2016年8月29日月曜日

ヴィヴァルディ:多楽器のための協奏曲集(ファビオ・ビオンディ指揮エウローパ・ガランテ)

ウィーンに「音楽の都」が移るまで、ヴェネツィアこそが音楽の都であった。ルネサンスからバロックに至る流れの中で、ヴェネツィア楽派と呼ばれる作曲家たちがいた。ガブリエリやモンテヴェルディがそうである。協奏曲の形式はこの時代に発展した。そしてその集大成ともいうべき作曲家が、アントニオ・ヴィヴァルディである。ヴィヴァルディは、500曲を超える協奏曲や多数のオペラを作曲した。特に自身がヴァイオリニストであったことから、ヴァイオリンの活躍する協奏曲が多い。

「四季」という、ほとんどこの作曲家の代表とも言うべき作品は、4つのヴァイオリン協奏曲を並べたちょっと異色の作品である。けれどもこの他にも多数の名作があるはずで、それらを少しずつ紹介してくれるのが、ファビオ・ビオンディによる一連の録音であった。ヴァージン・クラシックスからリリースされるたびに、私もレコード屋の店頭で試聴し、そのうちの何枚かを買った。この「多楽器のための協奏曲集」もそのひとつである。中でも先頭と最後に収録されたマンドリンの協奏曲に惹かれた。

ヴェネツィアはおそらく世界一美しい街だと思う。私がこのCDを含むヴィヴァルディの作品を聞くとき思い浮かべるのは、これまで2度、日数にしてわずか3日ほど旅行したこの美しい「水の都」の、快晴の風景である(1989年夏、1994年冬)。サンマルコ広場に至るまでの順路のすべてが絵になるように印象的であるばかりか、その街角を少し離れて裏通りに入っると、静かさの中に生活の香りも感じられる。もちろん迷路のように水路が入り組んでいるので、その上の橋を渡ったり、客を乗せて進んでいくゴンドラを眺めながらあてもなく歩いて行くと、モーツァルトがかつて泊まったアパートが忽然と姿を現し、その向こうの教会では今日もコンサート・・・もちろんここで聞くのはヴィヴァルディの合唱曲であったりするのは当然のことで、観光客の喧騒を少し離れるだけで静かに音楽が漂ってきそうな感じがする。中世から続く街並みの中に身を浸していると、昔にタイムスリップしたように感じられ、時間が止まったような錯覚にとらわれるのだった。

快速のアレグロ楽章も楽しいが、第二楽章の静かなヴァイオリンの響きは、けだるい夏の午後にぴったりである。それは私の場合、真夏の死ぬように暑い午後の時間にイメージが重なるからである。そして古楽奏法によって蘇った弦楽器のビブラートを抑えた奏法によって聞こえてくるのは、ポリフォニーの響きである。

そういうわけで毎年夏になると聞いているのがこの協奏曲集である。どういう楽器が使われるのかは曲によってそれぞれ異なるし、そのうちのいくつかはその後の時代の協奏曲では使われなくなる 音の小さな楽器、すなわちリコーダーやマンドリンなどである。これらの楽器が、あるときは快活に重なって駆け巡り、あるときは止まりそうになりながらピアニッシモの寂しい表情に変化する。真夏の最高のBGMのひとつは、ヴィヴァルディの協奏曲である。そして厚ぼったい演奏よりは、古楽器の爽快な風が耳に心地よい。

それにしてもヴァネツィアの美しさといったら例えようがない。89年に初めてヴェネツィアを旅行した時の写真があったので、それを張り付けておこうと思う。「ヴェニスに死す」は私には合わない。ここは綺麗で美しく、そして明るい日差しがさんさんと降り注ぐ街である。あまりに日差しがきつくて、その影とのコントラストがどこか寂しげであるのものもまた、私の北イタリアの印象でもある。ちょうどヴィヴァルディの音楽がそうであるように。



 【収録曲】
1.2つのマンドリンのための協奏曲ト長調RV532
2.協奏曲ハ長調RV558
3.協奏曲ト短調「ザクセン公のために」RV576
4.協奏曲ニ長調RV564(2つのヴァイオリン、2つのチェロのための)
5.ヴァイオリン協奏曲「ピゼンデル氏のために」RV319(ドレスデン版)
6.マンドリン協奏曲ハ長調RV425
7.協奏曲ハ長調RV555

2016年7月30日土曜日

ハイドン:オラトリオ「四季」(2016年7月16日、川口リリアホール)

8年前に大病を患って入院する際、もしものことがあったら後悔するだろうな、と思ったことがハイドンのオラトリオ「四季」をちゃんと聞いたことがない、というものだった。死ぬ前に聞いておきたい曲、それが「四季」だったというわけだ。106曲の交響曲をすべて聞いてきて、さらにその先にある金字塔。ハイドンが晩年の精力を注入した大曲「天地創造」と「四季」は、この古典派の膨大な作品の中でも最高峰の作品であるとの評価が高い。だが私はまだ聞いたことがなかったのである。

もちろんCDがあれば、現代では簡単に作品に触れることが出来る。なので入院前のわずかな時間を割いて、私は当時売られていたカラヤンの「四季」(1972年録音、クンドラ・ヤノヴィッツ他、ベルリン・フィル)を購入しiPodにコピーした。入院中の初期に私はこの曲を何度か聞くことができたし、何かとても心のこもった演奏に思えた。この演奏はカラヤンの美学がハイドンに融合し、不思議な魅力のある演奏として今も名高い。

けれども病状が悪化するにつてれ増してゆく不安にさいなまれると、私は自然と音楽から遠ざかっていった。 健康な体を鞭打って、数多くの作曲家や演奏家は音楽を続けた・・・と伝記などではよく紹介されるけど、マーラーだってベートーヴェンだって、本当に体調が悪い時には作曲をしていない。これは考えてみれば当然のことで、中にはモーツァルトのような例外もいるが、それは生活費を稼ぐためであって、芸術がそういう状況で生まれると思っていたわけではない。

私がイヤホンで聞いた「四季」には対訳が表示されるわけもなく、ドイツ語の歌は皆目理解不能、かつその聴取は看護師の検診や同室患者の話し声などによってしばしば中断されるという最悪のコンディションの中でのことであった。私はいくつかの印象的なメロディーを除き、到底楽しめるという状況ではない中での「四季」のリスニングを、残念に、そして仕方なく思った。

退院した2009年は、丁度ハイドン没後200年の記念イヤーで、私はとうとう秋に「天地創造」をライブで聞くことができ、その感激はひとしおだったのだが、その後「四季」についてはなかなか実演に巡り合うことができないでいた。注意深くチェックしていれば、年に1回くらいは東京のどこかで演奏されているのかも知れないが、スケジュールが合わなかったりして巡り合うことが出来ないまま何年もの歳月が過ぎて行った。

今年の7月16日、たまたま家族が留守という土曜日の午後の数時間だけ、自分の時間が生まれた。久しぶりに中古CD屋巡りでもしようかと思っていた矢先、音楽情報サイト「ぶらあぼ」で検索してみたところ、14時から「四季」の演奏があることがわかった。場所は川口。私の家からなら京浜東北線で直行できる。今から行けばぎりぎり間に合うではないか。演奏はバッハ協会とかいうところのもので、そんな団体は今までは知らなかったし有名でもない。でも当日券はありそうだし、それに「四季」の実演に触れることなど一生にそう何度もあるわけではない。そう思った私は、とにかく行ってみることにしたのだ。

ホールはJR川口駅から徒歩わずか、ということだったが入り口がわからない。開演前だというのに人影も少なく、みんなどこにいるのだろうかと案内で聞くと、入り口が4階だと言われた。エレベータで上がると当日券を売っているおばちゃんが机でチケットを裁いており、そこで6000円也を払って開演前にホールへ駆け込んだ。こんなところにパイプオルガンまで備えた立派なホールがあることにまずは驚いたが、そこの登場したバッハ・アカデミーなる合唱団は、結構高齢の方も多く、それにどういうわけか女性が圧倒的に多い(だが3名しかいない男声合唱パートの素晴らしさも書き添えておきたい)。

オーケストラは最低人数。チェロやコントラバスはわずかにひとり。歌唱はドイツ語だが、丁寧に字幕までつけられる。アマチュア的なコンサートかもしれないけれど、一生懸命練習に励んでこられたのだろうということは想像できるし、知り合いばかりの聴衆も6割程度の入りとちょっとさびしいが、ヨーロッパではこんな演奏会は、それこそ小さな町や村の教会では頻繁に行われている。だからたまにはこんなコンサートもいいのでは、と思い直し席についた。

前置きが長くなったが、この演奏会ではある種の奇跡のようなものを感じた。ハイドンの没後200年以上がたって、こんな埼玉の端っこで、「四季」の原語上演がなされるという事実! しかもそこにはヨーロッパ顔負けのホールまであるのだ。大曲とはいえハイドンのオラトリオを、梅雨空の昼下がりに聞きに行くのも奇特だが、それをたまたま知った私が、何の予備知識もなくそこに居合わせるというのもまた、とても不思議な巡りあわせだ。こんなところに、真面目にハイドンを歌おうとする人々がいて、そしてそれをたまたま知って駆け付けるちょっと風変わりなハイドン・ファン、すなわち私のようなリスナーがいることも知ってほしい。

最初の曲が鳴り響いて、少しよろめきながらも、これは紛れもなくハイドンの音楽だと知ったときには、私はとても幸せな気分であった。音楽は上手い、下手といった直線的な概念で測ることはできず、演奏する側と聞く側の相互作用、それも一期一会の瞬間の連続としてのそれ以上でも以下でもない。だから面白いのだが、事実、この力不足に思えた演奏も調子を上げると力のこもったものとなり、最後の「冬」の終盤に至ってはなかなか感動的でさえあった。ソリスト、オーケストラ、それに合唱団が一体となって、四季の美しさ、それぞれの季節を迎える喜びを讃えたのだ。クライマックスのひとつでもある「秋」の終盤では、ここだけに登場するタンバリンとトライアングルを独唱者が鳴らしたのには驚いた。一体どこから聞こえるのかと思ったら、バリトンとソプラノ歌手が鳴らしているのだ。

この演奏会で大変うれしかったのは、指揮者である山田康弘氏自らの翻訳による字幕が舞台上部に付けられたことだ。そのことによって、各場面でどういうことが歌われているのかを手に取るように知ることが出来た。それはこの作品が、単に自然への賛歌、つまりは神の賛美といった型どおりの歌詞にとどまらないことを知ることが出来る格好の機会であったと言える。たとえばそれぞれのパート(春、夏、秋、冬)の中間部で、ソリストが歌う独唱の合間、合間に、歌詞と呼応するような具体的なモチーフが現れるからだ。ハイドンの音楽は古典派そのものなので、鳥の声だといっても基本的な和音の枠組みをはみ出すことはない。あくまで音楽の型を維持しながらも、そこには鳥が鳴き、虫が飛び跳ね、あるいは嵐が来ては過ぎ去るといったような、まるで標題音楽を思わせるような部分が数多く登場する。それは歌詞を追いながら聞いて行かないと、気付くことはできても楽しむことはできない。CDで「四季」を聞くときの限界は、このようなところにある。だからこの演奏会は、こだわってでも字幕をつけたのだろう。そのことが嬉しい。

私はとうとう「四季」とはどういう作品かを知ることができ、そしてこの作品、他にわが国で演奏される機会があったら、ぜひまた出かけてみたいと思った。そしてやはり音楽はライブに限るとも思った。それぞれの季節に30分近くを要する大曲を、途中休憩をはさんで2時間余り。私はあきるどころかとても幸せな気分に浸りながら過ごすことが出来た。演奏が終わって、独唱者がまだ1度しか呼ばれていないのに早々と解散するオーケストラに、もう少し拍手をして余韻に浸っていたかったのは私だけではないだろう。

これでまたハイドン体験が一歩進んだような気がしている。1年にそう何度もでかけることができない演奏会で、私はまたうまくスケジュールが合えば、再度「四季」を、そして「天地創造」を聞いてみたい。だがそれもそう簡単にはかなうことがないので、しばらくはCDを聞きなおしながら過ごそうと思う。幸いなことにこの2作品には録音がひしめいており、名演奏の類も数多い。私もいつのまにか「天地創造」を2組、それに「四季」は3組のCDを所有している。曲に関する詳細は、それらを聞いた後で書こうと思う。いつのことになるのかわからないのだが・・・。

2016年7月9日土曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第19番ヘ長調K459(P:マレイ・ペライア、イギリス室内管弦楽団)

最近は良くないニュースばかり耳にする。地域紛争に多くの難民。テロや不正、貧困を苦にした自殺など、まさに世界は混迷の時代へと向かう中、それに先んじるかのように英国がEU離脱を決め、アメリカでも国民的な分裂が大統領選挙を歴史的な混乱に引き込んでいる。暗い毎日に嫌気がさし、テレビのニュースどころか新聞も読みたくない日が続く。だがわが国では、憲法改正を影の争点にしながら、経済問題は空前の先送りで誤魔化し、原子力問題はおろか、有権者からすべての関心をそらし、問題点を何ら鮮明に示さないような選挙が行われようとしている。

大きな不安を前にしながら、落ち込むこともできないような閉塞感にも慣れっこになりつつある日々の中で、たまたま耳にしたモーツァルトの、何と美しく可憐なことか。そのような表現はもう陳腐どころか、吐き気を催すと言われても、事実だから仕方がない。ある日、私はいつものような何か月かに一度、栃木県へと向かう東北本線の列車内で、今日もWalkmanから流れる音楽(それは私が意図して持ち出したものではあるのだが)を聞いている。

ピアノ協奏曲第19番は第14番から続く6曲の作品群の最後の作品であり、それぞれ味わいのある作品だが、第20番以降の、音楽史に燦然と輝くスーパーな曲に比較されると、どうしても地味な存在であると言わねばならない。とうてい他の作曲に見ることはできない、モーツァルトの孤独な心の淵をこれでもか、これでもかと表現するような晩年の作品群の中でも、特にピアノ協奏曲の分野はその真骨頂とも言えるだろう。

この第19番に関しては、第3楽章は主題が示された後いきなり始まるフーガに、その特徴を見出すことができる。一通りオーケストラによる音楽が続いた後、今度はピアノが登場して音楽に絡んでいく。相当複雑な音楽なのだろうが、そう感じさせないところがモーツァルトの凄いところだ。第1、2楽章はとても心が落ち着く音楽である。私はこの第2楽章がとても好きだ。この音楽はその後に続く20番以降のピアノ協奏曲の第2楽章に見られるような、何か底抜けのするような寂寥感に襲われることはない。20番以降では唯一そういう音楽である第26番に近い。そうしているからというわけではないのだが、メロディーがきれいなので、車窓風景を眺めながら聞く音楽に相応しい。

ところで第26番を引き合いに出した理由はもうひとつある。この第19番は「小戴冠式」と呼ばれることがあるからだ。第19番と第26番は1970年のレオポルト2世の戴冠式のために、モーツァルト自身によって演奏された。

マレイ・ペライアはアシュケナージやバレンボイムと同時期に、丸で競うようにモーツァルトのピアノ協奏曲全集を録音した。丁度アナログ録音からデジタル録音に移行する70年代から80年代の初め頃だったと思う。これらの演奏に共通するのは、弾き振りであるということだ。そしてペライア盤はその中でももっとも完成度が高く、曲による出来不出来のムラも少ないと思っていた。私はだから、この全集がボックス・セットで安売りされたとき、迷わずこれを購入した。信じられないくらい安かった。

だが今ではもう、録音から30年以上が経過した。演奏の方はまったく色あせることはなく、今でも「戴冠式」などはベストな演奏の一つだと思うが、このCDの最大の欠点はその録音にある。少し大人しく、そして硬いのである。CDが発売され始めた頃に言われた最大の欠点が、この硬さではないかと思う。もしかするとリマスターすることによって、その欠点が補われる可能性がある。だが今のところ、SONYから発売されたボックス・セット以降、再発売されたという話は聞かない。

2016年6月11日土曜日

R・シュトラウス:楽劇「エレクトラ」(The MET Live in HD 2015-2016)

ホフマンスタールが台本を務めた最初のリヒャルト・シュトラウスのオペラ「エレクトラ」は、古代ギリシャを舞台にしたソフォクレスの悲劇に基づいている。音楽は最大級の編成でありながら1幕しかなく、登場人物は多いが、ほとんど出ずっぱりの主題役エレクトラが、陰惨で壮絶な歌唱を一貫して繰り広げる。音楽はこれ以上にないほどにまで凝縮され、集中力を必要とするので、聞く方の覚悟も必要となる。いや眠気など吹っ飛んで舞台に釘付けになる、というべきか。もっそもそれは歌手とオーケストラがそろっているという条件の下でだが。

METライブシリーズも10年が経ち、その最新の演目である「エレクトラ」は、故パトリス・シェローの演出、エサ=ペッカ・サロネンの指揮により上演された。主題役エレクトラはワーグナーを歌うニーナ・ステンメ(ソプラノ)、エレクトラの母クリソテミスに何と往年の名歌手ヴァルトラウト・マイヤー(メゾ・ソプラノ)、エレクトラの妹クリソテミスにエイドリアン・ピエチョンカ(ソプラノ)、エレクトラの弟オレストにエリック・オーウェンズ(バス・バリトン)などの配役である。

トロイア戦争から帰国した王アガメムノンは、妻であるクリソテミスに殺されてしまう。入浴中に斧で頭をかち割られたというのだ。その光景を目にしていた長女エレクトラは、母親を憎んでいる。いやそれどころか彼女は母親から虐待を受けながら育つ。エレクトラは復讐に燃え、母親を殺そうと計画しているのだ。そのために弟のオレストを遠くに逃がし、彼をして母を暗殺しようというのである。

エレクトラの妹クリソテミスはそんな姉に同情しつつも、女性としての幸福を追求したい。ここでの姉妹の生き方に対する対比は興味深い。だが私は復讐に燃える姉に同情的でもある。

そんなある日、弟のオレストが死んだとの知らせが入る。音楽が大きくうねり、動揺するエレクトラを表現するあたりから話は一直線である。シュトラウスの音楽は、どんな作品でもそうだが、すべての動作や物事を饒舌に表現する。天才的で魔法のような音楽である。この作品は前作「サロメ」をさらに一歩進め、後年の「ばらの騎士」などとも異なる前衛的な作品だが、シュトラウスにしか表現できないであろう世界が全面に展開し、緊張と興奮が途切れることはない。

オレストの訃報に戸惑ったエレクトラは、いよいよ妹と共謀して母を殺そうと、父の殺人で使われた斧を探し出すが(何と恐ろしいことか!)、妹は同意しない。とうとう彼女は自ら計画を実行することを決意する。そこへオレストが現れ、彼は生きていたことが判明する。実はオレストの死は、オレスト自身が仕組んだものだったのだ。姉の決意を確証したオレストはいよいよ暗殺計画を実行し、まず母のクリソテミスを殺す。舞台裏から叫び声が聞こえ、歓喜するエレクトラ。そこへ情夫のエギストも現れ、彼もまたオレストに刺殺される。感極まるエレクトラが踊り狂いながら、1時間余りの壮絶な舞台は幕となる。

短時間ながら無駄のない音楽には、ものすごい集中力を必要とするのだろう。それは見ている側も同じである。だからこのような作品を見るには覚悟がいる。舞台はまず、ひたすら階段を掃き掃除する下女たちのシーンから始まる。階段を下段まで掃き終るまで音楽はなかなか始まらない。客席はその間に、一気に噴き出す音楽への集中力を高めていくという趣向である。

ニーナ・ステンメの気迫に満ちた舞台は、見るものを終始舞台に釘付けにしたが、それにしても高音と低音を行ったり来たりしながら大声を張り上げる歌と演技は相当なもので、彼女は秋にイゾルデを歌うそうだが、声をつぶさないかと心配になる。舞台が終わるまでの迫真の演技に、会場からどっと沸きあがるブラボーの嵐は、この公演の水準の歴史的とも言える高さを示している。METでもなかなかこれほどの熱狂的な拍手は見たことがない。そしてそれを支える歌手たちとの息の合った見事な呼吸も素晴らしいの一言につきる。

妹のクリソテミスを歌ったピエチョンカは、また一つのソプラノの大役だが、心理的な対比を表現する歌唱力は見事だと思ったし、それに暗殺を実行するオレスト役のオーウェンも、長年METで歌い続けている貫禄を感じさせながら、このピッタリな役を嬉しそうにこなしていたように思える。個人的にはまた、母クリソテミスを歌ったマイヤーがまだ、これだけの大声を張り上げるだけの力量を持ち続けていることに驚いたが、彼女はまた実に気品があって、この悪役を歌うには少々上品すぎるという贅沢な悩みもまた感じたのは事実である。

この公演の成功の理由は、サロネンの指揮するオーケストラにも求めなければならない。彼がMETの舞台にどれほど登場しているのかは知らないが、第1級のオーケストラ指揮者がピットに登場するというのは、それだけで期待が高まるし、それにこの作品を指揮するだけの体力と瞬発力のようなものを求めるには、サロネンのような指揮者こそ相応しいと感じたからだ。その期待を彼は裏切らなかったばかりか、オペラ指揮の世界でもまた彼はまた存在感を示す結果となったのではないだろうか。すべての歌手とオーケストラは圧倒的で、興奮に満ち満ちた1時間40分はあっというまに終わった。

虐待された娘による母親の暗殺は、最近のニュースでも耳にした。このような話は古代ギリシャ、すなわち人類が小説を書き残し始めた頃から存在したのである。

2016年5月29日日曜日

ワーグナー:歌劇「ローエングリン」(2016年5月23日、新国立劇場)

新国立劇場の最大の欠点は、初台という「辺境の地」にあることだが、ここは幸いにも私の会社のオフィスに近く、歩いていくこともできる。今日の公演は17時からなので、16時半に職場を後にしても、開演に十分間に合うという計算になる。だが私は今回に限り、さらに1時間前にはオフィスを出て近くのコーヒー店で初夏の午後のひとときを過ごした。仕事の頭を一端冷やす必要があるからだ。システム障害の緊張した頭を、中世ドイツの跡継ぎ問題にチェンジしなくてはならないのだから。

今日の演目はワーグナーのロマンチックな歌劇「ローエングリン」である。なかなかスケジュールが決まらず、朝になってチケットを買った時点でほとんどの席は売り切れており、最も高いS席の端っこが私の居場所となった。チケット代は2万7千円とベラボーに高く、これは新国立劇場の数ある公演でも最高位である。その理由はおそらく出演陣の豪華さによるのだろうと思う。何せ世界有数のヘルデン・テノールの一人、クラウス・フロリアン・フォークトが出演するという、知る人が聞いたら何をおいても出かけたいというくらいに信じられないことなのだから。

もっともフォークトは4年前にも同じ公演に出演しているから、今回はその再演ということなる。演出はマティアス・フォン・シュテークマン。指揮者はペーター・シュナイダーから飯森泰次郎に変わっている。あまりに素晴らしい公演だったので、その再演を待ち望んだ人も多かっただろうし、それはまたフォークト自身もそうだったようだ。彼のインタビュー記事が会場に掲載されており、そこに新国立劇場での仕事の素晴らしさに触れている。初登場だった「ホフマン物語」の時から、「いい思い出しかない」というのだから嬉しいものである。

2万7千円というと新幹線で大阪往復の値段に相当する。これを安いと見るか高いと見るかは意見が分かれるが、新幹線で大阪へ出かけたところで隣に変な人が座る確率は、新国の方が低いであろうし、「タンスにゴン」の広告以外見るものもない車窓風景よりは、音楽付きワーグナー舞台の方が圧倒的に素晴らしい。いや今回の「ローエングリン」もまた新国立劇場の素晴らしい照明を生かした、美しく見ごたえのある舞台だった。

歌劇「ローエングリン」を私はほとんど知らなかった。このオペラを最後にワーグナーの作品は、一度は鑑賞したことになる。今秋のMETライヴで見る予定のサイモン・ラトルの「トリスタンとイゾルデ」と、来春の東京・春・音楽祭で上演予定の「神々の黄昏」を最後に、私のワーグナーへの旅はひと段落を迎えることになる。歌劇「ローエングリン」は避けて通れる作品ではなく、機会があれば見てみたいと思っていたところである。そこにフォークト演じるローエングリンがやってきたのである。

我が国における「ローエングリン」上演史によれば、かくも有名な作品であるにもかかわらず、そう毎年上演されているわけでもない。もっとも初演はワーグナー作品の中でもっとも早く1942年だそうである(新国立劇場の上演ブックレットによる)。だが戦後散発的に上演される以外は、欧米のオペラハウスの引っ越し公演が中心で、これらはチケット代が法外に高く、とても庶民の手の出せる代物ではない。日本人による原語上演となると1979年ということになるようで、この時私はもうクラシック音楽に目覚めていた頃だから、学生がワーグナーの音楽を聞いて詳しく語れる世代(というのがあるのかわからないが)というのはもっと後ということになる。それでも新国立劇場ができた1997年以降だけでも1997年。2012年だけのわずかに2回。今回は2012年の上演の再演である。

白鳥の騎士が女性を救う。これが「ローエングリン」のストーリーである。それだけしか知らなかった私は第1幕を見て、最後に天井からつるされた白鳥?(巨大な蝶々にしか見えなかった)がゆっくり下りてきたとき、もう物語は終わりかと思ったのだった。めでたし、めでたし。アンドレアス・バウアー(バス)のハインリヒ国王も、マヌエラ・ウール(ソプラノ)が演じたエルザも、ユルゲン・リン(バリトン)が歌ったフリードリヒ・フォン・テルムラント伯爵もみな好演。そしてクラウス・フロリアン・フォークト(テノール)のローエングリンの声は、一層明瞭で気高く、若々しい艶のある声を会場に轟かせた。ああ、よかったねえ、と大きな拍手を起こった(もっともそれはすぐに鳴り止んだ)。

今日は再上演の初日であり、月曜日の夕方という中途半端な時間帯にもかかわらず大勢のお客さんがロビーに出て、ワイングラス片手に写真やポスターに見入っている。序奏で飯森泰次郎のタクトが振り下ろされると、東京フィルハーモニー交響楽団が静かに崇高な旋律を響かせ始めた。オーケストラの音色が歌手ととてもよく溶け合う。S席といういい席で聞いていると、それが特に素晴らしく、職人的な音楽の構成力が手に取るようにわかるのだ。現代人はラジオやCDで、技術的に非の打ちどころなく録音された音を聞いているが、かつて教会に行かなければ絵画作品に出合えなかったように、オペラハウスでしかこの音の融合の瞬間は聞くことができなかったであろう。ワーグナーが求めた100年以上前の音色が今目の前に再現されている。そう感じると目を閉じて聞き入るすべての音符が、とても神秘的で奇蹟のようにさえ感じられるのだった。

第2幕になるとワーグナー作品にみられる崇高なものと人間的なものとの対比が露わになる。つまり夫婦喧嘩が始まるのだ。ここで初めて歌を歌うテルムラント伯爵夫人、オルトルート(メゾソプラノ)が夫を奮い立たせ、再度エルザを落とし込めようと入れ知恵をするのである。手元のオペラグラスで見ると、どこかで見たような女性である。オルトルートを歌ったのはペトラ・ラングだが、彼女はすでに第1幕にも登場し、歌を歌わず群衆の中にいたのである。ゲルマン民族の血を引く異教徒のオルトルートは悪の象徴だが、よく考えてみるとこの作品は、オルトルートとローエングリンという二人の謎の人物の戦いである。そのモチーフには「ニーベルングの指環」と「パルジファル」の物語につながる要素が続出する。

「愛」には二つの側面がある。主として所有することによって得られるものと、それを超えたところに存在する「真の愛」。人間はおろかな存在で、前者を超えることができない。「ニーベルングの指環」は指環という世界征服が可能となる権力の象徴を奪い合う壮大な神々の物語だが、それを救うのは人間ブリュンヒルデの崇高な愛である。彼女はジークフリートを失うことによって、真の愛は物欲を超えたところに存在すると気付くのではないか。とすればこの「ローエングリン」もまた、身分を確かめずにはいられないエルザが、その正体(モンサルヴァート城で聖杯を見守る信徒)を知ったとたんに、彼の愛を失うのだ。彼女はブラバント公国の後継候補だから、国を救うためにはどうしても不可思議な存在を確かめる必要があった。

ワーグナーが終生モチーフとした真実の愛への道は、この「ローエングリン」でも見て取れるのは明らかである。であるとするとこのオペラは単に白鳥の騎士が乙女を救うという表面的な理解では済まされない。そしてそうであるように、第2幕の後半以降の心情的な葛藤やそこに展開される様々な音楽が、凄みをもって迫ってくることに気付く。新国立劇場の合唱団はここでも大変素晴らしかったが、かれらは一般民衆の移り気で依存的な体質(ポピュリズム)を表現している。

すべての歌手は最初、少し緊張も見られたが、みな尻上がりに調子を上げて行った。今思い出しても興奮するのは、どの歌手も甲乙が付けがたいほどに素晴らしかったことだ。音楽に負けることなく歌声は響き、オーケストラと見事にブレンドした。どちらかというとスリムな飯森の音楽も、シンプルな舞台によくマッチしていたと思う。舞台後方に設えられた壮大な格子状の壁には、200メートルにも及ぶ数のLEDが埋め込まれ、それが数々の色に変化する様は壮大である。視覚的にもこれほど素晴らしい劇に出会えることは珍しい。婚礼の時に一瞬ひざまずくエルザのシーンは、シュテークマンの演出の見どころだろう。そしてフォークト!彼の歌声の素晴らしさは、まさに奇蹟的にさえ聞こえたのだった。

第3幕はすべての登場人物が歌を披露する場面の連続だが、やはり何といってもここはローエングリンに尽きる。そしてフォークトの一等群を抜く歌唱によって、われわれすべての聴衆は圧倒されたと言ってよい。白鳥に化けていた黙役のゴットフリート(エルザの弟)が舞台の底から登場した時、背筋がぞくぞくするような感動に見舞われた。そして幕がおりると沸き起こるブラボーの嵐。私はこれほど熱狂的な拍手を知らない。全員が総立ちとなって何度もカーテンコールに答える歌手に混じって、演出のシュテークマン氏も登場し、成功を祝う姿に私は胸がこみ上げてくるほどの感動をこらえることができなかった。

17時に始まった公演が終わった時にはは、22時を過ぎていた。丁度5時間だったから、これもまた「のぞみ」での大阪往復に相当する時間が経過したことになる。

2016年5月28日土曜日

ドニゼッティ:歌劇「ロベルト・デヴェリュー」(The MET Live in HD 2015-2016)

METライブシリーズも今年で10周年だそうだが、このシリーズの最大の良さは、それまでに触れたことのない作品に気軽に触れられることである。その中でもシリーズ最大と言ってもいいほど私にとって意味深かったのは、ドニゼッティの「チューダー朝女王三部作」と言われる作品を、圧倒的な感銘を持って味わうことができたことである。すなわち「アンナ・ボレーナ」「マリア・ストゥアルダ」そして今回見た「ロベルト・デヴェリュー」である。

おさらいをしておこう。比較的有名な「アンナ・ボレーナ」でもMET初演となったライブ映像を見たのは2011年だった。この時ヘンリー八世の王妃アンナを演じたのはアンナ・ネトレプコ。私はこの作品でドニゼッティの魅力を思い知ったと言ってよい。「連隊の娘」のように阿呆らしい荒唐無稽さはなく、「愛の妙薬」のようなほのぼぼとした明るさとも無縁である。

次の「マリア・ストゥアルア」はスコットランドが舞台の作品である。メアリー・ストゥアートを演じたのは、アメリカ人のソプラノ歌手ジョイス・ディドナートであった。2013年の公演はまたもや初演。女性同士の対決は手に汗握る迫力で、私はまたもや圧倒されたと言ってよい。これらの感想は、それぞれブログに書いた。「歌声といい、ドラマ性といい、さらには悲劇の主人公たる演技に至るまで、これほど見事に演じたのを知らない」などと書いており、興奮したことを思い出す。3つとも演出はデイヴィッド・マクヴィカー。舞台装置は斬新というわけではなく、かといって保守的でもない。全体に暗いのはイギリスを舞台とした悲劇だから。ただ歌手の演技を引き出すことにかけては彼は天才的ではないか。指揮はメトのベルカント・オペラの第一人者、マウリッツィオ・ベニーニ。

今回の作品「ロベルト・デヴェリュー」の主役であるエリザベッタを演じたのは、シカゴ出身のソプラノ歌手、ソンドラ・ラドヴァノフスキーであった(このオペラの表題役はロベルトだが、彼女の存在感をなくしてこのオペラは語れない)。彼女は齢69歳にもなるエリザベス一世の役を、蒼白の顔面、こわばった表情、そして足元がふらつくという演技を続けながら、90%以上が怒っている状態の難役を見事に歌った。その様は「すごい」の一言につきる。ベルカントの歌声は高音と低音をいったりきたり。こんなに歌っていると声をつぶすのではないかと心配になる。

史実に基づくあらすじは至って簡単である。エリザベッタは自分を裏切った恋人(ロベルト)を死刑にしてしまうというものだ。 高齢であることもあり最後の心のよりどころであるロベルトを失うことに、彼女の心は揺れ動く。だが私はこのストーリーが早くも第1幕で展開されるとは知らなかった。

一体他に何を歌うのかしらん、などと思っていたが、ストーリーはベルカント時代の様式のように、ひとつひとつの心情が次から次へと美しい歌となって続く。これは見た人にしかわからない興奮だろう。ともすれば退屈極まりない作品も、音楽、特に歌手が素晴らしいと実に見ごたえのあるものとなる。今回もそのいい例だと思う。

エリザベッタの恋人で、彼女を裏切って親友ノッティンガム公爵の妻サラを愛してしまうのがロベルトである。この役はアメリカのテノール歌手マシュー・ポレンザーニによって歌われた。彼の歌声は甘くて柔らかく、素朴な風貌が例えば「椿姫」のアルフレードなど好適であろうと思わせる。彼の出番は数多いが、最高に素晴らしかったのは第3幕の長いアリアである。絞首刑になる直前、何をどう歌ったかは忘れたが(こういうところがベルカント・オペラである。歌に聞きほれているうちにストーリーなどどこかへ行ってしまうのだ!)、その歌声は頂点に達し、メトのすべての観客を心底魅了した。私はエリザベッタを歌ったラドヴァノフスキーよりも総合的な安定度において上回っていたと思う。

エリザベッタの恋敵で、ロベルトが恋に落ちるサラは、友人ノッティンガム公爵の妻である。サラはまたエリザベッタがただひとり心を許すことのできるだけの信頼を寄せている人物であるところが話を複雑にしている。だがそのことは最初ノッティンガム公爵は知らず、親友を死刑から救い出そうとする。恩赦を懇願されるエリザベッタもまた、サラこそが恋敵であったことを知るのは幕切れになってからである。ここでサラの役はメゾソプラノで、何と贅沢なことにエリーナ・ガランチャが歌い、その夫、ノッティンガム公爵は、これまた大バリトン歌手のマウリシュ・クヴィエチェンである。このようなところがメトらしく、何と4人が4人とも素晴らしい。主役二人はアメリカ人で固め、脇役を東欧の実力派が担うのだ。

ここでの登場人物は、すべて大切なものを失う。エリザベッタは最後の生きる望みを、ロベルトは自らの命を、ノッティンガム公爵は妻と親友を、サラは恋人と夫を、といった具合である。救いようもないストーリーは後の世代の作曲家ならもっと違う作風にしたであろう。イギリスを舞台にしているとはいえ、このオペラはイタリア・オペラらしく感情の動きが活発であり、それに合わせた音楽もドラマティックである。そしてそれはヴェルディの初期作品を彷彿とさせる。ヴェルディがここから学び発展させたドラマとの融合は、ドニゼッティのオペラ・セリアにその出発点を見出すことが出来る。

この時期の音楽は、たとえ各役柄の間に感情的、あるいは立場の違いがあっても、音楽は見事に調和している。まだ不協和音というものが目立つことはない。つまり殺人をほのめかすような罵り合いも、和音となって重唱となる。ドラマはまだ神の維持する世界の中に納まっている。だからエリザベッタは最終幕でロベルトを愛していることを告白し、彼を赦そうとさえする。高齢の自らの立場を嘆きつつも。この少し創作めいた、やや滑稽な心情の告白は、興業としてのオペラを意識させる。だからこそヴィッカーはこの上演を劇中劇という形でやや客観視しているように思える。

そのあまりに悲惨なストーリーがたとえ事実だとしても、これは演技と歌を楽しむ作品である。その限りにおいて、今回もMET初演となった「女王三部作」の最後、 「ロベルト・デヴェリュー」は、それが完全な形で上演されることによって、それまでに(おそらく)知られていたであろう魅力の何十倍もの可能性を示す結果となった。この素晴らしい経験が、METライブという気軽なもので味わうことの嬉しさを感じずにはいられない。今年のシリーズ中、いやこれまでのMETライブの中でも傑出した上演であったと信じて疑わない。3つの作品を再度見てみたいと思う。それはリバイバル上映で可能だろう。だが舞台でこのレベルの感動を味わうことは・・・経済的、空間的あるいは時間的制約に、字幕といった言語的障壁を考えると一生ないだろうと思う。

2016年5月14日土曜日

プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」(The MET Live in HD 2015-2016)

我が国を舞台にしたストーリーではあるものの、西洋人のステレオタイプな偏見に満ちているという点で、日本人として違和感を感じるために、このオペラが好きでないという人があるが、私はまったくその逆である。むしろ親近感を覚えるし、美しくも悲しい物語に心を打たれる。もしかしたらこれはプッチーニの最高傑作ではないかと思うほどだ。音楽の白眉は第2幕の間奏曲のシーンである。ただ待つだけのシーンは動きもなく歌もない。なのにどうしてこんなに美しいのだろう。音楽に耳を傾けているだけで、ゆっくりと時間が経過してゆくその様に涙さえ浮かぶほどだ。見ると蝶々さんを歌っているクリスティーヌ・オポライスも泣いている。こみ上げる感動に、幕が下りているというのに感極まるばかり。インタビューが始まると彼女は告白する。「早く泣き始めないように我慢していた」と。

蝶々夫人の舞台には、当然のことながら日本の家屋が登場する。長崎の港を見下ろす幕末の家には、障子、畳、あるいは日本式のお庭がセットさせるのが普通だ。だがこのオペラは心理の移り変わりを描いたオペラだ。下手な大道具が登場すると興ざめである。むしろ舞台はシンプルな方がいい。そしてカレル・マーク・シションの演出は、障子が左右にスライドする以外は至ってシンプルである。代わりに文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎の要素がちりばめられている。黒子がまるで本当の子供であるかように3人がかりで人形を操るかと思えば、空を舞う鳥の群れが舞いながら飛び去る。その美しいこと!

この上演の素晴らしさは、定評あるロベルト・アラーニャやプッチーニ歌いとしての名声を確立したオポライスにあることは第一に評されるべきだろうが、まあそれは当然と言えば当然である。意外性に満ちたこのオペラの新鮮な発見は、やはりその演出にあると言えるだろう。和音階を随所に取り入れたプッチーニの音楽を十全に表現したアンソニー・ミンゲラの指揮の素晴らしさを讃えることを忘れるくらいに、演出の素晴らしさが際立つのだ。

最近METライヴもマンネリ化し、どうも感動する作品が少ないと感じ始めていた。正直なところこの上演を見る気力が失せていたのだ。歌手はいいし一定の水準であろうことは想像できる。ビデオ上映する以上、まるで失敗ということもないと思う。いつも案内役が言うように「実演で見るのに勝るものはありません。是非METか、もしくはお近くの歌劇場でお越しください」というのは事実である。もしかしたら大きな損失を被ることを覚悟してもなおチケットを買い求め、ハラハラしながらも歌を聞くときの期待と緊張感、そしてそれが良かった場合の感動は何物にも代えがたい。

でも今回のシション演出の「蝶々夫人」は、そんなあまりに当たり前のことを忘れさせてしまうほどに感動的であり、感情の移入に自分でも驚くほどである。精緻な演出は一挙種一挙動にまで及んでおり、洗練されているだけでなく細部に磨きがかかっている。もしかしたらビデオで見ることで、細かい動きにまで気付くのかも知れない。浄瑠璃で表現される3歳の男の子の仕草などは、その代表だろう。

第2幕で3年間を待ちわびた蝶々さんは今日も長崎の港を見下ろしながら暮らしている。そこでアメリカの戦艦が現れると、彼女はそこに夫であるピンカートンがいると信じ込むのだ。彼女はなんと結婚衣装に着替え、期待に胸を膨らませながら時間が過ぎるのを待つ。ここで彼女はあくまで待つのだ。女中のスズキ(マリア・ジフチャク、彼女は本当にいそうな旅館の女将のようないでたちである)と少年と3人で居間に正座する。暮れ行く長崎の空は赤みを増してゆくその中に、滔々と流れるきれいなメロディー。ただ待つというシーンを、こんなにも美しいオペラにしたプッチーニは天才的だと思った。

テレビも電話もない時代。港に現れた戦艦に夫がいるかどうかすら確かめようがない。彼女はじっと待ち、そして時間だけがゆっくりと過ぎ去る。まるで昔の松竹映画を見ているように、動きが少ない中にも落ち着いた時間である。彼女はそわそわと感情的になることはしない。そういったところにプッチーニは日本人の慎ましさを表現したのだろうか。だとするとそういう部分は何とも誇らしく、嬉しい。おそらく蝶々さんは、少し前に領事のシャープレス(ドゥウェイン・クロフト)が言いかけたように、夫に捨てられることを悟っていたのかも知れない。だがたった一人残された子供までを引き渡すよう言われることまでも想像していなかったと思う。

まだ十代で異国の妻となった元芸者の蝶々さんは、もはや元の生活に戻ることなど考えられない。すべてを失い、希望も消え失せた彼女に残されたのは、短剣で自らの命を絶つことだけだった。そのシーンを見られまいと子供に目隠しをし、遊ぶようにと促すそのシーンに至って、感興は一気に頂点に達する。流れた血の色が彼女の来ていた着物の帯の色であることを思い出すのはこの時である。劇的な音楽は一気に幕切れに向かう。音楽が鳴り止むのを待ち切れず盛大な拍手が沸き起こってもなお、私は物語の中に身を置いていた。この上演はもう一度見てみたいと思った。10年にも及ぶMETライヴの中で、感動的なものは数えきれないくらいあったが、もう一度見たいと思った作品は少ない。だが間違いなくこの上演は、私のオペラ経験の中でも特異なほどにランクインするものとなったのだった。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...