2019年10月20日日曜日

NHK交響楽団第1922回定期公演(2019年10月19日NHKホール、指揮:トゥガン・ソヒエフ)

ロシアの若手指揮者トゥガン・ソヒエフは、N響と最も相性の良い指揮者のひとりであり、もう5年も連続で指揮台に立っているらしい。私もあるときテレビで一目見て、これは良い指揮者に違いないと直感してから、もう4年連続で定期公演に通っている。手兵のトゥールーズ・キャピトル管弦楽団との公演を合わせると、もう6回目である。どの公演も、まるで初めてその曲を聞くような新鮮さに溢れ、細かい音符の隅々にまで神経を行き渡らせた音楽は、いっときも飽きることなく引き付けられ、深い感動と音楽を聞く喜びに溢れた好演であった。最近ではベルリン・フィルを始めとするメジャー・オーケストラへの客演もしばしばのようで、その躍進ぶりが納得できる。

今シーズンの客演は10月の2公演で、両公演とも魅力的であり、どちらに行こうかと迷っていたところ、サントリーホールのB公演にもチケットがあることがわかり、結局、両方とも出かけることにした。A公演の井上道義の分を含め、今月は3公演とも聞きに行く予定である。N響を聞き始めて四半世紀以上になるが、こういうことは初めてではないか。

しかもオーケストラはやはり前方で聞くに限る。NHKホールの場合、これがなかなかむつかしく、両翼はやはり音が悪いし、正面になると奥まって来る。唯一、1階正面がいいとは思うが、ここは傾斜が緩く、幅も狭いので少し窮屈である。来年度にはNHKホールの改装が予定されているから、少し改善するならいいのだが(この間の定期公演A,Cプログラムは、東京芸術劇場で行われるようだ)。

さて、台風19号が猛威を振るって東日本を駆け抜け、大きな被害を出してから1週間が経過した。さすがに10月ともなると少し秋めいては来たが、まだどこか天候が不順である。天候が定まらない雨季と乾季の入れ替わる時期に、なぜかチャイコフスキーの音楽がよく取り上げられる。悲愴交響曲などは6月によく聞いたものだった。今回のソヒエフによるロシア・プログラムでは、第4番の交響曲が取り上げられた。この曲は、チャイコフスキーが作曲した7曲の交響曲の中では、比較的良く取り上げられる方だと思う。その内容は、抒情的な第1楽章と第2楽章、ピチカートと管楽器のみによる第3楽章、そして爆発的な第4楽章と言った風に特徴があり、親しみやすい側面がある。だが私は、何かチャイコフスキーの不安定な情緒が反映している感じがして、あまり好きになれない。CDで通して聞くことなどほとんどない。

実演なら、とは思ったが、実はコンサートでもほとんど初めてである(一度、アマチュアのオーケストラで聞いている)。そして、2管編成のオーケストラから出てくる音楽もどことなくくすんでおり、チャイコフスキーの他の色彩的な音楽(例えば「白鳥の湖」は私が最も好きな作品だ)に比べると、どうしても見劣りがしてしまう。そういった面をはねのけ、ソヒエフがどうこの曲を料理してくれるか、そこがポイントである。

ソヒエフによるチャイコフスキーの交響曲第4番の印象は、曲のどうしようもない不安定さを克服し、非常に明快でしかも聞きどころを押さえた演奏だったということだ。演奏の観点では、これ以上の巧さを望むのは難しいと思う反面、そのことが曲の持つ味わいの浅さを露呈したような気がする。そしてNHKホールの音響空間的限界もまた、その結論に貢献してしまっている。もっとも大きなブラボーが沸き起こったのが3階席であることが、もしかしたらこのことを示している。これらの安い席では、最初から音の悪さ覚悟して聞いているからだ。

ソヒエフの指揮するN響のアンサンブルについては、もう何も言うことはないであろう。冒頭の金管楽器のハーモニーも無難にこなし、時折覗かせるオーボエやファゴット、あるいはフルートの印象的なフレーズにもあっけにとられる。指揮にメリハリがあって、特に終楽章のコーダなどは、技ありの圧倒的な迫力だった。

多くの人がより感銘を受けたと語るチャイコフスキーの第4番だが、私はむしろ前半のラフマニノフにより感銘を受けた。ピアノにアメリカ生まれのニコラ・アンゲリッシュを迎えての「パガニーニの主題による狂詩曲」である。この曲をこれほどにまで味わったことはなかった。第18演奏の甘美なカンタービレが突出して印象的なこの曲は、1934年、ストコフスキーが指揮するフィラデルフィア管弦楽団によって初演されている。

アンゲリッシュというピアニストを聞くのは初めてだったが、聞いた最初の印象は、ピアノの音がとても大きくてはっきりと聞こえるということ。もしかしたら聞いた位置によるからではないかとも思うが、まずとても音がよく届き、オーケストラとうまく合わさっている。そしてオーケストラのリズムと溶け合って、ロシア的でありながらしばしば都会的な雰囲気を持つラフマニノフの面白さが味わえたことだ。もしかしたら少し物足りないと感じた人もいるだろうか。70パーセントくらいの力でこの曲を弾いていたのかも知れないし、まあ素人が変な詮索をするのは良くないことだ。ただ私はそういう演奏にも関わらず、私は非常にこの曲を楽しみ、そして感動した。

ソヒエフの指揮するオーケストラの、時に深く立ち止まって目いっぱい静かに奏でるメロディーに、私は深くため息をついた。そこにピアノもうまく合わされていたのかも知れない。どの変奏も味わい深く、このな部分もあったのかなあという発見に満ちていた。もちろん第18演奏も。待ってましたと固唾を飲む聴衆に、しっとりと甘いメロディーが押し寄せてくる。意外にあっさりとした演奏には、よりロマンチックなものを期待する人もいたとは思う。アンゲリッシュはまだ50歳にも達していないとは思われないような老練な足取りで何度も現れ、ショパンのマズルカからの1曲をアンコールした。

ソヒエフの音作りが冴える演奏会。冒頭のバラキレフによる「イスメライ」(リャブノーフ編)という10分足らずの曲については、私は初めて触れる曲だったのでよくわからないのだが、ラフマニノフの音楽に酔い、チャイコフスキーの演奏に納得した今日のコンサートだった。

来週はBプログラムをサントリーホールに聞きに行く。私にとってはこちらが本命で、大好きなビゼーの交響曲ハ長調や、ソヒエフの精緻な音色がこだまするドビュッシー、それに生誕150周年のベルリオーズの作品が取り上げられる。路面の濡れた公園通りを下って渋谷へと向かう。いつもの雑踏の中に緑のシャツを着た外国人が多いのは、ラグビー・ワールドカップの準々決勝(アイルランド対ニュージーランド戦)が行われているからだ。

2019年10月19日土曜日

NHK交響楽団第1921回定期公演(2019年10月6日NHKホール、指揮:井上道義)

ほとんどの曲をレコードやCDで最初に聞いていた若い頃とは違い、最近でははじめて聞く曲も実演から、ということが多くなった。音楽の聴き方が多様化し、どのような音楽でも手軽に聞けるようになった時代にもかかわらず、私のようなこの傾向は、音楽の伝統的な聴き方に回帰している現象である。皮肉なことに、実演で聞かなければ、おそらく二度と聞く機会を持たなかったであろうと思うことがよくある。実演で聞くことがその曲を知るきっかけとなり、そこでストリーミング配信などの新しい聞き方が加わって、音楽生活がより楽しくなる、というのが続いている。聞き古した曲でも、ライブ演奏によってはじめてその魅力に接するようなことが、実のところ多い。音楽とはやはり生に限ると思う所以である。

フィリップ・グラスの「2つのティンパニ奏者と管弦楽のための協奏的幻想曲」という、わずか20年前に初演された作品も、そして、この日の後半のプログラムで演奏されたショスタコーヴィチの交響曲第11番ト短調「1905年」という作品も、私にとって初めて触れる作品だった。後者、すなわちショスタコーヴィチの交響曲は、今ではかなり演奏され、名演とされるディスクも数多く存在する。かつては第5番しか話題に上らなかったこのソビエトの作曲家も、そのソ連邦の崩壊に伴って「解放」された数々の作品が、普通に演奏されるようになって久しい。にもかかわらず、私は今日、コンサートで聞くまでちゃんと聞いたことはなかった。

フィリップ・グラスは、難解な曲の多い現代音楽においてひときわ異彩を放ち、しかも親しみやすい作曲家だと思う。これまでヴァイオリン協奏曲やいくつかの管弦楽作品を聞いて来たが、そのどれもが親しみやすくて興奮に満ち、一種の陶酔的な感覚にも染まっていくような、まるでスポーツのような音楽である。「ミニマル音楽」と呼ばれる領域の代表でもあるグラスは、ティンパニ協奏曲というのを書いた。ここで使われるティンパニは2台。今回のN響の定期公演では、N響の2人のティンパニスト、植松透と久保昌一が舞台の最前面、指揮者を挟んで左右に並んでいた。

通常オーケストラの最上段にいて、4つ程度の太鼓を叩いているのは通常の光景だが、今回二人が叩く太鼓は、それぞれ6種類から8種類もあって、奏者のまわりをぐるりと囲んでいる。私は生まれて初めてストラヴィンスキーの「春の祭典」を聞いた時、ティンパニ奏者が二人もいることに興奮を覚えたが、いまではそんな作品は珍しくない。たった一人の奏者が叩くティンパニでも、「第九」や「幻想」のような作品では、ここぞとばかりにティンパニの切れ味鋭く、目いっぱいその音を轟かせるとき、ただならぬ緊張と予感を感じざるを得ないのだが、そのようなティンパニ奏者が二人もいて、しかも曲の最初から最後までリズミカルに掛け合い、360度あらゆる方向からこの楽器を鳴らしまくる音楽の、その楽しさと言ったら何だろう。

一種のラテン的なリズムにも通じるようなメロディーで始まる第1楽章は、見とれているうちにあったいうまに過ぎ去り、緩徐楽章へと進んでもその面白さは失われない。オーケストラの中の数多くの打楽器群、あるいは金管楽器との溶け合いも面白いが、ティンパニ協奏曲となると普段は管楽器に集中する耳も打楽器を中心に聞いているから面白い。そのティンパニ2台によるカデンツァは、第2楽章の終わりに位置している。

叩いているだけとはいえ、打楽器奏者の職人技が堪能できるが、これだけ多くの太鼓を、何種類ものバチを取り換えつつ一気に聞かせる技も圧巻である。指揮者の井上道義が楽しそうに合わせている様子は、3階席からもよく見える。

カデンツァから続く第3楽章は一気に早いリズム(♩=176となっている)による4拍子と7拍子が交錯したアジア的祝祭感に満たされた曲(解説による)。そういえばそう聞こえるが、私は初めて聞いた時は、どこかラテン的な感じがした。私はこの興奮に満ちた曲をもう一度聞いてみたくて、Spotifyへアクセスした。すると、NAXOSから発売されているカンザス大学管楽アンサンブルによる演奏がみつかったので、それを聞いている。YouTubeでも見られるので、映像のほうが楽しいだろう。やはり実演で接した演奏に、ネットであとからフォローする、というのが専ら私の最近の聴き方である。

さて。井上道義という指揮者は、私にとって少し不思議な指揮者だった。これまでの実演は3回。いずれも悪くはないのだが、かといって心に残らない。最初に聞いた東フィル定期でも、そのモーツァルトの音色の綺麗なことには驚いたが、それだけ。2回目のマーラー(一千人の交響曲)では、圧倒的な熱演ではあったがどこか心に響かない。それはつまりどういうことかと自問自答するのだが、よくわからない。けれども今回、ショスタコーヴィチの交響曲を聞いて、もしかしたらこれは指揮者の音楽を体現するオーケストラの力量に問題があったのではなかったのだろうか、と思った。このたびのN響との演奏は、N響の過去の名演奏と比較しても十指に入るような驚くべき名演奏で、それは個々人のソロだけでなく、アンサンブル、そしてそれを統率する指揮者の並々ならぬ集中力によってもたらされた神がかり的なものだった。歴史的演奏と言っても過言ではない。

その様子をここに記すことは、たやすいことではない。私の文章力と、それに何といってもショスタコーヴィチの交響曲に対する浅い理解では、とうてい太刀打ちできないものだからだ。ただそういった予備知識なしでも、今回の演奏の尋常ではない興奮ぶりは伝わって来たと思う。会場にいた聴衆の、普段は醒めた拍手を常態とする、年配者中心の日常が、どういうわけかあっけにとられて、そこに沸き起こる最大級のブラボーの嵐に大きく凌駕されてしまったのだ。

コンサート・マスターはライナー・キュッヘル氏だった。前半のプログラムに合わせてやや奥まった場所に位置するオーケストラが、広大なNHKホールでは少し小さく見える。「1905年」の第1楽章は、静かでゆっくりとしたイントロダクションで始まる。これは冬のサンクトペテルブルクの宮殿を意味しているのだ。弱音器を付けた不気味なトランペットのファンファーレ。このモチーフは今後しばしば登場する。

「1905年」とはロシア革命の発端となった「血の日曜日事件」を意味する。ここで平和的なデモ行進を行う民衆に向かって銃口を向ける皇帝軍。それは後のロシア革命へと続く皇帝の権力の失墜を意味していた。革命はデモによって開かれ、成し遂げられた。6万人とも10万人とも言われるデモ参加者のうち、何千人が死亡したかはわからないようだ。ロシア革命はソビエトを樹立させ、以降、半世紀にわたって社会主義諸国のリーダとして君臨することとなる。

だがこの曲は、1957年に初演されている。この頃のソビエトは、スターリン死後フルシチョフが登場し、東西の「雪解け」が叫ばれた時代だった。だがそのような中、ハンガリー動乱を鎮めるべく出兵した事件は、私も教科書で習った。ショスタコービッチがこの交響曲に込めた思いは、今一度革命の原点を振り返り、スターリン以前の社会主義理念へと立ち返ろうとしたからだ(それがたまたまハンガリー動乱重なって予期せぬ政治的含意そ示唆することとなった)という(コンサート解説書「Philharmony 10月号」より要約)。

従ってこの標題音楽には数々の革命歌が引用されている。その具体的な曲名は、数々の解説書に詳しいのでここでは割愛するが、中学生の頃、モスクワ放送などを趣味で聞いていた私でもなじみのあるものはない(むしろこの当時のモスクワ放送ではショスタコーヴィチのような音楽はあまり流れず、チャイコフスキーやロシア民謡が多かった)。

1時間にも及ぶ音楽は続けて演奏されるから、静かな第1楽章が言わるといつのまにかアレグロの第2楽章へと入っている。井上は一糸乱れぬアンサンブルでここの巨大な音楽的描写を進ませる。それは民衆の請願行進を意味する行進曲であり、そして一斉射撃、壮絶な死へと転落してゆく。

音楽は切れ目なく第3楽章のアダージョへと続く。ここは死者を追悼するレクイエム。そしてやがて革命への音楽へと変わっていく。怒涛のような音楽、打楽器を多用した賛歌と行進曲、圧倒的なクライマックス、高らかに歌われる社会主義賛歌。これらが混然一体となってアンサンブルを形作る。井上の集中力は、神がかり的と言ってもいい程に研ぎ澄まされ、オーケストラがそこに食らいついていく様は、3階席にも怒涛のように押し寄せてゆく。見ていて、何か目のくらむような錯覚と、そしてそれに負けまいとする精神力がこちらにも必要となる。

だがこれで曲が終わるわけではない。第4楽章はこういった賛歌であると同時に、同時に帝政ロシアに対する警鐘を意味しているという。そのメロディーは後半に登場するイングリッシュ・ホルンのソロによって明確に表されている。N響のオーボエ主席が持ち替えて奏でるイングリッシュ・ホルンの響きは、何と印象的なことか。いやそれだけでない。この日のN響の、時に不安定さを見せる金管がほぼ完ぺきと言っていい出来栄え。私はこんな演奏を聞いたことはない。弦楽器のN響が、重厚でいまやヨーロッパの第一級のオケに引けを取らない水準にあることは、だれも疑わない事実である。

コーダで再び行進曲がクライマックスを築き、途切れるように音楽が終わると、会場からどっとブラボーの声が噴き出した。私はこんな興奮に満ちたN響定期を知らない。楽団員も指揮者も、そして客席も、疲れ果てたと同時に何かをやり切った充実感のようなものが感じられた。何度も呼び出される指揮者は、長い手を振りながらバレエダンサーのように客席を振り返った。彼はまたオーケストラの楽団員の中に分け入って各奏者と握手を繰り返し、その時間は10分以上は続いただろう。私はこの演奏を、テレビで見てみたい。細かい部分まではさすがに3階席ではよくわからないからだ。だが、このような興奮は、おそらくテレビでは伝えきることはできないと確信する。ショスタコーヴィチが自分自身だと語る井上の面目を見た今日のコンサートは、定期としては1回限りだった。だが、他の作品においても同様な演奏が期待できる井上に、是非、他の曲も振ってもらいたい。おそらく同じ思いを、その場に居合わせた聴衆は感じただろう。

蛇足ながら一言。私はこの演奏を聞きながら、あの「天安門事件」を思い出した。人民解放軍が、歴史上はじめて民衆に発砲をしたのだ。あれから30年が経過したが、不安な世界情勢は変わっていない。共産主義と資本主義が「1国2制度」というまやかしのもとに存在する中国では、香港で民主デモが毎日のように行われ、そに向けた当局の締め付けは一層激しさを増しているようだ。社会主義の誕生からまだ1世紀を経てもいない世界で、社会主義運動そのものが博物館入りを果たしたのだろうか。ショスタコーヴィチを聞きながら、格差のますます拡大する今の世界に照らして考える時、その複雑な情勢は私の心を一層暗鬱なものにさせてる。

2019年10月15日火曜日

読書ノート:「宝島」(真藤順丈、2018)

生まれ故郷の大阪、あるいは関西を舞台にした小説のいくつかに限って、このブログにその感想などを書き記してきたが、この「宝島」についてはどうしても触れておきたいという思いが、読後半年以上たっても冷めやらず、次第に記憶が薄くなってしまう前に、思いついたことなどを書いておこうと思った。初めて読んだ沖縄の小説。しかも戦後の占領地時代を舞台にしたもの。正直に言おう。基地問題や戦争の爪痕を考えるという意味で、これほど気乗りしないものはなかった。沖縄の問題は、本土に住む日本人にとっても、他人ごとではない重みを持っている。だが、そのことに正面から向き合い、正しく理解しようとすればするほど、その難しさ、どうしようもない重さを思わざるを得ない。つまり早い話が、避けて通りたくなる。

基地問題、あるいは沖縄問題を扱ったルポやノンフィクションは少なくない。だが、それらは、すでに沖縄問題に関心を抱いている人にはアピールしても、そうではない普通の人々には、なかなか伝わらない側面を持っているように思う。沖縄に関係の深い人、あるいは沖縄の人によってこれらが語られることは重要ではあるが、一方で沖縄に全くと言っていい程縁のなかった作家がいて、彼が沖縄の方言を駆使しながら見事な小説を書いたのだ。

作者は真藤順丈。東京生まれ東京育ちの彼が、どうして沖縄を舞台にした小説を書き、その鮮やかなタッチで感動的な作品を生み出すことになったかは、実のところよくわからない。この直木賞を受賞した作品が持つ意味は、しなしながら非常に大きい。沖縄に縁のない小説家が書いた沖縄の物語は、勿論小説である。そのことが沖縄問題を考えるうえで、大層身近に感じられるのである。ストーリーはフィクションだが、そこに登場する人々は実在だった人物もいるし、それに本作品はSFではない。従って、戦後の沖縄はこんなふうだったのだと説得させるものがある。その残酷なまでの事実を、作者は若者の群像の中に生き生きと描き出す。その文章の迫力。

私はこの小説を家の近くの書店で購入しようとしたときの店員の顔が忘れられない。「あなたもこの小説を読むのですね!」という共感に満ちた表情が見て取れた。分厚い小説も読み進むと次第にその力に体が馴染んでいく。さながらスポーツのような感覚である。

登場人物はコザの「戦果アギヤー」のリーダー「オンちゃん」と弟の「レイ」、親友の「グスク」、そして恋人の「ヤマコ」。「戦果アギヤー」とは米軍基地に忍びこんで、物資を略奪することを生業とする人たちで、占領下にあった沖縄ではこういう人たちが、地元のヒーローだったようだ。舞台はその「戦果アギヤー」たちが、夜の嘉手納基地に忍び込むところから始まる。

私はここで物語の内容を書きたいとは思わない。これから読む人に対し、いわゆる「ネタばれ」をしてしまうことは避けたいという理由もあるが、他にも多くの書評などが出ているだろうから、敢えてそれを繰り返す必要はないと思う。私はいつも聞いていたラジオ番組の書評のコーナーで、アシスタントの女性アナウンサーがこの小説を読み始め、まだ三分の一ほどだけど興味深くなってちょっと何か引き込まれていくのです、というようなことを語っていたことが、この小説を知るきっかけとなった。直木賞の受賞作は芥川賞と同時に発表されたので、芥川賞の発表会見中に直木賞の受賞が伝わり、「宝島」に決まったことに会見中の選考委員が敢えて触れ、「これはいい作品です」とコメントしたのをテレビで見たのを思い出した。

だが、読書の直接の引き金になったのは、意外なことだった。知り合いの子供が通う学校の図書だよりに、作者がその学校の出身だと紹介されていたことだ。早速私はこの500ページ余りに及ぶ単行本を買うために、書店へ赴いた。平積みされていたその一冊を持って帰り、毎日数十ページづつを読むことにしていたが、とうとう後半は一気に読み通すことになった。読後の感動は、何と表現したらよいのかわからない。ただ胸にジンジンと迫るものがあって、それが数日の間続いた。

沖縄の問題を扱いながら、その内容をこんな風に描いて見せることが、できるのか、と思った。そのさわやかな気持ちは、あの沖縄に吹く風のように暖かかった。抜けるような青空が、かえって戦地となった残酷な歴史を、静かによみがえらせるように、小説というものは、登場人物を通して、その複雑な問題を多面的に示すことになる。

沖縄市、というのがコザのことだが、ここの嘉手納基地の前の通りに行った時の雰囲気は私も忘れることができない。狭い路地を入る混むと、生活の匂いが立ち込める。その周りに広がる歓楽街が、終戦直後から続く植民地の雰囲気を残している。世界中の米軍基地の街、日本にも占領時代には国中に「基地の街」は存在し、今もっていくつかの土地はそのままである。だが沖縄の問題は、とりわけ複雑である。それは、琉球という独自の政治と文化を育んで来た歴史にも直結し、米国にも日本にも、どちらにも見捨てられるのではないかという思い、あるいはそのどちらでもないという誇り、そういった相反する感情の二面性。この錯綜した心理状況を語るうえで、小説ほど適したものはない。それを東京の作家がやった。そのことにこの小説の特別な意味があるだろう。

沖縄がたどった過酷な運命は、決して単純に説明できるものではない。だからこそ、個々の人間の、異なる人生によって様々な視点が存在し得る。同じ街で育った幼馴染が、「グスク」が警官に、「ヤマコ」が教師に、そして「レイ」はテロリストへと違う道を歩みながらも、同志として行方不明の「オンちゃん」を探し求めることに、それは端的に表れている。そして今でも米国軍人と日本人の間に生まれた人生の存在に気づかされる時には、実際に「ヤマコ」や「グスク」や、それに「ウタ」が、今でもそこに暮らしているような感覚にとらわれる。

読書を終えてから半年以上が過ぎた。今思い出して書けるのは、このくらいだ。読書直後だったら、もう少しいろいろなことが書けたようにも思う。記憶が風化していくのは残念でならない。だが、この小説を読み終わった時の、あの何とも言えないような気持ち・・・清々しくも泣きたくなるような・・・だけは、私が旅した3月の、快晴の風景と共に、まだ心のどこかに残っている。

2019年9月23日月曜日

NHK交響楽団第1919回定期公演(2019年9月21日NHKホール、指揮:パーヴォ・ヤルヴィ)

マーラーはとりわけ好きな作曲家だが、かといってマーラーばかり聞くわけではない。演奏会でも交響曲第5番のようなポピュラーな曲であっても、これまでに聞いた実演はたった2回だったと思う。ディスクではもう少し聞いてはいるが、それでもこのヤルヴィの演奏を聞いて、初めて聞く曲のような気持がしたのは実に不思議なことだ。

思うにこれまで聞いたヤルヴィ/N響による数々の演奏では、その曲の魅力を再発見することが多かった。マーラーで言えば、第1番「巨人」、第4番、ブルックナーの第3番などである。今回のマーラーの第5番もまた、全編それまで聞いたことのないような体験の連続で、それだけでこの演奏が類稀な名演奏であったことがわかる。会場を覆った聴衆からは、私がかつてN響で聞いたことのないような大きなブラボーが鳴り渡ったことからも、それは証明できる。

そのマーラーに行く前に、プログラムの前半に演奏されたリヒャルト・シュトラウスの歌劇「カプリッチョ」から「最後の場」について。シュトラウス最後のオペラとして名高い「カプリッチョ」は、上演に2時間余りを要する作品だが、室内楽的な精緻さを持つフランス風の作品である。私はまだ見たことはないのだが、ソプラノの聞かせどころの多い作品のようだ。シュトラウスはこの作品を自らの総決算と位置付けた。

その最後の場では、間奏曲「月光の音楽」から始まって、主人公マドレーヌ伯爵令嬢が歌うソネットにより締めくくられる。約20分のこの部分を、ルーマニア生まれのヴァレンティーナ・ファルカシュが歌った本公演で、私は見事に睡魔に襲われた。それは音楽が始まってすぐのことだった。隣の熱心な聞き手(背の高い彼はとりわけ大きな拍手をした)には申し訳ないのだが、もう片方の隣では、私よりも先に居眠りが始まっていたから、私はまだましな方だった。

おそらくその原因は、歌い手の少し物足りない歌唱にあったのではないかと思っている。1階席の最後尾ではあったが、音楽は直接響く位置にあって、そのことは歴然だった。ホルンを始めとするN響の音色は、とても繊細かつ饒舌だったことを考えると、この演奏は少し物足りなさを残したと思う。けれどもそれは、後半のマーラーと比較しての話かも知れない。実際、平均点は出ていたように思う。このマーラーは、現在聞き得る中で最高の演奏だったとさえ思うからだ。

そのマーラーの交響曲第5番は、やはりホルンが大活躍する。特に第3楽章の長大なスケルツォでは、第一奏者をわざわざ別の特別な位置に移動させ、その演奏を目立たせた。このホルンの上手さは、シュトラウスから始まって交響曲の序奏でも顕著だった。ホルンの音色が舞台のあらゆる壁に反射して増幅され(ホルンは聴衆とは逆の方向に音を出す)、それが耳元へ届く。ホルンがこんなにも印象深く聞えることはまれであり、しかもそのテクニックが冴えわたる様子は、我が国のオーケストラで聞くことはまずない。ところが今日のN響は全く違っていた。これはもう本場の演奏そのものである。

そればかりではない。金管のセクションの完璧な演奏は、トロンボーンやトランペットを含め、圧巻の出来栄えだった。木管楽器の、先を宙に浮かせて吹くシーンの多いこの曲で、その木管楽器の上手ささえも目立たなくさせてしまうような技術的水準は、楽器の弾けない私がいくら形容詞を並べたところで表現できるものではないだろう。そしてティンパニ!音の強さでつける表現の見事さ、そして第4楽章における印象的なハープ!

弦楽器のアンサンブルが最高度において合わされていたことはもやは言うまでもない。N響の中低音の素晴らしさは、それがまるで単独の楽器であるかの如くであり、ヤルヴィの、ややもするとケレン味の多い指揮に呼応して、見事な瞬間を作り出してゆく。そのライヴ感はちょっと興奮する。オーケストラを乗せてゆく感覚は、私の乏しい音楽経験で言えば、マゼールのような芸術的センスを思い出させるが、音楽はそれほどクールではない。とはいえマーラーの世界にどっぷりと分け入っていくタイプではないところが、好みとしての評価が分かれるところかも知れないが。

そういうわけで技術的な観点では申し分のない演奏は、随所に聞かせどころを多く捉えた見事なものだった。第1楽章から第4楽章まで、この曲はともすればただやかましい曲に聞こえるのだが、決してそうではない、十分に注意が払われ、音楽的な部分が見て取れた。まるで吹く風がすーぅと吹き抜け行くように鮮やかさなパッセージ、過去の記憶を蘇らせる一瞬の淋しさ、適度に緊張感を強めたり弱めたり、丸で魔法にかかったように音楽が変化するのを目の当たりにして、これは緩急自在な、どこか能や歌舞伎の世界にでも通じるような静と動の交わり。

このように第1楽章から第3楽章までは発見の連続だったが、有名な第4楽章アダージエットでも、その表現はため息がでる。そして圧巻の第5楽章。コーダでピタリと決まった時の興奮は最高潮に達した。もし私がこの日のコンサートについて、たったひとつ難点を言うとすれば、それはもはや音楽家についてでもなければ、聴衆についてでもない。1階席の構造上の問題である。N響のS席は1階と2階の中央にあるが、ここの席は前の方に行けば行くほど見えにくい。また席の傾斜が緩く、ただでさえ狭い隣との間隔が、前後においても同様になる。これを回避するためには、通路沿いの席に座ることだが、これはなかなかむつかしい。結果的に、背筋を伸ばして前の席の人の頭の間から舞台を窺うしかないのである。

後方の席は、音が目立って衰弱するから、結局どこで聞いても満足な達成感を得ることは難しい。サントリーホールであれば、おそらくこの問題は生じないだろう。けれどもN響のデッドな音は、むしろNHKホールの方が合っているというのが最近の私の印象だ。だが、それも前方の席に限られるのではないか。

私の2019~20年のシーズンは、このようにして始まった。N響の今シーズンの目玉は、10月のソヒエフ、12月のブロムシュテットと盛沢山。1月にはマーラーの「復活」(指揮はエッシェンバッハ)が、6月には第9番(同、ナガノ)がある。シュトラウスも1月には「4つの最後の歌」(ソプラノはオポライス)と「英雄の生涯」(指揮はルイージ)、5月に「アルプス交響曲」(同、ヤルヴィ)が控えている。とても待ち遠しい。

猛暑続きだった夏が去って、台風シーズンが到来。まだまだ不順な天候の続く今年の9月に、次第につらくなっていく我が身の健康を案じながら、渋谷へと続く並木道を歩いた。吹く風が木立をわすかに揺らし、湿気のある風が私の頬を撫でた。

2019年9月19日木曜日

スッペ:序曲・行進曲集(ネーメ・ヤルヴィ 指揮ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)

私が生まれて初めて親しんだ曲は、スッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲だった。小学校2年生の頃、初めて親に買ってもらった2枚組LPの先頭に、この曲が収録されていたからだ(アーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップス管弦楽団)。喜歌劇「軽騎兵」序曲は、小学校の音楽の時間に鑑賞する曲でもあった。教科書にその曲の内容が説明されていた。「騎兵隊が馬に乗って威勢よくやってくる。やがて戦死した兵士の墓に参り、しばしお祈りを捧げた後、再び勇壮に走ってゆく」。

中学生の頃になって、カラヤンがベルリン・フィルを指揮した演奏会(大晦日のコンサートだと思われる)のビデオがNHK教育テレビで放映された。ここでカラヤンは圧倒的な集中力で右腕をゆっくりと振り上げ、手首をくるりと回して拳を突き立てる。するとそこで演奏がピタリと止んだ。序奏の休止の直前。申し分のない演奏に、カリスマ的な映像。カラヤン美学の頂点が、ここに示されていた。ポピュラーな小曲でも真剣勝負で演奏する帝王は、ちょっと距離を置いてみると辛気臭いのだが、見とれてしまうのもまた事実である。カラヤンを主役とするこのようなビデオは、まだ映像作品が少なかった時代にも数多く作成され、今では少し古めかしくはなったが、YouTubeなどで簡単に見ることができる。あらゆる角度からフィルム撮影し編集をするという贅沢な作成過程によって、その迫力と演奏は、いまもって圧巻である。

スッペの序曲集はカラヤンも残しており、この他には「詩人と農夫」「ウィーンの朝・昼・晩」のような有名な曲も楽しい。思えば昔は、ウェーバーの「舞踏への勧誘」だとか、リストの「ハンガリー狂詩曲」だとか、シベリウスの「カレリア組曲」といった軽い小品集を、家族でステレオを囲みながら聞く団らんのひととき、といった時代があった。まだテレビはさほど普及しておらず、ゆっくりとした時間が流れていた。客人が訪ねて来て、レコードを聞くこともあった。テレビが普及した後でも、ドラマやスポーツ中継の合間に放送される演奏会を収録した番組が、週末の夜の楽しみだった。いやクラシックに縁のない家庭でも、洋画やクイズといった、家族共有の娯楽があったものだ。そんな時代が、バブルの時代を境に失われていった。

スッペの序曲集を聞きながら、そんなことを考えた。だが、この演奏は実はSpotifyで聞いている。指揮はネーメ・ヤルヴィ。彼はその録音したレパートリーの多さにおいて、カラヤンを上回るという。私はこの演奏を偶然見つけたわけではない。かつてレコード雑誌などで評価を聞き、購入リストに加えていたものだ。買ったつもりでいたのだが、実際に入手したのはサン=サーンスの管弦楽曲集であると、あとから気付いた。そんなディスクも、簡単に検索、聞くことができるのは画期的なことである。でもその演奏は、もはや誰かと一緒に楽しむこともない。たとえステレオ装置で鳴らしたとしても、音楽を生活の中心にして家族が同じ時間を過ごすことなどあり得なくなった。

代わって音楽の時間を共有するのは、実際のコンサートである。J-POPのような音楽でも、コンサートが占める売り上げが、のびている(このあたりは「ヒットの崩壊」(柴邪典・著、講談社現代新書)」に詳しい)。考えてみれば、これはそもそも音楽を楽しむ手段として、真っ当なことのように思える。音楽とは基本的に、ライヴだからだ。媒体によって楽しむ音楽は、本物の音楽ではない。それを疑似的に楽しんでいた時代は、ここにきてライブという本来の音楽のスタイルをもう一つの中心に据えることによって、本来の音楽の魅力を取り戻しつつあるようだ。無人島へ行くなら仕方がないが、そうでなければ、音楽はライブに限る。

とはいえ、スッペの音楽を生で聞く機会は、大変に少ない。ネーメ・ヤルヴィは時々来日して演奏を聞かせているが、スッペの序曲ばかりを演奏してくれることはまずない。だからSpotifyで聞く意味があるとも思える。スッペの序曲なんて、誰が演奏しても同じではないか、という人もいるかも知れないが、この演奏はちょっとした名演奏だと思う。知らない曲が、次々と出てきて嬉しくなってくる。その合間に、有名曲ももちろん混じっている。「軽騎兵」「美しきガラテア」などだ。

この他に、例えば「ボッカチオ」の行進曲などは、今はなきスポーツ中継の開始音楽のように楽しいし、「軽快な変奏曲」は学生歌「Was kommt dort von der Höhe?(あそこの山から来るのは誰?)」による変奏曲だが、この歌はまたブラームスの「大学祝典序曲」にも使われている。ブラームスはこの曲を「スッペ風のポプリ」と呼んでいたそうだが、ここに意外な接続点があるのがわかって面白い。

愉快な発見はまだ続く。喜歌劇「ファティニッツァ」の主題による行進曲には、シューベルトの「軍隊行進曲」のメロディーが使われている。このように良く聞いてゆけば他にも多くの作品からの転用があるのかも知れない。何せ作品集を見ていると、「フランツ・シューベルト」とか「ヨーゼフ・ハイドン」といった名前のオペレッタまであるのだから。「美しきガラテア」はオッフェンバックの「美しきエレーヌ」に対抗して作曲された経緯もある。ここで同年生まれの二人の作曲家の接点があるというわけである。

ストリーミング配信時代に心配なことは、こういった音楽がCD販売を前提に録音されてきたことだ。その昔、それはまとまった曲の単位を、それなりに時間をかけて練習し、収録したものだろう。だからこそスッペの序曲集も、そのまとまりでリリースされた。だが、何千万曲もあるライブラリの中から、どうしてわざわざスッペの序曲ばかりを聞く人がどれだけいるというのだろうか。しかもそれがヤルヴィの演奏である必要があって、なおかつ、その時間を割くことのできる人が、今後新たに生じる可能性はあるのだろうか。

インターネットの時代になって言われた「ロングテールの法則」というものは、目立たない商品にも触れる機会が平等に与えられることによって、むしろこれらにも一定の売り上げが増えることであり、これまで見向きもされなかった音楽や演奏にも一定のマニアがアクセスできるようになることで、新たなマーケットが誕生するというものだった。だが、この考え方は間違っていたのだろうか。ネットの時代、ますます人は同じものを経験したがり、消費したがる。結局、かつてラジオで一生懸命リクエスト曲を書き送っていた時代よりもはるかに、ごく少数の対象に消費が集中する時代となった。これは文化の衰退に他ならないのではないか。多様性こそ、文化を発展させる基礎だと思う私には、ますますつまらない時代になりつつあるという感が否めない。まあ、私が生きている間だけは、古いものを楽しんでいくしかない、というわけだ。


【収録曲】
1. 喜歌劇「軽騎兵」序曲
2. 喜歌劇「ボッカッチオ」序曲
3. ボッカッチオ行進曲
4. 喜歌劇「スペードの女王」序曲
5. 愉快な変奏曲(学生歌「Was kommt dort von der Höhe?(あそこの山から来るのは誰?)」による)
6. 喜歌劇「詩人と農夫」序曲
7. 喜歌劇「ファティニッツァ」の主題による行進曲
8. 喜歌劇「モデル」序曲
9. 演奏会用行進曲「丘を上り谷を下って(いたるところに)」
10. 喜歌劇「イサベラ」序曲
11. 喜歌劇「美しきガラテア」序曲
12. 行進曲「ファニータ」
13. 喜歌劇「ウィーンの朝・昼・晩」序曲

2019年9月15日日曜日

オッフェンバック:序曲集(ブルーノ・ヴァイル指揮ウィーン交響楽団)

今年はオッフェンバックの生誕100周年である。ドイツ生まれでありながらフランスに帰化したこの作曲家は、オペレッタの原型を作ったと言われている。そのオペレッタ作曲家として有名なスッペもまた同じ1819年の生まれで、こちらはウィーンで活躍した人である。私はウィーンを旅行した時、意外にもスッペのお墓が大作曲家に混じって堂々と建っていたのを覚えている。
だから今年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでは、2人の作品がそれぞれ最低1曲は演奏されるものだと思っていた。喜歌劇「天国と地獄」序曲(オッフェンバック)や喜歌劇「軽騎兵」序曲(スッペ)は、かつて取り上げられたこともあったから、私は楽しみにしていたのだが、どういうわけか今年の指揮者ティーレマンは、これらの曲を取り上げることはなかった。

私はオペレッタのような、洒落た気品をただよわせつつも下世話な話が満載の芝居は大好きであり(松竹新喜劇などを思い出す)、またその音楽がさほど難しくなく、簡単に歌えるようなメロディーで甘く切なく、時には乱痴気騒ぎもあるという庶民性こそ大歓迎な聞き手である。同じような人は、意外に多いような気がしているが、クラシック好きというのは、オペレッタを少しランクの低い音楽とみなす習慣があるため、オペレッタなどは人に知られないよう、こっそりと楽しむべきもののようである(私の友人の父親は、音楽家としても有名な家系だったが、その方が無くなって久しい時期に、彼の自宅を訪れたとき、ラックに並んでいた数千枚のLPの中に、少なからぬ枚数のウィンナ・ワルツやオペレッタ全曲盤が存在していたのを、心から嬉しく思った)。

そのオペレッタ音楽の代表格とも言えるオッフェンバックが作曲した数々の作品から、有名な曲を抜き出して集めたCDが、私のオペレッタ・ディスク第1号だった。演奏はウィーン交響楽団、指揮は何とブルーノ・ヴァイル。SONYにハイドンなどの作品を、古楽器オーケストラ(ターフェルムジーク)で残した大御所による演奏と聞いて、これは面白いと思った。実際そうだった。ここでウィーン響は、真面目にこれらの作品を演奏し、録音も素晴らしい。

どの曲も前半は威勢のいい序奏に始まって、ゆったりと美しいメロディーが続くと、途中から何やら動き出したくなる様子。ついに乱痴気騒ぎのような軽快な行進曲に写るという展開。「天国と地獄」と同じだと思えばいい。オッフェンバックは愛すべき歌劇「ホフマン物語」を作曲したことで知られ、その音楽には私は何度も触れているが、100曲にも及ぶと言われる喜歌劇については、これらの序曲を除けば、一度も触れたことはない。


【収録曲】
1. 喜歌劇「鼓手長の娘」序曲
2. 喜歌劇「天国と地獄(地獄のオルフェ)」序曲
3. 喜歌劇「美しきエレーヌ」序曲
4. 喜歌劇「青ひげ」序曲
5. 喜歌劇「ジェロルスタン女大公殿下」序曲
6. 喜歌劇「ドニ夫妻」序曲
7. 喜歌劇「パリの生活」序曲
8. 喜歌劇「ヴェル=ヴェル」序曲


2019年9月9日月曜日

Fête à la Française(シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団)

何度か書いたように、かつて小遣いを貯め、1ヶ月につき1枚まで、などと決めてカタログにいくつかのの目印をつけ、週末になると朝から都会のショップへ出かける。何時間もそこで過ごしながら随分迷ったあげく、次第に聞きたいCD数点と値段を見比べて、目的のうちの1枚あるいは予算内でもう1枚を選別する。そういった、期待と興奮に満ちたひとりで過ごす美しい行為は、Spotifyのようなストリーミング配信の普及によって、完全に過去のものとなってしまった。今ではCDの再生すら困難な時代になりつつある。CDを売る店はほぼ消滅し、CD再生機もほとんど売られていない。一世を風靡したウォークマンやiPodのような再生機でさえ、そこにダウンロードして持ち歩くスタイルが古いものとなった今、変革を迫られている。
ストリーミング配信がもたらした夢のない生活は、私たちの音楽生活を変えようとしている。かつて一生懸命集めたディスクが、いとも簡単に無制限に再生できるというショッキングな出来事も、そのまま外出先でも聞けるというのは、見方を変えれば便利なことであり、かつて候補に挙げながら購入を見送った数多くの演奏に、簡単に触れることができることで、音楽や演奏に対する視野を何十倍にも広げてくれる。しかもその可能性は、比較的低い定額料金で手に入れることができる。

Spotifyで聞くデュトワの指揮する「Fête à la Française(魔法使いの弟子/デュトワ・フレンチ・コンサート)」はまた私にとって、かつて親しんだディスクの思い出をよみがえらせてくれるものだった。今ではどこかに行ってしまったこのCDを、もう聞くことはないかも知れないと思っていたからだ。無くしたからといって再度数千円を投じる気持ちにはないが、機会があればもう一回くらいは聞いてみたいと思っていたのだ。

そのディスクには、フランス音楽の小品が集められている。フランス音楽と言うと、私自身とっつきにくい印象があったことに加え、ここのディスクに収録されている曲には、ほとんど馴染みがなかった。それにもかかわらず、私はいつかこのディスクを上記のように迷った挙句手に入れた。購入した以上、それを好きになるまで聞かないわかにはいかない。投資が無駄になるのは、何としても避けたいと思うのが、この時代のディスク収集家の宿命である。私はカセットテープにダビングして、自宅の車に持ち込み、カーステレオで聞くのが日課となった。このころはほぼ毎日、1時間程度を運転していたから、この演奏は耳にタコができるほど聞いたことになる。こういうことはSpotify時代にはできないことだろうと思う。

ある日、猛暑の中をドライブしていた。締め切った車内はクーラーが効いていて、多少の渋滞も気にならない。そんなときに、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団によるフランス音楽小品集は気持ちの良い時間を約束してくれた。私はこのCDを聞くと、なぜか第二神明道路の下の国道を走行中の神戸市内を思い出す。車内では少しボリュームを落として聞くと、豪華で洒落たサウンドが涼しい車内を満たし、色彩感に彩られたシャープな響きが心に響いてくる。

シャブリエの「スペイン狂詩曲」は、そのような曲の中で、とりわけ私の記憶に残る曲だった。またサン=サーンスの「バッカナール」(歌劇「サムソンとダリラ」)は、このディスクの中では、デュカスの「魔法使いの弟子」と並んで最も有名な曲であり、オーケストラ音楽の醍醐味を聞く思いがする。細部にまで神経を行きわたらせながらも、さりげない手さばきで聞くものを引き込むデュトワの手法は、目立たないながらも絢爛豪華である。勿論、モントリオール交響楽団の技術的水準とデッカの優秀な録音を伴っていることによって、いつもながら完成度の高いものに仕上がっている。

このCDを買った時、そこに収められている曲は、すべて知らなかった。シャブリエの交響詩「スペイン」だってそうだ。こんな有名な曲を、と今なら思うのだが、実際のところこういった小品を聞く時間が、いったいどのくらいあるだろうか。このCDに集められているのは、そんな少し目立たない作品ばかり。歌劇「レーモン」序曲が今では最もお気に入り。サティの静かな2曲がアクセントとなっているが、それ以外の曲の肩ひじ張らない(ように聞こえる)演奏は、最後のイベールの「喜遊曲」まで飽きることはない。



【収録曲】
1. シャブリエ:楽しい行進曲
2. デュカス:交響詩「魔法使いの弟子」
3. シャブリエ:スペイン狂詩曲
4. サティ:2つのジムノペディ
5. サン=サーンス:歌劇「サムソンとデリラ」よりバッカナール
6. ビゼー:小組曲「子供の遊び」
7. トーマ:歌劇「レーモン」序曲
8. イベール:室内オーケストラのためのディヴェルティメント

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...