欠点により何とも厚ぼったく、時には無機的にさえ感じられたのが、リマスターされCD化されると、何か別の演奏に変化したかのような気がした。

ワルターは晩年にあってもなお非常に厳格で格式が高く、それに加え高貴であった。ドイツ音楽の流れを継承しているが故に、古典的な作品にこそその特質が表れているとすれば、このハイドン(やもちろんモーツァルト!)こそ後世に残されるべき遺産であと思われてくる。その真骨頂とも言えるのが、限りなくロマンチックな第2楽章だ。

実際に私は、この楽章を聞いてから「この曲はワルターで聞いてみたい」と思った。その逆ではない。この第2楽章ほどワルター節が似合う曲はない。ある意味で今ではすっかり聞かれなくなった手法、つまりモダン楽器によるビブラートやルバートを多用した節回しは、深く物思いに沈んだかと思うと、すっと目を覚まして確固たる足取りで前進し、その脇の美しい花に見とれる。何かそのような情景が目に浮かんで来る。

テンポは遅く、それにだんだんと止まりそうにさえ感じられるのだが、ピチカートで弦楽器がリズムを印象深く刻むその合間を、弦楽器や木管楽器が鳥のように舞い上がる。こんなロマンチックな歌は、晩年のバーンスタインにも見られた。バーンスタインは師匠をモデルにしたのだろうか。

第3楽章も第2楽章と並ぶ大きさを持っている。ゆっくり堂々たるテンポを持つ、こんな充実したメヌエットを聞くのは久しぶりである。モーツァルトのような軽やかさはない。丸で何十人もが踊る舞踏会のようだが、中間部になると独特のアクセントを伴ったリズムが面白く、ここでも細部にまで心を配るワルターの指揮が冴えている。

これら2つの楽章を経て続く第4楽章は、小規模で軽やか、少し諧謔的でもある。ここでも乱れのないアンサンブルは完璧で、マーラーの流れを組む大指揮者で聞くハイドンも、ヒストリカルな意味を持つにとどまらず、今でも聞き手に新鮮さをもたらす。カップリングされた「軍隊」とともに、このCDは所有価値が高い。

これに比べるとベルリン・フィルとともにスタジオ録音されたフルトヴェングラーの演奏は、とても大人しい演奏に思えてくるが、このように往年の大指揮者が振ったハイドンを聴き比べるのも興味深い。

2014年6月26日木曜日

メンデルスゾーン:序曲「真夏の夜の夢」作品21(コリン・デイヴィス指揮ボストン交響楽団)

Midsummerを辞書で索くと「盛夏」などと並んで「夏至」という意味が記載されており、「日本と違って快適な時期」などとおせっかいなことまで書かれている(「ジーニアス英和大辞典」)。だからシェークスピアが書いた本作のタイトルは「夏至の夜の夢」がより正しいだろう。そのためかかつて「真夏の夜の夢」と訳された題名が、最近では「夏の夜の夢」と変わりつつある。一方我が国で「夏」というと五月の初夏からお盆の頃までを指し、その長さは随分と長い。日本で「真夏」というとその期間は、梅雨明けからお盆までの数週間である。花火大会などが開かれるイメージだ。

ところが「夏至」は昼の長さが最も長い日のことで6月下旬のわずか1日を指し、そういう意味で「夏の夜の夢」と言ってしまうと時期をかえってあいまいにしてしまっているような気がする。

クラシック音楽の世界では、「そはかの人か」(歌劇「椿姫」の有名なアリア)などと言うように、一度定着した古めかしい言い方を続ける傾向があり、それはそれで独特の味わいもあるため、誤解の生じない範囲で古い言い方を好む人も多い(つまり保守的だというわけだ)。というわけで、これは私のコレクションでは「真夏の夜の夢」のままと考えている。

その劇音楽の作品番号は、序曲が作品21で、それ以外の部分(には有名な「結婚行進曲」などが含まれる)は作品61となっている。これは作曲年代の違いによる。ベルリンに住んでいたメンデルスゾーンは、まだそれほど有名ではなかったこのシェークスピアの劇に出会い、まず序曲の作曲を手掛けた。ここではその序曲のみを取り上げた。

先に触れた弦楽八重奏曲が、天才メンデルスゾーンの作風が確立したもっとも初期の作品だとすれば、これは管弦楽作品としてのそれであると思う。そのくらいこの作品の完成度は高く、一度聴いたらなかなか耳を離れないくらいの印象を残す。おそらく誰もがそう思ったのであろう。だからこの序曲を聞いて、本篇の作曲依頼が舞い込んだのだろう。

メンデルスゾーンは劇付随音楽として全曲を完成させるに際し、若干17歳のときに作曲したこの序曲をそのまま採用している。従ってもはや改訂の必要がないと判断したことになる。確かに全体を聞いても序曲だけが未熟で浮いている、などということは全くない。

ヴァイオリンのトレモロで始まる冒頭部分は、指揮者の違いを聞きわけるひとつのポイントであろう。私も手元にあったいくつかの演奏を聞き比べてみた。アバドや小澤征爾などに加え、最新のシャイーによるものまで様々だったが、私が気に行っているのは若きコリン・デイヴィスによる演奏だ。オーケストラはここではボストン交響楽団、交響曲「イタリア」とのカップリングである。

デイヴィスはそれぞれの楽器をくっきりと浮かび上がらせ、ともすればメロディーラインの綺麗さで誤魔化される縦の線の統一にこだわっている。それでいて、終結部に見せるヴァイオリンの静かなカンタービレに集中力を欠かさない。何ともツボを抑えた名演であると思う。なお、劇付随音楽全体は別途取り上げたいと思う。

バルトーク:管弦楽のための協奏曲(小澤征爾指揮シカゴ交響楽団)

有名曲でもどうにも馴染めない曲というのがある。私にとってバルトークの代表作「管弦楽のための協奏曲」は、まさにその一つだった。他にはストラヴィンスキーの「火の鳥」、R・シュトラウスの「ドン・キホーテ」、あるいはベートーヴェンの「荘厳ミサ」も加えていいかもしれない。馴染めない要因は定...