この作品でモーツァルトは、ヴィオラというやや目立たない楽器を、ヴァイオリンにも比肩し得るパートに仕立て上げたている。例えば、通常はオーケストラのヴィオラ・パートをヴァイオリンと同様、二つに分離している。また独奏については、次のように記されている。
独奏ヴィオラは全ての弦を通常より半音高く調弦すること(スコルダトゥーラ)を指定している。独奏ヴィオラのパート譜は変ホ長調の半音下のニ長調で書かれている。弦の張力を上げることにより華やかな響きとなり、更にヴィオラが響きやすいニ長調と同じ運指になることで、地味な音色であるヴィオラがヴァイオリンと対等に渡り合う効果を狙ったのである。(Wikipediaより)このため、同じ程度の技量を持つヴァイオリン奏者とヴィオラ奏者が交互に同じ旋律を弾くと、同程度に存在感を持ち、まさに協奏しているという感じになる。そして協奏交響曲という性質上、オーケストラにも同じ程度の存在感が与えられている。
とはいってもこの曲のオーケストラの編成では、弦楽器を除けばオーボエとホルンのたった2種類の管楽器が付け加えられているにすぎない。にもかかわらず、時折これらの楽器が加わる様は、聞いていて非常に印象的である。弦楽器もピチカートを用いて、これらの楽器を浮き立たせているあたり、なかなか憎い。
長い序奏から独奏楽器が混じりながら、スーッと入って来るあたりも実に麗しい。メロディーをまずはヴァイオリンが、続いてヴィオラが交互に繰り返すから、その対比が楽しい。時に独奏やオーケストラはテンポをわずかに落とし、流れがたゆたう。第1楽章の展開部では、その傾向が一層顕著である。これは楽譜にも書いてあるのだろう(どの演奏も同じだから)。でもやりすぎてももたれるし、そうでなければ素っ気ない。この微妙なバランスは、奏者の息が合っていないと上手くいかないだろう。室内楽的な呼吸が必要である。
この曲の第2楽章は、夜に聞く孤独なラジオのように非常にロマンチックである。もしかしたら、これがベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲にも引き継がれた弦楽器を独奏とする協奏曲の、いわば新局面ではなかったかとさえ思えてくる。長く11分余りに及ぶこの楽章を含め、規模の点でも他にない長さである。特に弦楽四重奏のような後半部分は、下手な演奏で聞くとちょっとつらい。
私がこの曲を初めて知ったのは、我が家にあった一枚のLPからで、独奏がギドン・クレーメルとキム・カシュカシャン。それにニクラウス・アーノンクールが指揮するウィーン・フィルが加わる。アーノンクールの演奏、いや古楽器奏法によるモダン楽器の演奏、というのは初めての経験だった。いつもと違うウィーン・フィルの響きに戸惑いを覚えたものの、第1楽章冒頭の独特のアクセントが病みつきになった。だが今から思えば、全体的にやや不完全な感じも否めない。
もう少しオーセンティックな演奏も聞いてみたいと思っていたところ、新譜のCDが発売された。 独奏がイツァーク・パールマンとピンカス・ズーカーマン、ズビン・メータ指揮イスラエル・フィルというもの。この演奏は、オーケストラも含めいずれの楽器も低くチューニングされており、非常にジューイッシュな演奏で好き嫌いが分れるような気がした。どことなく即興的でもあり、オイストラフやスターンなどの往年の名盤を意識してはいるが、新感覚には程遠いものだった。
そもそもこの曲の第2楽章アンダンテは、過剰にロマンチックに演奏すべきではないと思う。なぜなら第3楽章との対比において、あまりにバランスが悪いような気がするからだ。深く沈んだ演奏が終わると、何とも拍子抜けがするほどに快活なメロディーが流れてくる。この問題を解決するには、少しの期間が必要だった。2000年に入り、とうとうこの曲の理想的な演奏が登場した。フランス人のオーギュスタン・デュメイとオーストリア人のヴェロニカ・ハーゲンを独奏に迎えての一枚は、室内楽的な精緻さの中に、抑制の効いた即興性に満ちた、類まれな完成度を誇っていると言える。
カメラータ・アカデミカを指揮しているのは、ヴァイオリンの独奏を兼務するデュメイである。どういう指揮ぶりかは耳だけではわからないが、オーケストラの自発性がないとこういう演奏にはならないのは明らかで、そういう意味でこの演奏は、まさに理想的な協奏交響曲である。ヴィオラのヴェロニカ・ハーゲンは、ハーゲン四重奏団のヴィオラ奏者で、技量的にも申し分ない。
しっとりと落ち着いた第1楽章、夜の部屋で聞くレトロな第2楽章、一転して快活となる第3楽章の理知的な戯れ。どの瞬間をとっても新鮮な感覚に満ち溢れた演奏である。
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