2018年9月2日日曜日

ロッシーニ:歌劇「セミラーミデ」(The MET Live in HD 2017-2018)

「セミラーミデ」のストーリーは複雑だ。舞台進行にとらわれずに書いた方がわかりやすい。15年前に、王族のアッスールを国王にするという約束で、夫である国王を殺害したバビロニアの王女セミラーミデ(超技巧が要求されるソプラノ)は、王の後継者(つまり新しい夫になる人物)に、かねてから好意を抱いていた若き軍人アルサーチェを選ぶ。ところが彼こそが、国王の死の直前に復習を託された息子(はすなわち、王女の息子でもある)だった!アルサーチェは、父親(前の国王)の信託に従って復讐を遂げるが、殺したのは何と母親セミラーミデだった!過去のしがらみを断ち切り、無事アルサーチェは新国王に就任する、というところでハッピーエンド。

上記はあらすじの骨子ではあるが、実際にはここにアゼーマ姫(あまり歌わない美女)に対する三角関係が絡むのでややこしい。アルサーチェ(ズボン役でメゾ・ソプラノ)と暗殺の首謀者アッスール(バス・バリトン)、それにインドの王イドレーノ(超高音を轟かせるテノール) がみなアゼーマ姫と結ばれることを望んでいる。当のアゼーマ姫は、アルサーチェを希望しているのだが・・。

「セミラーミデ」の序曲は長い。かつて良く聞いた序曲集では、必ずと言って取り上げられていた本曲の充実ぶりはちょっとしたものである。だがその曲が、こういうシーンで使われていたのだ、と初めて知った。序曲を聞くだけでは区別がつかないロッシーニのオペラ・ブッファとオペラ・セリアは、いずれも美麗で耳をあらわれる洗われるようなメロディーと、めくるめくクレッシェンドの連続である。違いは実際に笑いがあるかどうか。歌われる歌詞がどんなに悲劇的な内容でも、音楽だけを聞けばその違いはあまりない。

「セミラーミデ」の歌は物凄い。この作品は、そもそも歌う歌手がそろわず、なかなか上演されることがない。本格的に上演されたのは1990年になってのことで、その偉業を果たしたのがMETということらしい。ところがそのMETでも本作品を上演するのは1993年以来らしい。演出は同じジョン・コプリー。第1幕だけで3場面あり二時間。さらに第2幕は第6場まであって1時間半。その舞台は、なかなか見ごたえのある豪華なもの。音楽同様、重厚で、見せる!

さて、主役のセミラーミデは、アンジェラ・ミードというアメリカ人の大柄な女性だった。彼女はまさにこの役のためにいるのではないか、というようにピタリとはまっている。 いくつかあるアルサーチェとの二重唱(第1幕第2場「その愛を永遠に」、第2幕第4場「よろしい、さぁ、手を下しなさい」)は息もピタリと合って、聞くものをゾクゾクさせる充実ぶり。アルサーチェの役に果敢に挑むのは、エリザベス・ドゥショングという小柄な歌手。彼女は美しい声の持ち主だが、ここでは男性の役なので威勢よく振る舞う。小柄なこともあって、恋敵のアッスール(ロシア人のイルダール・アブドラザコフ)、高僧のオローエ(アメリカ人のライアン・スピード・グリーン)、それにセミラーミデに囲まれるとまるで子供のようだが、実際、セミラーミデの息子なのだからわかりやすい。

もっとも拍手が多く、圧巻の出来栄えはインドの王子イドレーノを歌ったメキシコ人ハヴィエル・カマレナだった。彼はフローレス等と並び称される超高音テノールの一人だが、ここでの役の決まり方はその容貌も含め満点で、私はフローレスよりも一枚上手のような感じがしたくらいである。このイドレーノは、物語の主たる内容とは関係なく存在しているように感じるが、歌だけは滅法素晴らしいものが使われており、見る者を飽きさせない。

ロッシーニの音楽の充実ぶりは、この作曲家をして野心的とも思わせるくらいに見事で、その序曲の気合の入れようからも端的にわかるが、次々と繰り出される重唱にこそ、その真骨頂があると思う。これだけ長く、かつ見どころの多い作品を統括するのはさぞ大変だろうと思う。だが指揮者のマウリツィオ・ベニーニは、少し早めにテンポを取り、緊張感を持続させながら、次から次へと的確に音を繰り出してゆく。ベルカント作品を指揮するMETの常連の手腕は、ここでも見事のひとことに尽きる。

映像はしばしば指揮者と、それに呼応する木管楽器奏者の技巧的なソロ・パートを映し出す。場面の転換で最初に弾かれるフレーズは、歯切れよく緊張感を持ちながら、流麗さを失わない手さばきである。オーケストラピットと舞台を行き来するカメラワークもまた、この作品の見どころだった。

私にとってはロッシーニのオペラ・セリア体験の2回目だった。そして完全に打ちのめされたと言ってよいだろう。METライブ・シリーズで私が得た最も貴重なもののひとつは、このようなベルカント作品への開眼だった。我が国はおろか、世界でも滅多に上演されない作品を、このような歴史的高次元で体験でき、かつそれが邪魔にならない日本語字幕と、細部まで捕らえたカメラによって実感できる。それは、この時代に生きていてよかった、とさえ思わせるに十分なものだった。

2018年9月1日土曜日

デア・リング東京オーケストラ・デビューコンサート(2018年8月31日、三鷹市芸術文化センター)

音楽を聞くというよりは、音響を楽しむというコンサートだった。

デア・リング東京オーケストラという聞きなれない団体によるメンデルスゾーンとベートーヴェンである。それもそのはずで、このオーケストラは録音のみを専門とする特別編成のもので、主宰人でもあり指揮者を務める西脇義訓という人物は、レコーディング・エンジニアとして日本のレコード会社に勤めていたという経歴が紹介されていた。本公演はそのデビュー・コンサートだということだ。

私はもう長い間、我が国のレコード雑誌である「レコード芸術」(音楽之友社)を読まなくなっているが、もしこの雑誌を購読していたら、あるいはこのオーケストラの存在を知っていたかも知れない。2013年に設立され、すでに6枚ものCDをリリースしているこの団体が、なぜ今頃になってステージ・デビューすることになったか、その理由を指揮者は自らマイクを手にして説明した。

それはこのオーケストラ独特の、音響に対するこだわりによる。この音の良さは、実演で接しないとわからない、と忠告されたからであるとのことである。ではその音とはどのようなものか。それを知るには、この団体のホームページを見るといい。驚くのは、その楽器配置である。特に決まっているわけではないようだが、曲に合わせて実に様々な形態に配置を変える。たとえば今回のプログラム最初の曲、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲では、オーケストラのメンバーが全員前を向いて、まるで小学校の教室にいる児童のように整列している。現れた指揮者は、何と観客席を向いてタクトを振り始めた・・。

各自に譜面台が配置され、必ずしも指揮者を凝視しないプレイヤーは、自らの音感でアンサンブルを構成してゆく。指揮は最低限の出だし、あるいはテンポを指示するのみである。おそらく練習の時には、ああでもない、こうでもないと細かい試行錯誤を重ねてはいるのだろう。だがその先にあるのは、各人が自ら把握した音楽をそのまま再現する。まさにそれは録音を専らとするから可能なものなのだろう。

メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」の場合には、オーケストラのメンバーが散在している。たとえば3人いるコントラバスは、最右、最左、中央奥に散らばっている。二人のホルンも両端に分かれている。第1バイオリンも第2バイオリンも、勝手にバラバラではなく、意図された配置についているが、その配置は従来のオーケストラのように、各パートが固まっているわけではないのだ。

しかもこの曲では、全員が起立して演奏する。その結果成り響いた音色は、(私が勝手に例えるなら)あのクレンペラーの演奏を生で聞くような音がしているのだ。オーケストラが全体に持ち上がり、相当な空間的広がりを持っている。このような経験は初めてである。

休憩時間にはその演奏が早くもロビーに設置されたオーディオ装置で再生され、多くの人が聞き入っている。これはオーディオ・マニアが自ら自分の音を追い求める究極の娯楽である。ただ面白いのは、オーケストラの音をいかに忠実に再生するのか、ということではなく、かつてアナログ・レコードで聞いた音をいかに舞台で再現するか、という真逆のアプローチであることだ。これはいわばアマチュアにのみ許される暴挙ではないか。だが誰も思いつかなかったことでもあろう。

ベートーヴェンのロマンスは指揮者なしで、すなわち独奏を担当した森岡聡によってアンサンブルが奏でられ、そのあとは第7番の交響曲となった。この演奏で、私はカラヤンによる最後のベートーヴェン全集の演奏を思い出した。なぜカラヤンやクレンペラーを思い出すのか。それを解くと、かつてEMIやDeccaに存在した伝説的なプロデューサーにたどり着く。ウォルター・レッグやジョン・カルショーといった名レコーディング・エンジニアは、デジタル録音とともにその存在価値を消失していった。ここで西脇が目指したのは、こういった昔の、レコード上でのみ存在したオーケストラ音の再現ではないか。

カラヤンやベームといった指揮者の演奏を聞いてクラシック音楽に開眼した世代は、舞台上で繰り広げらっる実際のオーケストラの音とも異なるこういった録音の技術による音楽に、むしろその原点がある。そういう意味では、私もその一人なのかも知れない。ただ西脇が述べているのは、バイロイトでの響きのことである。ここで舞台の真下に隠れているオーケストラの音が、いくつかの壁に反射して鳴り響く音を理想としている。それはあたかも霧のように天井から降り注ぐかのような音がするというのである。

私はバイロイトに行ったことがないし、ワーグナーともなれば広い舞台に多くのプレイヤーを集めて演奏しなければならないから、今の編成では不可能だろう。だが、「ニーベルングの指環」から取られたオーケストラの名称を考えると、やがてはワーグナーを聞いてみたいとは思う。いやこの編成なら、「ジークフリート牧歌」くらいは可能だろう。あと聞いてみたいのは、ビゼーの交響曲だ。

この演奏会は、私にとって懐かしい三鷹市文化芸術センターで行われた。残響が多いこのホールでは、ちょっと音楽がやかましい気がしないでもない。同時に一人一人に手渡された第6弾のCD(モーツァルトのパリ交響曲とハイドンのロンドン交響曲などが収録されている)も聞いてみようと思う。若いメンバーが多いオーケストラの響きは、大変よく練習したこともうかがえ、だからこそこういう大胆な演奏が可能であることを思わせた。

本公演をわずか2日前に教えてくれた弟と、雷雨の去った三鷹駅への道を歩きながら、かつてこの近くに住んでいた時と変わらない街並みを楽しんだ。音楽が常に会場を満たし、どのような小さな音色のときでも音の美しさを表現されると、なぜか非常に疲れた気がした。だがこのような面白い演奏も、一愛好家の私にとっては歓迎である。なお、アンコールにはバッハの「マタイ受難曲」からコラールの一節が演奏されたことも付け加えておく。

2018年8月28日火曜日

ブルッフ:スコットランド幻想曲(Vn: チョン・キョンファ、ルドルフ・ケンペ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)

明治時代になってメロディーに日本語の歌詞がつけられた世界民謡の中に、スコットランド民謡が多いのは良く知られている通りである。「故郷の空」や「蛍の光」などは、もう日本オリジナルの旋律ではないか、と思わせる程身近なもので、音階が日本人の感性に合っているのかどうか、その辺りは専門家ではないのでよくわからないが、同じ島国の「ちょっと中央からは離れた」感のある素朴な情緒と、どことなく寂しくて懐かしいムードが奇妙にマッチしている。

そのようなスコットランド民謡は、同じように世界の人々を魅了させるようで、ドイツの作曲家マックス・ブルッフもまたスコットランド民謡を題材に素敵な幻想曲を書いている。このヴァイオリン独奏を伴うオーケストラ曲は、あの有名なヴァイオリン協奏曲第1番の次に有名な曲で、この組み合わせを一枚のLPやCDに収録したディスクも数多い。韓国人のヴァイオリニスト、チョン・キョンファもその一人であり、何と1972年に録音したLPは今でも輝きを失っていない。1972年と言えばまだ大阪万博の2年後であり、従ってこの録音はもちろんデジタルではない。指揮はルドルフ・ケンペ指揮ロイヤル・フィルという渋いのも魅力。私はLPを愛聴していたが、CDになって買い直した時にはメンデルスゾーンも収録されていた。

どの楽章も基調となるスコットランド民謡をベースに書かれているため、全4楽章に亘って抒情的なメロディーと、親しみやすく民族的なリズムが次から次に出てくるが、ブルッフ自身はスコットランドを訪れたことがないらしい。一度聞いたら忘れらないかのように思える旋律も、繰り返し聞いていくうちに表面的に思えてくるのも事実だが、それでも演奏の良さが加われば、味わいのある名曲となる。ヴァイオリンの親しみやすさと、両端楽章で活躍するハープの音色が印象的である。

第2楽章及び第4楽章の舞曲風のメロディーと、第1楽章、第2楽章の甘美でロマンチックな雰囲気が交互に現れる。第2楽章の後半は、一旦終わったかと思うといつの間にか次の楽章へとつながってゆく。ヴァイオリンは親しみやすく、切ないメロディーを奏でているが、特に第4楽章などはテクニカルでもある。個人的には第2楽章が好きだ。第1楽章は、何か「朝の連続テレビ小説」のテーマ音楽のようだ。

私はチョン・キョンファの演奏しか知らないが、今ではYouTubeなどで簡単に様々な演奏に接することができる。けれども、大阪に住んでいると京都や奈良に滅多に行かないのと同様、数多の演奏はいつでも聞けるとなるとかえって聞こうとはしないものだ。とはいえ、Wikipediaからもリンクされているマリア・エリザベス=ロット(ヴァイオリン)による演奏(クリストフ・ヴァイネケン指揮バーデン=ヴュルテンベルク州ユーゲント管弦楽団)は、ドイツ風の骨格の太い、なかなかいい演奏である(南西ドイツ放送のビデオ)。

2018年8月22日水曜日

「ホセ・カレーラス ーヴェローナの偉大な夜(Grande Notte a Verona 1988)」

ホセ・カレーラスが病に倒れ、その復帰第一声となったのが、1988年8月8日ヴェローナ野外劇場で行われたガラ・コンサートだった。このDVDにはその時の熱狂的な模様が収められている。ローマ時代の広大な円形劇場は、毎年夏になると、オペラ劇場となって世界中の観光客を引き寄せる。「ロメオとジュリエット」で知られる北イタリアの小さな都市が、ホテルの予約も取れなくなるほどの賑わいを見せ、連日深夜まで賑わう。

そのヴェローナ野外劇場へ、私は1990年の夏に出かけ、8月18日の夜に歌劇「アイーダ」を鑑賞したことは以前にも書いた。この頃、学生の職業体験プログラムで滞在していたスイスのローザンヌから、1泊2日で出かけた小旅行の時である。2か月に及ぶ滞在を終え、私はジュネーヴからバルセロナへ向かうスペインの特急列車「タルゴ」に乗り、夜遅く着いた。バルセロナは2年後にオリンピックを控え、広場にプロモーション用の特設スクリーンが設けられ、そのSONYの大型スクリーンで放映されていたのが、あの「三大テノール」の映像だった。

「こんなビデオがあったのか」と驚いたローマ・カラカラ浴場跡でのコンサートは、それから数か月が経って日本でもセンセーショナルに発売され、私もビデオで購入した。この時にプラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティの両者に対し、この公演を持ち掛けたのがホセ・カレーラスだった。白血病を克服した彼が設立した財団(Fundacion Internacional Jesep Carreras)への寄付というのがその名目だった。このコンサートはFIFAワールドカップ・イタリア大会決勝戦の前夜に開催された。世界的なテノール歌手が同じ舞台で歌うと言う、そのこと自体がセンセーショナルな出来事であることは、オペラ・ファンならよくわかる。1990年の私のイタリア旅行は、このワールドカップ退会の直後だったわけである。

それから遡ること丁度2年。カレーラスの復帰に駆けつけた歌手は錚々たる顔ぶれあった。もう30年も前となったそのコンサートで、当時の大歌手たちが熱唱を繰り広げる様子が収録されている。今は引退してしまった伝説の歌手(モンセラット・カバリエやルッジェーロ・ライモンディほか)もいれば、今でも活躍するいぶし銀のスター(レオ・ヌッチ、フェルッチョ・フルラネットほか)、亡くなった歌手(ゲーナ・ディミトローヴァやルッジェーロ・ライモンディ)らも若々しい歌声を響かせている。またルネ・コロはただ一人ワーグナーを歌い、ヘルデン・テノールとしての美声を大空に轟かせる。エヴァ・マルトンにイレアナ・コトルバス、マーラ・ザンピエリにエレナ・オブラスツォワ…にあまりに次々と大歌手たちが登場し、今の歌手とは一味違う存在感と、情感を込めて歌うその歌のひとつひとつに、驚嘆のため息をついていると、あっというまに時間が過ぎてしまう。

CD等で聞いていた大歌手たちの映像が、次々と映し出される。その歌はどれも有名な曲ばかりであるのも珍しい。一般にガラ・コンサートでは有名歌手は登場しても有名な歌は歌わないことが多いし、オーケストラの間奏曲などを差しはさむことも多いからだ。しかしこのコンサートはまさに「偉大な夜」すなわち特別だった。最後に満を持して登場するホセ・カレーラスが「グラナダ」を歌うまで、目が釘付けのままで飽きることはない。マドリード交響楽団(指揮:ホセ・コラード、カルロ・フランチ)という、お世辞にも上手とは言えないオーケストラも丁寧な演奏だが、ただでさえ音響効果の悪い熱帯夜の野外劇場で、うちわ片手に舞台に見入る1万人は下らない聴衆も熱い声援を送る。テレビの画質は悪く、時おり音声が大きくなったり小さくなったり。歌手が登場する場面はカットされている。また私が持っているこのDVDには、スケジュールが合わずビデオ出演したプラシド・ドミンゴの映像は含まれていない。

以下に、その見事な顔ぶれと曲名を列挙しておく。このリストを見ただけで鳥肌が立つというものだが、実際にはDVDで通してこの映像を見ることは非常に少ない。映像と言うメディアは、それ自体が貴重な記録でもあるのだが、今ではYouTubeなどで手軽に手に入る映像を、わざわざ手元に保管しておく必要はないのかも知れない。

だが、このビデオは私にとって特別な存在である。それは後年、ホセ・カレーラスと同じ病に侵された私が闘病の真っただ中の2002年の秋、妻が思い余ってカレーラス氏に手紙を書き、励ましの返事を受け取っているからだ。バルセロナから三鷹(当時の私の住所)に届いた一通の手紙には、まさに移植のその日付と共に、直筆のメッセージも書き添えられていた。私は今でも大切に保管している。カレーラスは、今でも時折来日し、その輝かしい歌声を聞かせている。


【収録曲】
1.ロッシーニ:歌劇「セビリャの理髪師」より「私は町のなんでも屋」
   レオ・ヌッチ(Br)
2.ポンキエルリ:歌劇「ジョコンダ」より「自殺!」
   ゲーナ・ディミトローヴァ(S)
3.プッチーニ:歌劇「マノン・レスコー」より「なんと素晴らしい美人」
   ペテル・ドヴォルスキー(T) 
4.プッチーニ:歌劇「ラ・ボエーム」より「私の名はミミ」
   ゾーナ・ガザリアン(S)
5.チレア:歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」より「心身ともにくたくたで」
   ジャコーモ・アラガル(T)
6.ヴェルディ:歌劇「ドン・カルロ」より「彼女は私を愛したことがない」
   ルッジェーロ・ライモンディ(Bs)
7.マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より「ママも知るとおり」
   エレナ・オブラスツォワ(A)
8.ロッシーニ:歌劇「セビリャの理髪師」より「かげ口はそよ風のように」
   フェルッチョ・フルラネット(Bs)
9.ヴェルディ:歌劇「アイーダ」より「勝ちて帰れ」
   ナタリア・トロイツカヤ(S)
10.チレア:歌劇「アルルの女」より「ありふれた話(フェデリコの嘆き)」
   ルカ・カノーニチ(T)
11.マスネ:歌劇「ル・シッド」より「泣け、泣け、わが目」
   モンセラート・カバリエ(S)
12.ヴェルディ:歌劇「アッティラ」より「ローマの前で私の魂が」
   サミュエル・レイミー(Br)
13.ヴェルディ:歌劇「運命の力」より「神よ、平和を与えたまえ」
   アプリーレ・ミッロ(S)
14.ドニゼッティ:歌劇「愛の妙薬」より「人知れぬ涙」
   ヴィンチェンツォ・ラ・スコーラ(T)
15.ベッリーニ:歌劇「ノルマ」より「清らかな女神」
   マーラ・ザンピエリ(S)
16.ワーグナー:歌劇「ローエングリン」より「はるかなる遠い国に」
   ルネ・コロ(T)
17.ヴェルディ:歌劇「オテロ」より「無慈悲な神の命ずるままに」
   シルヴァーノ・カローリ(Br)
18.プッチーニ:歌劇「マノン・レスコー」より「ひとり寂しく捨てられ」
   エヴァ・マルトン(S)
19.ヴェルディ:歌劇「椿姫」より「プロヴァンスの海と陸」
   ホアン・ポンス(Br)
20.ヴェルディ:歌劇「シモン・ボッカネグラ」より「心に炎が燃え上がる」
   アントニオ・オルドネス(T)
21.ドビュッシー:歌劇「放蕩息子」より「アザエル、アザエル、どうしてお前は私から離れていったの?」
   イレアナ・コトルバス(S)
22.ララ:グラナダ
   ホセ・カレーラス(T)

2018年8月20日月曜日

ウィンナ・ワルツ集(フランツ・バウアー=トイスル指揮ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団)

例年になく暑い夏もいつもまにか季節が変わり、ここ数日は秋の気配が漂っている。100周年記念の夏の高校野球も、連日の熱戦のうちに幕を閉じようとしている。暑い残暑の日々に、どういう音楽がもっとも心地いいだろうか。経験的な回答の一つは、ウィンナ・ワルツである。2003年の夏、1か月以上に及ぶ入院から帰還した時、私ははじめてそう思った。その時に見たアーノンクールの指揮するお正月のニューイヤーコンサート、中でも「皇帝円舞曲」が、美しいシェーンブルン宮殿の映像と共に心に残っている。

シュトラウス一家のワルツはもちろん素敵だが、シュトラウス以外の作曲家が作曲したウィンナ・ワルツの名曲を集めた一枚が手元にあったので、今回はそれを聞くことにした。邦盤のタイトルは「金と銀」となっているが、これはもちろんレハールのワルツ「金と銀」のことで、それ以外にも計7曲を集めた洒落た一枚。ウィーン・フィルではなくウィーン・フォルクスオーパーのオーケストラがここでは登場する。もちろん、あの独特のアクセントを持った3拍子を、気取らずしかもロマンチックに表現、ウィーン情緒満点の演奏である。

久しぶりにレハールの曲を聞きながら、初めて親に買ってもらったLP2枚組のことを思い出した。その中にはワルツを集めた面があって、レハールの「金と銀」、「メリー・ウィドウ・ワルツ」、ワルトトイフェルのワルツ「ドナウ川のさざ波」、それに「スケーターズ・ワルツ」の4曲が収録されていた。私はこのLPを何度も何度もかけては、擦り切れるようになるまで聞いていた。確か小学校3年生の頃だったように思う。演奏はアーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップス管弦楽団。ジャケットの解説で志鳥栄八郎が、家族団らんのひとときを、ビールでも飲みながら耳を傾けると良い、などと書いていたように思う。思えば一家がステレオ装置を囲んで、クラシックの名曲を鑑賞するなどろいう上品な時間は、裕福な家庭でもとっくの昔に失われてしまった。

この2枚組のLPにも、どういうわけかシュトラウスの音楽が入っていない。その他には、スッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲や、オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」序曲、それから「アンダンテ・カンタービレ」や「グリーンスリーヴズの幻想曲」といった作品が、「名曲のアルバム」の如く収録されていた。こういうファミリー向けディスクも、今では過去のものとなってしまった。 だが私は、今でもポピュラー・コンサートの類が大好きである。このようなCDを見かけると、つい買ってしまうのだ。

バウアー=トイスルの指揮するフォルクスオーパー管弦楽団は、いまでは堅苦しいウィーン・フィルのニューイヤーコンサートと違い、肩ひじ張らず、かといっていい加減でもない、丁度いいムードでご当地ものの名曲を、むしろ本家はこちらといわんかのように弾いている。小粋で気さくな雰囲気には好感を持てる。

なお、ローザスの「波濤を越えて」は、かつては有名な曲だったが、今聞くことは非常に少ない。この作曲家は何とメキシコ人である。一方、指揮者のバウアー=トイスルは、あのクレメンス・クラウスに学んだ生粋のオーストリア人である。2010年に死去。フィリップスの録音は1981年となっている。

それからもう一つ。ウィーンのフォルクスオーパーと言えば、「メリー・ウィドウ」の来日公演を思い出す。テレビで見て、実に楽しかったのだ。まあそういうことも含めて、2回旅行したことのあるウィーンの庶民的な光景を、その明るくて澄み切った青空とともに思い出す。ついでなので、1987年に旅行した時の写真を何枚か
探して貼っておきたい。


【収録曲】
1.カルル・ミヒャエル・ツェラー:「謝肉祭の子供」作品382
2.フランツ・レハール:メリー・ウィドウ・ワルツ(舞踏会の美女)
3.フヴェンティーノ・ローザス(エンシュレーゲル編):波濤を越えて
4.フランツ・レハール:「金と銀」作品79
5.ヨゼフ・ランナー:「宮廷舞踏会」作品161
6.カルル・ミヒャエル・ツェラー:「ウィーンの市民」作品419
7.ヨゼフ・ランナー:「ロマンチックな人々」作品167



2018年8月18日土曜日

ベッリーニ:歌劇「ノルマ」(The MET Live in HD 2017-2018)

ノルマはポッリオーネを巡るアルダジーザとの「女の闘い」に敗れたのかも知れない。だが彼女は最後、自らの命を絶つことによって、この身勝手なローマの将軍の愛を手に入れた。二人の子供を父親に託して。

古代ローマが支配するガリア地方の森に宿るドイルド教徒の巫女長ノルマを主人公とするベッリーニの歌劇「ノルマ」は、ベルカント・オペラ最高の作品であると言われている。私もMETライヴでロッシーニ、ドニゼッティ、それにベッリーニの主要な作品に接してきたが、とうとう最後に「ノルマ」を見る時がやってきた。そしてその舞台は、この上演史の一角を争うであろう高水準のもので、デイヴィッド・マクヴィカーによる新演出。自らケルト人の血を引くという彼は、舞台いっぱいに森の中を再現し、その舞台が上下にスライドするとノルマの家が現れる。ノルマは木の根の下に住んでいるのである。

暗い舞台は最終シーンになるまで暗いままである。だがカルロ・リッツィによって指揮されたオーケストラの、時には溜を打って歌手に合わせ、時には推進力が明るいメロディーに溶け合う見事な伴奏によって、めくるめくようなアリアや重唱のシーンが、飽きさせることなく次々と展開していく。特に第2幕に至っては、この間奏曲から最後の瞬間まで、丸でヴェルディの音楽ではないかと間違うほどドラマチックな力強さに溢れる様は鳥肌が立つほどで、この音楽が後の作曲家に与えた影響は大きなものだっただろうと想像させるに難くない。

実は私は昨年の11月に、この公演の模様が上映されたときに一度見ている。この時の内容があまりに素晴らしかったので、今回、もう一度会場へ足を運んだのである。METライヴの作品はもう80作品以上見てきているが、2回見たのは初めてのことである。それくらい私は打ち震えるような感動を味わったし、このブログも最初ではなくアンコールの際にもう一度見てから書くと決めていた。半年以上が経って改めて見ていると、半分は忘れていたものが蘇り、また半分は新たな発見をすることとなった。この間、私はマリア・カラスが歌うこの作品の歴史的名演奏をWalkmanに入れて持ち歩き、幾度となく耳にしてきたというのに・・・。

「ノルマ」は、少し聞くだけでとても完成度の高い作品だと思う。序曲を聞くだけで劇全体を覆う様々なメロディーが登場し、それらが要所要所の歌の旋律を思い出させてくれるので、ここを聞くだけで期待が高まるのだ。まず登場するのは長く圧制に苦しむドルイド教徒たちだが、その合唱に続き、まずはポッリオーネ(マルタ人のテノールのジョセフ・カレーヤ)がアリア「彼女と共に」でリリカルな歌声を披露することから始まるが、ここからしてぞくぞくする。ローマの将軍の彼はこれまで敵方の巫女ノルマと通じ合っていたが、今ではその愛も醒め、あろうことか別の巫女の見習いである若いアルダジーザ(メゾ・ソプラノのジョイス・ディドナート)に好意を寄せているのだ。

やがて民衆の期待に応えてノルマ(アメリカ人ソプラノのソンドラ・ラドヴァノフスキー)が登場し、イタリアオペラの中でも最高のアリア「清らかな乙女」を歌う。登場していきなり、実力が試されるのだ。以降、ノルマはほぼ舞台にずっと出ずっぱりで、その歌も重唱が多く、難易度が高い。今回の演出は、そこに演技の様子まで加わるのだから、彼女曰く「ブリュンヒルデを3回歌うよりも難しい」とのことである。最高難度の役というわけだ。

ノルマというとマリア・カラスである。カラスの歌うノルマの録音は、正規録音が2種類、実況録音もあるが、モノラルの実況盤が歌に関しては最高らしい。もっとも私は共演者も含めた総合点で、セラフィン指揮のスタジオ録音盤(後年の)を持っているが、ラドヴァノフスキーの歌声はカラスにはあまり似ていない。むしろジョーン・サザランドのような系統ではないかしら。こちらもパヴァロッティなどと共演した録音があるので、一度聞いてみたいと思っている。

アダルジーザはノルマよりは低い声で歌われるが、存在としてはむしろ若くて純粋な性格付けがされている。ノルマも去ったあとで、彼女は短いアリアを歌い、これで主役3人のお披露目が終わる。 そしてここからは第2場を通しても、重唱の連続である。第1幕後半のノルマとアダルジーザの丁々発止のやりとりに、ポッリオーネまでが加わって舞台は緊張と興奮の中で進行するのだ。第2場の舞台は、(この演出版では森の地下にある)ノルマの家で、二人の子供が登場し、見る者の心にノルマの悲劇的な気落ちが伝わってくる。

第2幕になると、舞台はいよいよ緊張を高めて行く。ノルマはポッリオーネとの恋に破れ、このままでは二人の子供がローマで悲劇的な生活を強いられると予想し、子供を死なせようとまで思い詰めるのだ。だが彼女にそれはできない。そればかりか、アダルジーザに対する憎悪をむき出しにして、揺れ動く彼女の心情が千変万化する。面白いのはベッリーニの音楽が、登場する立場の違う二人によっても同じ旋律で歌われることだ。歌詞は違うが、このような歌をただCDなどで聞いていると、綺麗な歌に聞き惚れているだけで、その中に潜む対立がよくわからない。映像で見る「ノルマ」は、そういう意味で耳で聞くよりも何倍もよくわかる。

ノルマとアダルジーザの心理変化は、長い二重唱のテーマである。ラドヴァノフスキーは何度もノルマを歌っているそうだが、ディドナートは今回がこの役のデビューとのことだった。インタビューではディドナートは、ラドヴァノフスキーの「胸を借りて」演じていると答えていたが、力が入りすぎていて、もしかしたらノルマよりも力強い表現だったと思う。もっとも若いアダルジーザの方が、いまやポッリオーネの心を掴んでいるのだから、その方が現実味がある。ただ、ノルマが感じるほどにアダルジーザは悪意はなく、むしろ清らかで純粋な存在だと私は思う。この二人の表現の違いをどう解釈し、舞台に求めるかがこのオペラに対する好みや評価の中心だろう。

最後には二人の子供をアダルジーザに託し、自分は諦めると決心するノルマに対し、アダルジーザも自分こそ身を引くと言い張る。あるいはアダルジーザがポッリオーネを改心させると言い残し、ポッリオーネの元に走るも説得が効かないことを告げられ、再びアダルジーザに憎悪を抱く、といった有様で、女性同士の心情の対立はもつれにもつれる。どちらの役も一方より弱いと、この丁々発止の場面はうまくいかないだろう。だが今回の上演は、見事につきる。歌声が絡み合い、その歌詞とは別にめくるめく陶酔のシーンに事欠かない。

最後になって、いよいよ裏切られたノルマはローマ軍への蜂起を決意する。高僧の悪露ヴェーゾ(バスのマシュー・ローズ)が歌うただ一つのアリア「テレべの不当な圧制に」は重量感が溢れ、合唱との対比や掛け合いなど、ヴェルディの作品に受け継がれた要素が多く見受けられる。二人の子供を彼に託すよう説得すると、彼女は自ら犯した罪を認め、生贄になることを宣言する。捕らえられたポッリオーネは、もはやノルマに対して改心し、自分も死をもってノルマへの愛情を示すとき、ノルマの心はアダルジーザに対する憎悪も消え、純粋で気高い心が高らかに歌われる。

ヴェルディはこのオペラからどれほど多くの影響を受けたのだろうと思いながら、ずっと舞台に見入っていた。日本では「ノルマ」を始めとしてベルカント・オペラを見る機会が少ない。これほど難易度の高い歌を歌える歌手は、そう多くはないのだろうと思う。だからMETライブは貴重な機会と言える。直前の「魔笛」に比べると客席は閑散としており、そのことが一層、何かとても贅沢な時間を過ごしていと感じながら過ごした3時間半だった。

2018年8月15日水曜日

モーツァルト:歌劇「魔笛」(The MET Live in HD 2017-2018)

後に結婚することになる今の妻と初めてデートをしたのは、今から23年前の12月、ニューヨーク、リンカーンセンターにあるメトロポリタン歌劇場でのことだった。見たのはモーツァルトの歌劇「魔笛」。土曜日の夜の公演で、前から行こうと思っていた公演に彼女も来たいと言う。しかしチケットがない。当時普及し始めていた携帯電話を持って早めに会場へ出かけると、年間予約席のキャンセル分を売るおばさんが話しかけてきた。さっそく彼女に電話をすると、すぐに来ると言う。私は即座に2階席の正面を2枚、合わせて270ドルだったが躊躇なく買った。

この時の公演の演出はグース・モスタートで、DVDでも発売されている1991年の映像と同じである(ただ歌手はすべて異なる)。当時のプログラムを見て驚いたのは、何とルネ・パーペが脇役(弁者)で登場している!今ではドイツを代表する世界最高のバスのパーぺは、今回の映像でザラストロを歌っている。インタビューではこの公演だけのために、ニューヨークへ駆けつけたとのことである。そのザラストロは貫禄十分で、彼の右に出る者はいないだろうと思わせる。

モスタートからバトンタッチされた次の演出が、今回も見たジュリー・テイモアによるものだが、彼女の演出は、その出世作であるミュージカル「ライオン・キング」と同様にファンタジックで無国籍。決して下品ではなく、巧みに表現されているとは思うが、私はあまり好きにはなれないところがある。どうしてだろう。操り人形や仮面が随所に現れ、回転舞台には無機的な建造物が時折現れる。ザラストロの出てくるシーンは黄色く対象的で、夜の女王は赤のイメージ。一方、パパゲーノは鳥刺しらしく緑。

主役のタミーノなど厚化粧をした顔つきは、何か中国の劇に出てくる道化師のようでもあり、それが私の違和感を誘うのかも知れない。あまり高貴な感じがしない。一方、鳥や熊など多くの動物が登場するが、それらを含めて無国籍で毒がないのである。モノスタトスにしてもコニー・アイランドのポップコーン屋みたいな感じ。まあ、最初からそういう感じがしていたから、あまり期待をせずに、いつもは座らない後方の出来で、遅い昼食を取りながら鑑賞していた。

すると、三人の侍女が歌っているところからいきなり睡魔に襲われた。私は何も抵抗せず1時間弱に亘って眠りについた。この間に夜の女王のアリアも聞き逃してしまった。気が付くと舞台に登場した奴隷たちが音楽に合わせて踊りだす、グロッケンシュピールのシーンだった。もう第1幕の終わりも近い。だが、この睡眠のおかげで、その後のシーンには冴えた頭で映像を見ることとなり、第2幕でのモーツァルトの歌と音楽は、私を心の底から感動させた。

思えば第2幕をここまで注意深く見たのは、初めてではないかとさえ思うほどに、それぞれのシーンが印象的であった。実際には何度も見ているのだが、「魔笛」自体を通して見るのは何十年ぶりかであるから、まあそういうものだろうとも思う。しかし知れば知るほどに深みの増すのが、オペラという芸術である。

歌手は、ザラストロを歌ったルネ・パーぺ以外はあまり有名でない。けれども総じて高水準で、実力派揃いだったと言える。主役のタミーノは、アメリカ人のチャールズ・カストロノヴォ(テノール)。相手のパミーナは、ゴルダ・シュルツ(ソプラノ)という人。彼女は黒人だろうか、その歌声には力強さがあり、どこかキャサリーン・バトルを思い出す。またパパゲーノはオーストリア人のマルクス・ヴェルパ(バリトン)という人で、演技も上手い。パパゲーナは、最後まで仮面を被っていてあまり歌わないが、アシュレイ・エマーソン(ソプラノ)、モノスタトスにはグレッグ・フェダレイ(テノール)という大柄な歌手。

さて本作品最高の見せ場は、キャスリン・ルイック(ソプラノ)の歌った夜の女王ではなかろうか。全部で12分しか出演しないという彼女が歌いだすと、舞台に一気に引き込まれ、その完璧な歌声は広い空間にこだまする。指揮は今年解雇された音楽監督ジェームズ・レヴァインで、キビキビとした指揮は車椅子に座っているとはいえ見事である。

荒唐無稽で安物の勧善懲悪ものという変な歌芝居であるにもかかわらず、「魔笛」が輝きを放つのは一にも二にもモーツァルトの音楽が人間業とは思えないほど圧倒的に素晴らしいからに他ならない。そのことについて、限りなく多くの人が語り、書き残している。第1幕の冒頭でタミーノが大蛇に襲われる時、わずか一瞬、ひとことのセリフで大蛇を退治する時の音楽の見事さ。最終幕でモノスタトスと夜の女王が消えてゆくその数秒後に、ザラストロの前で結ばれるタミーノとパミーナ。どの瞬間をとっても物語の展開の見事さとそこに付けられた音楽の素晴らしさは、筆舌に尽くしがたい。どんな演出をしたとしても、この圧倒的な音楽の前では、霞んでしまうのではないか。それこそマジック、魔法の音楽である。

聞きどころについて語ろうとしても、全編が素晴らしいので語る術をなくしてしまう。昔から親しんできたオペラだけに、持っているCDや映像も数多いが、今ではアバドが指揮したモーツァルト管弦楽団のものが気に入っている。今年の秋には、新国立劇場で新監督に就任する大野和士がベルギーから持ち込んだ新しい演出で上演される。私はすでにそのS席のチケットを2枚買って、妻と出かける予定である。演出はMETライヴでも有名な南アフリカの美術家ウィリアム・ケントリッジで、今から大いに楽しみである。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...