2022年3月21日月曜日

京都市交響楽団第665回定期演奏会(2022年3月13日京都コンサートホール、広上淳一指揮)

新型コロナウィルスの爆発的流行を受けて、中止や公演内容の変更を余儀なくされた演奏会は数知れない。京都コンサートホールで開催された広上淳一を常任指揮者とする最後の公演も、その一つである。演目がマーラーの交響曲第3番から第1番へ変更されたからだ。これは出演を予定していた少年合唱団が、練習できなくなったことによる。そういうアナウンスがあったのが2月の下旬、公演の数週間前のことである。この最終公演を楽しみにしていたファンは多いだろうと思う。ただ、曲目に変更があったとしても、開催できたことを喜ぶべきかも知れない。そしてこの公演は、その前評判に違わず忘れ得ぬ名演となった。

私は昨年(2021年)の秋、東京で開催された京響の演奏会を聞いて、広上の指揮するマーラーの演奏が大変面白く、また的を得たものであることを初めて経験したことは、このブログにも書いた。その時演奏されたのは、ベートーヴェンとマーラーの、いずれも交響曲第5番という意欲的なプログラムで、まずはこのオーケストラの演奏水準に驚くと同時に、広上の楽天的でユニークな指揮に惹きつけられた。京響だけでなく彼は、どのオーケストラでも同様に、曲の表情を全身を持って表現する。一見、滑稽にさえ思われるその指揮姿も、曲のニュアンスを演奏者に伝える手段として大いに機能している。そしてそれが見ていても面白いし、聞いていてもツボを得ている。

マーラーの交響曲第5番が、これほどにまで雄弁に真実味を持って私に迫ってきた演奏を聞いたのは初めてだった。東京での最終公演となるその演奏会でマイクを握った指揮者は、京都に是非聞きに来てくださいと述べた。その最終公演が、今回の第665回目となる定期演奏会で、そのチケットは2月に発売された。

私は遅まきながらこのチケットを知った時、もう売切れてしまっていることを覚悟していた。ところが2日あるどちらの公演も、まだ多くの席が残っていたのである。週末のマチネとあらば、東京ならこのような記念すべき演奏会はたちまち売り切れる。しかし京都では絶対的なファンの数が少ないのだろう。だから当日になってからでも、思い立ってコンサートに出かけることができる。ニューヨークでもどこでも、これは普通である。私は大阪の出身だから京都でのコンサートとなると誘うことができる人もいる。そういうわけで、初めての京都コンサートホールに出かけることになった。

例年になく寒い冬が続いた今年も、3月に入って急に暖かくなり、特にこの週末からはまるで初夏を思わせる陽気となった。3月11日から関西入りした私は、仕事を休んで古都の小旅行となった。2日間奈良のホテルに宿泊し、斑鳩や飛鳥の里を散策しては古寺を訪ね、外国人も修学旅行生もほとんどいない閑散とした中で世界遺産、国宝、それに重要文化財の数々を見て回った。奈良では旧い友人に会い、万延防止措置の出ていない街で遅くまで飲むことができた。

そういう充実した日々の最後に京都に移動。地下鉄を北山駅で降りるとすぐそこにコンサートホールはあった。まだ新しいクラシック専用のホールは、京都にこそ相応しいと思うが、そういうホールができたのは最近になってからである。そしてその館長にも選ばれたのが、2008年からシェフを務める広上氏である。東京生まれの江戸っ子が、古都のオーケストラを指揮するのは面白いが、これがピタリと上手く行ったのだろう。京響はメキメキと実力をつけ、「今や世界に誇れるオーケストラ」にまでなったと、開演前のプレトークで紹介された。

マーラーの交響曲第3番に代わって演奏されることになったのは、広上の師匠でもある尾高惇忠の女声合唱曲集「春の岬に来て」から「甃(いし)のうへ」と「子守唄」。それに藤村美穂子(メゾ・ソプラノ)を迎えてのマーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌曲」、それに交響曲第1番「巨人」である。そもとも出演を予定していた合唱団(京響コーラス)は、わずか2週間でこの合唱曲に対応したそうである。一方、藤村はわずかこの2日間のコンサートのためだけにドイツから帰国し、隔離生活も終えて会場入りしたと紹介された。

当日券に並ぶ多くの人たちも無事客席に着いて、舞台背後の客席にディスタンスを取って女声合唱団が入場した時、これから始める曲が何とマスクを装着したまま歌われることを知った。これは驚きだったが、どこか春霞でもかかったような効果があったのかも知れない。尾高の曲は、オーケストラによる伴奏で演奏された。特にわずか24歳で夭逝した立原道造の詩による「子守唄」には「靄(もや)に流れる うすら明(あか)り」という歌詞がある。「眠れ、眠れ」と繰り返されるその歌詞を聞きながら、これは昨年2月に亡くなった尾高に対する広上の鎮魂歌だったと思う。

藤村美穂子が登場し、会場が一層晴れやかになった。マーラーの歌曲「リュッケルトの詩による5つの歌曲」を、彼女は心を込めて歌った。すでにCDも出ている藤村のこの作品への愛着は、配布されたプログラムに掲載されていた歌詞対訳が自らの翻訳であることからもわかるような気がする。交響曲で言うと丁度第5番のあたりに書かれ、あの有名な「亡き子をしのぶ歌」の頃である。もっとも「亡き子をしのぶ歌」は、リュッケルトが書いた詩10作品に対して作曲されたもののうち5つが採用されており、残りの5つが「リュッケルト歌曲集」である。ここで管弦楽による伴奏が付けられたのは4曲であり、「美しさゆえ愛するのなら」だけはピアノ伴奏版しか残されていない(従って、通常はブットマンによる編曲版が用いられる)。

曲順の指定もないようだが、今回の演奏では「美しさゆえ愛するのなら」が先頭に置かれ、続いて「私の歌を見ないで」、「優しい香りを吸い込んだ」、「真夜中に」と続き、次第に深淵な世界へと入ってゆく。最後の「私はこの世から姿を消した」では、やはりマーラーの「死」への拘りが最高点に達するが、このような順序は実際の演奏会でも聞いていてよくわかった。藤村のこの作品への思いが、終演後にも見てとれた。彼女は感極まって、涙を浮かべていたようにも見えた。深々とお辞儀を繰り返す彼女に、客席からは大きな拍手が続いた。マーラーの交響曲第3番では、わずか6分しか出番のなかった彼女が、そのためだけにドイツから帰国するのも相当なものだが、この「リュッケルト」に変更されたことで私たちは、より長く、そして深く彼女の歌を味わうこととなった。

休憩を挟んで演奏されたマーラーの交響曲第1番は、新たな出発の音楽である。私の知人も自らの通夜でこの曲を流していた。まだ駆け出し音楽家だったマーラーの最初の交響曲(最初はカンタータ)であるこの曲には、すでにマーラーらしい着想に溢れ、後年の9曲に及ぶ交響曲の先駆けに相応しい内容を持っている。広上は丁寧にこの曲を指揮し、特に第3楽章の中間部という最大の聞きどころでは、コントラストを浮き上がられて少年時代を回想し、終楽章のトゥッティでは一瞬止まって音楽を爆発させる要所を抑えた指揮ぶり。ツボを心得た指揮ぶりが、彼の真骨頂である。

オーケストラも弦楽器奏者の最後列に至るまで体を揺さぶる熱演に、聞いている方も力が入るが、決して力み過ぎないところが広上のいいところだろう。コーダの部分ではホルンだけでなく、トランペットの奏者も起立してより迫力を増し、圧倒的なアンサンブルが炸裂、会場が沸きに沸いた。

何度も呼び戻される指揮者は、各パートを回って奏者を立たせた。そして何度目かの登場で遂にマイクを持ち、10年以上にも及ぶ京響での活動を総括した。アンコールに尾高の「子守唄」をもう一度、ということになり再び合唱団が登場、合わせてこのたび対談する2人の奏者への花束贈呈など、盛沢山の演出が終わったのは、もう5時を過ぎていたように思う。

最終公演と言っても広上は「別に今生の別れではない」とおどけ、これからもコンサートを指揮すると言う。そして遭えなく変更となったマーラーの交響曲第3番を、そのうちリベンジ演奏したいと宣言した。

公演が終わったら私は、一緒に出掛けた義妹としばしお茶をしたあと地下鉄に乗り、京都駅へと急いだ。コロナ禍であるというのに人でごったがえず地下街でお弁当を買い込み、新幹線「のぞみ」で東京までの2時間。心地よい余韻に浸りながら、新幹線から夜の車窓風景を眺めた。東京と関西を往復しながらコンサートに通うのは、ちょっとした贅沢である。でもなかなか捨てがたい魅力である。もうちょっと交通費が安ければいいのに、といつも思うのだが。

2022年3月18日金曜日

東京フィルハーモニー交響楽団第966回定期演奏会(2022年3月10日サントリーホール、ミハイル・プレトニョフ指揮)

 「高い城」は峻厳に聳え、「モルダウ」は急流を下って大河となり、「ボヘミアの森と草原」はまるで飛行機から眺めるように広大である。「4度目の正直で実現」となった今回のミハイル・プレトニョフ指揮によるスメタナの連作交響詩「わが祖国」(全曲)演奏会は、引き締まったテンポと一糸乱れぬアンサンブルで、あっという間に私たちをボヘミアの大地へと誘い、聞き惚れているうちに終わってしまった。曲間の休息をほとんどおかず、丸で1つの連続した曲であるように演奏した結果、集中力は持続され、すべての楽器から深い息遣いと、明瞭な音色のコントラストが聞き取れた。

プレトニョフは東フィルととても良好な関係を保っているように思われた。プログラムによればその関係は、2003年から20年近くに及び、特に2015年からは特別客演指揮者の地位にあるという。今シーズンの定期演奏会にも、この3月に続いて5月にも登場する。しかしコロナ禍によって今回のプログラムは、3度に亘って延期されたようだ。私はそのことを知らなかったが、彼はプログラムをそのまま維持し、やっとのことで今回の演奏にこぎつけたのだ。演奏する側も聞く側も、それなりの思い入れがあっただろうと思う。だからというべきか、平日のプログラムにもかかわらず、客席は満席に近かった。

私にとってプレトニョフの演奏に接するのは2回目である。初回は彼がまだ若いピアニストとして名声をほしいままにしていた時期、丁度ソビエトが崩壊してロシアが混乱を極めていた頃に設立したロシア・ナショナル管弦楽団を率いての来日公演があった。だがここでの私の印象は薄い。どことなく慌ただしい演奏で、オーケストラのプレイヤーは実力者揃いであるものの、アンサンブルはまだ成長の余地を残していたように思う。混乱した政治情勢下で、自立して収入を確保することはたやすいことではなかっただろう。次々と落ちぶれてゆくかつての名オーケストラに代わって、新しい時代の息吹を感じさせてはくれたが、彼自身がピアノで見せる斬新さには及ばなかった。

そのピアニストとしてのプレトニョフは、私にとって瞠目のディスクだったベートーヴェンのユニークなピアノ協奏曲全集が何といっても記憶に残る。特に「皇帝」はこのブログでも触れた私の同曲の愛聴盤である。そこで聞かれる奔放でしかも考え抜かれた表現は、この曲の新しい境地を開いたようにも思う。この時プレトニョフは、ピアノがいい、と思った。CDではピアノ演奏に徹するためか、別に指揮者を置いている。

スメタナの「わが祖国」は、チェコにゆかりの演奏家によって演奏される以外は、あまりお目にかかることがない。愛国心の塊のような音楽に、なかなかアプローチがしにういのだろうか。我がコバケンも「プラハの春」でチェコ・フィルを指揮しているから十八番であるのは当然で、私もその演奏を一度聞いている。それ以外では、ピンカス・スタインバーグがN響を指揮した演奏が思い出に残っているが、いずれにしても曲の魅力を十全に引き出したその演奏は、曲の魅力を伝えて止まない名演だった。

そこにプレトニョフは、曲の魅力だけでなく、新しい演奏のアプローチを試みた。ロシア人の彼がボヘミアに寄せる思いはどういうものか、よくわからない。もしかすると同じスラヴ民族という共感が、彼のこの曲へのこだわりを形成しているのかもしれない。純音楽的な意味においても、この曲は魅力的である。「モルダウ」こそ有名だが、その他の交響詩、とりわけ後半の3つは、本来の重心がここにおかれるべき音楽的霊感に満ちたものである。全6曲中、私は「ボヘミアの森と草原から」が最も好きである。

プレトニョフの演奏は、俯瞰的にこの音楽を眺め、バランスの良い構成に仕上げていたように思う。そして彼の真骨頂は、従来の慣習にとらわれない曲の解釈と、メリハリの付けた音の構築にあると思う。テンポは常に少し早めでありながら、急ぎ過ぎている感じはしないのは、アクセントがきっちりと保たれ、力を入れる音と、少し抜く音が明確にされている。そのことが音楽に呼吸を与える。長距離ランナーが有酸素運動によって安定した走りを持続するように、彼の音楽は健康的で力強い。安定して集中力が維持される結果、演奏家も高度なソロ部分を雄弁に表現できるような気がする。「モルダウ」におけるフルート、「シャールカ」におけるクラリネット、「ボヘミアの森と草原から」におけるオーボエや弦のフーガなどである。

私はこれまでに聞いて来た「わが祖国」とは少し異なる新鮮なものをこの演奏に感じることができた。プレトニョフの指揮による東フィルの演奏が、これほどにまで人気があるその理由がわかったような気がした。同じ思いだった聴衆も多いのだろう。その熱烈な拍手に応えて、定期演奏会としては大変珍しいことに、彼はバッハの「G線上のアリア」をアンコール演奏した。この曲に、一体どのような意味が込められていたのだろうか?2年以上に及ぶコロナ禍を経験した社会への慰め、不幸にして亡くなった人々への哀悼、そして昨今のウクライナ情勢に端を発する平和への祈り。それぞれがいろいろな意味を考えたことだろう。弦楽アンサンブルが、ここでも見事なコントラストを見せながら、私はこんなに表情豊かで美しい「G線上のアリア」を聞いたことはなかったと思った。

とても速い演奏のように思えたが、終わってみると9時近くになっていた。赤坂アークヒルズの夜景も徐々に日常を取り戻しているように思える。明日からは休みを取って奈良、京都を巡る。古寺を訪ね、友人と会食を楽しむ予定である。京都では、広上淳一の指揮する京響最後の公演を聞くことも予定に入っている。早朝の新幹線に乗るため、早く床に就くことにしようと、足早に会場を後にした。

2022年3月9日水曜日

ジャパン・ナショナル・オーケストラ(特別編成)演奏会(2022年3月6サントリーホール、ギター:村治佳織、ピアノ:反田恭平、デスピノーザ指揮)

不祥事が絶えない東芝が、今でもクラシック音楽の普及に務め「東芝グランドコンサート」を年1回開催してくれていることは、誠に喜ばしいことである。今年でもう41回目となるこの冠コンサートに、私は久しぶりにに行くことになった。久しぶりと言っても1985年の第4回以来なので、40年近くの間隔が空いている。この時は若干30歳のサイモン・ラトルがフィルハーモニア管弦楽団を率いて来日公演を行った。

会場で売られていたプログラム(内容の割に1000円と高い。だが価格は昔と変わらない。これは何とかしてもらいたい)には、これまでのすべての招聘アーティストが記載されていた。私は第2回のコーロディ指揮ブダペスト・フィルと、第3回の小林研一郎指揮アムステルダム・フィルの演奏会にも出かけている。当時まだ高校生だった私にもチケットが買える海外からのオーケストラ・コンサートとして、大変貴重な存在だった。

そのコンサートが未だに続いていて、先日も社長が辞任したばかりの東芝が、このコンサートをいつまで続けてくれるのかわからないが、今年のプログラムは大変魅力的に思われた。まずオーケストラがスペイン国立管弦楽団(指揮はダービッド・アフカム)、と来ればプログラムはスペイン物が中心となり、その中に「アランフェス協奏曲」が含まれるのは当然のことである。このギター・ソリストが村治佳織である。一方、もう片方のプログラムには、昨年ショパン・コンクールで見事に第2位に輝いた反田恭平が凱旋公演を行うというもの。私は日程の都合から、日曜日にサントリーホールで行われる村治佳織の方を選んで、妻の分と2枚のチケットを買った。実は私にとって村治は、是非とも一度は聞いてみたい音楽家だったからだ。

東京・台東区生まれの彼女はまだ10代の頃から世界的に活躍し、東京でも数多くのリサイタルを行っているから、これまでに聞く機会がなかったのが不思議である。彼女がナヴィゲータを務めるFM番組は私も良く聞いていたし、CDでも数多く触れてきた。しかし2010年代に入って、彼女は大きな病気を患っていることを告白し、長い闘病生活に入った。これは私のとってもショックだった。丁度私も同じような闘病をしてきたから、他人ごとではないと思ったからだ。

その彼女が見事に復活し、再びCDや演奏会で演奏を披露することができるようになった時、私は大変嬉しく思ったのである。ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」というのも実演で聞いたことはないし、何せギターという楽器のコンサート自体、私にはこれまで縁がなかった。そういうわけで私が選んだプログラムに大いに心待ちにしていたのは、当然のことだった。

ところがアクシデントが発生した。折からのコロナ禍でスペイン国立管弦楽団の来日が中止になったのである。私の家にも郵便が送られてきたのは1月頃だった。他にも数多くのコンサートが中止を余儀なくされるような中にあって、もはやショックというよりは諦めに近い感覚が私を襲った。だが、よく読んでみると主催者がとった行動は大変喜ばしいものだった。何と2つのプログラムが融合し、2人のソリストによるそれぞれの協奏曲が、同じ舞台で聞けるというものだったのだ。もちろん希望すれば払戻しにも応じると書いてある。そして案内のよれば、冒頭にロドリーゴの「アランフェス協奏曲」(独奏:村治佳織)、後半にショパンのピアノ協奏曲第1番(独奏:反田恭平)、さらにはその間にメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」が演奏される、とある。意外にもずべての曲が、私にとっては初めて実演に接する曲である。

オーケストラは反田が主宰する「ジャパン・ナショナル・オーケストラ」なる団体を特別編成したものとなっている。指揮はイタリア人のガエタノ・デスピノーザ。これだけ盛沢山のプログラムとあっては、チケットをそのまま保持し、会場に駆け付けた人は大変多く、私にとってはコロナ禍にあって初めての満員の演奏会になった。会場に女性の姿が多い。東京マラソンが2年ぶりに開催された快晴の東京で、待ち遠しい春を感じるコンサートに、私はウキウキしながら足を運んだ。

村治佳織は赤いドレスに身をまとい、指揮台左手に備えられた椅子に腰かける。その前にはマイクがセットされており、指揮台の前にはスピーカーが。ギターという楽器の性質上、どうしても音量にバランスを欠く本作品において、独奏楽器の音量を補正することは半ば当然の措置であるようには思われた。

ギター独奏で静かに始まる序奏とオーケストラによる主題は、いつもながらこれから遠足に出かけるときのようなウキウキした気持ちにさせられる。村治は慣れた手つきで弾く。木管楽器を始めとしてオーケストラもなかなかうまく、若い演奏家が中心のこの団体の実力を感じさせる。第2楽章のコーダ部分が、染み入るように消えて行くと、おもむろに開始された第3楽章は再び心地よいリズムのロンドとなる。拍手に応えて彼女は、モリコーネの「ガブリエルのオーボエ」という曲をアンコール演奏して客席に応えた。

メンデルスゾーンの「イタリア交響曲」は演奏の難しい作品ではないだろうか?本来はドイツ音楽ながら、イタリア風の流れるようなメロディーが主流を占める。この両者のバランスがどちらに偏ることなく両立する演奏を、私はアバドのもの以外に知らない。デスピノーザの演奏も悪くは決してないのだが、どことなく全体に力が入っていて、饒舌すぎるのか何なのかわからないまま曲が終わってしまった。先日聞いた井上道義を思い出す。どことなく似ているような気がする。

休憩に入った時点で1時間以上が経過し、後半はショパンのピアノ協奏曲のために舞台上にピアノが運ばれてきた。反田恭平が登場すると客席からひときわ大きな拍手が起こった。私も本来聞けないはずだった彼の登場に喜び、初めて聞くショパンの協奏曲に耳を傾けた。何度聞いてもこの曲は、胸が締め付けられるような青春の音楽で、紅茶とケーキの香りがする「ザ・クラシック音楽」と私はいつも感じている。

かつてよく指摘されたオーケストレーションの平凡さも、最近ではそれをカムフラージュする演奏が多く、感情を込めて弾くこの曲のオーケストラ部分もなかなか素敵な演奏が多い。そして今回の演奏は、そのようなオーケストラの真摯な共感に支えられて、ピアノが全く完璧に鳴り響く圧倒的な演奏だった。

私はこれまで、オーケストラの演奏と共演する数多くのピアニストの演奏を聞いて来たが、前評判に比してさほどでもないと感じた演奏は多い。これは運が悪かったのだと思っているが、今回聞いた反田の演奏は、過去のどの演奏よりも素晴らしく、そのダイナミックな表現がまるでベートーヴェンのように聞こえた。ピアノという楽器の力を十分に発揮しているのである。「ブラボー」が禁止されている会場で、オーケストラの終わるのを待たずして拍手が始まった聴衆の熱狂的な拍手に応えて、「英雄ポロネーズ」をアンコール演奏した。その表現がまたユニークで説得力があり、満場の拍手を再びさらうと、今度はマイクをもって話し始めたのである。

会場に再び村治佳織が登場し、今回偶然にも共演することになった同じコンサートのために、2人でアンコールをやるという知らせに、もう終わるのだと思っていた会場が再び沸いた。しかもそこにマエストロまでが登場、ピアソラの「アヴェ・マリア」を3重奏で演奏するというオマケが付いた。

コンサートが終わったのは5時前で、すでに3時間が経とうとしていた。スペインのオーケストラは聞けななかったが、それを補って余りある充実したコンサートに聴衆は満足した。休憩時間には曇っていた空が、再び明るく青くなった。いつのまにか5時を過ぎても太陽が残っている。春はもうそこまで来ている。ビルの合間に吹く乾いた心地よい風を頬に受けながら、家路についた。

2022年3月6日日曜日

東京フィルハーモニー交響楽団第964回サントリー定期シリーズ(2022年2月25日サントリーホール、井上道義指揮)

今年は初めて東フィルの定期会員になった。東フィルのシーズンは1月から始まるから、10月までの計8回の定期演奏会をサントリーホールで聞く。今シーズンのプログラムはなかなか魅力的で、私好みの指揮者、そして曲が多い。仕事で行けなくなる日は、空いていれば同じ定期の別の会場に振り替えてくれる。そういうわけで、90年代にN響や読響の定期会員だった時以来、実に30年ぶりに特定のオーケストラの演奏を定期的に聞くことにした次第である。

定期会員になることのメリットは、何といっても1回あたりの料金が安いことだが、定期演奏会ほどオーケストラが真剣に取り組む演奏会はないのではないか、と思うほどに充実したものが多いということも魅力である。プログラムはオーケストラが特にこだわって選んだ選曲で、玄人好みのものが多いのも特徴だ。これとは別に開催される名曲プログラムが手抜きであるとは思わないし、有名曲をどのように聞かせるかを体験する楽しみもないわけではないが、過去の定期会員の経験から、初めて聞く曲、あるいは指揮者がこだわって演奏する曲こそが、プロの奏者の本領発揮、腕の見せ所となることが多いように思う。

定期会員になることで、1回だけの演奏会なら敬遠するプログラムでも否応なしにチケットが送られてくるので、無理にでも行く羽目になる。ところが上記の理由などにより、演奏が大変よかったり、初めて聞く曲の魅力を発見したりと、その意外性も含めてなかなか魅力的なのである。聞く側の姿勢と音楽に対する造詣が試される、という側面があるのだ。演奏する側も聞く側も、真剣勝負となる。

さて、そのようなわけで今年の東フィルの定期演奏会は、まず1月に名誉音楽監督のチョン・ミュンフンがマーラーの交響曲第3番を振る予定だった。ところがオミクロン株を主体とする新型コロナウィルスの蔓延を受けて(いや、正確に言えばそれに伴う入国制限措置を受けて)、このコンサートが遭えなく中止されてしまった。合唱団を含め、大変な調整が必要だったに違いなく、そのために練習を重ねてきた出演者の苦労を思うと残念でならない。

チケットは払戻しの対象となり、私は仕方なく次の2月の定期を待つこととなった。2月のプログラムは、指揮が井上道義で、彼はここのところ日本中のオーケストラから引っ張りだこである。しかし東フィルの定期への登場は6年ぶりとのことである。2年後に引退を表明している井上のこだわりの選曲は、いずれも20世紀の曲が並ぶというもの。まずエルガーの序曲「南国にて」(1904年)。次に今年生誕100周年のギリシャ生まれの作曲家、クセナキスのピアノ協奏曲第3番「ケクロプス」の日本初演。そして最後に十八番のショスタコーヴィチから交響曲第1番。私にとってはほとんど初めて聞く曲ばかり。正直に言えば、定期会員になっていなければ、チケットをまず買うことのない演奏会であることを告白しておく。

まずもっとも作曲年代の古いエルガーの序曲「南国にて」がプログラムの最初である。といってもその冒頭が鳴り響いた時、気合十分の演奏に胸が熱くなった。丸でリヒャルト・シュトラウスの豊穣な曲を思わせるような感じ。私は「ドン・ファン」を思い出したが、「ドン・ファン」はこの曲の16年ほど前の作品である。

井上の指揮は饒舌で、派手な身振りで聴衆の目を奪いながら、丸でレーシングカーのようにオーケストラをドライブしてゆく。冒頭から全力投球なのが彼のいいところである。だがあまりに力が入り過ぎているのか、どのような曲かの輪郭がなかなかつかめないのも事実である。

この曲はそのタイトルが表すように、イタリアに題材を取った作品である。イタリアに滞在して新しい感化を受け、作品に残した作曲家は少なくない。エルガーも紛れもなくその一人だったということだが、ここで興味深いのは彼がイギリス人だということだろう。イギリス音楽と言っても、どちらかと言えば大陸風の、つまりはドイツ風の音色を持つエルガーの側面が良く出た作品だと思った。

1857年生まれのエルガーは、1903年に家族を伴って北イタリアの地中海沿いの町アラッシオに滞在した際に受けた霊感をそのまま音楽にした、と解説にはある。私はアラッシオにこそ行ったことはないが、イタリアの地中海岸沿いの街がどれだけ美しいかは、それになりに想像することができると思っている。どこまでも高い南ヨーロッパの太陽と、どこまでも深い地中海の、冷たく青い海が織りなすコントラストだけではなく、そこに住む人々の陽気さと哀しさ、そして食べ物や文化の豊かさ、遠い過去への思い、そのようなものが混然一体となって風景に溶け込んでいる。

「南国にて」はそのようなイタリアの多彩な光景が、熟達したオーケストレーションによって輝かしく描かれている。初めて実演で聞く曲だったが、中間に配置されたヴィオラの独奏による哀愁を帯びたメロディーなど、聞いていて多くの発見があった。東フィルの各楽器の秀逸な表現も特筆すべきだと思うが、あまりに語ることが多くてエネルギーが絶えず押し寄せてくる様に、私は少々戸惑った。

2番目のプログラム、クセナキスのピアノ協奏曲第3番「ケクロプス」については、私は何を書いてよいのかわからない。1986年に初演されたこの作品の日本初演ということだが、まず驚くのは冒頭からの騒音のような開始である。ここで何が示されているかは、解説がないとよくわからない。標題付きであるとは言え、絶対音楽である。そこでクセナキスのとった方法は、数学的な理論に基づく音楽の構成である。

工学を志したギリシャ生まれのクセナキスは、彼独特の確率論や図形の論理を楽譜に持ち込んだ。そこでピアノがどの程度「楽譜」によって導かれているのか、よくわからない。大雑把に聞いた感想で言えば、この曲はピアノ協奏曲というよりは、「管弦楽のための協奏曲」といった感覚だった。ピアノが隠れてしまい、むしろ独奏楽器が順番に活躍する。ピアノはまるで勝手にオーケストラと交わりながら、独自の音色を奏でているように思う部分も少なくない。

この「音のバラマキ」のような曲のピアノを担当するのが、大井浩明というピアニストで、私と同年代。しかも工学部に学んだという異色の才能の持ち主。やはり工学部に進んだ私と同じ関西の出身だが、実にこれまでそんなピアニストがいたことを知らなかった。京大を中退するまで彼は、大学のオーケストラでチェロを弾いており、その時に井上が指揮をした時のエピソードなどが解説に掲載されていて大変興味深いが、もっと驚くのは彼が独学でピアノを習得し、それがヨーロッパで認められていることだろう。クセナキスの3つのピアノ協奏曲を、彼が初めて世界で演奏したということになるそうだ。

そんな現代音楽を聞きながら、いろいろなことを考えている間もなく、音の洪水にまみれ気が付いたら音楽が終わっていた。やはり井上が好みそうな曲だなと思った。

後半はショスタコーヴィチ。井上の十八番で、全曲演奏も残している交響曲の最初の作品を井上は思いを込めて演奏したに違いない。若干19歳のショスタコーヴィチは、この複雑極まる音楽をロシア革命のさなかに書き始めたということだろうか。丁度、この日はロシア軍がウクライナに侵攻したまさにその日で、井上は終演後に客席に向かってこう言った。「戦闘は舞台の上だけにしてほしい」。

兎に角この日の演奏の素晴らしさは、東フィルの技量によるところが大きいように思った。ショスタコーヴィチに至っても、舞台上に一斉に並んだ大オーケストラが、常に緊張感を保ち続け、全力投球で挑んだ演奏会。井上の指揮は饒舌すぎて、私はいつも戸惑うのだが、さすがはショスタコーヴィチだと思った。今シーズンの最初の定期演奏会が中止となり、出鼻をまたもやくじかれた2022年の幕開きとなった今回のコンサートは、指揮者も独奏もオーケストラも一体となった演奏会だった。

このような20世紀の曲ばかりを並べた演奏会にもかかわらず、客席は結構な人手だった。何度も舞台に呼び出される井上は、定期演奏会としては異例のアンコールでこれに応えた。「南国を題材にしたもう一つの曲」としてヨハン・シュトラウスのワルツ「南国のバラ」からの後半を、彼は踊りながら演奏したのである。絶妙なワルツのリズムを巧みに表現する、この時に見せた井上のおどけたような指揮から、彼の「ニューイヤーコンサート」も一度聞いて見たいと思った。誰よりもナルスティックな指揮者である井上は、彼独特のおどけた表現でこれを指揮するに違いなく、そのような方面の音楽は、彼のもっとも良い側面を表すに違いないと思った。次に井上ミッキーで聞くべきは、ポピュラー・コンサートである。

2022年2月28日月曜日

ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート(19)初登場の指揮者たち-デュダメル(2017)、ティーレマン(2019)、ネルソンズ(2020)

暗いコロナ禍の時期に少しでも気持ちを明るくしようと、過去のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを順に聴いてきた。最終回の今回は近年に初登場した3人の指揮者を順に記録しておこうと思う。まずは2017年、グスターボ・デュダメルから。

デュダメルは1981年、南米ベネズエラ出身の指揮者である。社会主義政策を続ける同国には「エル・システマ」と呼ばれる音楽教育プログラムがあって、特に貧しい子供たちにも楽器を弾く楽しさを教えているビデオ・ドキュメンタリーを見た記憶がある。そのユース・オーケストラはメジャー・レーベルでも録音を行っていり、その指揮者がまだ20代だったドュダメルだった。この年のニューイヤーコンサートをテレビで見た際、「エル・システマ」の創立者で学者のアブレウ博士が会場にいたのが映し出されたのを記憶している。

デュダメルの指揮は若々しく躍動的である。それがウィンナ・ワルツにどう反映されるか、といったところが見どころだったが、どことなく違和感があったのも事実で、どうしてまた彼なのか、とも思ったものだ。その演奏は若干1割ほど通常よりテンポが速めに感じられた。

プログラムを見て気付くのは選曲の多彩さで、全部で8曲もの初登場の曲があるらしいが、その中でも注目したのは2番目にワルトトイフェルの「スケーターズ・ワルツ」という懐かしい曲があることだ。ただこの曲はウィンナ・ワルツではない。もしかすると史上初めて、ウィンナ・ワルツ以外のワルツがウィーン・フィルによって演奏された(ワルトトイフェルのワルツは前年の2016年にヤンソンスも取り上げているが)。そこではあのウィーン訛りの第2拍目のアクセントは強調されない。

その他にもレハールやスッペ、ツィーラーなどシュトラウス一家以外の作曲家が数多く登場し、どこか一般的なポピュラー・コンサートのような感じである。それでもニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」のメロディーが流れてきたときには、これがお正月のコンサートであることを実感した。ここでは何と合唱が挿入され、夢見心地のように音楽は進んでいった。

一方、シュトラウスの有名なワルツは「千一夜物語」くらいしかなく、ちょっと不満の残る年でもあった。強いて名演となった作品を挙げるとすれば「チク・タク・ポルカ」ではないだろうか。ともあれこの年のニューイヤーコンサートは、新しい傾向を感じさせるユニークなものだったことは確かである。

同じ初登場の指揮者といっても2019年のティーレマンとなると、そのプログラムは渋い。特にワルツはそこそこ有名な作品が目白押しで、久しぶりの「トランスアクツィオン」、「北海の海」、さらには常連の「芸術家の生涯」、「天体の音楽」が並ぶ。またオペレッタの序曲からは「ジプシー男爵」といった風。いずれもドイツ人の実力派指揮者を意識した選曲だと思われたが、演奏が進むにつれて打ち解けたものになっていった。

私にとっては「トランスアクツィオン」が初めて耳に馴染んだし、「天体の音楽」の美しさは例えようもない。合間に挟まれるゆったりとしたポルカやチャルダーシュ、それに「インドの舞姫」、「エジプト行進曲」のような異国情緒を感じる作品まで、多彩で本格的なプログラムには気合が入っていたように思う。

ティーレマンを見ていて思い出すのは、同じように巨体だったワーグナー指揮者クナッパーツブッシュである。クナッパーツブッシュには「皇帝円舞曲」の名演奏が存在するが、今回のプログラムにはなかった。それでも「青きドナウ」では極限までテンポを落とすティーレマンはカラヤン以来の仕事師といった感じで、会場の興奮たるや相当なものだったが、おそらくの今後も何度かは登場する指揮者となるだろう。

初登場となる指揮者が2年連続するのは珍しいように思うのだが、翌2020年には若手のホープで、オペラにコンサートに活躍が著しいラトヴィア生まれのアンドリス・ネルソンスが登場した。このコンサートはなかなかいい。とても軽快で肩の凝らない演奏にもかかわらず、薄っぺらくもなければ惰性的でもない。きっちりと彼でなければ表現できないものを主張しているようにも感じられるのだが、それが目に付くようなところがないのである。つまり一見特徴がないように見えて、実はとてもレベルの高い演奏になっている。

後半の最初はスッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲である。この曲は数あるスッペの序曲の中でもとりわけ有名で、数年に一度毎に演奏される名曲だが、なぜかネルソンスの演奏は他にない軽快さと、統制の取れたバランスの良さが光っていた。ワルツやポルカでもこの傾向は変わらず、大袈裟な表現を避け、かといって軽薄になってもいない。

この年の最大の注目は、何とベートーヴェンの作品が登場したことだろう。それはベートーヴェン唯一のバレエ音楽「プロメテウスの創造物」にも転用された「12のコントルダンス」からいくつかの曲が採用された。2020年はベートーヴェンの生誕250周年だったからである。ところがこの音楽史上最大の作曲家の記念すべき年に、新型コロナウィルスが世界的な感染爆発を起こすのである。予定されていた数えきれないほどのコンサートが中止を余儀なくされ、その中にはベートーヴェンの作品が多数を占めた。この年のニューイヤーコンサートは、その暗黒の日々が始まる直前の最後の光を放つこととなった。

しかしいつからか、このコンサートを収録したCDには拍手が収録されなくなっていた。ティーレマンの時もそうだった。「青きドナウ」の冒頭の挨拶と、「ラデツキー」の最終を除き拍手が入らない(逆に言えばその時にだけ拍手が入るのも不思議だ)。丸で翌年の無観客演奏を予感するかのように、演奏は静かに進行する。今聞くとそのことがかえって、あの楽しい日常の光景を遮っているようで不気味な感覚でもある。

有名ではないが、無名でもないいくつかのワルツ「レモンの花咲くところ」や「人生を楽しめ」、そして「もろびと手を取り」が演奏されるに及んで、私にはこの選曲が1988年のアバドの最初の年の焼き直しであることに気付いた。「トリッチ・トラッチ・ポルカ」や「大急ぎで」といったポルカまで同じである。ネルソンスはアバドに再来であるかのように、気を衒わず、スマートで洗練された演奏が期待されているのだろうと思った。1978年生まれのネルソンスは、この時まだ41歳。ますます期待が高まる彼の指揮によりニューイヤーコンサートが楽しめる機会は、今後まずます増えるであろう。

3人の初登場の指揮者を聞き比べ、私はネルソンスに一層の期待と興奮を覚えた。一方、かつて若者だったベテラン指揮者のメータとムーティも、老齢の域に達しながら独特の個性を放っている。そのような中で来る2023年はオーストリア生まれのウェルザー=メストが3回目の登場となることが発表されている。

【収録曲(2017年)】
1.レハール:喜歌劇「ウィーンの女たち」より「ネヒレディル行進曲」
2.ワルトトイフェル:「スケーターズ・ワルツ」作品183
3.ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ「帝都はひとつ、ウィーンはひとつ」作品291
4.ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「冬の楽しみ」作品121
5.ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「メフィストの地獄の叫び」作品101
6.ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「別に怖くはありませんわ」作品413
7.スッペ:喜歌劇「スペードの女王」序曲
8.ツィーラー:ワルツ「いらっしゃい」作品518
9.ニコライ:歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」より「月の出の合唱」
10.ヨハン・シュトラウス2世:「ペピタ・ポルカ」作品138
11.ヨハン・シュトラウス2世:ロトゥンデ館のカドリーユ作品360
12.ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「奇抜」作品205
13.ヨハン・シュトラウス1世:インディアン・ギャロップ作品111
14.ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・マズルカ「ナスヴァルトの女たち」作品267
15.ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「さあ踊ろう!」作品436
16.ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「千夜一夜物語」作品346
17.ヨハン・シュトラウス2世:「チク・タク・ポルカ」作品365
18.エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・シュネル「喜んで」作品228
19.ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」作品314
20.ヨハン・シュトラウス1世:「ラデツキー行進曲」作品228

【収録曲(2019年)】
1. ツィーラー:「シェーンフェルト行進曲」作品422
2. ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「トランスアクツィオン」作品184
3. ヨーゼフ・ヘルメスベルガー:妖精の踊り
4. ヨハン・シュトラウス2世:「特急ポルカ」作品311
5. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「北海の絵」作品390
6. エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・シュネル「速達郵便で」作品259
7. ヨハン・シュトラウス2世:喜歌劇「ジプシー男爵」序曲
8. ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・フランセーズ「踊り子」作品227
9. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「芸術家の生活」作品316
10. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「インドの舞姫」作品351
11. エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・フランセーズ「オペラ座の夜会」作品162
12. ヨハン・シュトラウス2世:喜歌劇「騎士パースマーン」による「エヴァ・ワルツ」
13. ヨハン・シュトラウス2世:喜歌劇「騎士パースマーン」より「チャールダーシュ」作品441 
14. ヨハン・シュトラウス2世:「エジプト行進曲」作品335
15. ヨーゼフ・ヘルメスベルガー:幕間のワルツ
16. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・マズルカ「女性賛美」作品315
17. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「天体の音楽」作品235
18. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「突進」作品348
19. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」作品314
20. ヨハン・シュトラウス1世:「ラデツキー行進曲」作品228

【収録曲(2020年)】
1. ツイーラー:喜歌劇「放浪者」序曲
2. ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「愛の挨拶」作品56
3. ヨーゼフ・シュトラウス:「リヒテンシュタイン行進曲」作品36
4. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ「花祭り」作品111
5. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「シトロンの花咲く国」作品364
6. エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・シュネル「警告なしで」作品132
7. スッペ:喜歌劇「軽騎兵」序曲
8. ヨーゼフ・シュトラウス:「キューピッド・ポルカ」作品81
9. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「もろびと手をとり」作品443
10. エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・マズルカ「氷の花」作品55
11. ヨーゼフ・ヘルメスベルガー:ガヴォット
12. ロンビー:郵便馬車の御者のギャロップ
13. ベートーヴェン:「12のコントルダンス」WoO 14より
14. ヨハン・シュトトラウス2世:ワルツ「人生を楽しめ」作品340
15. ヨハン・シュトトラウス2世:「トリッチ・トラッチ・ポルカ」作品214
16. ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「ディナミーデン」作品173
17. ヨーゼフ・シュトラウス:「大急ぎで」作品230
18. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」作品314
19. ヨハン・シュトラウス1世:「ラデツキー行進曲」作品228

2022年2月22日火曜日

ドヴォルジャーク:チェロ協奏曲ロ短調作品104(Vc:ピエール・フルニエ、ジョージ・セル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

多くの人にとってそうであるように、もっとも愛すべき管弦楽作品のひとつであるドヴォルジャークのチェロ協奏曲(通称「ドボコン」)の名録音に、これまで何度触れてきたことだろうか。そのたびに心を洗われ、過去の日々を切なく思い、音楽の持つ霊感に心を震わせてきた。チェロという楽器の持つ表現力をこれまでに高めた曲というのを、この後にも先にも見出すことは難しい。冒頭の一音から最後の一音まで、どのフレーズ、どの音符をとっても聞きどころである。

そんなドヴォルジャークのチェロ協奏曲について書かれた記事は枚挙に暇がないので、作曲の経緯や作品の詳細は割愛しよう。この曲の過去の多くの演奏についても、多くの人が取り上げているし、そのことをかくいう資格はない。どの演奏もそれなりに素晴らしいとすれば、それはもう曲の持つ魅力があまりに大きすぎて、演奏の違いなどどうでも良いことのように思えてくるからではないだろうか。クラシック音楽を聞くことを趣味にしていて良かったと、素直に喜べる作品である。

ドヴォルジャークのチェロ協奏曲には、録音された名演奏が多い。ここでは私がこれまでに親しんだ演奏を思いつくままに記述するが、どの演奏に浮気しても最後に戻って来る演奏が存在する。それが、フランス人のチェリスト、ピエール・フルニエによる1961年の演奏であることに迷いはない。この演奏は、ジョージ・セル指揮ベルリン・フィルの強固なサポートを得て、神がかり的な完成度に達しており、それを捉えた録音も当時のものとしては最高位に位置するものだ。

私がこのフルニエ盤に出会う前、最初にこの曲を知ったのは、ロシアの巨匠、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチの演奏によってであった。彼は鮮烈なデビューとなったカラヤンとの競演盤で、すでに世界中から評価が高かったが、私の家にあったのはカルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロンドン・フィルとの演奏だった。ロストロポーヴィチによるこの2つの演奏は対照的で、力がぶつかり合うカラヤンとの演奏とは異なり、ジュリーニとの演奏では平和的な融合を感じることができる。熱がせめぎ合って昇華されてゆく方を取るか、それとも協調的和合を取るかは趣味の問題だが、この曲に関する限り私は後者を好む。

ロストロポーヴィチには後年、小澤征爾と組んだ演奏もあって、我が国では大いに評判を呼んだのだが、恐ろしいくらいにこの演奏の録音は酷い。そしてそのことが大きくこの演奏の存在価値を低めている。ロストロポーヴィチは阪神大震災の直後に来日して、小澤が復帰を果たすNHK交響楽団との特別演奏会でこの曲を披露したが、この時の演奏は魂が乗り移ったように情熱的で素晴らしかったことを思うと残念でならない。

デジタル録音の時代に入って、初めて自分の小遣いでこの曲の新譜を買ってみようと思ったのは、丁度、ヨーヨー・マがロリン・マゼール指揮ベルリン・フィルとの録音をリリースした頃だった。マは当時、新進気鋭の若手で、古色蒼然としたチェロの魅力を現代的なものに塗り替えて行った。バッハの無伴奏もこの頃のリリースである。以降、若手のチェリストのモデルにもなったのではないかと思わせるような新鮮さで、ドヴォルジャークのチェロ協奏曲に挑んだ演奏に注目が集まっていた。

ところがこの演奏を聞いて驚いたのは、マゼールの指揮する極端な人工的アプローチであった。「オフレコではないのか」などと揶揄する人もいたくらいに、その流れはしばしば多くのポルタメントや異常に遅いフレーズ、音が小さくなったかと思うとまるで器械のように段階的にクレッシェンドするような、極めて作為的な脚色に満ちていた。しかし聞き進むうちに、この演奏はそのようなアプローチが事前に周到に準備され、洗練度を極めたことによって、まるで写実を極めた絵画が写真のようにリアルであるかのように、見事なものだと思うようになった。聞けば聞くほどに新しい感覚をもたらし、気が付けばこの演奏の虜になっていた。

マの演奏によるドヴォルジャークのチェロ協奏曲は、その後、マズア指揮ニューヨーク・フィルによって再録音された。私も聞いては見たが、最初の演奏があまりに衝撃的だったことからか、平凡な感じがした。

1990年代に入って私が注目したのは、ハインリヒ・シフがチェロを弾き、アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルが伴奏を務めるフィリップス盤だった。当時、プレヴィンのウィーン・フィルの録音が次から次へとリリースされていたが、どの演奏も素晴らしく、そこへドヴォルジャークのチェロ協奏曲ときて私の食指が動いた。この演奏は過去の名演奏に比べると特長が感じられないばかりか、平凡な演奏に思われて私は長年聞かない状態になっていた。

しかし後年になって改めて聞いてみるとなかなかユニークで、新鮮で瑞々しい感覚の中にもロマンチックな香りもする演奏であることに気付いた。もしかすると、近年のベストではないかなどと思ってみたのだが、実際のところそれも長続きはしなかった。そしてフルニエの演奏が、私にとっては性に合っていると思われて仕方がないのだった。

フルニエ、ロストロポーヴィチ、それに新しいマの演奏以外にも、評判の録音は沢山ある。その中で最右翼は、ジャクリーヌ・デュ・プレによる2種類の演奏(バレンボイム指揮シカゴ響、チェリビダッケ指揮スウェーデン放送響)である。しかし彼女が活躍した時代はあまりに短く、フルニエと同時代なのだが、今となってはどうにも録音が良くない。

一方フルニエの演奏は、質実剛健のキリっと引き締まった演奏である。だが決して冷徹な演奏ではない。むしろ知・情・意のバランスが完璧なほどに取れている。ほのかなロマン性と感傷的になり過ぎない理性。技量と感覚の融合が醸し出す独特の味わい。レトロな風味のチェロが、近代的な香りをまとっている。セルの伴奏が、このフルニエの特長を引き出すことに成功し、時にきびきびと先へ進むので、丸で校長先生とキャッチボールをしているかのような緊張感が続く。ここはこう聞こえて欲しい、と思う部分はまさにそのようにきっちりと聞こえる演奏である。

2022年2月16日水曜日

ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート(18)ベテラン指揮者の再登場-メータ(2015)、ムーティ(2018, 2021)

時が経って2015年。この年のニューイヤーコンサートには、何とズビン・メータが登壇した。8年ぶりのことである。メータは初登場の1990年からよくこのコンサートに出演していたが、2007年を最後に遠ざかり(ただしこの時も9年ぶり)もはや過去の人となっていた。ウィーン・フィルを指揮する姿も長年見ていない。今さらメータのニューイヤーなんて、既視感のある面白くないコンサートだと思われたのだが、実はこれが予想に反しなかなかの名演奏だっと思う。いやそれどころか、2010年代を代表するものになったのではないか。今聞きなおしてみても、その思いに変わりはない。

コンサートは珍しく、スッペのオペレッタ「ウィーンの朝・昼・晩」から始まる。気さくで気取らない雰囲気で始まるコンサートは、懐かしさも感じる打ち解けたムードの中、ワルツ「東方のおとぎ話」へと進む。この曲は2009年にバレンボイムが取り上げているが、別の曲ではないかと思うほどその時とは印象が異なり名曲に聞こえる。さらにはヨーゼフ・シュトラウスの遅いポルカ「ウィーンの生活」、エドゥアルド・シュトラウスの速いポルカ「人が笑い生きるところ」といった初登場の曲までもが、何やら粒ぞろいの名曲に聞こえるから不思議だ。

純米辛口の吟醸酒を味わうような気持でワルツ「オーケストラの村つばめ」を聞いて行くと、もう前半のコンサートも終わりである。メータの惰性的で単調な指揮は、ここでは改められ、慎重かつ大胆にオーケストラの持ち味を生かすことに専念している。その献身的な様子から、類稀な関係に成熟したことが窺える。後半は「加速度円舞曲」のような懐かしい曲の合間に、珍しい曲が数多いものの、ワルツ「酒・女・唄」が長い序奏と伴って演奏されるという嬉しさに心が躍る。

そしてニューイヤーコンサートの中でも白眉とも言うべきワルツ「美しく青きドナウ」は、毎年アンコールとして演奏される曲であり、新年のスピーチもあってどの年の演奏がどうの、という評価を飛び越える曲であるにもかかわらず、この年の「ドナウ」はとても印象的だった。おそらくは最も素晴らしく演奏された「ドナウ」は、この2015年のメータにとどめを刺す。少なくとも私にはそのように感じられた。

メータの再登場で、もはやこれを上回る演奏はできないのではないかというほどになったためだろうか、この後彼の登場はなく、2022年現在でも予定されていない。

一方、もう一人の常連指揮者、リッカルド・ムーティはこのあと2018年、そして2021年と2回に亘って登場、老齢の域に達しながらも瑞々しく、しかも落ち着いた名演奏を聞かせてくれたことは記憶に新しい。

メータに並ぶ5回目の登場となった2018年の演奏は、メータとは対照的である。メータがどちらかと言えばポピュラーな曲を中心に楽し気に指揮するのに対し、ムーティは真面目一辺倒で、初登場の曲を並べ、言ってみれば芸術家肌であることを強調して見せる。ところがそこから紡ぎだされる音楽は、しっとりと情感を湛え、ワルツのような通俗曲を純音楽的に料理してみせるのである。どちらの演奏も甲乙が付けがたい魅力があって、そういう様々な演奏に接することができるのもニューイヤーコンサートの楽しみである。

2018年の演奏は有名な「ジプシー男爵」の入場行進曲で始まるが、こんな曲でも楷書風の演奏である。続くワルツ「ウィーンのフレスコ画」なんて曲は聞いたことがないし、「マリアのワルツ」もそうである。ところが「マリアのワルツ」などは、そういう風には感じられず、もうムーティは過去に何度も演奏をしてきているかのようなこなれた演奏で、ウィーンフィルも含め余裕すら感じさせるせいかとても楽しい。初めて聞く曲でこういう経験は珍しいが、ムーティの演奏できくときにだけ、こういう経験ができる。

後半に演奏されるスッペの喜歌劇「ボッカチオ」序曲も大変珍しいのだが、ベテランの手にかかると名演奏になって会場も沸き返っている。ムーティによるニューイヤーコンサートはうっとりするような時間をもたらし、気が付くともう終盤にさしかかっている。さすがにここまで来ると、以前とは違って有名曲が並ぶ。「ウィーンの森の物語」「南国のバラ」などに挟まれたポルカも「町と田舎」「雷鳴と電光」といった具合である。どのような名曲であっても珍しい曲であっても、ムーティの指揮は真剣に真面目で音楽的。それでもお正月のムードに溶け合っているから不思議である。

私はこの2018年の「美しく青きドナウ」を、房総から東京へと向かう高速バスの中で聞いた。空いた静かな車内からは夕日に照らされた東京湾の向こうに太陽が暮れかかる頃だった。快晴の空がオレンジ色に染まり、西に傾いた夕陽がひときわ大きくなって、肉眼でも見ることができる紅さに輝いている。江戸川を越えた時だった。夕陽は丁度富士山をシルエットにして没していった。ムーティのワルツと都会の日暮れの奇妙なマッチングが、私に幻想的な時間を与えた。

ムーティによる演奏は、白痴的に美しいメータの演奏とは異なり、発見をすることが多い。初めて聞くワルツやポルカだけでなく、すでによく知られた名曲であっても、ムーティ流の揺るぎない解釈は、ベテランの自信を感じさせる。そのムーティが新型コロナの蔓延に伴って無観客の演奏会となった異例の2021年の指揮者だったことは、偶然であるとはいえ好ましいことだったと思う。

ムーティは前回の登場から4年ぶり、6回目の登場だった。イタリアン・スーツに身を包んだナポリ生まれのムーティも、もう歳をとったもんだと思った。初出の曲にスポットをあて(ワルツ「音波」など)、丸で何度も演奏をしてきたかのような完成度で指揮をする。そのことに最初は退屈だったが、ここまで聞き続けてくると、そのことの方が楽しくなっていて、むしろ有名曲の方がつまらないくらいである。同じワルツでもツェラーの「抗夫ランプ」やコムザークの「バーデン娘」のような珍曲も登場、シュトラウス一家にはない趣きの曲に心がときめいた。ただ有名曲を演奏する際にはムーティも良く考えていて、「春の声」や「皇帝円舞曲」といった曲では目一杯テンポを落とし、それまでのどの演奏よりもコントラストをつける。その若干わざとらしい部分が、やや目障りではあると思うのは私だけだろうか。

この2021年のコンサートは無観客で行われたため、当然のことながら拍手はない。恒例の「美しく青きドナウ」の前には、英語で長いスピーチを行い、それもCDには収録されている。コロナ禍で開催が危ぶまれた恒例のコンサートを開催する意義をムーティは力説し、音楽の必要性を訴えたことは印象的だった。最後の「ラデツキー行進曲」でも拍手はなく、淡々と演奏が進む。バレエの画像も最小限挟まれたが、何か無理をしているようで痛々しく感じられた。

このように2021年の演奏は、ビデオで見ると異様な雰囲気である。照明に照らされ、例年の如く舞台上に花が所狭しと並べられていることが、かえってその異様さを際立たせる。だから私はこの模様は、映像なしのメディアで楽しみたいと思った。そしてそうする限り2021年のコンサートは大成功の部類に入ると思われる。無観客による丸でセッション録音のような雰囲気が特別な集中力をもたらしたのか、どの演奏も完成度が高く聞きごたえ十分である。


【収録曲(2015年)】
1. スッペ:喜歌劇「ウィーンの朝・昼・晩」序曲
2. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「東方のおとぎ話」作品444
3. ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・フランセーズ「ウィーンの生活」作品218
4. エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・シュネル「人が笑い生きるところ」作品108
5. ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「オーストリアの村つばめ」作品164
6. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「ドナウの岸辺から」作品356
7. ヨハン・シュトラウス2世:「常動曲」(音楽の冗談)作品257
8. ヨハン・シュトラウス2世:「加速度円舞曲」作品234
9. ヨハン・シュトラウス2世:「電磁気ポルカ」作品110
10. エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・シュネル「蒸気をあげて」作品70
11. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「エルベのほとり」作品477
12. ロンビ:「シャンパン・ギャロップ」作品14
13. ヨハン・シュトラウス2世:「学生ポルカ」作品263
14. ヨハン・シュトラウス1世:「自由行進曲」作品226
15. ヨハン・シュトラウス2世:「アンネン・ポルカ」作品117
16. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「酒・女・歌」作品333
17. エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・シュネル「粋に」作品221
18. ヨハン・シュトラウス2世:「爆発ポルカ」作品43
19. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」作品314
20. ヨハン・シュトラウス1世:「ラデツキー行進曲」作品228

【収録曲(2018年)】
1. ヨハン・シュトラウス2世:喜歌劇「ジプシー男爵」より「入場行進曲」
2. ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「ウィーンのフレスコ画」作品249
3. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ「花嫁さがし」作品417
4. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「心うきうき」作品319
5. ヨハン・シュトラウス1世:「マリアのワルツ」作品212
6. ヨハン・シュトラウス1世:「ヴィルヘルム・テル・ギャロップ」作品29b
7. スッペ:喜歌劇「ボッカチオ」序曲
8. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「ミルテの花」作品395
9. ツィブルカ:「ステファニー・ガヴォット」作品312
10. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「百発百中」作品326
11. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「ウィーンの森の物語」作品325
12. ヨハン・シュトラウス2世:「祝典行進曲」作品452
13. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・マズルカ「町と田舎」作品322
14. ヨハン・シュトラウス2世:「仮面舞踏会のカドリーユ」作品272
15. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「南国のばら」作品388
16. ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・シュネル「投書欄」作品240
17. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「雷鳴と電光」作品324
18. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」作品314
19. ヨハン・シュトラウス1世:「ラデツキー行進曲」作品228

【収録曲(2021年)】
1. スッペ:喜歌劇「ファティニッツァ」より行進曲
2. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「音波」作品148
3. ヨハン・シュトラウス2世:「ニコ殿下のポルカ」作品228
4. ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・シュネル「憂いもなく」作品271
5. ツェラー:ワルツ「坑夫ランプ」
6. ミレッカー:ギャロップ「贅沢三昧」
7. スッペ:喜歌劇「詩人と農夫」序曲
8. コムザーク:ワルツ「バーデン娘」作品257
9. ヨーゼフ・シュトラウス:「マルゲリータ・ポルカ」作品244
10. ヨハン・シュトラウス1世:「ヴェネツィア人のギャロップ」作品74
11. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「春の声」作品410
12. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・フランセーズ「クラップフェンの森で」作品336
13. ヨハン・シュトラウス2世:「新メロディー・カドリーユ」作品254
14. ヨハン・シュトラウス2世:「皇帝円舞曲」作品437
15. ヨハン・シュトラウス2世:シュネル・ポルカ「恋と踊りに夢中」作品393
16. ヨハン・シュトラウス2世:「狂乱のポルカ」作品260
17. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」作品314
18. ヨハン・シュトラウス1世:「ラデツキー行進曲」作品228

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...