2018年4月28日土曜日

レ・ヴァン・フランセ演奏会「協奏交響曲の夕べ」(2018年4月24日、オペラシティ・コンサートホール))

思い立って、レ・ヴァン・フランセ(フランスの風)という名のグループのコンサートに出かけた。というのもグループのメンバーを見て驚いたからだ。フランスを中心とする世界的な管楽器奏者から成るその人たちには、クラリネットのポール・メイエ、フルートのエマニュエル・パユ、オーボエのフランソワ・ルルー、ホルンのラドヴァン・ヴラトコヴィッチ、それにバソンのジルベール・オダンがいる。特にヴラトコヴィッチは、モーツァルトのホルン協奏曲のCDを持っていて私の愛聴盤である。

レコードで耳にしたことのあるような奏者たちの生演奏を、一度に聞くことが出来る。そしてプログラムがまた大変魅力的である。18世紀に活躍した古典派の作曲家が残した協奏交響曲ばかり4曲も演奏される。いずれも演奏されるだけで珍しい作品ばかりだが、あのモーツァルトのK297bも含まれており、この作品が実際に聞けるなんてワクワクする。管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団。最低の人数に絞った小編成で、指揮者はいない。雇われたオーケストラといった感じ。

会場に集まった今宵のリスナーは、とても若い人が多く、女性が目に付く。いつも老人ばかりが主体の私のコンサート活動にあって、これは異例である。よく見ると制服姿の高校生や、背中にフルートだのクラリネットだのを背負った姿を見かける。これはすなわち、本日登場する管楽器の、若きプレイヤーということになる。世界最高の演奏が聞けるとあって、集まって来るのは当然のことである。

協奏交響曲というのは複数の楽器が登場する協奏曲風の交響曲で、シンフォニア・コンチェルタンテと言うが、この分野の作品は古典派時代に数多く作曲されるものの、ベートーヴェン以降になるとさっぱり流行らなくなった形式である。おそらく音楽の規模が大きくなるにつれて、地味な存在に追いやられていったのだと思われるが、資本主義的な興行にとって、多数の独奏者に出演料を支払うことが困難になっていった側面もあるのではないかと思う。

さてコンサートの最初はプレイエルの「フルート、オーボエ、ホルン、バソンのための協奏交響曲第5番ヘ長調B115」という作品である。プレイエルはハイドンの弟子だが、私はいくつかの交響曲を聞いたことがあるだけの作曲家である。プログラム解説書によれば、全部で6曲もの協奏交響曲がのこされているそうだが、今回演奏された第5番は、1800年前後の作品のようだ。

オーケストラの人数が少なく、ややなぞっているだけのような感覚で、そのことが本来は溌剌としているであろう古典派の形式美を伝えそこなってしまったのではないか、などと心配したが、舞台に向かって右からフルート、バスーン、ホルン、オーボエの順に並んだ独奏のやりとりに見とれているうちに曲が終わってしまった。ホールの残響が私の好みに合わないせいか、どうも中途半端の音がする。

2番目はダンツィの「フルートとクラリネットのための協奏交響曲変ロ長調作品41」。マンハイム学派の作曲家の作品である。クラリネットのメイエは、やはり素晴らしく、陰影に富んだ音色を使い分け、聞きごたえのある演奏に仕上げて行く。もちろんパユのフルートが悪いわけがない。彼はトゥールーズのオーケストラと競演した時にもそうだったように、一人だけiPadを譜面台に置いている。足でページを繰る操作を行うようだが、私などは途中でシステムがフリーズすたらどうなるのだろうか、あるいはページを一度にめくり過ぎたりして、演奏すべき箇所がわからなくなったらどうするのだろうか、などと余計な心配をしてしまう。だがそんなことはお構いなしに、自然体でありながら実に伸びやかで、完璧。

さて、オペラシティのコンサートホールは、ウィーン学友協会に似せているのか、長方形をしている。しかも1階席にほとんど傾斜がない。このことが今回も私に非常なストレスを与えることとなった。プレイエルでは前の席が空いており、舞台が良く見えたのだが、第2曲の前に遅れて来た大柄な学生が座ると、途端に視界が遮られたのだ。クラリネットを吹いているらしいこの学生は、しかも椅子に前かがみで腰掛けるから、私は終始、体を右か左に寄せなければ舞台がおとんど見えない。しかも右隣の女性は、大きな袋を両ひざの上に置いて不安定な格好をしつつ、曲の合間にチラシを繰るのである。

最悪のコンディションは後半も続いた。第3曲のドヴィエンヌの「フルート、オーボエ、ホルン、バソンのための協奏交響曲第2番ヘ長調」は、ほとんど印象に残っていない。唯一フランス人の作品だが、ホルンのヴラトコヴィッチなど、どうしてこんなに柔らかいきれいな音がするのだろうと、聞き惚れていた、とでも書いておこう。

当日券を買う時に空席だった右隣に座っていた女性は、休憩時間になっても膝上の大袋を床に置こうともせず、そのまま不安定な姿勢である。一方前の学生は、その右隣が3つも空いているというのに、前かがみの姿勢のまま動こうとしない。ところが、最後のモーツァルトの演奏の前になって、突如右隣の女性が席を立ったのだ!

当日券を買った女性が、今日もっとも有名で目玉の作品を聞かないまま退出したことで、私は堂々とその席に移動した。このことによって視界が一気に開けた。再び登場した4人の独奏によって奏でられた モーツァルトの「オーボエ、クラリネット、ホルン、バソンのための協奏交響曲変ホ長調K297b」は、すこぶる楽しめた名演となった。ほれぼれするようなメロディーが続くこと20分。私はやはりモーツァルトが一頭群を抜く作品を残していることに納得するとともに、比較的早いテンポで演奏されるザルツブルクの天才による作品に体を揺らした。

この作品を聞きながら、協奏交響曲の面白さを初めて体験したと言ってもいい。その理由のひとつは、独奏楽器と同じ楽器が、オーケストラの中にもあって、彼らのメロディーの受け持つ部分の違いを見ることが面白いということである。協奏曲というのが、これらの楽器間でのやり取りをも含むものなのだ。最初は流すようだったオーケストラも、さすがにモーツァルトともなれば練習を繰り返したのだろうと思う。このモーツァルトの演奏は、おそらく一生もう耳にすることがないであろうこの作品の、最初にして最後の超名演だった。なおNHKが本公演を収録していたので、後日放送されるものと思われる。

アンコールに現れた5人は、最後にイベールの「木管五重奏のための3つの小品」の一部を演奏した。急に現代の音楽となった会場の拍手は、この作品で最高潮となった。もしかすると古典派の作品は、彼らの技巧を持て余すことになっていたのではないかとさえ思わせた。丁々発止のやりとりはあっという間に過ぎ去った。だがそれにしてもこのコンサート・ホールの設計には納得がいかない。2階席などは舞台が遠くて見えにくいし、2階サイドの席はパーシャル・ビューである上に、常に横を向く必要があり首が疲れるのだ。現代の東京において、なぜこのような形のホールを作る必要があったのか、私には全くわからない。

2018年4月24日火曜日

NHK交響楽団第1884回定期公演(2018年4月20日、NHKホール)

久しぶりにベートーヴェンを聴いた。それも最近ではむしろ珍しくなった感のあるモダン楽器風の演奏である。CDを含め、もう年に数回も聞かくなったベートーヴェンの作品を2つ並べる演奏会に、NHKホールの客席は3階の奥までビッシリと満員である。それほどこの日のコンサートは特別であった。

特別であることの理由は、まずピレシュが引退を表明し、このたびのツアーは日本の聴衆にとって最後になるということである。思えば1944年生まれのピレシュは今年74歳である。私の両親ほどの年齢であるにもかかわらず数多くのレパートリーをこなし、世界各地で演奏を繰り広げる現役の世界的ピアニストであり続けることが、どれほど大変かは想像を絶する。

今一つ本公演が特別な理由は、指揮者のブロムシュテッについてである。彼もまた91歳と「超」高齢なのである。私の知る限りでは、70年代頃から非常にきびきびとした演奏をする指揮者で、東ドイツのドレスデンのオーケストラを指揮していたころに録音されたグリーグの「ペールギュント」は、高校生のころの私の青春の音楽であった。それはそれは毎日、カセットテープが擦り切れるほど聞いた記憶がある。敬虔なクリスチャンとして厳格な演奏をすることで知られ、練習もめっぽう厳しいとの評判だが、私もN響で聞いたシベリウスなどは忘れられないし、ブルックナーの第4番も脳裏に焼き付いている。

「一期一会」というに相応しい今回の定期公演に、チケットは早々に売り切れた。同じ組み合わせで昨年末のベルリン・フィル定期が催されたということは、後で知ったが、馬鹿でかいNHKホールが連日満員、チケット完売となったのは、私の記憶でも朝比奈隆以来ではなかろうか?それほど期待の大きいコンサートに、私は弟と妻を誘い、辛うじて手に入れたのは3階のC席であった。高い方からチケットが売れていくN響定期において、これは残念ではある。だが実演に触れることができるだけで幸運である。

ピアノ協奏曲第4番は、静かに始まる。いきなりピアノのソロがあって、同じメロディーをオーケストラが繰り返す。おもむろにメロディーが始まるのは第2楽章、第3楽章でも同様で、これはベートーヴェンの実験的な側面が強調されている。ピレシュの冒頭は、美しい響きが少しの疲れの中にも確実に響き、その独自の世界は、まわりからちょっと浮くようでもあるが、優しく、そして精神的な幸福感に持ちている。それが彼女の音楽の魅力そのものであると思う。この個性は、独奏部分で真価を発揮する。すなわち、私は今回の演奏の最高の部分は、第2楽章であったと信じている。

ベートーヴェンがなぜこの曲にだけ短い緩徐楽章を書いたかわからない。だが凝縮された中に、もうこれ以上に無駄はないと思われるほどの集中と深遠さを持ってこの音楽は流れる。その例えようもない静謐さのなかにあって、ピレシュの音楽がどれほど精練され美しかったかをここに記すことはほぼ不可能である。私はただ涙があふれんばかりだったということ以外に。

編成をおそらく演奏当時の規模、すなわち少数の弦楽器と2管編成に限定したオーケストラは、広い舞台にはさらに小さく見えた。その編成は、続く交響曲第4番でも同様で、作品番号の近いこの2曲は同じ日に初演されているという。

傑作の森の頃のベートーヴェンが、もっとも意欲的に作曲を繰り広げていた作品群の中にあって、この2曲は若干地味な存在と言える。つまり「北欧の乙女」である。ブロムシュテットはもう高齢なので、弛緩した演奏になるのではないか、だとしてもそれはそれで充実した枯淡の境地に接することになるのではないか、という期待は見事に裏切られた。舞台にさっそうと現れた指揮者は、いつもの少し早めのテンポでオーケストラを引っ張っていく。序奏も比較的早く、それは最後までそうであったが、特筆すべきは管楽器と弦楽器がこれほどうまく溶け合った演奏もないではないかというほど精密に計算された掛け合いが全楽章を通して展開されたことだ。

フルートがオーボエに、クラリネットが弦楽器に、線上に現れては繋がり、音が重なることもなければ途切れることもなく、順番にスーッとひきつがれてゆく。まるで一つの楽器のように正確に。これほど管楽器が活躍する曲にあって、室内楽のように精密さが要求される様は、前半のピアノ協奏曲第4番と同様、聴衆を釘付けにした。

アグレッシブでエキセントリックな演奏が主流となった昨今のベートーヴェンだが、90年代の頃のモダンな演奏に久しぶりに接したというのが正直な感想だ。大拍手の中を何度も舞台に登り、特に木管楽器のメンバーと握手を交わす。オーケストラも満足の一夜だったのではないだろうか?もうこのコンビで演奏会を聴くことはできないのだろうか?いやそんなことはない。近秋の定期にブロムシュテッとは再登場し、遂にはブルックナーの第9番やマーラーの「巨人」などを指揮することになっている。もう今からわくわくする。

2018年4月22日日曜日

東京交響楽団第65回川崎定期演奏会(2018年4月15日、ミューザ川崎シンフォニーホール)

今回の演奏会のお目当ては、後半のブルックナーではなく前半のマーラーであった。マーラーの交響曲第10番嬰へ長調は、未完に終わった。1911年に亡くなる前年の1910年に着手されている。第1楽章の「アダージョ」はほぼ完成形だったようだが、第2楽章以降はスケッチのみが残されている。この部分を補って、全曲として完成させたデリック・クック追補版などは最近演奏されることも多いようだが、今日、ジョナサン・ノット指揮による東京交響楽団による演奏は「アダージョ」のみ、そのラッツ校訂版ということになっている。

大作、交響曲第9番を完成させたマーラーは、ニューヨークに活動の本拠地を移していたが、まだ飛行機もない時代、新旧の両大陸を移動し、演奏会を年に何十回もこなす生活は、彼を過労死へと導いたのではないか、と私は思っている。マーラーはすこぶる精力的であり、その多忙ぶりはメンデルスゾーンを思わせる。本作品は、持病として不整脈を持つマーラーの、病んだ心臓のようにギクシャクしたものだという指摘があるが、私はむしろアルマの不貞にも苦しみながら超多忙な生活を続けるマーラーの、ストレスの多い精神状態を体現しているように思っている。それは現代人そのものの感覚であり、その方向が(至極簡単に言えば)十二音階や不協和音の多用される音楽へと発展?してゆくことになる。

さて私はこのプログラムの演奏会を、前日のサントリーホールで聞こうと考えていた。残り少なくなったチケットをオンラインで買おうとしたとき、表示されたのはS席がわずかに1枚。その1枚を大急ぎで押さえたものの、決済の方法を間違い、自動的にキャンセルされたとわかったのは前日のことだった。ところがサントリーホールのホームページには、何とS席とA席合わせて80枚もの当日券が売り出されると書いてある。私は少々混乱し、それなら翌日の川崎のコンサートも当日券が十分にあると考えた。実際、その通りであった。

当日券売り場に並んでいると、後ろに居た女性が知り合いの人と会話を始めた。彼女は前日の演奏会がいかに素晴らしかったかを話し、そしてもう一度聞きたくて今日もここに来たと言った。同様の意見は、他の客からも聞こえた。そういうことがあったので、私は迷わずS席を買うこととなった。2階最前列の席は、それでも空席が目立った。ところがこれは実に大名演だったのである。

マーラーの交響曲は、私にとって初めて実演に接する曲で、そしてこれでマーラーの作品は一通りすべて聞き終えることとなる記念すべき日である。ノットは丁寧に、そして時にはつんざくような響きを会場に響かせた。この作品、私が何か書くことはほとんどできないのだが、一つ言えることは、それまでの作品からさらに先へと進んだ感のあることだ。ノットの演奏は、そのことを考えさせた。だがそれが何であるかは、少なくとも私の経験からはうまく表現できない。

ブルックナーの交響曲第9番ニ短調もまた、この巨匠の未完の作品である。ただこちらは第3楽章まであり、それだけでも1時間を超える作品である。スケルツォが第2楽章に置かれれtることもあって、完成された一つの作品を聞くようなところがある。今日の演奏会は、ロマン派後期のシンフォニスト二人の未完の曲というわけである。

演奏は第2楽章以降が秀逸で、もしかするとこの作品を実演で聞くことのできる最高のレヴェルにあったのではないかと思う。それは解釈がどうのこうのということではなく、オーケストラの集中力と迫力が、恐ろしいほどに発揮された演奏だったからだ。我が国のオーケストラの演奏会となると、聴衆を含め少し醒めた演奏が多い中にあって、東京交響楽団は全体に若い奏者が多く、実力派揃いではないかと思う。たとえばオーボエの荒恵理子、 ファゴットの福井蔵などである。

この二人しか私は実名を知らないのだが、マーラーの「アダージョ」でも見せた精緻でふくよかな響きが、ブルックナーでは如何なく発揮されたと思う。最前列左右に分かれたヴァイオリンはもとより、ヴィオラや左手置くに陣取ったコントラバスまで、フォルテの時には揺れに揺れ、最後列のプレーヤーまでもが思いっきり弦を上下させる様は、ベルリン・フィルのビデオを見る時のように手に汗握る興奮である。

そのような迫力だけで押し切るような演奏に終始していては、ブルックナーにはならない。だが今日の演奏は第3楽章のアダージョにおいて、さらに演奏に磨きがかかったように思える。我が国のリスナーはマナーがいいといつも思うが、今日の川崎に集結した聴衆ほど私を驚かせたことはない。曲が終わっても、誰一人拍手しないのである。完全なる静寂の時間が長く続いた。手を下げないノットが、十分に長い沈黙のあとで腕を下すと、会場のあちこちから怒涛のようなブラボーが響き渡った。

拍手は十分以上は続いたと思う。そしてN響以外のオーケストラの定期で、オーケストラが引き上げても拍手が鳴りやまないシーンを、私は初めて見た。オーケストラを含め、会場全体が音楽に浸る時間を共有し、その美しさに感動した。サントリーホールでのその模様は、NHKによってビデオ収録されたらしい。だから放送される時が来たら、ぜひ見てみようと思う。このまたとない時間を思い出すために。

2018年4月9日月曜日

バリオス:ギター曲集(G:ジョン・ウィリアムズ)

例年より早く桜が散って、新緑がまぶしい季節となった。吹く風はまだ少し寒いが、青空に木々の緑が映えるこの季節を、私はことのほか愛している。そんなまぶしい陽気に相応しい曲として、私はバリオスのギター曲集を聞いていた。

それは箱根峠から三島へと下ってゆく急な坂道でのことであった。江戸時代のまま残る石畳の松並木を抜けると眺望が開け、右手には白銀の雪を頂く富士が、左手には陽光を受けて鏡のようにキラキラ光る駿河湾が見渡せた。日曜日だけれど、歩く人はほとんどいない。箱根ではあれほど多くの外国人観光客を見かけたし、小田原方面へと下る道には大勢のハイカーがいるけれど、逆の方向(これを昔は「西坂」と言った)へと下る人は少ないのだ。

左のポケットに入れたWalkmanから心地よいギターのトレモロが聞こえてくると、時間が止まったような感覚が私を覆う。朝食にパンを一枚だけ食べてきただけの、いわば空腹の状態で何時間も歩き続けていると、飢餓感が五感を研ぎ澄まし、自分に本来の感性が戻って来る。ジャンパーの襟を立て、箱根連山に吹き付ける太平洋からの南風を受ける。わずかばかりの雲が富士山に当たり、その頂上にだけ漂っている。5合目付近まで被る雪との境界がわからない。景色を楽しみつつも足元に注意しながら、急な坂道を少しずつ下りてゆくには、登るとき以上に体の様々な筋肉を動かす。そのリズムが心地よい。

バリオスは南米パラグアイの作曲家である。だからここで聞くギターの曲が、青々とした森の風景にマッチするとは言っても、日本の山の緑と、南米アマゾン近くのそれとはずいぶん異なるだろうと思う(このCDの副題は「パラグアイのジャングルから」となっている!)。けれどもそんなことは関係ない。音楽は作曲された意図とは違うところで、また聞き手の勝手なイメージと結びつく。

私がニューヨークで勤務していた頃、西海岸サンフランシスコへの出張を命じられたことがある。もう北米滞在も終わりかけていた頃のことだ。初めて私は仕事で、カリフォルニアへと飛んだ。日本人の社員とは何度も電話でやりとりをしていた。時に冷たく、厳しくもあったその同僚も、実際に出会ってみると同じ人間である。特にその女性は、美人だということで注目の的であり、私も出会いを楽しみにしていた。

だが会ってみると、彼女は淋しそうな表情をしていた。日本を離れてアメリカ人と結婚し、郊外でふたりで暮らしていた。一週間の滞在が終わり、明日ニューヨークへ戻るという最後の日、私は個人的に彼女の夫が運転する韓国製乗用車に乗って、夜のドライブに招待してくれた。その夫はあまり幸福そうな感じではなかったが、それは仕事が売れないからだと説明してくれた。音楽関係の仕事に携わり、その専門も現代音楽の評論だと言っていたような気がする。つまり私の英語力では、詳細はわからない。

私は自分も音楽が好きでよく聞いている、と適当に話した。こちらはプロではなく、単なる愛好家である。彼は、最近リリースされたジョン・ウィリアムスのギター曲など、なかなか素晴らしいものだ、とか何とかつぶやいた。まさにそのCDを私もニューヨークのタワーレコードで買っていた。SONYのやつですね、バリオスの。その時彼の表情が一変した。「そうだ、まさにそれだ。あれは本当にいい!」

実は私はまだそのCDを聞いていなかった。だが彼は、初めて自分に友人ができたかのように、嬉しそうに話してくれた。よく理解できなかったが、彼は行く予定のなかったベイ・ブリッジの、ちょっと隠れた名所にまで私を案内し(確かそこは軍関係者のみが入れるところだった)、島のように遠くに輝く「霧の町」の夜景を楽しんだ。西海岸の乾いた、少し肌寒い風が、吹き抜けていった。

同じような風の中で、私は何十年ぶりかにこのCDを聞いた。そしてギターと言えば「禁じられた遊び」とか「アルハンブラの思い出」のような曲しか知らない私も、それと同じかそれ以上に印象的なトレモロの続くギターの名曲に、時間のたつのも忘れるような感覚を味わった。長い坂道も、このようにして春の光を受けながら、私はすこぶる愉快であった。

サンフランシスコを離れる時、その同僚が私に言った。夫はあなたとお話が出来て、久しぶりに楽しそうだったです、と。私はその時の彼女の、嬉しそうな笑顔が忘れられない。バリオスのこの音楽を聴くと、いつもその時のことを思い出す。

私は中山城址公園の、もう芝生だけとなっている広大な広場に立っていた。北条氏が何千人もの家来を率いて築城した山上の要塞も、たった半日で豊臣勢に滅ぼされたそうである。今も残る遺構の上を歩きながら、私は遠くにそびえる富士の高嶺に見入っていた。いつのまにか、バリオスのギターは終わり、次に収録されているベートーヴェンのミサ曲ハ長調が鳴っていた。新学期の快晴の一日を、ひとりで過ごす贅沢な時間を、私は心行くまで味わっていた。


【収録曲】
1.ワルツ第3番
2.前奏曲ハ短調
3.クエカ
4.マシーシャ
5.大聖堂
6.フリア・フロリーダ
7.ワルツ第4番
8.最後のトレモロ
9.マズルカ・アパッショナータ
10.蜜蜂
11.古いメダル
12.郷愁のショーロ
13.サンバのしらべ
14.アコンキーハ
15.前奏曲ト短調
16.森に夢見る
17.クリスマス・キャロル

2018年3月31日土曜日

スプリング・ガラ・コンサート(2018年3月28日、東京文化会館)

ロッシーニ没後150周年を記念して、今年の「東京・春・音楽祭」では、ロッシーニのアリアを始めとしたガラ・コンサートが開かれた。だが実際の公演の後半半分は、ヴェルディやプッチーニのアリアが中心で、しかもここの部分こそ聴きどころが満載、どの歌手も乗りに乗った素晴らしい歌声に、会場に詰め掛けた聴衆は心行くまで魅了され、久しぶりに歌を聞く楽しさを満喫した2時間余りだった。

ソプラノを歌ったアイリーン・ペレスはメキシコ系のアメリカ人で、まだあまり知られていないが、美しくも力のある実力派。まず最初のアリア、「セヴィリャの理髪師」からロジーナのアリア「今の歌声は」を歌う。安全運転の歌いだしで、指揮もどこかぎこちないのだが、最初にしては不足はない。まあこんなところかと思った。だが、休憩を挟んだ後半のヴェルディ「椿姫」より第3幕のヴィオレッタのアリア「さようなら、過ぎ去った日よ」で見せた圧巻の歌声は、私を一気に舞台に釘付けにした。続くアルフレードとの二重唱「パリを離れて、いとしい人よ」では、もう何といったらいいのだろうか、ヴェルディの持つドラマチックな音楽の素晴らしさが堪能できる。オーケストラも前半の最後で「ギユーム・テル」序曲を演奏したあたりから安定し、後半を通じて最後のアンコールまで、それはなかなかの見事なもの。歌声と楽器が見事に調和する様は、オーケストラが舞台にいることもあってなかなか聞きごたえがある。

今回、歌手は4人登場したが、おそらくテノールを歌ったサイミール・ビルグこそ、今日もっとも素晴らしかったと思う。それは前半の「ギヨーム・テル」でのアルノルドのアリア「わが父の庵よ」を歌い始めたときから明白だった。艶があって軽やかな歌声はロッシーニにピッタリだが、後半のドラマチックな各アリアで見せる芯のある歌声は、整ったリリカルな美しさもあって聞きごたえ十分である。後半では歌劇「仮面舞踏会」でのリッカルドのアリア「永久に君を失わば」ですでに圧巻だったが、最後のチレアの名曲「アルルの女」での「ありふれた話(フェデリーコの嘆き)」で頂点に達した。会場がどよめき、一斉にブラボーが響く。

バリトンのジュリオ・マストロターロは、最初の「セヴィリャの理髪師」からフィガロの有名なアリア「おいらは町の何でも屋」を歌った時には、オーケストラのボリュームにかき消されるところが多く、先行きが気になった。しかしオーケストラも含め、まだ時には、十分に声が出ていなかったのだろう。後半になると持ち直し「ファルスタッフ」でのフォードのアリア「これは夢か?まことか?」では本領が発揮された。「ファルスタッフ」はヴェルディ最後の喜劇作品だが、音楽はより深く緻密となり、実力が試される。オーケストラと歌がピタリと決まると、会場から間髪を入れずブラボーが飛び交う。

バスのマシュー・クランはアメリカ人。長身で貫禄のある存在感は、出番こそ少なかったものの、低い声もまたオペラの魅力であることを十分に伝えていたように思う。前半の「セヴィリャの理髪」におけるバジーリオのアリア「陰口はそよ風のように」はやや硬かったが、「マクベス」でのバンクォーのアリア「何という暗闇が」を歌う時には、ドラマチックな歌声で会場を魅了した。

オーケストラはこの音楽祭のために編成されたもので、「東京春祭特別オーケストラ」という名前。各楽団からの奏者が集まっているという触れ込みだが、全体に女性が多く、ヴァイオリンなどは最前列を除いてほぼ女性である。そしてやや迫力が不足しているのではと思われたが、後半は次第に音楽的な表現が実を結び、アンサンブルの良さでこの欠点をうまくカヴァーしていたように思う。「ギヨーム・テル」序曲でのチェロは1階席中央で聞いていると、初夏のそよ風のように暖かく、フルートのソロは桜の花が散るようであった。指揮はイタリア人のレナート・バルサドンナ。後半特に音楽がピタリと歌に寄り添い、音の弱すぎない強さと、歌とソロ楽器の音程を抜群に保ちながら一体感を作り出す手腕はなかなかだと思った。

全般に欠点はなく、総じていい出来栄えだったところが嬉しい。チケットも直前まで売れ残り、どういうコンサートか気にしていたが、会場には若い女性が多く、9割は埋まっていたと思う。次第に完成度を増してゆく歌声に会場は沸き、特に後半ではイタリアの風が通り抜けて行った。私はプッチーニやチレアの音楽や歌が、これほどに精緻で、美しいものだったかと再発見したことは特に書いておきたい。

歌劇「ジャンニ・スキッキ」の超有名アリア「私のお父さん」は短いが、ペレスの歌声は澄み渡り、会場の隅々までこだました。その美しい歌声は、しばし時間を忘れさせ、会場にいることさえわからなくなるほどである。マスカーニの歌劇「友人フリッツ」からは「さくらんぼの二重唱」。彼女は満面の笑みを浮かべ、テノールのピルグも会場を小走りに出たり入ったり、会心の出来栄えだったのだろう、実に楽しそうである。

酔いしれるうちにプログラムは終盤になった。歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」第1幕でのアドリアーナのアリア「私は創造の神の卑しい僕」は最高によかった。私は美しいトスカーナの田園やヴェニスの海を思い浮かべた。そしてまたイタリアをゆっくり旅したいと思った。時間をかけて、北から南へと、西から東へと。もしかしたらそれは最後の夢かも知れない。

鳴り止まない拍手に応え、アンコールが続く。まず1曲目はプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」から第4幕「馬車にだって」。冒頭でロドルフォ(テノール)とマルチェッロ(バリトン)の二人が歌う。この組み合わせは本日初めて。そして2番目はモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第1幕から「奥様お手をどうぞ」。ここではドン・ジョヴァンニとツェルリーナが歌う。この組み合わせも初めてで面白い。

そして最後のアンコールは何と4人で歌う「椿姫」の「乾杯の歌」であった。割れんばかりの拍手に何度も応えるカーテンコールは10分以上続き、歌手と指揮者が何度も手をつないで前に出たり後に下がったり。満足の一夜は盛況のうちに幕を閉じ、花見客で深夜までごった返す上野公園を、私はゆっくりと歩いて行った。春の風がライトアップされた桜の木の間を吹く抜けてゆく時、私は紅潮した頬を鎮めながら、青く深い南ヨーロッパの海を思い浮かべていた。


【曲目】
1.ロッシーニ:歌劇「泥棒かささぎ」序曲
2.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「おいらは町の何でも屋」
3.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「今の歌声は」
4.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「陰口はそよ風のように」
5.ロッシーニ:歌劇「ギヨーム・テル」第4幕より「我が父の庵よ」
6.ロッシーニ:歌劇「ギヨーム・テル」序曲
7.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕への前奏曲
8.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕より「さようなら、過ぎ去った日よ」
9.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕より「パリを離れて、いとしい人よ」
10.ヴェルディ:歌劇「マクベス」第2幕より「何という暗い闇が」
11.ヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」第3幕より「永久に君を失えば」
12.ヴェルディ:歌劇「ファルスタッフ」第2幕より「これは夢か? まことか?」
13.マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲
14.プッチーニ:歌劇「ジャンニ・スキッキ」より「私のいとしいお父さん」
15.マスカーニ:歌劇「友人フリッツ」第2幕より「さくらんぼの二重唱」
16.チレア:歌劇「アルルの女」第2幕より「ありふれた話(フェデリーコの嘆き)」
17.チレア:歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」第1幕より「私は創造の神の卑しい僕」

<アンコール>
18.プッチーニ:歌劇「ラ・ボエーム」第4幕より「馬車にだって」
19.モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第1幕より「奥様お手をどうぞ」
20.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第1幕より「乾杯の歌」

2018年3月19日月曜日

トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団演奏会(2018年3月15日、サントリーホール)

2年前に聞いたトゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団の「白鳥の湖」が忘れられない。この時の演奏の記憶は今でも時々蘇り、ワルツが頭の中でいつも鳴っている。この時放映されたテレビ番組は、そのまま録画してブルーレイ・ディスクに採ってある。そして先日そのディスクを再生してみたのだが・・・わずか2年前だというのに、圧縮をかけ過ぎたせいか映像は乱れ、音が飛び、開始して10分も経たないうちに停止してしまったから、残念でならない。

もう一度、この時の演奏を聞いてみたい。そう思っていたらソヒエフは、10年もシェフを務めるトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団を率いて来日公演を行い、何とそのプログラムはこの時とほとんど同じで、グリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲で始まり、後半はチャイコフスキーの「白鳥の湖」となっているではないか!プログラム真ん中の協奏曲は今回、エマニュエル・パユとの競演でハチャトリアンのフルート協奏曲(ランパル編)となっているが、「白鳥の湖」はソヒエフ独自のオリジナル編集という点も前回と同じである。

ソヒエフは「白鳥の湖」に自信を持っており、この曲を多くの人に聞かせたいと思っている。私はそう感じているが、どういうわけかサントリーホールでのツアー最初の公演は、当日まで多くの席が売れ残っており、私はこの日、丁度いい具合に仕事がなく、3月末で期限の切れる年次有給休暇を取ることに何ら問題はない。もうこれは行くしかないわけである。しかもこのオーケストラを聞くのは、今回が初めてである。

一般にフランスのオーケストラは、来日公演においてロクに練習もせず、ほとんどぶっつけ本番の期待外れな演奏をすることで有名である。成田空港からサントリーホールに直行し、ラヴェルやらビゼーやらを演奏する。私も一度ひどい目に会っている。だから今回、どんな演奏になるか、唯一の不確定要素はそこである。けれども時代は変わり、演奏家はみな国際的なキャリアを持っているし、オーケストラの響きは世界共通のものになってきている。それは同時にローカル色を失うことでもあるのだが、いずれにせよフランス人が怠惰であるというのは一昔前のことで、今ではそんな時代じゃない、とそう思ってチケットを買った。

その考えはまさしく杞憂に終わり、トゥールーズのオーケストラも実に新鮮でのびのびと、しかもよくこなれた演奏をする。そしてそっけないくらいに力を抜いて指揮をするソヒエフの棒(ではなく両手)から出てくる音楽は、聴きどころを押さえ、オーケストラの自立性を発揮させつつも、時に見事に表情を変化させる職人的な音楽であった。これはN響との一連の演奏でも明らかで、一種の天才的なものさえ私は感じるのだが、そこで思い出されるのは(実演を聞いていないので偉そうなことは言えないが)あのカラヤンの指揮である。

ビデオで見るとカラヤンは、決して器用な指揮をしてるようには思えない。だが一挙手ごとにオーケストラが反応すると、どうしてこの指揮からこんな豊穣な音楽が流るのかと思うほどに雄弁に、そして一瞬のうちに変化するのが不思議である。カラヤンの音楽とは趣が異なるが、それと同じような経験である。初めてテレビで見たときから、一瞬にして私はソヒエフのファンとなり、かれこれ数年が経つ。

前回N響で聞いた時は1階席後方のA席で、それはそれで音響が良かったはずだが、みなとみらいホールというフランチャイズ性に乏しい会場であったことからか、どうも私の印象はいささか不自然なものでもあった。そしてオーケストラがもう少し見える場所で聞きたいと思った。それがたまたま、B席という安い席であることもあって、オーケストラを真横から見る機会を得た。ソヒエフの指揮と各楽器のやりとりが手を取るようにわかる、テレビで良く見るお馴染みの角度は、今回の私にとって理想的な位置である。

この位置では、右から弦楽器、左から管楽器と打楽器が聞こえてくる。手前は高く、奥は低い。ソヒエフは前半は指揮棒を持っていたが、「白鳥の湖」では両手を駆使し、時にオーケストラの奏でる音楽に体を揺らせながら、聞き手を唖然とさせるような表情を音につけて、バレエの各曲をこなしてゆく。その堂々とした、手慣れた至芸に酔いしれる聴衆は私だけではなかった。前にいたカップルなどはずっと体が揺れに揺れている。

演奏が終わって徐々に大きくなる拍手に、終始満足げだったソヒエフは、メンバーを何度も楽器ごとに立たせ、満面の笑みを浮かべた。この表情はN響にはない。ロビーへ出て会場を後にするとき、後を歩いていた若い女性が「やっぱりチャイコフスキーはいいわね」としみじみ語ったのが忘れられない。ソヒエフの「白鳥の湖」の演奏には、おそらくオーケストラというものを聞くときに体験できる最上のものがあったと思う。

チャイコフスキーの陰影に富んだ音色、華やかでメランコリックなメロディーが、大規模な管弦楽で鳴るときの極めて美しい瞬間の連続。冒頭から各地のリズムが響くそれぞれの踊りのシーンを経て終曲に至るまで、まるでアンコール曲を立て続きに聞くような満足を味わうことができた。もっとも本当のアンコールは「カルメン」の前奏曲で、これはフランス音楽で締めくくるための演出である。今回はプログラムがロシア物で占められたが、会場には主催したエアバスの関係者や外国人も多く、来日オーケストラならではのゴージャスな雰囲気が、春になったサントリーホールを一層華やいだものにしていた。

ベルリン・フィルの首席として今や世界一のフルーティスト、エマニュエル・パユは、フランス語圏のスイス人である。ハチャトリアンにフルート協奏曲などという曲があったか知らなかったが、実はこの曲はヴァイオリン協奏曲のフルート編曲版であった。30分以上もある長い曲で、終始フルートが猛烈に難しいソロを弾き続けており、目を見張ると言うか耳を疑うと言うか、その緊張もこれほど長いとおかしくなりそうである。第1楽章の主題再現部が聞こえてくると、まだ途中なのにこんなに長い曲を弾いていて大丈夫かと思うほどだった。

第2楽章はゆっくりとしたメロディーで、フルートというのはどこか日本的なムードがする。横笛と尺八を足して二で割ったような音色に、幽玄なムードを感じてしまう。このような長く、珍しい曲を、緊張を感じさせずに引き切る奏者と、礼儀正しく聞く聴衆。今日の客は実に品がいい。

そして第3楽章になると、ロシアというかアルメニアというか、ユーラシア大陸の各民族が入り混じったリズムが、聞くものを圧倒する。当然オーケストラの中にもフルート奏者がいて、クラリネットも含めて木管楽器とまさに競演するシーンが数多くある。もともとはヴァイオリン協奏曲なので、これは編曲による効果ということだろう。だがこれが実に面白く、パユは時折オーケストラの方を向いて、彼らとコンタクトを取るような仕草をするあたりは余裕を感じてしまう。

絶大なアンコールに応えドビュッシーの曲を演奏した時、演奏が終わっても10秒近く誰一人拍手も咳もしない静寂の時間が流れた。花粉症の時期、2000人もの人々が物音ひとつ立てない時間は、それだけで奇蹟である。このことも含めての音楽、演奏会というものを楽しむことが出来たのは、実演ならではのことである。やはり音楽は実演で聞くのがいい、と今回も思った。

それでも「白鳥の湖」の演奏を収めたCDかビデオが発売されたら、ぜひ買い求めてもう一度その演奏を楽しみたいと思った。しかし会場に設けられたCD発売ブースの店員に聞く限り、ソヒエフの「白鳥の湖」はまだリリースされていないようだ。ボリショイ劇場の音楽監督でもあるソヒエフだから、今後期待できるとは思う。でもこの曲はバレエ付きで見るのではなく、純音楽として楽しむこともできるほどに高水準な音楽である、とソヒエフ自身が語っている。

ソヒエフの指揮はN響でもおなじみで、もしかしたらトゥールーズのオーケストラよりも上手いかも知れない。けれども十年ものあいだ良好な関係を保っているオーケストラとの方が、慣れ親しんだ阿吽の呼吸は健在で、指揮者の意図が十二分に伝わっていると思われる。だから今回の演奏も力み過ぎず、余計な緊張感もないだけに、実にリラックスした状態で楽しめたいい演奏会だった。

2018年3月18日日曜日

ピアソラ:バンドネオン協奏曲、「ブエノスアイレスの四季」他(Bandoneon:ローター・ヘンゼル、ヨハネス・ゴリツキ指揮ノイス・ドイツ・チェンバー・アカデミー他)

ピアソラはバンドネオンの奏者でもあった。バンドネオンはタンゴに欠かせないアコーディオンで、鍵盤ではなくボタンで音階を表現するが、蛇腹をクネクネと伸ばしたり縮めたりしながら、その時に出入りする空気によって音を鳴らす点では同じである。

バンドネオン協奏曲は「アコンガグア」というニックネームが付けられているそうだが、アコンガグアというのはアンデス山脈にそびえる南米最高峰である。そして私はまた、四半世紀前の1993年、アルゼンチンを旅した時の、ふもとの都市メンドーサからチリへと国境を超えるバスから見たアンデスの風景を思い出さずにはいられない。

メンドーサはブエノスアイレスから夜行列車で1日かかる距離にあり、平野が尽きて山地になる手前の、温和で美しい町であった。そこはぶどうの産地、すなわちワインで知られた都市で、3月というと南半球では秋になるが、私はまだ半袖、半ズボンのいでたちで、ワイナリー巡りを楽しんだり、あの豪快なステーキに舌鼓を打ったりして過ごしたのを覚えている。その時にたまたま通りがかったパスカル・デ・トーソというワイナリーに飛び込んで、日本から来たので見せて欲しい、などと片言のスペイン語で話したら、有難いことにとても親切に見学させてもらい、最後にお土産までもらったのだが、何とそのワインを輸入して飲ませてくれる店に最近出会い、フルボディの少し古風なワインを飲みながら、アルゼンチンの思い出に浸ったところである。

ピアソラはアルゼンチンに生まれたがニューヨークで育ち、パリで音楽教育を受けた。その国際性を活かしつつタンゴのリズムを発展させ、稀有な音楽を生み出した。現在クラシックで聞くピアソラの曲は、地域を越えて魅力的である。このバンドネオン協奏曲も、出だしから最後まで飽きることはない。

第1楽章のリズムや打楽器の慟哭にも圧倒されながら、実は主題が変わると静かな音楽に変わる。それはまだ第1楽章である。第2楽章が実に素晴らしく、私はこの音楽がタンゴの持つロマンチックな世界をうまく表しているように思う。最初は何か壊れたマイクを修理しているような間抜けな雰囲気だが、それからうらぶれた都会風のメロディーが出てきて、そうこれはタンゴだったのかと思う。第3楽章は再び速いが、ここでも中間部があって、リズムに体を合わせて酔いながら一気に最後まで聞かせる。

ピアノを含む小編成の管弦楽曲「ブエノスアイレスの四季」は、英語やドイツ語では単に「四季」と記載されていたが、オリジナルのタイトルに「ポルテーニョ(ニャ)」と形容詞が付けられており、実はこれは「港の」、すなわちブエノスアイレスを意味するそうだ。だからこれはまさにブエノスアイレスの春、夏、秋、冬ということになる。作曲は「夏」からだったようだが、私の持っているアラン・モーイア指揮トゥールーズ国立室内管弦楽団の演奏では「春」から始まる(南半球だから9月頃だろうか)。

4つの楽章いずれもピアソラならではの歯切れのいいリズムと、メランコリックなメロディーに新鮮な感動を覚えるが、面白いのは最終楽章のコーダの部分が、とても落ち着いた、気持ちが安らぐ情景を醸し出している点だ。「春」から演奏された場合、これが最終の曲である。私はブエノスアイレスの「冬」を知らないが、南米でもっともヨーロッパ風の街は、小雨に似れた石畳の上を時代遅れのコートを着た紳士が歩き、夜ともなれば巨大なステーキを出すレストランやバーからは、時折大きな声の話し声が聞こえてくる。

最後に「オブリヴィオン」について。オーボエをソロとする3分余りのこの曲は、実に美しい曲で、このCDの中では一番のお気に入りである。数多くリリースされ、ファンの多いピアソラのディスクの中で、なぜ私がこのディスクを所有しているのかは謎である。ピアソラ自身が1992年まで生きていた作曲家だから、彼自身の演奏というのも数多くリリースされているし、クレーメルやクロノス・クァルテットのような演奏家のものも有名で、一度は聞いておきたいとも思っている。

なお、私がはじめてピアソラの曲に触れたのは、1986年にリリースされた名アルバム「Tango Zero Hour」によってであった。このCDを初めて聞いた時は衝撃的で、今でもその時の記憶を鮮烈に覚えている。このような体験は、私にとってストラヴィンスキーの「春の祭典」以来であった。


【収録曲】
1. バンドネオン協奏曲
2. オブリヴィオン
3. 弦楽合奏のための「2つのタンゴ」
4. ブエノスアイレスの四季

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...