2023年1月3日火曜日

謹賀新年

2023年の年頭にあたり、新年のご挨拶を申し上げます。

昨年末のティーレマン指揮シュターツカペレ・ベルリンによるブラームスの演奏会で、私のクラシック音楽の生活も一区切りを迎えた心境です。今のところ、今年の演奏会に出かける予定は何もありません。とはいえ1月は、久しぶりに来日しN響を指揮するソヒエフの演奏会には、大変興味があります(でも音質に改善が見られないNHKホール、そもそもチケットが買えないサントリー定期、それに休憩のない短いCプログラムに全く魅力を感じません)。

昨年定期会員になった東フィルの演奏会には、結局様々な理由で行けないことも多く、今年はサブスクリプションを見合わせました。実際、私はプレトニョフやバッティストーニによる演奏会にもやや食傷気味で、チョン・ミュンフンの振るいくつかのコンサートにしか興味が湧いていません。

都響は時に素晴らしいコンサートに出会えますが、直前までチケットの購入をためらうことの多いのも事実です。また東京文化会館では、しばしば品のない客に遭遇することが多く、避けています。それでも定評のある小泉和裕のコンサートと大野和士によるマーラーの「復活」などは行ってみたいと思っています。

東響も好きなオーケストラですが、川崎のホールが苦手であることと、ノットという指揮者は悪くはないですが、音を鳴らしすぎるのが気になって(東フィルにおけるバッティストーニのように)最近は避けています。

読売のオーケストラに目を転じると、ヴァイグレを始めとするいくつかの指揮者に興味を引かれるものの、ここのオーケストラは私にとって、これまで平均点以上の感動を与えてはくれませんでした。久しぶりに定期演奏会に行こうかとは思っていたりもします(ただし、池袋の会場は忌避しており、サントリー限定です)。

それでは今年もよろしくお願い申し上げます。

2022年12月25日日曜日

ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)(カルロ・マリア・ジュリーニ指揮シカゴ交響楽団)

今年はラヴェルの作品を多く取り上げた。このブログの音楽記事は歌劇と管弦楽曲を中心に構成しているが、独特の機能美と構成の巧みさで、父はスイス、母はバスクという辺境の地にゆかりを持ち、ローマ大賞の選考にも漏れるといった数々の事件にも見舞われながら、多くの野心的作品を生み出していったラヴェルは、フランス音楽の大所というべき存在だと思っている。

そのラヴェルの、もう一つの作品ともいうべきものが、組曲「展覧会の絵」である。もともと「展覧会の絵」はロシアの作曲家、ムソルグスキーによるピアノ曲だが、ラヴェルはこの曲を原曲以上に有名な管弦楽曲に仕立て上げた。俗に「管弦楽の魔術師」と言われ、オーケストレーションの巧みさをまざまざと見せつけられる作品は、もしかしたら「展覧会の絵」以上のものはないのかも知れない。

生前には一度も演奏されることのなかったムソルグスキーのピアノ曲「展覧会の絵」は、19世紀の後半に作曲されているが、これをまずリムスキー=コルサコフが管弦楽曲に編曲している。レスピーギの師匠でもあったリムスキー=コルサコフは、「シェヘラザード」といった曲が有名であるだけの目立たない作曲家のように思われがちだが、後世に大きな影響を残したロシア5人組のひとりとして、重要な作曲家である。

ラヴェルがリムスキー=コルサコフ編に接したのかどうかはよくわからないが、独自の編曲で「展覧会の絵」を世に送り出したのは1922年のことである。このころ彼はは「ラ・ヴァルス」を始め、オーケストラによる斬新なバレエ曲をすでに作曲しており、名声を確立していた。そこで「展覧会の絵」に接したラヴェルは、インスピレーションを刺激されたのだろう。トランペットのファンファーレで始まるこのオーケストラ版は、編曲という新たな音楽的分野を輝かしいものに変え、以降、ストコフスキーを始めとしてチャレンジする作曲家も少なくない。それだけでなく、原曲(ピアノ曲)を演奏するピアニストが多いのも、オーケストラ版の存在が輝かしいからだ。それなら一度、原曲でも聞いてみようか、と。

ラヴェルが編曲した組曲「展覧会の絵」については、もう限りがないほどの録音が知られており、特に機能美の最先端を行く東西のオーケストラ、すなわちベルリン・フィルとシカゴ響に名演奏のものが多い。古くはアルトゥーロ・トスカニーニのモノラル録音盤が決定的な演奏として知られており、私も買って聞いた記憶がある。一切の残響を排し、ぐいぐいとコーダに向かっていく様は、まさにトスカニーニの真骨頂だが、このようなオーケストラの技巧を前面に立てた演奏は、機械化が進むアメリカ東海岸で活躍した多くの東欧系の指揮者が担うこととなった。

まずこの曲をラヴェルに依頼し初演したのが、その後ボストン響のシェフとなるロシア系ユダヤ人セルゲイ・クーセヴィツキである。さらにシカゴ響の音楽監督となったフリッツ・ライナーによる演奏は今もって決定的とされ、トスカニーニがモノラルであることもあってライナー盤の評価はゆるぎないものがある。シカゴ響の指揮者は、このあとゲオルク・ショルティに引き継がれ、彼もまた80年代にこの曲を録音している。音楽雑誌「レコード芸術」の裏表紙にショルティの「展覧会の絵」が掲載されたとき、私を含め数多くの音楽ファンが、この演奏を聞きたいと思った。あるときFMで放送されると知った時は、いつもより高級なテープを用意してエア・チェックに挑んだのは中学生の頃だったか。

シカゴ響による「展覧会の絵」は、このほかに若き日の小澤征爾やカルロ・マリア・ジュリーニによる演奏が有名である。本日ここで取り上げるジュリーニ盤は、そのなかでもちょっとユニークな存在ではないかと思う。なぜならこの演奏は、かなり遅い部類に入るからだ。しかし純音楽的な意味でこの作品をゆったりと鑑賞できる点で、この演奏以上のものを知らない。

ついでに言えば、イタリア系の指揮者による「展覧会の絵」は、フィラデルフィア管弦楽曲を率いたハンガリー系のユージン・オーマンディの後を受け継いだリッカルド・ムーティによりフィリップスにデジタル録音されているが、彼の来日時にテレビで見た「展覧会の絵」の名演奏は何度もその後放映され、わが国では有名である。私もCDをもっているが、トスカニーニからの流れが受け継がれている。

当時のアメリカ東海岸にはヨーロッパから流れてきたユダヤ人演奏家が数多く在籍する技巧的オーケストラが点在しており、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団、アンタル・ドラティ指揮デトロイト交響楽団、レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックなど、百家争鳴の状態であった。

ヨーロッパに目を転じると、ここは何種類も存在するヘルベルト・フォン・カラヤンが牛耳るベルリン・フィルとの録音が燦然と輝くが、フランス系の団体も当然のことながら、この曲を得意としていた。その中の最右翼が、エルネスト・アンセルメが指揮するスイス・ロマンド管弦楽団ということになるだろう。デッカによる曇りのない録音が、この曲の代表的演奏とされていた。アンセルメの演奏は、スイス人のシャルル・デュトワに受け継がれ、彼はモントリオール交響楽団で名録音を残している。アンセルメで「キエフの大門」を聞くときは、安普請の家が揺れるなどと言われたものだ。

この後、近年の演奏として記憶に残るのは、ワレリー・ゲルギエフによる2つの録音(うちひとつは珍しいウィーン・フィル)、ベルリン・フィルをカラヤンから受け継いだクラウディオ・アバド、サイモン・ラトルといったあたりが有名である。

組曲「展覧会の絵」は、展覧会場を歩きながら(プロムナード)、ひとつひとつの作品についてその絵から得られたインスピレーションを音楽にしている。冒頭のトランペット・ソロでプロムナードに圧倒的な印象を与えたのはラヴェルだが、その一声だけでこの曲を後世に残る作品に仕立てて見せた功績は、音楽史に残るものだろう。以降、様々な形での「プロムナード」を挟みながら、以下の順に音楽が進む。

プロムナード
1 小人(グノーム)
プロムナード
2 古城
プロムナード
3 テュイルリーの庭 - 遊びの後の子供たちの口げんか
4 ビドロ(牛車)
プロムナード
5 卵の殻をつけた雛の踊り
6 サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ
プロムナード
7 リモージュの市場
8 カタコンベ - ローマ時代の墓 - 死せる言葉による死者への呼びかけ
9 鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤガー
10 キエフの大門

聞けば聞くほど味わいのある曲になっていくが、ラヴェルの他の曲と同様、ただ旋律をなぞるだけのような演奏は面白くない。この曲の聞き方としては、このようなちょっとした味わいを感じさせるものがあるかどうかで、ただ技巧にのみ頼っている演奏はつまらない。また私は特に、「ビドロ」で小太鼓が次第に音量を増しながら、弦楽器が重い行進曲を奏でるシーンが好きだが、このような曲は原曲のピアノで聞いても楽しくはない。

ジュリーニによる演奏の特徴は、この金管楽器ばかりが鳴り響くような印象の曲に、きっちりと中低音の弦楽器が寄り添い、決しておろそかにしていないことだろう。重心を低く抑えていることで、しっとりと旋律が歌われ、ゆったりとした演奏でも聞きごたえがある。もちろん管楽器はシカゴ響のエキスパートが万全のテクニックを披露しているから、惚れ惚れとするほど上手く、その点でも申し分はない。例えば「カタコンベ」の出だしなどは、トロンボーンのアンサンブルが美しい。つまり完成度の点において、これ以上望めないような水準に達している。

なお、このCDには定番の「はげ山の一夜」が余白に収録されている。これも名演。

2022年12月15日木曜日

シュターツカペレ・ベルリン演奏会(2022年12月6日サントリーホール、クリスティアン・ティーレマン指揮)

最近は新聞を読むことが少なくなった。ニュースに興味がないわけではない。老眼がひどくなり、そこに白内障が追い打ちをかけ、活字を追うのが困難な状況だからである。昨今の新聞記事が面白くないということも、重要な理由である。

それでも大きな活字の見出しと、新刊本や雑誌の広告、さらには特定のコラム、文化欄などには目を通している。今月(2022年12月)の日経朝刊「私の履歴書」は、リッカルド・ムーティである。こういう記事は毎日楽しみにしている。

先月足を運んだ北ドイツ放送フィルのコンサートについては、新聞の広告欄で知った。ネットが情報伝達の主流となった今でも、講演会場前で配られる大量のチラシやダイレクトメール、それに新聞広告は、クラシック通にとっては重要なメディアである。特に売れ残った公演が間近に迫っている場合などは、この広告によって最後の販売促進を狙うのだろう、諦めていたコンサートに目が留まることがたまにある。このようにしてたまたま知った北ドイツ放送フィルの演奏会に関するブログ記事を書き終えて、さて今日は土曜日だから、また何か売れ残っている公演の広告でもでているのではなどと思ってみてみたら、シュターツカペレ・ベルリンのものが出ているではないか!

鉄のカーテンの向こう側、かつて東ドイツの歌劇場専属オーケストラとして、伝統あるいぶし銀の響きを維持してきたこの楽団も、もう30年もの間シェフの地位に君臨するダニエル・バレンボイムによって、さらに磨きのかかったオーケストラへと成長を遂げている、ということになっている。私はかつて10年以上前の来日公演で、ベートーヴェンの交響曲のいくつかを聞いたが、重厚感あるくすんだ音色に、とても懐かしい感じを覚えた(ただ演奏の方は新鮮味に欠けるものだったが)。

この時と大きく異なっていたのは、チケット代が倍ほどにまで高騰していることだった。昨今の円安とインフレにより、クラシック音楽の招聘費用にも影響が出始めているのだろう。このまま行けば聴衆の高齢化も手伝って観客数が激減し、来日公演自体が消滅してしまうのではないか、とさえ恐れてしまう。少しの希望は、ここに来て日本を旅したい外国人の数ははうなぎ上りであり、しかも東京の聴衆の造詣はかなり深いため、あまり心配しなくてもいいという気もする。それでも高騰するチケットが買える一部高齢日本人とアジア諸国の金持ちたちで埋め尽くされることになるような気もする。

バレンボイムはブラームスの交響曲チクルスをプログラムに組んでいた。私も第4交響曲のCD(シカゴ交響楽団)を持っており、なかなか難しいこの曲にあっては、かなりの名演奏。あのカルロス・クライバー盤の右に出るような存在だと思っている。ただ、バレンボイムのコンサートは、結構わが国でも開催されているから、ベルリンのオーケストラと演奏するブラームスのチケットが売れ残っていたとしても、さほど不思議なことではない。かつてのベートーヴェン・チクルスの時だって、確か当日券を買って駆け付けた記憶がある。

ところが広告によると、バレンボイムは健康上の理由により来日できなくなり、急遽、クリスティアン・ティーレマンに交代となったようなのである!この告示には私も驚くと同時に、偶然目にしたのは何かの縁ではないかとさえ思った。S席は35000円という信じられない値段が付けられている。それでも「ぴあ」などにアクセスすると、私が行ける唯一の公演、12月7日のプログラム(交響曲第2番、第1番)はもっとも売れ行きが良いらしく、わずか数席しか残っていない。これは大変なことになってしまった。今後ティーレマンの演奏を生で聞ける機会が、どれほどあるだろうか?思えば40年以上前に初めて自腹で演奏会の切符を買って以来、時間と金銭的余裕のある限り、多くのオーケストラ、指揮者の演奏を聞いてきた。そういう私にとって現代最高の巨匠ともいうべきティーレマンは、「いつかは聞いておかなくてはならない」指揮者となっていた。それも最後の!

そう思った私は、おもむろに「ぴあ」の空席を検索し、1階最後列というS席にしてはちょっと疑問の残る席をクリックしてしまった。舞台正面の席ではある。そして、熊本や大阪での公演、さらには前日の初台でのブルックナーなどは結構な盛況であると見えた。チケットを手に入れてから、私の頭はブラームスの旋律で溢れた。第2番第1楽章の主題。これほど心が安らぐ音楽があるだろうか。あるいは第1交響曲冒頭のティンパニの連打。思えばこの2曲はベルリン・フィルをはじめ、様々な組み合わせで接してきた。私のブラームスの演奏会史にティーレマンの演奏が加わることへの期待が、まるで修学旅行を前にした高校生のように高まっていった。こういう経験は、久しぶりである。

会場はいつもとは若干異なる、ネクタイを締めた身なりのいい人たちで溢れている。彼らは引退した高齢者(ももちろん大勢いたが)ではなく、現役の、それもそこそこ身分の高い給与所得者、ないしは経営者なのだろう。女性の装いが、高級ブランドの服や装飾品で埋め尽くされている。プログラムも有料で2000円もする。それでもこれは、若い頃からの私のコレクションになっているから、今回も清水の舞台から飛び降りる覚悟で買い求め、大切に鞄にしまった。最近では会場でプログラムが読めないのだ。チケットにはまだバレンボイムの名が記されていたが、プログラムは表紙が少々安っぽいものの、ティーレマンと楽団の写真がふんだんに掲載されていて嬉しい。早々にトイレを済ませ、期待に胸を膨らませながら待っていると、オーケストラに引き続き長身のティーレマンが登場した。

プログラムによればティーレマンは1959年西ベルリン生まれ。私より7歳年上である。私はまだベルリンが東西に分かれていた頃、ここを旅行している(1987年)から、町全体が落書きだらけの壁に囲まれた当時の雰囲気を思い出すことができる。シュターツカペレ・ベルリンは当時東側のオーケストラで、わが国にも有名な名指揮者、オトマール・スイトナーがたびたび指揮者を務めており、来日も多かったしベートーヴェン交響曲全集などの録音も有名だった。

そのシュターツカペレ・ベルリンを、何とティーレマンは今年になって初めて指揮したそうだ。東西ドイツが統合してからも、西側の雄ベルリン・フィルにはしばしば登場しているし、もう一つの東側の歴史あるオーケストラであるシュターツカペレ・ドレスデンでは何年もの間、首席指揮者を務めているから、意外と言えば意外であった。

交響曲第2番の明るく伸びやかなホルンのメロディーが聞こえてきたとき、もうこのコンビがすでに長年の関係を続けているようなものに思えた。ティーレマンという指揮者は、長年私にとってなかなかとらえにくい指揮者だったのだが、実は非常に繊細で、しかもフレーズが静かに入ってゆくところなどを、まるで幼児を撫でるような感覚でものすごく丁寧に指揮することがわかった。それがあまりに丁寧なので、音楽の流れが独特の間を持つこととなる。ここが彼の音楽の特徴で、ちょっと違和感を覚えるときがあったものだ。しかし実演に接していると、その有様は、音楽に自然の集中力を与えはするものの、決して壊すことはない。音量はむしろ小さいくらいだし、テンポはゆっくりしている。必要な時には意味深く遅く、かと思えば次第に速くなるなど、あのウィルヘルム・フルトヴェングラーを思い起こさせる。

風貌の点では、フルトヴェングラーというよりもあの大柄な長身、ハンス・クナッパツブッシュに似ている気もするが、いずれにせよこれらの巨匠の演奏は、アーカイブにしか存在しない一時代前のスタイルである。かといってティーレマンの演奏が、これらと同じかと言えばそうではない。陳腐な言い方をすれば、古くて新しいのだ。ティーレマンがなぜこんなに人気があるのかが、わかったような気がした。

だが、ティーレマンが古楽奏法全盛の時代に、まるで遺跡から生き返ったツタンカーメンのように登場してからすでに20年以上が経つ。私はティーレマンがバイロイトで録音した「指輪」のCDをすべて図書館で借りて聞いたのが、この指揮者との出会いだった。この時の上演は、奇抜な演出で物議を醸したものがDVDで先行発売されていたが、DVD会社は音だけのCDのリリースを敢行した。音楽だけを切り取って聞くと、そこは紛れもなく古色蒼然とした、しかし新鮮味のあるワーグナーだった!

今回のブラームスにも同様なことが言える。第2楽章、第3楽章ともどちらかというと静かで精緻な音がバランスよく聞こえてきて、それはあのベルリン・フィルで聞くような大音量でもなければ、ウィーン・フィルの艶のあるものでもないのだが、まるで北ドイツの空を眺めているような、薄日と冷気を帯びた夏の空気が感じられた。ここで聞くブラームスは、ハンブルクのブラームスであった。

第4楽章になるとそれでも音楽は高揚した。次第にテンポを上げていく。アッチェレランドという指定が楽譜にあるのかどうかは知らないが、彼の演奏は懐かしいその響きだった。感情が解き放たれ、輝かしい陽気のうちに演奏が終了したとき、大きな拍手が沸き起こった。こういう演奏が聞きたかったのだ、と皆が納得しているようだった。後半の第1番に期待が大いに膨らんだ。

交響曲第1番は第2番と違い、けた違いの長さと苦悩の上に生み出されたブラームスの野心作だ。ベートーヴェンの影を追い、その記念碑である9曲の交響曲を発展させる作品を書くことが彼のライフワークとなっていた。作曲開始から21年の歳月をかけて第1番は演奏された。その曲は、推敲に推敲を重ねただけのものが感じられ、大成功だっただけでなく、まさにベートーヴェンの延長線上にある曲とみなされることとなった経緯は、随所に詳しい。

一般には、第4楽章にかけて次第に白熱を帯び、最後は圧倒的な興奮が地底から湧き上がるような演奏への期待が高いのだが、よく聞くと非常に抒情的で美しい部分も多く、まるで室内楽を聞いているようなところがある。この点、威勢のいいアレグロとロマンチックな緩徐楽章にはっきり色分けされる古典派のベートーヴェンとは異なる。ブラームスは、ピアノ協奏曲第2番と同様、静かに心を落ち着かせて聞き入ると、その魅力が開いた扉の向こうから静かに溢れてくることに気付く。例えば第2楽章。ここのヴァイオリンのソロと溶け合う瞬間の、息を飲むような美しさなどは、ベートーヴェンの頃にはなかった後期ロマン派のものだ。

ソロが活躍する場面は、冒頭のティンパニに始まり、第3楽章のホルン、それを受け継ぐフルートなど書ききれないほどだが、感動的なのはそれらが一つの大きな宇宙を形成していることだ。絶対音楽としての完全性が、ここに感じられる。数々のソロを含め全体で表現したかったものが、第4楽章になって爆発する。といってもブラームスの爆発は、火山に例えれば溶岩が流れ出すようなものではなく、マグマが地底に溜まって次第に地面を隆起させるようなものだ。

ティーレマンの演奏に話を戻そう。ティーレマンは第2番同様に、ここでも音楽を爆発的な音量にしない。むしろ室内オーケストラのような精緻さで、細かいフレーズのひとつひとつにまで気を配る。楽器が溶け合うこと、複数の楽器がまるで一つの楽器に聞こえるように演奏すること、そして無駄な音が聞こえないようにすること、これらをとりわけ心掛けているように思えた。CDや映像で見るとやや不自然さも醸し出すこのような演奏も、実際に聞いてみると大変新鮮で、もしかすると昔の巨匠指揮者の演奏もこんな感じだったのではないかと思わせるようなところがあった。

私がかつて聞いた同曲の演奏と比較しても、その個性は明らかであった。レナード・バーンスタインがイスラエル・フィルと来日して聞かせたときは、全身全霊を傾けて一心不乱に指揮をしていた姿に目を奪われたが、実際音楽もそのように重厚で大胆であり、興奮を湧き起こすのもだった。一方、クラウディオ・アバドがベルリン・フィルと共演したときには、この理性的なイタリア人による実に整った演奏で、角の取れたスリムなブラームスだった。それに対しティーレマンは、伝統との調和、個々の奏者との絶妙な融合、その延長にある総合的エネルギーが、豊饒な音楽となって導かれる有様である。ベームとカラヤンの音楽を足したような表現というと、おそらく反論も多いかもしれないが、私としてはそんな印象を持った。

もっとも印象に残った部分を記しておこう。それは第4楽章、あの第九を思わせるメロディーが満を持して出てくるところ。その手前でティーレマンが相当長い休止を取ったことだ。この休止の間中、客席はもちろん物音などひとつも立てず、固唾を飲んで聞き入っている。永遠に続くかと思われたその休止が終わると、静かに、そして確実な足取りで、あのアンダンテのモチーフが滔々と流れてきた。古色蒼然とした中に冴えわたる響き。そこからコーダにかけての時間は、まさに至福の時間だった。

オーケストラが退散しても幾度となく舞台に呼び戻されることとなったのは、当然の展開であった。私はこのコンビが、すでに何年もかけて音楽を作ってきたような完成度に達していると思った。彼は、もしかしたら遅かれ早かれ次期音楽監督にでも就任するのではないだろうか。私はそれを期待する。そしてブラームス、ブルックナー、ワーグナーだけでいい。これらの作曲家の音楽を、繰り返し聞いていたい。

このコンサートを聞き終えて家路を急ぎながら、私はこれほどの大金を支払ってまで聞くクラシック音楽のコンサートは、おそらくもう二度とないだろうと思った。まだ聞いていない指揮者、オーケストラはあるにはあるが、「巨匠」という雰囲気の指揮者は今やどこにもいない。オーケストラはベルリン・フィルを別格として世界中に存在するが、どこも似たような水準で似たような音を出す団体になってしまった。であれば、それほど無理をして聞くこともないわけで、地元のオーケストラや滅多に来日しないようなローカルなオーケストラの方が、発見も楽しみも多いような気がする。ただ残念なのは、これらのオーケストラに足を運ぶ熱心なファンが少なく、プログラムが陳腐なものになりがちなこと。重量級の超一流演奏会は、ニューヨーク、ロンドン、バリ、ベルリン、そしてウィーンなどの世界の数都市(東京は今のところそのひとつだが)における数回の演奏会に限られるが、それを追いかけて行くのは(これまでもしては来なかったが)やめておこうと思う。

過去40年あまりの間に出かけた演奏会は延べ300回程度。全く自慢できる数字ではないが、この中には数々の有名指揮者、そして感動的な演奏会があった。一度それらを順に思い出しながら記録していきたいと考えてきたが、どうやらその時が到来したようである。



2022年12月4日日曜日

ラヴェル:ボレロ(ジャン・マルティノン指揮シカゴ交響楽団、エド・デ・ワールト指揮ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団)

かつて民放のクラシック音楽番組「オーケストラがやって来た」を見ていたら、当時の若手指揮者のひとりだった井上道義が登場して、新日本フィルを相手に「ボレロ」を指揮していた。子供とキャッチボールをする映像が差しはさまれ、さながらこの指揮者の紹介番組といった構成だったが、その時のインタービューで「この曲は単純な3拍子でははく、指揮は大変難しい」といった趣旨のことを言ってたのが印象的だった。長身の彼は長い手を大きく広げ、小さい音量で始まるこの曲の繰り返しのテーマを、必死で指揮している。私はそういうものかなどと感心し、以降、この曲を指揮する指揮者の身振り・手振りに注目するようになった。

NHK交響楽団の音楽監督に、フランス音楽の名手シャルル・デュトワが就任して「ボレロ」を演奏したとき、その身振りの少なさに驚いた。彼はほとんど何もせず、割りばしのような短い指揮棒を、正三角形の形に振っている。それは曲が進み、編成が大きくなるにしたがって、次第に大きくはなっていったが、それでも冷静で気取った感じが漂っていた。同じ「ボレロ」でも、こうも指揮が違うのかと思った。ただどちらの指揮も、大いに目立ちたがり屋の性質を醸しだし、見栄も感じさせるものだったことは共通している。指揮者はまず、そのような虚栄心を本質的に持っているものだと理解した。

そのバレエ音楽「ボレロ」はラヴェルの最後の作品である。ここで驚くべきことは、同じメロディーが小太鼓の規則的なリズムに合わせて、様々な楽器によって繰り返されては次第に大きくなり、最後には突如崩れて終わる。20分弱の間中、この太鼓は常に一定のリズムを刻まなくてはならない。間違いは許されず、指揮も最新の注意を払ってはいるが、基本的にはプレイヤーが集中力を維持するしかない。

最初は木管のソロで始まる静かなメロディーも同じで、楽器の組み合わせだけが変わり、やがては金管楽器を加え、さらには弦楽器、打楽器へと編成が大きくなっていく。上述のテレビ番組では、趣向をこらして演奏中の楽器のみにスポットライトを上部から当て、その組み合わせの移り変わりをわかりやすく紹介してくれた。こういった手の込んだ番組は、いまではほとんど見ることができない。

「ボレロ」はそういうわけで、演奏家泣かせの曲である。各楽器も良く知られた同じメロディーを弾くので、間違うと目立つ。ところが勝手なもので、聞き手は単調なリズムとメロディーに飽きてくる。つまり、単に楽譜通り演奏されただけでは、特徴ある演奏とはならないのだ。これにバレエが付いていればそちらにも目を奪われるが、演奏会ではなかなかそういうことはない。いやバレエだって、相当な緊張を強いられる作品ではないか。そういう意味で、この作品は短いながらも、弾き手にも聞き手にも結構な覚悟を強いる作品である。井上ミッキーの言う通りだ。それをさも軽々しくやっているように指揮するデュトワは、一枚上手の見栄張りではないかと思う。

過去から現在まで「ボレロ」を録音した指揮者は枚挙に暇がない。しかし私のお気に入りは、たった2種類である。ひとつは速く、もう一つは遅い。どちらの演奏もちょっとマイナーな、今となっては入手困難な演奏。そしてこの曲の表現としては、このような速度の違いによる2種類の演奏に大別されると思っている。

速い方の演奏のお気に入りは、ジャン・マルティノンのものである。マルティノンはフランス音楽の代表的巨匠だから、驚く話ではない。だがここで私が取り上げるのはフランスのオーケストラを指揮したものではなく、彼がわずかの期間音楽監督を務めていたシカゴ交響楽団とによる演奏である。彼のシカゴ響との演奏は、その前のフリッツ・ライナーと後のゲオルク・ショルティに挟まれて、ほとんど忘れ去れている。したがって、当時の演奏は熱烈なファン向けのボックス・セットのような形でリリースされている(Spotifyではうまく検索すると聞くことができる。またわが国では、Tower Recordがいくつかの作品を特別にリマスターしてリリースした。私が所有しているのもそれである)。

マルティノンは、終始緊張感を維持しつつも、決してフランス音楽の優雅さを失うことなく、この曲の魅力を最大限に引き出すことに成功している。聞き始めから引き込まれ、単調なメロディーの繰り返しが決して単調にならない不思議な感覚である。録音も60年代としては大変良く、ステレオのサウンドがこの技巧的オーケストラの黄金の響きを伝えてくれる。

一方の遅い方の覇者は、オランダ人の職人的指揮者、エド・デ・ワールト指揮ロッテルダム・フィルによるものである。この演奏はフィリップスによって録音されているが、ほとんど目立つこともなく、今ではどうやって聞くことができるのか皆目わからない。ただ我が国ではこの演奏が有名で、その理由は80年代にホンダ・プレリュードのテレビCMに使われたからである。おそらくCMのディレクターは、安定して峠道を悠然と走行する高級自動車の宣伝に、このデ・ワールトの演奏による「ボレロ」が最も相応しいという結論に達したに違いない。この演奏からでしか感じない一種のオーラが、わずか数十秒に圧縮されている。そのCMは大いにヒットしたのも当然であった。丁度このころは、クラシック音楽が多くのCMに使われていたが、おそらくそのきっかけを作ったのではないかとさえ思っている。そしてそういう曲ばかりを集めたCDが発売された。私が所有しているのは、フィリップスが発売した日本市場向けのTV-CM集である。

長い「ボレロ」の一体どこが、プレリュードにCMに使われたのだろうか。今となっては当時のCMは見ることができないから、推定するしかないのだが、おそらくは最初に弦楽器が登場してくる10分頃のメロディーではないかと思う。あるいはその次か。いずれにせよ、どんな演奏で聞いても最大限の聞き所は、この第1バイオリンがスーッと入ってくる部分だと思う。ディレクターはまた、この部分こそがCMに相応しいと判断した。

デ・ワールトの指揮は、この単純な曲から何かを感じさせてくれる。ゆったりと演奏しているが弛緩せず、フランス以外のオーケストラに見られるようなリズムの機械的惰性にも陥っていない。マリナーが指揮したドイツのオーケストラの演奏など聞くに耐えず、アバドの演奏(ロンドン響)もあまりに直線的で、最後には興奮したオーケストラの自然発生的なうなり声まで聞こえてくる戦慄の演奏だが、ユニークではあるもののウィットが感じられない。

そういうわけで「ボレロ」は難しい。だがこの曲はラヴェルの作品の結晶ともいうべきセンスを感じさせる。体を病んで作曲を進められなくなったラヴェルは1932年、62年の生涯を閉じた。

2022年11月27日日曜日

NDR北ドイツ放送フィルハーモニー交響楽団演奏会(2022年11月23日みなとみらいホール、アンドリュー・マンゼ指揮)

午前6時4分。空が白み始めた東京駅をやまびこ51号盛岡行は静かに出発した。2022年11月25日。私はまたもや東北新幹線の旅人となって北へと向かう。行き先は釜石。東日本大震災の被災地を巡る旅もこれが4回目となる。約1年ぶりとなる今回は、釜石から宮古までを行く。もう11年もたっているのだから、これは被災地旅行というよりも、まだ見ぬ三陸方面への観光旅行である。

第1回目は災害の復興が始まったばかりの2014年頃で、気仙沼の漁港にはプレハブの屋台村が開設され、そこから程遠くないところには大津波を受けて倒れかけたビルや家屋が、まだそのまま残されていた。しかし、今年の1月にはその廃墟も屋台村もすっかり近代的なターミナルやショッピングセンターへと変貌を遂げ、新しくておしゃれなレストランや土産物屋が立ち並んでいた。

上野駅を出るとようやく外が明るくなった。荒川を渡ると遠くに富士山が見えた。満員の始発列車は宇都宮を過ぎても多くのビジネスマンを乗せている。コロナの影響で長く閑散としていた新幹線も、もはや過去のものとなりつつあることを実感する。新花巻駅でローカル線に乗り換え、釜石に着いたのはまだ11時前のことだった。かつて一昼夜かかった東北も、いまでは数時間で行ける。新幹線が開通して以来のことで、これはもう40年が経過したことになる。

釜石へと向かう間中、私の耳はベートーヴェンの交響曲第7番が鳴り響いていた。2日前、新装を終えた横浜みなとみらいホールで聞いた、北ドイツ放送フィルハーモニー交響楽団の演奏があまりに素晴らしかったからである。指揮はイギリス人のアンドリュー・マンゼ。古楽器演奏の指揮者として有名で、ヴァイオリニストでもある。彼が、フォルクスワーゲンの本社がある工業都市ハノーファーのオーケストラである北ドイツ放送フィルの首席指揮者であることを私は知らなかったのだが、ここは大フィルの大植英次が振っていたオーケストラである。

プログラムはまず、ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」序曲で幕を開けた。第1音の和音が鳴り響いたとき、ああこれは紛れもなくドイツのベートーヴェンの音だと思った。何とも言えない木製のぬくもりを感じさせる音。古楽器的にビブラートを抑えているから、つやがあって、力強くもあるがしなやか。まずは音色の洗礼を受けた後、推進力をもって進む音楽は、これから始まるコンサートへの期待を最大限に膨らませるものだった。客の入りが少々少ないのが残念なほどだが、おそらくはコロナでプロモーションが遅れたこととも関係があるかも知れない。私もこの演奏会を新聞広告で知った。しかも発売日は、その広告のあった6月から2か月後の8月末だった。

2曲目のプログラムは、ドイツの重鎮、ゲルハルト・オピッツをソリストに迎えてのピアノ協奏曲「皇帝」である。親日家でもあるオピッツは、どこか日本に滞在しているのだろうか、私は昨年にも代役として演奏されたブラームスのピアノ協奏曲第2番も聞いている。コリン・デイヴィスやギュンター・ヴァントといった今は亡き巨匠とのレコーディングもあるピアニストは、しかしながらここで推進力を維持すべく、どちらかというとモダンであっさりと仕上げていく。もたつかない演奏は、ドイツの伝統的な重みのあるものを期待していると裏切られる。だが、オーケストラとの相性を考慮すると、これは当然のこであると思われた。第2楽章の流れるようなメロディーは、どこかメンデルスゾーンを聞いているような感じでさえあった。

休憩を挟んでいよいよ交響曲第7番である。来日メンバーはそう多くなく、典型的な二管編成であり、従って音量はさほど大きくはない。これがビブラートを抑えて演奏されるのだから室内オーケストラを少々大きくした感じではあるが、各楽器の奏者も大変上手く、引き締まったリズムが大柄な指揮者の細かい指示にも機敏に対応していく。決して堅苦しい演奏ではない。たとえば、第1楽章のカデンツァを含めて大活躍する木管楽器は、これぞ本場ドイツのプレイヤーと思えるような、自由闊達に歌い、そして流れに溶け込む。その即興的とも言えるような妙味は、おそらく同じ演奏は2回とないだろう。こういう職人的演奏が生で聞けるから嬉しい。録音だともっとあらたまった演奏になると思う。嬉しいことに主題は繰り返され、2回目ともなるとプレイヤーにも自信が感じられて、その推進力と新鮮さがさらに増大する。

第2楽章の素晴らしさは例えようもなく、指揮者の細かい音量の指示に、実に細かく対応している。この第2楽章はあまりに見事だったので、思い出すだけでもうれしさがこみ上げてくるが、できればもう一度聞いてみたい(アンコールしてほしかったとさえ思う)。第3楽章のスケルツォも申し分なく、きっちりと楽章間で休憩を挟むと、満を持したように流れ出るアレグロ。圧巻のフィナーレは、もう何も言うことはないだろう。客席は高齢者が目立つものの、拍手はしっかり熱狂的で、コロナ流行下でなかったら熱烈なブラボーが出たことだろうと思われる。

一連の最終公演となったこの横浜でも、アンコールに演奏されたのは何とスウェーデンの作曲家アルヴェーンのバレエ音楽「山の王」から「羊飼いの娘の踊り」という曲。オール・ベートーヴェン・プログラムの最後に北欧の音楽を演奏するというのも粋な話だが、確かにオーケストラのより明るく透明な響きが前面に出て、ちょっと固めのドイツ音楽とのさりげない対比を示して見せた、ということだろうか。

26回目の結婚記念日だったこの日の演奏会は、あいにく冷たい雨の降る一日となった。賑やかなみなとみらい地区のカフェで時間をつぶしたあとは、関内にあるフレンチ・レストランに移動して妻と二人だけで祝杯を挙げた。今年も残すところ1か月余りとなった。今年最後のコンサートは、東北3県を巡る今回の旅を終えた12月7日、サントリーホールで開かれるシュターツカペレ・ベルリンのコンサートである。8年ぶりとなる釜石は今回も快晴の陽気で、どこまでも青く深い静かな太平洋を望むことができた。今夜は宮古まで行って龍泉洞近くに泊まる。三陸海岸は、津波のことを忘れるくらいにとても風光明媚なところである、と今回も思った。

2022年11月21日月曜日

R・シュトラウス:楽劇「サロメ」(2022年11月20日サントリーホール、ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団)

クラシック音楽のコンサートにおける日本の聴衆は、礼儀正しく大人しい。特にコロナ禍に見舞われてからは、正しくマスクを装着し、ブラボーを叫ぶ人はいない。しかし、今回のコンサートは違った。我慢しきれず、自粛が呼びかけられたブラボーを発する人が少なくなかっただけでなく、終演と同時に立ち上がる人が多数。会場が興奮に満ち溢れ、会心の出来と思われた指揮者、オーケストラ、それに歌手たちが満面の笑みを湛える。東京交響楽団が音楽監督ジョナサン・ノットとともに上演したリヒャルト・シュトラウスの歌劇「サロメ」(演奏会形式)の類稀な大成功は、伝説的な名演として長く語り継がれるであろう。

その様子をここに書き記すことは、大変な労力である。全編に亘って交感神経が張り詰め、近代のドイツ文化が到達したある種の頂点は、丁度サッカーのドイツチームが超攻撃的な攻めを見せるように、私たちを圧倒する。だがそれだけではない。シュトラウスの音楽は精緻で、セリフのすべての物にそのモチーフが付けられている。丁寧にそのひとつひとつを押さえながらも、全体としては一つの流れを終始維持し、緊張が途切れることはない。全一幕の約100分は、そうだとわかっていてもあっというまに経過し、舞台に出入りする歌手の一挙手一頭側に目を凝らしながら、時折字幕を追う。

表題役はリトアニア人のソプラノ、アスミク・グリゴリアンである。彼女は細身の美貌でありながら、強靭な声を終始絶やさず、まさにサロメの当たり役と言える。登場したときは、確かに上手いと思う程度だったが、その声量と歌唱は次第に完成度を増し、さらにはそれを超えてどこまでも圧倒的に聴衆を引き付けた。「7つヴェールの踊り」に至るまでのヘロデとの丁々発止のやり取りは、聞いていても興奮する。踊りのシーンはオーケストラのみの演奏だったが、そこから終演までの歌唱は、鳥肌が立つほどだった。真っ赤な布をヨカナーンの頭部に見立て、その布をスカーフのように身にまとう演出は、猟奇的な生々しさを緩和する一方で、真の愛情に飢えた少女の心情を際立たせるに十分だった。

グリゴリアンの圧倒的な歌唱を支えたのは、他の3人の主役級歌手が、それに劣らず素晴らしかったからだ。すなわち、ヨカナーンを歌ったバスバリトンのトマス・トマソン、サロメの母ヘロディアスを歌ったメゾソプラノのターニャ・アリアーネ・パウムガルトナー、そして巨漢ヘロデ王を歌ったテノールのミカエル・ヴェイニウスである。ヨカナーンは井戸の中から歌うシーンでは、P席上段のオルガンの横にいて神々しく歌い、舞台に上がった時には人間味のある演技である。彼は頑なにサロメの欲求を退ける。

一方、ヘロデとヘロディアスの会話は、この二人の歌手が素晴らしいだけに圧倒的で、激しい夫婦喧嘩もシュトラウスの音楽で聴くと迫力満点。サロメの意地っ張りな態度は、母親譲りということだろうか。真の愛情を知らない親子は、ナラボートを自殺に追いやり、預言者ヨカナーンを処刑し、自らも死刑になる。近親相関と異常性欲が凄まじいエネルギーの中で交錯するオスカー・ワイルドの台本も、その前衛性が物議を醸し、長らく出版が禁じられた。だがシュトラウスは、さらに「エレクトラ」で前衛的手法を押し進めていく。

今回はコンサート形式による演奏だったが、このような演奏は予算の低減につながるため、昨今の流行りではある。オーケストラが舞台上にいるため、音楽の構造がよくわかり、よく聞こえる。半面、歌手の歌声がかき消されることも多いが、今回の上演ではその心配は吹き飛んだ。1階席前方で聞いていたこともあるのだろう。すべての声は直接耳に届く。歌手はむしろ演技を最小限に抑えることで、歌により集中することもできるという効果も生まれる。最近は舞台演出でもごく最低限のものしか置かないような、バジェット的演出が多いため、結局は想像力がいる。そう考えると、コンサート形式でのオペラも悪くはない。とにかく安いのがいい。ただ、「サロメ」は視覚的要素の強い作品だから、一度は舞台で見たいとも思った。

ブックレットによれば今回の上演には演出監修がいて、それは何とトーマス・アレン。彼はモーツァルトのドン・ジョヴァンニを歌っていたバリトン歌手で、私もよくビデオで見たが、何と彼は来日をしており、カーテンコールに登場した。カーテンコールの最中、指揮者ノットは終始興奮した笑顔で、今回のコンサートに大いに満足した様子である。何度も呼びもどされ、それはオーケストラが舞台から去ってもなお続いた。客席が総立ちのまま、何枚もの写真をスマートフォンに収めるのに忙しい。長いオベイジョンが終わって会場を出ると、雨が降っていた。気が付くともう11月も後半である。今年も残すところ、あと1ヶ月余り。コロナウィルスの非日常生活も、3年になろうとしている。

2022年10月26日水曜日

ヴェルディ:歌劇「ファルスタッフ」(東京フィルハーモニー交響楽団第976回サントリー定期シリーズ、2022年10月20日サントリーホール、チョン・ミュンフン指揮)

ヴェルディ最晩年にして最後のオペラ作品である歌劇「ファルスタッフ」は、これまで少し苦手で、CD などで聞いていてもどこか捉えどころがなく、歌が(重唱が多い)長々と続くだけの作品だと思ってきた(ワーグナーに似ている)。しかし、こういう場合、往々にして作品に真正面から向き合っていないことが多い。特に「ファルスタッフ」のような玄人好みの作品になると、その良さを体感できるような一定の技術的水準の名演奏に接することができない限り、その良さが伝わりにくい。

昨年、2022年の定期演奏会のラインナップを知った時、チョン・ミュンフン指揮による「ファルスタッフ」が目に留まった。この演奏会が最大の魅力に感じられた。なぜなら私は、数年前にベートーヴェンの「フィデリオ」を、やはり彼の指揮する同じ東フィルのコンサート(演奏会形式)を経験しており、その演奏は「フィデリオ」の素晴らしさを余すことなく伝え、今もって記憶に残る大名演だったからである。

会社での仕事を早々に切り上げ、満員の地下鉄に飛び乗りコンサート会場へと急ぐ日常が、久しぶりに戻ってきた。昼から忙殺される資料作りや会議などにストレスは高く、これをわずか1時間のうちにクラシック音楽向けの脳に切り替えるのは、なかなか難しい。

会場はほぼ満席。通常 P 席と称されるオーケストラ背面、すなわち舞台向正面の席は、おそらく合唱団が使うのだろう、黒い布で覆われていた。そしてオーケストラは、いつもより舞台後方にぎゅっと詰められており、さながらオーケストラピットのようである。その前に大きくスペースが設けられ、総勢10名もの歌手が出たり入ったりと忙しい。英国ウィンザー城を舞台としたコメディは、何やら小道具がいっぱい使われるが、それらはこの舞台にも用意されているようだ。

19時の開演とともに、オーケストラに引き続いて舞台に登場したのは二人の従者、バルドルフォ(大槻孝志、テノール)とピストーラ(加藤宏隆、バス・バリトン)、それに医師のカイウス(清水徹太郎、テノール)、さらには太鼓腹の巨漢ファルスタッフ(セバスティアン・カターナ、バリトン)である。

チューニングも終わって指揮者を待っていたら、舞台右袖から一人の掃除婦がホウキを掃きながら登場した。彼は居酒屋「ガーター亭」の主人であり、ファルスタッフに酒を注いだりしている。背が低く、いささか貧相な風貌、などと書くと大変失礼な言い方だが、その主人こそマエストロであった。前掛けを指揮台の下にしまい、前奏曲もなくいきなり第一幕の音楽が勢いよく流れてきた時、その明るくて力強いオーケストラの響きにあのジュリーニの名演を思い出した。チョン・ミュンフンは、そういえばジュリーニのアシスタントを務めていた指揮者なのだ。だが、チョンにとって「ファルスタッフ」は、初めて指揮する作品らしい。

ファルスタッフ役のカターナは、その風貌もぴったりのルーマニア人とのことだが、彼の経歴を見ると面白く、何とカーネギー・メロン大学で化学工学を専攻している。しかし歌声は、これほどファルスタッフにぴったりな歌手はいないと思えるような素晴らしさで、その声量は一頭上を行っている。

今回の歌手は、表題役のファルスタッフを除き、すべて日本人。その数は総勢9名である。この日本人歌手たちをどう選んで配役につけたのか、そういった裏方の仕事は、私のような素人には想像もできないが、彼らは全員甲乙がつけがたいもので、今回の演奏の水準が大変なレベルであることを示している。最初、女声陣の声が少し弱いなどと感じたが、それは時間を経ると次第に良くなった。

第1幕第2場では、それまでの男性4名に代わって、女性4名の登場である。ファルスタッフが同じ文面の恋文を授けるメグ(向野由美子、メゾ・ソプラノ)、フォード婦人のアリーチェ(砂川涼子、ソプラノ)、それにアリーチェの娘ナンネッタ(三宅理恵、ソプラノ)、さらにはおせっかいおばさんのクイックリー夫人(中島郁子、メゾ・ソプラノ)。この中では、クイックリー夫人が、その低い声と意地悪おばさんの風貌を生かして、とりわけ印象に残った。

今回の演奏では、丁度真ん中の第2幕第1場を終わった時点で、休憩となる。指揮台のそばに置かれていた丸テーブルや、そこに置かれている酒瓶など、小道具だけではあるがこのようなコメディのストーリーには十分である。チョン自らが演出した、とブックレットには記載されているが、なかなかの面白さで笑いを誘う。もちろん字幕もついている。

第1幕のうちに、残りの人物、すなわち富豪のフォード氏(須藤慎吾、バリトン)、ナンネッタの恋人フェントン(小堀勇介、テノール)も登場するが、もう誰が誰だかわかりにくい。舞台で見ていてもそうなのだから、音楽だけを聴いていると誰が誰と歌っているのか皆目見当がつかなくなる。舞台を見ても字幕を追わないといけないし、字幕に集中しすぎると肝心のストーリーがわからなくなっていく。

ストーリーは事前に大まかな予習を済ませ、会場では字幕を最小限に追いながら、目は歌手の動きに、耳は音楽に集中させるのがいいと思う。ここで演奏会形式の場合、オーケストラが舞台上に上がっていると、ピットに入っている場合と違って音量が大きくなる。劇場の上階で聞いていると、オーケストラの音が直接聞こえてくるのに似てはいるが、この場合は響きがデッドである。サントリーホールのような残響で聞けるオペラ音楽は、なかなか聴きごたえがあると思う。

休憩を挟んだ後半の見どころは、何といってもファルスタッフが洗濯籠に入れられてテムズ川へ投げ込まれるシーンである。そしてなんと、大きな籠が舞台に登場。ファルスタッフはそこへ入って歌う。これほどにまで演技が入るのは、演奏会形式とはいえなかなか例がないのではないかと思う。重唱は舞台空間を広く使って大変見事だが、それを支えるオーケストラが、やはりここでは前面に出ている。そのオーケストラは、舞台下の小空間から解き放たれて生き生きしている。

英国が舞台とはいえ、まるでイタリア人の日常会話をそのまま音楽にしたような作品である。だがそれもひと段落して、第3幕の妖精のシーンともなると、新国立劇場合唱団も加わって大いに見応えがある。レクイエムを彷彿とさせるヴェルディの真骨頂ともいうべき音楽は、まず合唱の男声陣が、次いで女声陣、さらにはフィナーレで全員が登場。もちろん舞台には10名の歌手がずらりと並ぶ。「世の中はすべて冗談」と歌われるフーガは、次々と歌手に歌い継がれ、客席にまで訓告されるという手の込んだもの。このあたり、ヴェルディはオペラという劇場空間を飛び出して、丸で人生哲学を語るかのように、しかしあくまで軽やかに描いて見せる。その鮮やかさ、そして音楽の重厚さ。人生は喜劇、というヴェルディの最晩年の境地が、興に乗った会話と洒落た音楽からほとばしり出る圧巻の大団円は、指揮者が手を挙げ、オーケストラが総立ちになって終了した。 

わが国では珍しいスタンディングオベーション。コロナ下で禁止されているブラヴォーを叫びたくなる気持ちをこらえて、満場の拍手が会場を包む。そして何とコーダの11重唱をアンコール!オーケストラが引き上げても収まらない拍手に応え、マエストロとファルスタッフが登場すると、総立ちとなっている客席からはさらに盛大な拍手が沸き起こった。

長時間でも飽きることはなく、昼間のストレスもどこへやら。非常に満足度の高い演奏会の終演は21時30分を過ぎていた。空腹の状態で帰宅しても何かお腹のなかがいっぱいになったようなコンサートだった。

(2年越しの腰痛の間、中断を余儀なくされた街道歩きを再開するにあたり、栃木県那須町芦野へ向かう朝一番の「やまびこ」の車内にて)

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...