2022年7月24日日曜日

レスピーギ:交響詩「ローマの祭り」(ロリン・マゼール指揮クリーヴランド管弦楽団)

まるでチャンバラ映画の効果音楽のような大袈裟な出だしで始まる「ローマの祭り」は、一連の「ローマ三部作」の最後の作品である。もっともレスピーギは、3つの交響詩を個別に作曲したのであって、決して連作を意識したものではない。そして「ローマの祭り」は、前作の2つの交響詩とは異なり、ローマで開催された歴史上の祭りを描いているという点で、やや趣を異にしている。

第1部「チルチェンセス」は帝政ローマ時代。

まだキリスト教がローマ帝国中に普及する前のことで、当時は相当な迫害を受けていた。その象徴とも言うべきものが、見世物として庶民の興奮を巻き起こす異教徒と猛獣との決闘で、今も各地に残る円形劇場は、その催しの会場だった。もう昔のことなので、これは史実として知る以外にないのだが、それにしても残酷な話である。そしてローマの歴史上これは避けて通れないことでもある。レスピーギはそのシーンを音楽にした。

第2部「五十年祭」は中世ロマネスクの時代。

時が経ってローマ帝国は分裂し、長い中世の時代に入る。キリスト教はもはやヨーロッパ中を席巻し、各地に教会が建てられ、巡礼の道も整備された。「すべての道はローマに通ず」と呼ばれたこの都は、その巡礼の終着点の一つであった。音楽は厳かで讃美歌の旋律や鐘の音も混じえながら「永遠の都」を讃える。

第3部「十月祭」はルネサンス時代。

小刻みの速いリズムに乗って、弦楽器が高音の旋律を奏でると、やはりここはイタリアという感じがしてくる。明るく楽天的である。そして中間部にはマンドリンが登場。幽玄で穏やかな日暮れは、古風なムードを醸しながら、静かに過ぎてゆく。

第4部「主顕祭」は現代。

いよいよ最終部に入った。賑やかで大はしゃぎの音楽。それぞれの旋律が何をモチーフをしているかは、いろいろあるのだろうけど、すべてがごちゃまぜになっていく。千変万化するリズムに多種多様な楽器が入り乱れ、時に威勢よく、狂喜乱舞の乱痴気騒ぎ。

私の知る限り、マゼールは「ローマの祭り」を2度録音しているが、私が聞いたのは旧盤のクリーヴランド管弦楽団とのものである。この録音はデッカによって1976年にリリースされているが、現在では「Decca Legendsシリーズ」でリマスターされているものが手に入るだろう。あまりに通俗的だからかカラヤンやライナーが「ローマの祭り」を省略していたのに対し、ここでは「ローマの噴水」が省略され、代わりにレスピーギの師匠だったリムスキー=コルサコフの作品が収録されているのがユニークだ。

マゼールに「ローマの祭り」のような作品を振らせたら、その交通整理の巧みさと醒めた盛り上がりによって大変聞きごたえがある演奏に仕上がるのは明らかだ。音の魔術師とも言えるマゼールのアーティスティック・センスは、デッカの「超」優秀録音に支えられて、見通しが良く、細部までクリヤーだ。

2022年7月23日土曜日

レスピーギ:交響詩「ローマの松」(リッカルド・ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団)

「ローマ三部作」の中でもっとも人気があり、演奏される機会が多いのが「ローマの松」である。その理由はおそらく、桁外れに大規模な編成が大音量で鳴り響く終結部だけでなく、賑やかで色彩感あふれる冒頭、それに録音テープまで流れる静謐な第3部など、聞きどころが満載だからである。オーケストラが奏でる最も小さな音から、四方に配置されたバンダとオルガンまでもが混じる最大音量までを、わずか20分の間に体験できる。まさの音の万華鏡。

その歴史的名演奏は、いまもってトスカニーニが指揮したNBC交響楽団の演奏にとどめを刺すが、モノラル録音であることを考えるとちょっと物足りない。最新のAI技術により、モノクロ写真がカラー化できるように、モノラル録音がステレオ化されるようなことはないのだろうか?そうなればこの演奏は聞いてみたい気がしている。

第1部「ボルゲーゼ荘の松」は、まるで荒れ狂ったような乱痴気の音楽だと思ったが、これは子供たちが松の木の下で軍隊ごっこをして遊んでいる様子だという。ホルンやフルートを始めとした管楽器の鋭い旋律に乗って、弦楽器や打楽器が甲高い音を立てる。だがやけに速いだけの上ずった演奏よりは、リズムを刻む冷静な演奏が、結局はいいようである。

第2部「カタコンバ付近の松」はレント。急に静かになると、祈りの音楽が聞こえてくる。奇妙な対照。途中からトランペットの旋律が入り、そのまま弦楽器に乗って厳かに大きく鳴り響く。6分と長い。

ピアノが聞こえてくると第3部「ジャニコロの松」である。深夜、月明かりに照らされてそよ風に揺れている。クラリネットが、フルートが、ハープが幻想的なムードを醸し出す。そしてやがて夜泣き鶯が最弱音のオーケストラに乗って鳴き出す。夜明け前の薄明かりに照らされて幽玄の世界が見事に表現されている、この曲の聞きどころのひとつである。ここも約6分。

とうとう最後の第4部「アッピア街道の松」に入った。最初はまだ夜明けの時刻。オーケストラはオーボエの独奏が聞こえるくらいである。しかし暫くして太陽が昇り始めると、音量はみるみるうちに上がってゆき、そこへ軍隊が行進してくると勇壮なバンダを加えて会場が壊れるのではないかとさえ思われるようなボリュームになってゆく。その間3分にも満たない。会場の前後左右から、オルガンまでもが混じってクレッシェンドを築く。この立体的な様子は、やはり録音機で捉えることができない。ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)の終結部と同様、実演で聞くしかなく、音楽が終わると少しの間難聴になっているような感じもする。

レスピーギは自らフィラデルフィア管弦楽団を指揮してこの曲を演奏したようだ。「ローマの松」はフィラデルフィア・サウンドの十八番とでも言うべき存在である。かつてはユージン・オーマンディがこの曲を指揮して名声を博したが、その演奏もいまもって素晴らしい。が、ここではムーティを取り上げることにしたのは、私がこの曲のCDを初めて買った時の演奏がムーティのものだったからである。当初録音に難があったと思ったが、今ではリマスターされこの問題は緩和されている。

本当に久しぶりにこの演奏を聞いてみたところ、外面的な効果にとらわれず、非常に音楽的であることを改めて発見した。全体の構成を良く把握しており、20分程度のひとつの交響詩としての構成感が明確である。

ところで「すべての道はローマに通ず」という言い方があるが、アッピア街道というのも数あるローマ街道の一つである。私はイタリアを何度か旅行したことがあり、イタリア語も少しかじったが、いまだこの街道を歩いたことはない。できればいつか、わずかの区間だけでも歩いてみたい気がする。思えばまだ旅行していない地域や国は数多い。

2022年7月22日金曜日

レスピーギ:交響詩「ローマの噴水」(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

街そのものが博物館と言ってもいいイタリアの首都ローマ。ここへは二度行ったことがある。一度目は1987年夏のことであり、2度目は1994年冬のことだった。どちらも天候に恵まれ、快晴だった。冬の寒さはさほどでもなかったが、夏の暑さは堪えた。当時まだ冷房も冷蔵庫も豊富には普及していなかったヨーロッパでは、特に日中の陽射しを避けるしかなく、よほどの店でもない限り、冷たい飲み物は手に入らなかった(手には入るが、値段が跳ね上がった)。それでも学生の私は、たった2日しかないローマの休日を大いに楽しもうと、朝から夜まで歩き回った。

ローマ市内の至る所に噴水があった。どの噴水も芸術的に装飾が施された彫刻と一体である。広場という広場には、そういう噴水が1つはあった。彫刻の口や手から、ふんだんに水が溢れている。夏の日差しを浴びて、その水は白く青く輝いている。水不足のヨーロッパでおそらく噴水は、贅沢の象徴だったのだろう。暑い真夏のイタリアで、少しでも涼し気な場所は、広場の噴水であった。

「トレヴィの泉」と聞くと、大阪育ちの私は阪急三番街を思い出すのだが、もちろん本物はローマにある。数えきれないローマ市内の噴水の中でも、ひときわ大きく豪華で有名なこの泉は、宮殿の一部を構成している。その前に多くの観光客が座って、長時間眺めていたりするのだが、そのスペースはさほど広くはない。その噴水に向かってコインを後ろ向きに投げ入れる。再びローマに来ることができますように、と。

レスピーギの「ローマ三部作」のひとつ「ローマの噴水」は、3つの交響詩の中でも最初に作曲された(1916年)。ローマ市内にある4つの噴水を描写している。それは時間の経過とともに、「夜明けのジュリアの谷の噴水」「朝のトリトンの噴水」「真昼のトレヴィの泉」「黄昏のメディチ荘の噴水」と切れ目なく続く。クライマックスは「トレヴィの泉」だが、それ以外の部分は静かで、派手な残りの2つの交響詩と比較して地味である。

第1部「夜明けのジュリアの谷の噴水」は、朝もやのなかに牧歌的な雰囲気が表現されていて印象的である。家畜が通って行ったりする。一方、どこか日本風のファンファーレのような(と私はいつも思うのだが)が聞こえてくると第2部「朝のトリトンの噴水」に入る。何かドビュッシーを思わせるようなメロディー。朝の陽射しがキラキラと輝く。ホルンに合わせて神々が踊る。

Fontana di Trevi(1987)
第3部「真昼のトレヴィの泉」は、リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」を思い出してしまう。レスピーギはリムスキー=コルサコフから作曲の指導を受けているが、あらゆるものを壮大に管弦楽によって表現してしまうのは、リヒャルト・シュトラウスにも通じるようなところがあるように思う。

音楽が再び静かになっていく。黄昏時を迎えたローマには西日が差し、暑かった一日もようやくしのげるようになった。第4部「黄昏のメディチ荘の噴水」というのを私は見たことはないのだが、暮れてゆく光景が目に浮かぶようである。

「ローマ三部作」にはトスカニーニによる極め付けの名演を筆頭に、数多くの録音が存在するが、私がこれまでもっとも感心した一枚が、カラヤンによるものである。カラヤンの精緻な表現は、アナログ録音全盛期の高い技術に支えられて、いまでも輝きを失わない。ただカラヤンは「ローマの祭り」を録音しなかった。この通俗的な曲の代わりに、より気品に満ちた愛すべき「リュートのための古風なアリア」が収録されている。

※写真はトレヴィの泉(1987年)

2022年7月19日火曜日

ショパン:ピアノ協奏曲第2番へ短調作品21(P:クリスティアン・ツィメルマン、ポーランド祝祭管弦楽団)

例年になく早い梅雨明けに、もう夏が来て相当時間が経ったと思っていたら、まだ7月中旬である。ところが不思議なことに、そのあとに曇りがちの気温の低い日々が続いて、ここ数日は日本列島が大雨に見舞われている。かつてはハッキリとしていた梅雨明けも、ここのところは随分怪しい。おそらく日本中が温帯から亜熱帯性気候へと移り変わっているのだろう。これからは雨季(6月から9月)と乾季(それ以外)といういい方の方が相応しいのかも知れない。

そんな蒸し暑い日々を過ごしながら、ショパンのピアノ協奏曲を聞いている。第1番の方はすでに書いたので、残るは第2番ということになる。ショパンの2つあるピアノ協奏曲のうちで、先に作曲されたのが第2番へ短調である(1830年)。音楽メディアがLPからCDに移行してから、ショパンのピアノ協奏曲は1枚のCDで発売されることが多くなった。ここで紹介するクリスティアン・ツィメルマンのポーランド祝祭管弦楽団を弾き振りした演奏もそうである(と書きたいところだったが、実は2枚組である。演奏時間が長く1枚に収まり切らなかったようだ。一方、ジュリーニと共演した旧盤は2つのLPを1枚にまとめている)。

第2番は第1番に比べて地味で、人気がないとされている。圧倒的に多く演奏されるのは第1番の方で、ショパン・コンクールの最終選考でも第1番を取り上げるピアニストがほとんどである。だが、私の聞く印象では、第1番が優れているように感じるのは第1楽章だけで、それ以外は甲乙つけがたい。第2楽章などはもしかしたら第2番の方がいい曲だと思うこともある。メロディーの親しみやすさ、あるいは華やかさという点において第1番が勝っているように思うが、演奏される頻度の差ほどに第2番がつまらない作品ではないと思う。

その第1楽章は、焦燥感のあふれる主題で始まる。オーケストラだけの長い序奏に続いていよいよピアノの出番となる。これは第1番でも同じなのだが、主題のメロディーが甘く切ないだけの第1番に比べると、焦り、もがき苦しんでいるショパンの心情が色濃く反映されている。この曲の、それがむしろ魅力であるとも言える。第1番が、もう少し時間が経って過去を客観的に振り替えることができた時の余裕を感じるのに対して、この第2番はもっと真剣に悩んでいる。とりとめもなく物思いにふけったかと思うと、そわそわとして心がかき乱される。演奏しにくい曲だろうと思うが、それはこの曲の輪郭がつかみにくいからで、それはそもそもそういう作品だからである。

若きショパンの心情が一層わかるのは第2楽章である。このラルゲットはショパンの書いたピアノ作品の中でも屈指の名曲ではないかと思う。初恋の相手は、ワルシャワ音楽院の声楽家の歌手だったらしいが、一度も口を利くことなく片思いを続けたショパンが、その思いをぶつけたのがこの曲である。

最初のピアノの音が聞こえてきたときから、まるで時が止まったかのような錯覚に見舞われる。恋愛映画の一コマにそのまま使えるような曲である。何とも切なく、そして壊れやすい心情の吐露を、やっと理解できるようになったのは中年以降であります。やはりこのような若き青年の心理をそのまま表現した音楽は、女性には理解しがたい部分があるのではないかと勝手に想像するだけのゆとりが生まれてから、ということになるわけです。だから、この曲が第1番に比べて一般受けしにくいのは、そのような心情がストレートに反映しすぎているからではないだろうか、などと考えたのです。

ショパンの片思いは結局、告白をすることなく終わり、かれは祖国を離れるが、私は第3楽章のロンドにショパンの空想の告白を見つけている。第3楽章のメロディーは軽やかで、マズルカを始めとするポーランドの民謡風のリズムも散りばめられているが、ひとしきりこのような楽し気な、しかし十分翳りも帯びて決して楽天的にはなれない前半が過ぎ去ると、ホルンの短いソロが聞こえてくる。これに応えるのはより小さい声(やはりホルン)である。

これこそがショパンが夢に見た「告白」のシーンではないだろうか?この部分を境に、音楽は一気に明るく華やかになり、舞い踊るようなコーダへと突き進む。だがやがてこれは戯言であったと気付く。音楽はその酔いから醒めるように、大人しく終わる。

このような想像をすることができたのは、ポーランド生まれでショパンコンクールでも優勝したクリスティアン・ツィメルマンによる2回目の録音を聞いた時だった。ここで彼は自らが組織した、この曲のためのオーケストラ(ポーランド祝祭管弦楽団)を弾き振りしている。彼はこのオーケストラと世界中で演奏を行い、ドイツ・グラモフォンに録音した。その演奏は、それまで聞いたことのないよううな驚きの連続だった。特に第1番では、貧弱と言われてきた管弦楽のパートにこれ以上ない精神力を注ぎ込み、異様なまでの集中力である。そのあまりに極端で自由な表現は、この2つの曲を1枚のCDに収めることさえ不可能にした。

ツィメルマンは自分が理想とする演奏に仕上げるには、オーケストラを自主的に組織するしかなかったと語っているが、彼の最初の録音は、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロサンジェルス管弦楽団との競演でなされている。この録音は決して悪くはなく、私もポーランド祝祭盤が出るまでは、この曲の最右翼だと思っていた。しかし彼は、この演奏にも満足しなかったのだろう。

結果的にショパンのピアノ協奏曲の魅力を最大限に引き出したこの演奏は、今ではこの曲のスタンダードな名演となって不動の地位を築いている。第2番においても、第1番ほどではないにせよ、それまでには知られてこなかった細かい部分の表現にまで神経を行き届かせ、新たな魅力を伝えてくれる。あまり頻繁に聞くことがない曲ではあるが、私にとっての第2番コンチェルトの定盤となっている。

2022年6月17日金曜日

東京都交響楽団第953回定期演奏会(2022年6月13日東京文化会館、小泉和裕指揮)

かつてオンラインで都響のチケットを購入したことがある私の元へ、一枚の葉書が届いた。6月13日の定期公演の内容を知らせるものだった。今月の指揮は終身名誉指揮者・小泉和裕で、メンデルスゾーンの「宗教改革」とベートーヴェンの「エロイカ」。なかなかいい組み合わせだと思ったが、この日は月曜日。翌日以降も仕事が控えるサラリーマンとしては、あまり気乗りのしない曜日である。

ところが都響からは、当日券の発売を知らせる電子メールも届く。見てみたらS席からC席まで多くの席が残っているようだった。このプログラムの公演は1回のみ。全力投球のコンサートとなるか、名曲ばかり故の惰性的なコンサートなのか。どうにも判別がつかない。それでもC席なら高くはないし、それに翌日は午後から会社に行けばいいということになって、私は4年ぶりとなる東京文化会館へ出かけた。当日券は電子チケットのみの扱いで、電源を入れたスマホをかざして入場する。とうとうクラシック音楽の世界にも、電子化の波が押し寄せた。思えば90年代に入った頃から、あの懐かしいチケットの半券を取っておくことはなくなった。プレイガイドがオンライン化され、共通の用紙に印字しただけの、無味乾燥なものになったからだ。そのため、確かベルリン・フィルを聞いた時には、わざわざ「記念チケット」なるものが入り口で配られた。席の表示はない単なる紙であった。

新型コロナの蔓延に最も深刻な影響を受けたのは、悲運の作曲家ベートーヴェンだったかも知れない。またとない生誕250年記念を、世界中の音楽家が祝おうとしていた矢先のことだったからだ。ほぼすべてのコンサートがキャンセルされた。そういうことを埋め合わせるべく、私は最近ベートーヴェンの交響曲をプログラムに見つけては、そのコンサートに出かけることになった。特に昨年の秋以降、奇数番の作品に触れてきた。順に第5番、第7番、第9番「合唱」という順だった。となれば次は第3番「英雄」。これまで何度触れてきたかわからないベートーヴェンの交響曲も、特に第3番などは20年近く遠ざかっている。あんなに何度も聞いた作品なのに、名演奏の記憶が薄れてしまった。専ら安い席で聞いていたからだろうか。特にNHKホールの3階席で聞いた演奏会には、ほとんど思い出がないのは、偶然なのか。

コロナ・パンデミックは、私に日本人演奏家を見直すきっかけを与えてくれた。これまで機会がありながら、聞く機会のなかった指揮者やソリストに巡り合うこととなった。広上淳一のパントマイムのような楽しい指揮や、秋山和慶の職人的な名演奏の数々に混じって、小泉和裕のスタイリッシュで集中力のある演奏が心に残っていた。考えてみれば、日本中のオーケストラを指揮してきた小泉の、もっとも関係の深いオーケストラが都響であり、そしてその定期演奏会にレギュラーで登場する彼のプログラムには、その真価が発揮されるような曲が並んでいる。今回もそうで、メンデルスゾーンの「宗教改革」というのも、滅多に演奏される曲ではないが大いに魅力的である。トスカニーニからカラヤンを経て続くメンデルスゾーンの演奏スタイルが、カラヤン・コンクールの覇者となった小泉に引き継がれているのは、どう考えても明らかである。そしてあのフィルハーモニア時代から名演奏を繰り広げたカラヤンの流線形「エロイカ」も、また小泉によって継承されているのだろうか。そんなことを考えながら、会場へと急いだ。

久しぶりの上野駅は、改札口が変わってあか抜けた感じになっていたが、上野動物園へと続く大通りの雰囲気は、昔パンダが初めてやってきた70年頃の記憶と変わらない。そして文化会館の少し狭い通路や、部分的に死角となる両サイドの上階席も、今やレトロな香りが立ち込める。都の所有する施設だから、ここと池袋の芸術劇場が都響の主な活動拠点である。その音響効果を熟知している組合せの公演に、何かとても嬉しい気分となり、期待が高まっていった。そして、「宗教改革」の最初の音がなりひびいたとき、そのことが現実のものとなったのだ。

この曲の冒頭はコラールを配した厳かな雰囲気で始まる。ゆったりと流れる中音域の弦楽器に乗って、管楽器がこれらのメロディーを奏でる時、東京のオーケストラにして中欧の響きが自信を持ってなっていることに心を打たれた。やがて始まる主題からは、メンデルスゾーン節になる。思い切りよく飛ばしてゆく小泉の指揮にオーケストラが付いてゆく。ほとばしるような熱い演奏になるのに時間はかからなかった。やはり今日のコンサートは「当たり」だと感じた。

第2楽章の明るいスケルツォは、民謡風のメロディーの中間部が特徴。歌うような素朴なメロディーと、重厚で壮麗な教会音楽が同居しているのが本作品の面白い(中途半端な)ところ。「宗教改革」は番号で言えば第5番だが、これは彼の若干21歳の頃の作品である。プロテスタントに改宗したメンデルスゾーンは、自らの意志で本作品の作曲にとりかかる。様々な紆余曲折に翻弄され、結局この作品が世に出たのは、メンデルスゾーン死後のことだった経緯は、ブックレットに詳しく記載されている。

弦楽器の旋律が美しい第3楽章は短いが、このような曲に私はもっともメンデルスゾーンらしさを感じたりする。そして第4楽章は続けて演奏された。ここで音楽は再び教会風に戻り、高らかな賛歌となっていく。教会風な崇高さがあるかと思えば、やや通俗的なメロディーが織り込まれるとてもユニークな作品に思えてくるのだが、演奏の魅力を感じるにはわかりやすく、演奏していても楽しいのではないかと推測したりする。メロディーが親しみやすく、いつも音楽が推進するロマン派前期の音楽は、とりわけ小泉の指揮に合っていると感じた。ロマン派前期の作品で言えば、私は彼の指揮で、シューベルトの「グレート・シンフォニー」を聞いてみたい。

さて、20分の休憩を挟んで次はベートーヴェンの「エロイカ」である。この曲の最初の和音は、音楽史を変えた和音だ。小泉はそこを一気に響かせた。その集中力と音のややデッドな響きは、何といったらいいのだろう、もう天才的な音のバランスと強さであって、この一音が続く50分近い演奏を決定づけるほどのインパクト。私はこの「英雄」の第1楽章を聞くたびに、ソナタ形式の主題はどれか、などと考えて行くのだが、かつて一度も成功したことはなく、第1主題の繰り返しがあったかどうかくらいで(今回はなし)、聞いているうちにそんなことはどうでもよくなっていく。音楽の流れは大河が勢いよく流れて行くようで、いつまでも聞いていたい。ゆっくりとした演奏も悪くはないが、小泉のように颯爽と駆け抜けてゆく演奏がモダンで一時期の流行スタイルであった。

第2楽章、葬送行進曲。思うに東京文化会館の響きはかなりデッドである。だからオーケストラの響きが直接的に会場にこだまして、その強さが弛緩すると音楽は崩れるようなところがあるが、小泉・都響の集中力はこれが絶えることはなく、大フーガを始めとするこの曲の聞かせどころをどんどんこなしてゆく様は見事である。それにしても「エロイカ」は、何という作品なんだろ。

後半が腑抜けになるような演奏が多い中で、第3楽章のホルンのトリオを含め、一気呵成に続ける。ここで気を抜くわけには行かない。だからできるだけ早く、前へ。そして第4楽章の冒頭へ流れ込む。もちろん休止はほとんど置かず。流れ出る第4楽章の変奏曲に身を委ねながら、私はベートーヴェンが交響曲に持ち込んだ壮大なドラマを見ることになる。私が愛してやまない第4楽章は、ベートーヴェンのもっとも明るい側面が出た素晴らしい曲で、第2番に次ぐ造形美が感じられる。

都響が燃えた演奏が終わり、大歓声に包まれる。小泉自身会心の出来だったのではないだろうか?何度登場したか知れない都響の定期でありながら、その挨拶の身振りなどから、それは如実に感じられた。いつまでも聞いていたい音楽が終わったことに、久しぶりに淋しさを感じた。1回限りの月曜日の定期演奏家は、決して気を抜くことなく、むしろ本当に聞きたい人が聞きに来る熱いコンサートのように感じた。私はまたこのコンビを気に入ってしまった。次回は9月23日(祝日)、「田園」ほかが演奏される。プロムナード・コンサートと題されるマチネシリーズは、サントリーホールである。

2022年6月11日土曜日

東京フィルハーモニー交響楽団第970回定期演奏会(2022年6月8日サントリーホール、ミハイル・プレトニョフ指揮)

ニュースによればロシアはウクライナと交戦状態にあるらしい。ロシアにとってウクライナは長年の友好国であり、ロシア音楽の数々も両国の文化を讃えている。まるで兄弟喧嘩のような戦争に国際社会は過剰に反応し過ぎではないかとさえ思われるのだが、一方的に領土を侵略したロシアに対する制裁は厳しく、ロシア人の音楽家が来日することも危ぶまれている。にもかかわらず、3月に引続き、奇才ミハイル・プレトニョフが東フィルの定期演奏会に登場したことは大変喜ばしいことだった。

会場に入ると、その舞台に並べられた楽器群に驚いた。弦楽器は向かって左手から第1バイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリン。左手奥にコントラバスが並ぶのは今ではさほどめずらしくない。ところが多くの打楽器群が、本来なら居座る管楽器のセクションにずらりと並んでいるのだ。その楽器の数々は、いろいろあり過ぎて目で確認することはできない。配布されたブックレットから転記すると、次のようなものである。

  • ティンパニ
  • 打楽器Ⅰ(カスタネット、カウベル、ボンゴ、ギロ、小太鼓、チューブラーベル、ヴィブラフォン、マリンバ)
  • 打楽器Ⅱ(トライアングル、クラヴェス、ギロ、ウッドブロック、タンバリン、小太鼓、ヴィブラフォン、マリンバ)
  • 打楽器Ⅲ(トライアングル、クロタル、マラカス、ギロ、カバサ、鞭、テンプルブロック、小太鼓、テナードラム、大太鼓、タムタム、グロッケンシュピール)
  • 打楽器Ⅳ(トライアングル、ハイハットシンバル、タンバリン、トムトム、大太鼓、シンバル、タムタム)

舞台に登場する打楽器奏者はたった5人で、これだけの楽器を操る。一方、何と管楽器が不在なのである。この楽器編成で演奏されるのは、ビゼーの「カルメン」をシチェドリンがバレエ音楽に仕立て上げたものである。まだ実在の作曲家は今年生誕90年を迎えるそうだ。バレリーナだった妻の依頼によるこの作品は、ソビエト時代の1967年にボリショイ劇場で初演されている。これは私が生まれた翌年である。「カルメン」は有名曲のオンパレードだが、それが上記のような楽器編成でどうアレンジされているか、興味が尽きない。

静かに始まった序奏では、ベルが「ハバネラ」のメロディーを厳かに奏でるシーンから始まった。以降、音楽はビゼーの様々な音楽から採用されているし、順序は必ずしも原曲の歌劇とは異なっているが、ストーリー性とモチーフは維持されていて、この曲が持つ本来のテーマはむしろわかりやすく強調されているのは、やはりバレエ音楽という性格からか。

例えば第2曲は第4幕への前奏曲から採用されているが、これは第1幕への前奏曲と同じメロディーだから、違和感はない。しかしそこに悲劇性が早くも暗示される、といった具合。そして「運命のテーマ」、衛兵の交代、ハバネラといった一連の音楽が続き、第7曲であの美しい第3幕への間奏曲が聞こえてくる。フルート独奏が際立つこの曲を、弦楽器でのみ演奏する。そして第8曲では「アルルの女」の「ファランドール」までもが演奏された。

全体で約45分の曲を、プレトニョフはいつものようにほとんど休止させることなく繰り出して行く。集中力を絶やさないようにと、楽章間の休止を設けず演奏を再開する指揮者は近年多いが、プレトニョフもその一人である。しかし時に私は、もう少しゆくりと物語を楽しみたいと感じることも多い。闘牛士とカルメンが舞台上でどのように踊られるのか、私はバレエというものをほとんど見ないし、その面白さもあまりわかっていないのだが、このシチェドリンによる意欲的な作品は、ビゼーの音楽の巧みさを別の視点で浮かび上がらせることに成功していると同時に、斬新で才気に溢れるその作曲技法によって、シチェドリン自身の面目躍如ともなっているようだ。

カルメンが公衆の前で遂に刺し殺され(それはコントラバスによって表現された)、終曲では序奏で奏でられたベルによる「ハバネラ」が、まるで夜のセヴィリャの街にこだまするように厳かに響いて物語が締めくくられた。打楽器を担当した5人の奏者に惜しみない拍手が送られ、プログラムの前半が終了した。

後半は、チャイコフスキーの名曲「白鳥の湖」である。バレエ音楽だけを取り上げるこのコンサートが、私にとて大変魅力的だったのは、何より「白鳥の湖」の大ファンだからである。

ロビーに出て、久しぶりにバーカウンターで「プレミアム・モルツ」などを飲みながら、ブックレットに目を通す。チャイコフスキーの名曲にもはや解説は不要だろう。有名な「情景」などに混じって繰り出される世界各国の興に乗った踊り。その音楽は楽しいの一言に尽きる…と思っていた。ところが、今回のプレトニョフによる特別編集版には、そういった数々の名曲が見当たらないのである!

解説書によれば今回の版は、チャイコフスキーの音楽を研究し尽くしたプレトニョフにこそ可能なもので、舞台の縮小版のような編集になっているとのことである。つまり有名旋律を並べ、ストーリー性が無視された組曲版に抗い、舞台音楽の縮小版が出来上がったのだ。何とそこでは、有名な「4羽の白鳥」や「チャルダーシュ」などの名旋律までもが姿を消し、変わって6つの楽章に見立てて音楽的な連関を重視している。私が実際に聞いた印象では、これはもはや「交響詩」のような音楽であった。

それもこれもチャイコフスキーの音楽が優れているからだろうと思う。「白鳥の湖」は、いくつかの場面を割愛してもなお、バレエなしの音楽だけで聴かせるだけのものを持っているのだ。プログラムの前半のシチェドリンの「カルメン」だって、それだけで聞いて実に楽しいバレエ音楽だったこととも共通する。ロシアにおけるバレエ音楽の底力こそ、今回のプログラムでプレトニョフが意識した構成ではないだろうか。

前半に舞台中央に陣取った打楽器は、後半ではいつもの規模に縮小され、代わって並んだ管楽器が活躍することとなった。オーボエが、クラリネットが、物憂いロシアのメロディーを奏でる時、私は名状しがたい気持ちにさせられる。そしてハープの特筆すべき上手さ!ロシアはまだ見たことのない土地だが、いつかゆっくり旅行してみたいと思っていた。それがこの度の戦争で、またもや遠のいてしまった。だが、私のロシア音楽に対する愛着は、今回の演奏会を通してむしろ高まったと言っていい。

本来ならブラボーが吹き荒れるはずの聴衆も、マスクをして行儀よく拍手をする。だがその大きさと長さから、今回の演奏がとても満足の行くものだったことがわかる。4月にまたもや腰を痛めて以来、少し遠ざかっていたコンサートへも、私は出かけて行きたい気持ちになった。音楽を聞く喜びを忘れかけていた、私の暗澹たる日常に、かすかな光明が差し込んできた。健康を取り戻すことができれば、一気にまたコンサートや旅行に出かけてみたい。ロシアの大地に鮮烈な「春の祭典」がやって来るように。

2022年5月1日日曜日

バッハ・コレギウム・ジャパン演奏会(2022年4月17日、ミューザ川崎シンフォニーホール)

復活祭の前日にJ. S. バッハの不朽の名作「マタイ受難曲」を、我が国を代表する古楽団体バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)で聞いた(指揮:鈴木雅明)。ミューザ川崎シンフォニーホールの舞台の左右に2つのオーケストラが分れ、その背後にソリストを含む合唱団が配置されている。正面にはチェンバロ、その左右に通奏低音を担う楽器群、奥にオルガンが陣取る。大きなホールながら客席はほぼ満員で、次第にコロナ禍の非日常が薄れつつあることを実感する。3時間余りに及ぶ大作を、こんなに多くの人が心待ちにしていたのか、と思うと胸が高まる。マチネとしては少し遅い16時開演。終演は19時過ぎとアナウンスされている。

ここのところの関東地方は、曇りがちで雨が降る日も多く、その前は夏を思わせる暑い日が続いたので、この時期特有の季節の変わり目の神経質な陽気である。それでも人出は多く、いつもながら川崎駅前の混雑状況には驚かされる。これは、渋谷でも池袋でも横浜でも、コンサートホールのある都市は同様である。その中を、深遠なるバッハを聞きに行く。もっともバッハには10人もの子供がいて、家の中は常に騒々しかったと推測できる。バッハはそのような状況でカンタータを書き、オルガンを弾いた。おそらく現代と違うのは、街中で騒音が溢れていなかったことだろう。演奏家でなければ、教会の中でしか音楽を聞くことはできなかったからだ。

「マタイ受難曲」については多くの文献や書物で紹介されているが、ごく簡単に言えばキリストの受難の物語で、福音史家(エヴァンゲリスト)が物語の進行を語り、福音書に基づく様々なエピソードが音楽によって表現されている。第1部(前半)は過越しの祭りでの最後の晩餐のシーン。ユダによる裏切りによってイエスは予言通り捕えらえる(約70分)。第2部はイエスの尋問とペテロの否認、そして十字架にかけられたイエスの苦しみと復活に至る物語である(約100分)。

バッハ・コレギウム・ジャパンは「マタイ受難曲」を毎年この時期(復活祭の頃)に演奏しており、その回数は100回近くに及ぶそうだ。そのことを含め、「マタイ受難曲」の聞きどころをを鈴木自らが解説した事前の講座の模様を、音楽評論家の加藤浩子が報告するミューザ川崎シンフォニーホールのオフィシャル・ブログが、この曲に対する鈴木の考え方を知る上で大変役に立つ(https://www.kawasaki-sym-hall.jp/blog/?p=14717)。

それによれば、バッハがこの曲を書いた時代には、それまで神格化されていたイエスが、「苦しみ」を持つ一人の人間としての性質に焦点が当てらていること、それを表現するテクストと音楽における「三重構造」が随所に見られる、ということが特徴であるとのことである。詳細はここでは書かないが、「マタイ受難曲」における発見は、多くの音楽家や聞き手の興味の対象であり、その深さは限りなく大きい。私のような一音楽愛好家にはなかなかわかるものではないのだが、それでも「マタイ受難曲」は聞いていて面白い。それなりの発見があるからだ。

「苦しみ」を抱くイエスは、舞台ではバス(加耒徹)によって気高く歌われる。イエスが歌うシーンは、すぐにわかるように工夫されている。弦楽器や通奏低音が、そうとわかる和音を奏でるからだ。これは絵画における威光の音楽版と考えることができる。イエスが何かを語る時、常にこの和音が鳴っている。それにしても加耒の歌うイエスの、気品と威厳を同時に持ち合わせる格調高さは、群を抜いていた。これほどピタリと役にはまった声はないとさえ思った。

一方物語の進行をつかさどるのはテノールのエヴァンゲリスト(トーマス・ホップス)である。彼は加耒とはまた違った声の響きで、こちらは淡々と物語の進行を歌う。鈴木はその「語り」の導入の部分でさえ、細かく指揮してオルガンとの導入部分の一致が乱れないようにしていた。音楽は弛緩なく淡々と進み、舞台には合唱に混じったソリストが舞台前面やオルガンの左右に行ったり来たり。その様子を見ているだけでも、次はどんなシーンになるのかと興味が沸く。視覚的にも工夫された演出だったが、それも音楽の完璧とも言える緊張の持続があったからだろう。歌も楽器もみな世界クラスの巧さだが、しいてあと一人独唱を挙げるとすれば、私の場合、アルトのパートを歌ったペンノ・シャハトナー(カウンター・テナー)だろう。

BCJの器楽ソリストについては、もう何も言うことはない。ヴィオラ・ダ・ガンバ、リコーダー、オーボエ、オルガンなどみな我が国を代表する名手揃いである。その中でも指揮者の正面に置かれたチェンバロを、息子の鈴木優人が弾いたことは驚きだった。そのことは会場の張り紙によって知らされ、ブックレットに記載はなかったので、急遽決まったことなのかもしれない。鈴木優人もいまや我が国を代表する指揮者として活動が目覚ましいが、大学生の頃からBCJのチェンバロを務めていたから、手慣れたものである。音楽が始めるとゆったりと音符に身を沈ませ、体を左右に揺らした。これは他の奏者も同様だった。長い「マタイ受難曲」への船出を、このようにして会場に示していた。

今回聞いたのは、ミューザ川崎シンフォニーホールの狭い1階席であった。前から12列目というのはおそらくベストなポジションに近いのではないか。楽器も歌声も直接響く。次から次へとアリア、コラール、そして二重合唱が繰り返され、息つく間もなく音楽が進行する。その熱量に圧倒されっぱなしだった。これほどにまでエネルギーを感じた演奏会はないくらいだった。それだからか、大変疲れた。舞台裏の席の上部には、日本語の字幕も付けれれていたのは大いに嬉しいことだった。

演奏が終わって静寂がしばし続き、そして割れんばかりの拍手となった。何度も舞台に登場した鈴木は、すべての歌い手、器楽奏者を順に立たせ、今回の演奏がとても素晴らしい演奏であったことを印象付けた。ソリストや楽器奏者については、誰が何を歌ったかまではここに書き切れないので、ブックレットのページを張り付けておく。主な配役は次の通りである。

ソプラノ:ハナ・ブラシコヴァ、中江早希
アルト:ペンノ・シャハトナー、青木洋也
テノール:トマス・ホップス(エヴァンゲリスト)、櫻田亮
バス:加耒徹(イエス)、渡辺祐介

BCJは「マタイ受難曲」を再録音し、リリースしたそうである。そうでなくともあの膨大なカンタータを毎年取り上げて、とうとう全曲演奏、録音を達成した団体は、世界を見渡してもそう多くはない。しかも演奏の水準は、キリスト教の伝統が希薄な我が国にあって、大変高い。そういう団体が、春には「マタイ受難曲」を、クリスマスにはヘンデルの「メサイア」を毎年取り上げては演奏をしている。私も2001年のクリスマス・イブに「メサイア」を聞いて以来のことだった。「マタイ受難曲」に至っては、かつてたった一度だけ、実演で聞いているのみである(2005年、コルボ指揮ローザンヌ声楽・器楽アンサンブル)。これほどポピュラーな作品であるにも関わらず、CDも立った一組有しているに過ぎない。

これを機に、「マタイ受難曲」のCDでも久しぶりに聞いてみようと思う。


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