2023年4月27日木曜日

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団特別演奏会(2023年4月24日サントリーホール、飯守泰次郎指揮)

飯守泰次郎の指揮するブルックナーの演奏会に、一度出かけてみたいと思っていた。随分前から、一部のファンには熱烈に支持されていたが、私にはこれまで縁がなかったからだ。飯守泰次郎を知ったのは、新国立劇場の芸術監督に就任した2014年頃だった。私は彼がバイロイト時代の人脈を駆使して招聘するワーグナー歌手らとともに、「パルジファル」「神々の黄昏」「ローエングリン」「さまよえるオランダ人」を聞き、さらにはカタリーナ・ワーグナーの演出するベートーヴェンの「フィデリオ」の名演奏を聞いた。これらは私のワーグナー視聴史を飾る貴重な思い出である。

そのワーグナーを崇拝したブルックナーもまた飯守の得意とする演目で、彼自身が「挨拶」でそのことに触れている。ブルックナーとワーグナーには共通点が多く、「バイロイトでワーグナーの仕事をした経験が、ブルックナーのサウンドを構築する土台になっている」と語っている。飯守の指揮によるブルックナーは、先日4月7日にも交響曲第8番の演奏会が行われている。私はこの演奏会にしようかと迷ったが、直前に上岡指揮新日フィルによる同曲を聞いたばかりなので、24日に開催される第4番の方を選んだ。交響曲第4番「ロマンチック」はブルックナーの交響曲の中では最も有名で、明るいメロディーが全体を覆う私の好きな曲である。

シティフィルというオーケストラを聞くのは初めてであった。プロフィールを見ると創立が1975年だから、もう半世紀近くの歴史があるということになる。N響を筆頭に数多ある在京オーケストラの中で、どちらかというと目立たず次点といった感じのオーケストラという印象があったが、飯守の指揮する演奏会は評判がいい。彼自身解説のなかで、音楽は生きているものだと書いている。「楽譜に書ききれない自由さがある」以上、「常に聴きあいながら有機的に音楽を創っていく」営みが重要だと語っている。今回の演奏会も、演奏が進むにつれてどのように音楽が進(深)化するか、それが大いに注目するところだった。

第1音の弦楽器によるトレモロが響いた瞬間、私はこのオーケストラが発する得も言われぬ響きに驚かされた。音に艶があって生きている!その音はまさに中欧のそれであって、しかも明るいのだ。紛れもなくブルックナーの音を、飯守は作り出している。オーケストラが時に音を外しそうになったところで、この音色は揺るがない。2階席真横という席ながら、そのことを実感して嬉しくなった。

第1楽章の明るくて優雅な主題は、私が初めて聞いたブルックナー音楽の原点である。その時聞いたレコードの指揮はブルーノ・ワルターで、そこはやはりメロディーの歌わせ方の上手い演奏だった。最初のゾクゾクがこのメロディー、とこの曲を聞く時の相場は決まっている。その第1楽章はソナタ形式で書かれているが、そういう音楽の構造が何かとてもよくわかる。飯守はすっかり体が弱って、支えがないと指揮台まで歩けない状態だったが、音楽が始まってしばらくは用意されていた椅子に座ることもなく、むしろ早めのテンポで駆け抜けた。

第2楽章の美しさ、特に中間部の短いメロディーがこの曲最大の聞き所だと思っている。このメロディーを聞くために、実演の会場へと足を運んでいると言ってもいいくらいである。私にとってのこの曲の、2回目のゾクゾクは、実に自然な成り行きでやってきた。だが、私はここを境に、今日の演奏が化学変化を始めたように思う。ここからの音楽は、いっそう洗練されて聞こえてきたからだ。特に第2楽章ではヴィオラが活躍する。オーケストラを真横から見ていると、正面からではあまりよくわからない管楽器に注目が行くが、これが弦楽器とどう絡み合っているかが手に取るようにわかる。

第3楽章は狩の音楽だが、ここではホルンを始めとする金管楽器が活躍する。飯守は椅子に座りながらも、淡々と音楽を進める。ブルックナーの音楽には人間性が感じられない。だから、音楽は無為無策のように、むしろぶっきらぼうで素っ気なく指揮するのが良いようなところがある。しかし、そういう音楽がただひたすら繰り返されてゆくと、研がれた石が光沢を放ち始めるようになる。大改訂を繰り返した第3楽章の中間部は、素人が聞いても音楽的ではないが、繰り返されるスケルツォを聞いていると、ひたすら漂白される砂糖の結晶のように思われてくる。

長い休止の間、飯守は幾度となく楽譜のページをめくり、何かを確認しているようだった。今日のプログラムはこの曲ただ1曲のみ。その全力投入の演奏も、終楽章へと入る。そして3回目のゾクゾクは、第4楽章早々のクライマックスと決まっている。飯守の今回の演奏は、第2稿ノヴァーク版ということになっている。良く知られているように、この曲で通常演奏される第2稿の2つの版に、いずれもシンバルは登場しない。ところが舞台には第1楽章から、ずっとシンバル担当の打楽器奏者がいて、この人が第4楽章早々のクライマックスで、満を持してシンバルを叩いたのである。

この効果は抜群だった。そしてシンバルはこの1音だけ。そもそもシンバルが入る稿というのを良く知らないのだが、これはおそらく折衷版ということだろう。ややこしいことはともかく、ここから20分余りをかけてコーダに至るまでの演奏は、ブルックナー音楽のもっとも感動的なシーンの連続だった。

これだけの名演奏なのに、客席が3割程度しか埋まっていないことが残念でならない。月曜日ということもあるし、定期演奏会ではないという不利な点もある。しかしコロナの期間を含め、私が経験した中では最も少ない聴衆の数だった。だがその数少ないファンは、大いに熱狂的でもあった。歩くのがままならないマエストロは、係員に支えられながら舞台の袖で諸手を挙げ、順次各パートを立たせた後も再三にわたりブラボーの声援に応えた。もちろんオーケストラが去っても拍手は鳴りやまず、指揮者が再び会場に立った時には、再度割れんばかりの拍手に包まれた。

ブルックナーの名演奏は実演でしか得られないものがある。単純だか壊れやすいその音楽は、オーケストラの技術が良くなければならない上に、音楽の最中に一種の動的な変化がなされる必要がある。滅多におきないその変化が生じた際の、圧倒的な感動はこの作曲家の音楽の虜にさせるに十分である。そして今回の演奏もその水準に達した。オーケストラのアンサンブルが指揮者とのコラボレーションによって次第に高次元でまとまり、技量を超え神がかったような一体化が醸成されていった。まさに飯守が期待した成果だった。できれば他の作品も聞いてみたいと思っていたら、配布されたチラシの中に、来シーズンの定期でシューベルトの「グレイト」が掲載されているではないか!これは今から楽しみである。

2023年4月23日日曜日

紀尾井ホール室内管弦楽団第134回定期演奏会(2023年4月21日紀尾井ホール、トレヴァー・ピノック指揮)

プログラムに上ると可能ならすべて聞きに行きたいと思う曲がある。シューベルトの長大な交響曲第8番ハ長調、いわゆる「グレイト・シンフォニー」は私にとってそういう曲である。名曲だけに毎年何回かはどこかの団体によって演奏されているし、レコードの枚数も限りがない。実際、実演で聞くこの曲はその長さが気にならない。それどころかいい演奏で聞くと、いつまでも聞いていたいとさえ思う。

私がかつて実演でこの曲を聞いたのは4回ある。そのうち2回は鮮明に覚えているが、あと2回は記憶にない。鮮明な方は、サヴァリッシュ指揮NHK交響楽団とミンコフスキ指揮ルーブル宮音楽隊によるものである。サヴァリッシュのシューベルトは、それだけで間違いがないとも言えるが、ここで私は第3楽章トリオ部分の美しさに開眼した。ミンコフスキの方は、何といってもリズムの楽しさで、特に第4楽章の乗りに乗った演奏に舌を巻いた。そう考えると、記憶にない方の2つの演奏、すなわちノリントン指揮とパーヴォ・ヤルヴィ指揮のいずれもNHK交響楽団による演奏は、なぜ印象がないのかわからない。もしかすると聞いた座席の位置が良くなかったのかも知れない。

そのシューベルトの「グレイト・シンフォニー」を英国のピリオド奏法で名を馳せた指揮者、トレヴァー・ピノックが指揮する。この指揮者を聞くのは初めてである。プログラムの前半には定番のモーツァルトも用意されているから、これは「買い」だと思った。かつてドイツ・グラモフォンから発売されていたバロックからモーツァルトに至る一連の演奏は、一世を風靡したかのような感さえあった。ブリュッヘン、アーノンクールなどと並んで、80年代の古楽器ブームの最盛期に登場したピノックのCDを、私も何枚か持っている。

そのピノックも77歳だそうで、昨年(2022年)からは紀尾井ホール室内管弦楽団の第3代目の首席指揮者に就任したそうである。私は紀尾井ホール室内管弦楽団を聞くのは2回目である。もう5年前の丁度同じ日になるのだが、ハイドンの「十字架上のキリストの7つの言葉」を聞いており、紀尾井シンフォニエッタ東京から名称を変更した団体の技量の高さはすでに体験済みだから、きっといい演奏会になるに違いないと確信した。

ピノックはシューベルトの「グレイト」を指揮するの当たり、特にメッセージを寄せていて「シューベルトの交響曲第8番は、私にとって宝物のような作品であり、人生のあらゆる要素が詰まった体験と省察のための音楽です」と語っている。彼にとってこの曲を振ることは、特別なことなのだろう。だからこの日の演奏会は、とどのつまりは「グレイト」に集中し、そこにほとんどすべてエネルギーを傾けたと言っても過言ではないだろう。最初の曲「イタリア風序曲」の丁寧で明るいサウンドは、いわば「グレイト」のためのウォーミングアップといったところだが、一音一音の色付けにこだわりが感じられて大変好ましい演奏に仕上がっていた。

一方のモーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」は、ピノックの定番中の曲である。ところが何と、私はこの曲の実演を聞くのが初めてであった。ピノックは無難にこの曲を指揮したと思う。ただ私はどことなく、練習不足の感が否めなかった。オーケストラの音色、特に弦楽器のそれに、何となく洗練されたものが感じられなかったからである。音がやや艶を欠いていて、どこかアマチュアの団体が演奏しているような感じである。そう思ったのは、後半のプログラムではまったく違った素晴らしい音に変貌していたからである。

ただピノックはチェンバロの奏者でもある。チェンバロという楽器は、音が上部に「キン」と突き抜けるようなところがあって、もしかするとそういう音作りなのかも知れないと思った。シューベルトではむしろロマン派のアンサンブルになっていたがモーツァルトでは、敢えてもっと賑やかな古典派の音にしていたのかも知れない。

紀尾井ホールという会場を私は好ましく思っていない。その理由は最寄りの駅から遠いことに加えて、トイレが不思議なことに地階と2階にしかないというおかしな構造をしていることによる。このため大多数の1階席の聴衆は、階段を上り下りしないと用を足せないのだ。我が国におけるクラシック音楽のリスナーは近年、特に高齢化が著しく、この階段の上り下りには拒絶感を抱く人も多いのではないか。だからかどうかはわからないが、これだけ素敵なコンサートなのに、客席は6割程度しか埋まっていない。もったいない話である。

シューベルトの交響曲第8番について、音楽評論家の森朋平氏が大変素敵な文章を解説に記している。それによれば、若い頃はモーツァルトをモデルにしていたシューベルトも、病に侵されるようになるとベートーヴェンが目標となった。「治ったと思っても回帰してくる関節と頭の痛み」によって死を意識する若き作曲家は、それまでのような「”歌”や”抒情”に耽溺しない、古代の叙事詩を読み上げるごとき偉業」を成し遂げる。それは「4か月におよぶザルツブルク方面」への旅行を皮切りにゆっくりと形をなしていった。

病気と死の恐怖にさいなまれながら、彼は長大な作品を残す。その冗長なまでの(私はそうは思わないが)長さに「演奏不可能」とレッテルを張られたこの作品は、後年シューマンによって見いだされ、メンデルスゾーンによって初演されるまで日の目を見ることはなかった。私が衝撃を受けたのは、その頃のシューベルトがローマの友人に充てて書いた手紙の一節である。「もう二度と目覚めなければいいのに」と、彼は書いているのだ。私の患う病魔もこの状況に似ている。驚くべきことにシューベルトはそんな苦境の中でこの曲を作曲したのだ。そこにはシューベルトの並々ならぬ決意が感じられる。「未完成」とは対照的に、この曲はシューベルトのポジティブな側面が横溢している。しかしその中に時に垣間見せる内省的な瞬間が、この作品の奥深い魅力である。

さてピノックの「グレイト」だが、結論から言えば、大変感動的であった。オーケストラのアンサンブルの見事さは、前半とは異なって群を抜いていた。特に終楽章でのリズム感のよい集中力は、できればもう一度聞いてみたい。ただ、第2楽章ではもう少し表情付けがあっても良かったと思う。中間部で一気に静かになるところ。ここで吹く心の隙間風こそが、私がシューベルトを愛する理由なのだ。

同じことは第3楽章のトリオにも言える。あまりに健康的で明るい演奏なのだ。だがこの抒情的な部分の美しさは例えようがない。できればここはゆっくりとした演奏で聞いたみたいものだ。その前後は威勢が良くていい。このコントラストの妙をつける演奏に、私はまだ出会っていない。ただでさえ長いこの曲で、弛緩させることなく集中力を維持することに気を取られるあまり、この第3楽章のしっとりとしたメロディーが、いつも不完全なものに終わるように私は感じてしまう。

いくつかの不満はあるとはいえ、高い水準でこの曲を聞くことができた喜びは、何をおいても特筆すべきだろうと思う。そしてシューベルトの魅力を、またいつか実演で聞いてみたいと思う。生ある限り、私はシューベルトを愛し、そしてシューベルトの曲を聞き続けたい。あのピアノ・ソナタの全集を、私はそのために買い求め飾ってある。

長大な曲の最後の一音が鳴り終わったとき、フォルティッシモで終わる曲にしては珍しいことに長い静けさが保たれた。多くの聴衆の中に、音楽の一部とも言える静寂をぶち壊す人がいなかった。そのことで今日の演奏会の品の高さがうかがえようか。ブラボーこそわずかではあったが、これには指揮者も満足した様子だった。木管楽器を始めとする奏者の技量の高さにも驚かされた演奏会が終わると、何と小雨が降り始めていた。4月とは思えない暑さの中を、赤坂見附の交差点まで歩くと、紅潮した頬も次第に緩み、新橋の雑踏に塗れるころには深遠なシューベルトの心の闇も、どこかへと消えて行ってしまうようだった。

2023年4月18日火曜日

バルトーク:管弦楽曲集(アダム・フィッシャー指揮ハンガリー国立交響楽団)

前にも述べたように、私はバルトークが苦手だった。しかしこの舞曲を中心とした管弦楽曲集に接した時、これは聞けると思った。ハンガリー生まれのアダム・フィッシャーがハンガリー国立交響楽団を指揮したCDである。このCDはNimbusという黒いジャケットのレーベルから発売されていた。Numbusというレコード会社は、しなしながらいつのまにか倒産し、私のCDを含め多くが廃盤、入手不可能となってしまった。私は中古屋を巡り、何とかあと1枚のCDを買い求めた。

バルトークの音楽は、ハンガリーやジプシーを題材にした複雑なリズムが特徴である。ピアニストとして有名だったので数々のピアノ作品を手掛けたが、それらのいくつかは管弦楽曲に編曲された。「ルーマニア民族舞曲」もその一つである。「棒踊り」「帯踊り」「踏み踊り」「角笛の踊り」「ルーマニア風ポルカ」「速い踊り」の6つのパートから成っている。タイトルを見るだけでわくわくする。ルーマニアはかつてハンガリー王国の一部だった地域が存在する。そこの民謡を題材に選んだ、と解説にはある。難解で万人受けしないバルトーク節はここには不在で、大変親しみやすい。7分足らずの短い曲だが、それぞれに独特の表情付けがある。何といってもクラシックの世界では、ルーマニアなどといった国は未知の国で、どのような音楽が存在するのか興味深い。私はもちろん行ったことはないが、健康な体でなくなった今となっては、もう一生行くこともないであろう。

一方「舞踊組曲」は、この中では最も有名な曲ではないかと思う。この曲は最初から管弦楽曲として作曲された。ハンガリーの首都、ブダとペストが合併して50周年を記念する年に委譲されたというのが作曲の経緯である。18分ほどの曲は6つの部分からなり、音楽は切れ目なく演奏される。「ルーマニア民族舞曲」ほど気さくな作品ではないが、バルトークの特徴が程よく現れていて親しみやすい。ファゴットやトロンボーン、ハープなどが活躍し、コル・レーニョと呼ばれる弦楽器の奏法(弓の木の部分で弦を叩く)やグリッサンド(ハープなどで滑らせるように弾く)なども見られる。

「ハンガリーの風景」はピアノ曲からの編曲(5曲)。全体が非常に描写的で親しみやすいが、面白いのは「トランシルヴァニアの夕べ」でのオーボエ(もしかするとコール・アングレ)の牧歌的なメロディーに五音音階が用いられていることもあって、非常に日本風の響きがすることである。ここでハンガリーはアジア系、などといい加減で陳腐なことを持ち出す気はないが、バルトークの別の面を見る思いがする。「2つの映像」はドビュッシーの影響を受けた幻想的な管弦楽曲で、「花盛り」「村の踊り」の2曲から成る。それぞれ10分程度の曲。特に「花盛り」はドビュッシーそのものの作風で、間違えそうなほどだ。バルトークにもこのような作品があったのかと思った。

アダム・フィッシャーの指揮はメリハリが効いて録音も大変良い。独特の透明感とややくすんだ東欧風の色彩が感じられる、とてもチャーミングな一枚。


【収録曲】
1. ルーマニア民族舞曲 Sz.68
2. 舞踊組曲 Sz.77
3. ハンガリーの風景 Sz.97
4. 2つの映像 作品10, Sz.46
5. ルーマニア舞曲 Sz.47a

2023年4月8日土曜日

バルトーク:ピアノ協奏曲第1番Sz83(P: ジャン=エフラム・バヴゼ、ジャナンドレア・ノセダ指揮BBCフィルハーモニック)

週末の早朝に、熱いミルク・ティーを飲みながらバルトークを聞いている。家族はまだ寝ているから、大音量で音楽を流すわけにはいかない。久しぶりにSONYの高級ヘッドフォンを取り出してパソコンに繋ぎ、先日実演を聞いたばかりのフランス人ピアニスト、ジャン=エフラム・バヴゼの演奏に耳を傾けている。セーターがなくても寒くない陽気だが、今日は朝から雨雲が立ち込め、路面が濡れている。今年の春は桜があまりに早く散ってしまい、4年ぶりに日常を取り戻したというのに、何か拍子抜けしたような新年度の始まりであった。

バルトークは3つのピアノ協奏曲を作ったが、その最初の第1番は1926年夏に作曲されている。和暦では大正15年のことで、音楽関係ではNHK交響楽団の前身である新交響楽団が設立されている。2つの世界大戦に挟まれた不安定で暗黒のような時代、とこれまで私などは考えてきた。マーラーの死がひとつの音楽史における区切りと考えると、そのあとの時代、すなわちロマン派が終わってラヴェルやストラヴィンスキーの時代に入ってゆくのだが、バルトークもまたそのような時代にハンガリーで活躍した。

バルトークは民族音楽の収集と研究がライフワークであったようだ。彼の作品にその影響が色濃く反映されているという。私は専門家ではないし、ハンガリーの民謡にもまったく無知なので、どれがどうということは言えないが、リズムが千変万化するあのブラームスの「ハンガリー舞曲」や、リストの「ハンガリー狂詩曲」などに親しんでいるから、親しみやすい音楽だと思って聞いてみるのだが、これが一向にそうではなく、むしと難しくてよくわからない、というのが第1印象だった。

バルトーク自身そのことを認めていて、ピアノ協奏曲第1番についても「難点といえば、たぶんオーケストラにとっても、聴き手にとっても、非常に難しいというところでしょう」と述べている。民俗音楽をそのままの体で作品に反映させるだけの時代は終わり、20世紀の音楽としての傾向を踏まえないと、クラシック音楽としての存在感は主張できない。バルトークはそれを実践した。同じハンガリーの同世代コダーイやチェコにおけるヤナーチェクと同様の位置づけと言えるだろうか。

そのバルトークはピアニストでもあった。そして彼の最初のピアノ協奏曲は、バルトークが新古典主義の趣向を強める最初の作品と位置付けられている。とはいえ、私が聞いた印象ではやはり土着的な匂いがする。メロディーもほとんどなく、とらえにく。けれども私にとってストラヴィンスキーが常にそうであるように、ある時演奏次第では、耳にしっくりくるときがあるものだ。

ブーレーズが3人の異なるピアニスト、オーケストラと共演・録音した豪華なCDは私も買っていたが、これはどういうわけかほとんど聞いてこなかった。ブーレーズのCDとしては、ストラヴィンスキーやドビュッシーなど、新たな録音がリリースされるたびに大いに評判を呼び、私も興奮して何枚も買ったのだが、どういうわけか心に響かない。これは演奏が悪いというのではなく、もしかしたら録音によるものなのかも知れない。なぜなら実演で聞いた演奏では、めっぽうヴィヴィッドで躍動的だったからだ。録音ではどういうわけか立体感が失われ、醒めた冷たいものになっている。録音上の演出がそこにあるのではないかと疑っている。

第1楽章はピアニストが思いっきり低いキーを連打し、それに打楽器を主体とするオーケストラが絡むシーンから始まる。ブーレーズによるこの曲のCDではツィメルマンが独奏を担っているが、来日時の公演映像が残っていて、そこではポリーニが見事な競演を繰り広げている。そのポリーニが鍵盤の端っこに指を置いて、指揮の合図を待つシーンが印象に残っている。ブーレーズとポリーニよるライブ映像は、もはや老人とも言える年齢の二人が、このような難曲でもそつなくやってのける円熟の極みに感嘆するが、ここで取り上げるのはバウゼが2009年に録音したCDで、快速の演奏はもはやこの曲が、こなれた「通常の」クラシック音楽として、まるで難しさなどないかのように「普通に」演奏されてしまっている。

ソナタ形式、と言われてもピンとこないが、よく聞くと第1楽章は主題が再現される。リズムに合わせて踊りだしたくなるような曲がノセダの指揮によって洗練されたものになっている。一皮むけたかっこいい演奏だが、これは後から聞くとブーレーズの「完璧に」板についた演奏から続く道の上にいるうなところがある。なるほどブーレースの演奏を再認識するきっかけにも、私の場合、なったのである。

第2楽章では、静かな中に独特の雰囲気が醸し出される。ここでも打楽器がピアノに絡む。いや良く聞いてみると、ここの楽章に弦楽器が登場しない。バルトークの新しい響きが、彼自身のオリジナルかどうかは知らないが、打楽器の活躍によるところが大きいと思う。不協和音と時に乱れる楽器群。それでも太鼓が足取りを刻む。夜の音楽。

バウゼ/ノセダの組み合わせで聞く第3楽章は極めてカッコいい。快速で一気に駆け抜けるノリのいい演奏に、もはや古い演奏に見られる澱みはない。バルトークの音楽の一種の面白さが堪能できる。あっという間の7分弱。それにしてもこの曲が初演された時、指揮者は何とフルトヴェングラーだったらしい。ちょっと想像ができない。

2023年3月29日水曜日

東京都交響楽団演奏会(都響スペシャル)(2023年3月28日サントリーホール、大野和士指揮)

ハンガリー系ユダヤ人作曲家リゲティは1923年生まれで、今年生誕100周年。そのことを記念して都響は今シーズンの最後の定期演奏会に「リゲティの秘密」と称する意欲的なプログラムを組んだ。私はそのことをわが家に届いたダイレクトメール(葉書)で知ったが、今月はすでに5回ものコンサートに出かけており、特に都響は2回に及ぶ。だからこれはパス、と決めていたのだが気になって仕方がない。どうやら前評判も上々のようで、同じプログラムが2回。いずれもサントリーホールで開催されるというのも珍しく、オーケストラはかなり自信があるのだと思われる。そこで2日目にあたる3月28日、仕事を早々に片づけてまたもや赤坂アークヒルズへと急ぐ。スペイン坂の桜が満開を迎え、ライトアップされて見事に咲き誇っている。

プログラムは4つの曲から構成されている。まず前半は「虹」という作品の本邦初演。「ピアノのための練習曲集(第1巻)」からの1曲だそうで、アブラハムセンという人がオーケストラ用に編曲した。「虹」はわずか4分ほどの短い曲で、原曲は1985年の作品。現代音楽を聞く時の関心事のひとつは、舞台上の楽器配置である。そして驚くのは弦楽器の少なさ。これに比べ、管楽器や打楽器が舞台の後方にずらりと並ぶ。解説書によれば、この作品では「ポリリズム」と呼ばれる複数の拍子のリズムが同時に(ピアノなら右手と左手)弾かれるという複雑なもので、それが編曲により各楽器に割り振られ、ばらばらの拍の音楽が絡み合うというものだそうだ。「虹」というタイトルが後からつけられただけで、「虹」を音楽で表現したものではないとのことだが、ポリリズムを各楽器に分解したために、音楽が極めてカラフルなものとなった。それを「虹」と表現したのだろう。

このたびの私の座席は、舞台を向かって左手間横から見下ろるLDと呼ばれるA席の最上列で、後に席がないため身を乗り出して見ることができる。この位置からのオーケストラの音は、思った以上に良かった。サントリーホールでは1階席よりも2階席の方がいい音に聞こえるような気がする。会場には比較的若い人が目立ったのも今回の演奏会の特徴だ。学生が半額になるというのも魅力的だが、新しい音楽にこそ人気があるというのも嬉しい。もしかすると音楽を学んでいる学生なのかも知れない。私の隣の席もカラフルな衣装の学生だったし、前の男性はオペラグラス片手に舞台に見入っている。

舞台上には様々な楽器が並んでいた。次の曲「ヴァイオリン協奏曲」は1990年の作品で、独奏はソビエト(モルダヴィア)生まれのパトリシア・コパチンスカヤ。こういった曲は彼女の独断場だが私はもしろん初めて聞く。面白いのは弦楽器の少なさで、ヴァイオリンは第2を合わせても4人、他は各2人、コントラバスはたった一人。それに対し木管はほぼ2人ずつに加え、リコーダーやオカリナと呼ばれる子供用の笛までもが登場する。また鍵盤楽器が舞台右に陣取り、マリンバ、シロフォン、鉄琴、ビブラフォンといった学校の音楽室にあった楽器がずらり。打楽器の種類に至ってはここに書ききれないほどである。

コパチンスカヤが舞台に登場し、チューニングを始めたと思ったらそれが音楽の始まりだった。音楽とも雑音とも区別のつかないようなギリギリの旋律を、弦楽器と独奏ヴァイオリンが一見無茶苦茶に演奏しているのではないか、と目を疑ったが、これは「変則調弦(スコルダトゥーラ)」と呼ばれる手法を用いて本来の音とは異なる音が出るように操作されているとのことである。Wikipediaで「スコルダトゥーラ」と検索すると、その手法が用いられている主な曲が紹介されていて興味深い。

リゲティの刺激的なヴァイオリン協奏曲は全部で5つの楽章から成り、各楽章には特徴があって面白い。第2楽章には「ホケトゥス」などと書かれているが、これは中世の作曲家マショーの作品に登場する「しゃっくり」のような音楽である。一方、目まいや動悸にも似た生理現象を過激に強調したような部分も少なくない。この結果、ヴァイオリンが有り得ない速度のトレモロで急上昇や急降下を繰り広げるシーンや、それが木琴や太鼓と重なったりする。百家争鳴の音の饗宴とでも言おうか。

楽章が進むにつれて、コパチンスカヤの動きは次第に活発になってゆく。弦楽器のセクションをぐるっと回って、指揮者が二人いるような状況を作り出し、会場に向かって何やら叫んだり。さらには終楽章で長大なカデンツァに挑んだ。これはもう彼女の独断場だった。音楽が終わると割れんばかりの拍手となったが、アンコールにはコンサート・ミストレスとして長年活躍した四方氏とのデュオで、やはりリゲティの「バラードとダンス(2つのヴァイオリン編)」という曲が演奏された(とHPに掲載されている)。

ここで私は解説書から以下の点を記載しておかなくてはならないことに気付く。四方氏は都響に加わる前、西ドイツのケルン放送交響楽団(現WDR響)に所属していたそうだが、このリゲティのヴァイオリン協奏曲を初演したのが1990年のケルン放送響(ベルティーに指揮)で、これは丁度彼女のキャリアと一致する(1987年入団とある)。特に紹介されてはいなかったが、もしかすると彼女は初演時にこの曲を弾いているのではないかと思われる。

休憩時間が過ぎてオーケストラが倍増。通常配置ながらコントラバスだけで10人はいるか。バルトークの名曲「中国の不思議な役人」の全曲版である。この曲は通常、より短い組曲版で演奏されることがほとんどだが、今回はオルガンと栗友会合唱団が入る。このため通常のP席は空けられていた。組曲版は最後の3分の1がカットされているだけである。今月聞く都響の公演中、もっとも巧いと思ったのがこの「中国の不思議な役人」で、どうしてそう思ったのか、客観的にそうなのか、よくわからないのだが、とにかくも私は初めて実演で聞くこの曲の演奏に聞き入った。リゲティの刺激によって、オーケストラもリスナーも耳の垢がそぎ落とされたのだろうか?

音の洪水のような曲ばかり聞いてきたが、最後に演奏されたリゲティの「マカーブルの秘密」についてもまた多くを書かなければならない。この曲はもともとオペラ作品として作曲されたようだ。しかし本番直前に主役ソプラノ歌手が歌えなくなり、そこをトランペットで演奏したことによりこの曲が生まれる。わずか10分足らずの作品だが、今回の演奏(演技)は極めて印象的だ。楽団が登場したときに各奏者には新聞紙が配られ、それをクシャクシャにして放り投げるところから演技が始まった。コパチンスカヤは体中にポリ袋と新聞紙を巻き付け、異様な姿で舞台に登場。靴を脱ぎはだしになって何やら話す。マイクを通してその声は会場に伝わるが、何を言っているのかよくわからない。以降、この歌でもなければ話でもない「声」には、丁寧に対訳がブックレットに記載されているが、解説を読んでも意味不明である。

この「意味不明」の意味することは何か?おそらくゲシュタポ(秘密警察)の大いなる皮肉ではないか、などと想像がつくが、これを舞台上で徹底的に茶化しながらやっているコパチンスカヤ、のみならずオーケストラ、さらには遅れて登場する指揮者までもが演技を行う。「もうやってられないよ」などと大野が客席に向かって叫び、コパチンスカヤは仰向けになって演奏する、という具合。結局どこまでが楽譜に書かれ、どこまでがアドリブなのかもわからない不条理世界。だから笑ってしまうしかないのだが、それもこの時代と政治背景が生んだもの。バルトークからリゲティへとつながる戦前・戦後・冷戦時代の東欧がこの音楽の背景にある。

会場からは割れんばかりの拍手喝采が続き、本日を限りに引退する四方氏への花束贈呈も加わって舞台は大いに賑やかとなった。プログラム冊子にはその四方さんのインタビュー記事が載っていて、音楽の話かと思いきや漫才や野球の話が続き、同じ関西人として共感すること多し。サントリーホールを後にしたのは21時をとっくに過ぎていたが、何か不思議なものを見た今日のコンサートだった。

2023年3月26日日曜日

新日本フィルハーモニー交響楽団創立50周年特別演奏会(2023年3月25日すみだトリフォニーホール、上岡敏之指揮)

誤解を恐れず言えば史上最も美しい音楽を作曲したのは、ブルックナーではないかと思う。だからブルックナー以降の作曲家は、美しい音楽を書く勝負ができなくなった。そのブルックナーの作品の中で最も美しいものはと聞かれたら、私は第8交響曲の第3楽章と答えるだろう。この「深い思索性を湛えた長大な緩徐楽章で、特に動きが少なく息の長い旋律がゆったりと歌われる第1主題」での、ハープの加わる瞬間!ここのメロディーを実演で聞くとき、果たして涙を禁じえようか。もちろんどんな演奏でもいいというわけではない。だが、ブルックナーの音楽はそれほど難解なものではない、むしろそれとは真逆の、極めて分かりやすい音楽のように思う。いや、今回初めて第8交響曲の、私のブルックナー鑑賞史上最高の演奏に接して、そう思ったのだ。

まだ公演の感動が冷め切らない時間に、これから書く文章がどれほど的を得ているか、いささか自信はない。だが、冷静に考えることができたとして、今回の演奏は現在望むことができる最上の演奏のひとつだった。いやそれは世界的に見ても、である。まず、新日本フィルがこれほど上手いと思ったのは初めてだ。こんないい音がしていたことは、少なくとも私の知る限り、ない(と言っても今回がわずかに10回目の経験に過ぎないいのだが)。上岡敏之という指揮者は、2度目である。前回は今から4年前の2019年で、この時はワーグナーを聞いている。その演奏も非常に印象的だったとブログには興奮に満ちて書き残している。久しぶりに読み返してみると、次はブルックナーが聞きたいと書いている。

そのブルックナーは、コロナ禍によって延期を余儀なくされた。上岡自身もこの間に新日フィルの音楽監督を辞任し、いつのまにか佐渡裕に変わってしまった。コロナの非日常は上岡のブルックナーを聞く機会を、ついに奪ってしまったかのように思われた。が、何と今回、新日本フィルは創立50周年記念の特別演奏会に彼のブルックナーを企画し、コロナ禍で中止を余儀なくされた交響曲第8番をプログラムに組んだのだった。

そのことを直前に知った私は、ダメもとでチケットを検索したところ3階席が新たに売り出されていることが判明。もう売り切れと覚悟していた私は、何と直前にチケットにありつけたという次第。場所は錦糸町のすみだトリフォニーホール。朝から冷たい雨の降る土曜日の午後に合わせ、私は体調を整え、万全を期して会場へと足を運んだ。

会場の入り口では熱心なファンがポスターなどの記念撮影をしており、今回の演奏会がいつもとは違う雰囲気に包まれていることがわかった。特別演奏会なので、特に聞きたい人だけがチケットを買い求め、その演目がブルックナーの第8番となれば、よほど経験豊富な音楽好きだろうと思う。スター指揮者の来日公演とも違って、ミーハーな金持ちもいない。東京でのブルックナーの人気もワーグナーを凌ぐのではないかと思うほどで、かつてはヴァントやチェリビダッケのような指揮者が名演奏を繰り広げて語り草となっている。私はと言えば、残念ながら購入したチェリビダッケの演奏会がキャンセルになり、ヴァントの来日公演はプレイガイドの電話がつながらず断念。第8番はかつてニューヨークで聞いたバレンボイム指揮シカゴ響の落ち着かない演奏と、スクロヴァチェフスキー指揮NHK交響楽団によるものだけで、こちらの演奏もNHKホール3階席で聞いたこともあり、印象がほとんど残っていない。

公演の始まる午後2時になって席に着き、やがてオーケストラが入場してチューニングが始まると、一気に会場は静まり返った。季節の変わり目のこの時期、花粉症や風邪で咳をする人が後を絶たないことも多い中で、今日のコンサートにおける客席の静かさは特筆すべきものだった。おそらく90分近い演奏時間中、楽章間の継ぎ目を含め、一切の咳が聞こえてこなかったのである。そうして長い時間、ずっと緊張感が維持されることとなったのだ。このことが演奏に与えた影響は少なくなかったと思う。今日のコンサートの成功の一つの理由は、この聴衆の水を打ったような静けさと、演奏に対する熱い期待であった。

ブルックナーはピアニッシモからフォルティッシモに至るまで、とことん綺麗な音で響かないといけない。これはオーケストラに技量だけでなく、かなりの重圧を強いることとなるように思う。しかもそれがただ美しいだけではなく、音の重なりが最適でひとつの弧を描くようなつながりで表現される必要がある。長いフレーズの間中、音楽が途切れたりしてはならない。ブルックナーに特徴的な長い休止(いわゆるブルックナー休止)も、その意味で音楽の一部である。その休止を挟んで、音楽は「途切れなく」続く。だからこの休止において、客席からノイズが聞こえてはならないのだ。

私がニューヨークで聞いたバレンボイムの演奏は、(ニューヨークではいつもそうなのだが)聴衆が騒々しい。そういうことがあると、音楽もそのように雑然としはじめる。するとマーラーと違ってブルックナーの音楽は簡単に壊れてしまい、散漫な音の洪水が起こるだけになってしまう。いや、そういう壊れやすい音楽の機微を知っている聴衆が演奏家とともに作り上げることができれば、そこに少々の演奏上のほころびがあっても大丈夫だ。だから音楽の良し悪しを決めるのは、音楽に向き合う聴衆と演奏家の真摯な共同作業ということにつきるだろう。そして今回の演奏会は、その必要条件を冒頭からクリアしていた。

第1楽章の第1音が鳴った瞬間から並々ならぬものが感じられ、それは上岡の得意とする微弱音の時も丁寧に維持された。細部にまで念入りに神経が行き届き、音色はフレーズごとに表情を変える。微妙な変化を静寂の中で聞き取る。するとそこにはヨーロッパの最も美しい風景が目の前に広がってくる。山に光が当たり、その明るさは時間とともに少しずつ変化する。調和を保ちながら、壮大な調べが世界にこだまする。第1楽章が消え入るよに終わった時にはもう、会場にいたすべての聴衆が、深いため息をついたに違いない。

第2楽章はスケルツォ。私はすみだトリフォニーホールに足を運ぶことは極めて少ないが、それはこのホールで聞いた演奏にこれでいいものがなかったたらである。多くが新日フィルであることは言うまでもないが、もしかするとホールのせいだろうかとも思った。でもそれは間違いだったようだ。今回聞いたブルックナーでの残響は、休止の間に消えてゆく音の減衰速度まで綺麗に聞こえたのだ。上岡のブルックナーは遅いことで有名だそうだが、この第2楽章はその違いが良く表れると思う。手持ちのショルティの演奏などここはめっぽう早いが、私は遅いのが好みだから上岡の演奏には大いに好感が持てるのである。

そして全体の白眉であり、頂点でもある第3楽章については、もはや何を語ってよいのかわからない。舞台袖に構えた2台のハープからは、それは心を洗われるような音色が弦楽器に溶け込んだ。上岡の音楽は遅いだけではなく、ちゃんと各楽器が明瞭に聞こえてくる。それも雑味のない音である。音楽が最高潮に達したシンバルの音も、ちゃんとオーケストラの中に溶け込み、「音楽」として鳴った。満を持しての大音量だった。これほど綺麗なフォルティッシモを私は聞いたことがない。ただひたすら美しい音楽は白痴的ですらある。しかしその美しさが際立つと、どういうわけかこの上なく幸せな気分が心に充満し、胸が熱くなって涙腺が緩んでいくのである!このような体験は、ブルックナーで稀に起こる現象だと言える。過去を振りかえり、苦しさや寂しさを思って泣ける音楽もあるが、ここでの涙は少し違う。

90分近くに及ぶこの曲の演奏では、もちろん休憩はない。しかし幾分長めの休止時間を取ったあと第4楽章に入った音楽は、最後の最後まで完璧な演奏を繰り広げた。それまで聞いたことがなかったニュアンスも私には堪能できた。この終楽章は第3楽章に負けず長いので、この両楽章だけで1時間近くに達する。力強く、勝利の音楽は迫力満点だが、それを弛緩させずに聞かせるだけでも想像を絶する技量だと、素人の私はただただ関心するのみ。なぜならそれだけの緊張感を維持できない演奏が多いからだ。力づくでは何ともならないブルックナー独特の特徴が、演奏の良し悪しを分かつのである。しかしこの日の新日フィルは、相当な練習量と気合が入っていたことに加え、上岡のこの曲に対する明晰でゆるぎない理解がオーケストラのすべてのプレイヤーに浸透していた。結果生じた音楽は、最後まで聴衆を頷かせるに十分なものだった。

演奏が終わり、ブラボーが叫ばれる。何度目かのカーテンコールでは、オーケストラの合間を分け入って、木管や金管楽器の奏者とも熱く抱擁を繰り返す指揮者に、会場からは惜しみない拍手が送られた。楽団員が全員退席しても、総立ちの客席の拍手が鳴りやまないのは当然のことだった。コンサートマスターに肩を押されて再度舞台に上がった指揮者は、何度も何度も頭を下げた。この日の演奏は現在聞くことができる日本人によるブルックナー演奏の最高点に達していたと思う。できれば録音して発売してほしいと思ったが、録音マイクはセットされていなかったようだ。残念ではあるが、音楽とはしょせん消え去るもの。どれほど技術が進歩しても、この空気感までをも再現することはできないだろう。まさに一期一会の演奏だった。

2023年3月24日金曜日

オーケストラ・アンサンブル金沢第39回東京定期公演(2023年3月22日サントリーホール、広上淳一指揮)

さわやかな春の風が吹き抜けていくコンサートだった。かねてより一度は聞いてみたいと思っていたオーケストラ・アンサンブル金沢は、定期的に東京でも演奏会を開いているので、聞こうと思えばチャンスはいくらでもある。特に2018年に芸術監督となったミンコフスキとの演奏には、私も大いに興味を抱いていたのだが、コロナ禍で演奏会がどうなったかもわからず、気が付いてみると広上淳一が「アーティスティック・ディレクター」とやらに就任していた。

広上と言えば、このコロナ禍に私が何度か出かけ、名演奏に酔った日本人指揮者のひとりである。京響とのマーラーや都響とのベートーヴェンが記憶に新しい。ハーモニカを片手にリハーサルを行い、全身をくねらせて踊りながら指揮をするユニークな姿も印象的だが、そのようにして表現される音楽が極めて正統的でしかも生気に溢れ、耳だけでなく目が離せない。明るく陽気な音楽であることも素敵だが、生理的な説得力がある。音楽はまず楽しくなければならない、という感じである。

その広上の指揮するシューベルトの交響曲第5番、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番(独奏:米元響子)、それにベートーヴェンの交響曲第2番がプログラムである。例年よりずいぶん早く桜が満開となった東京で、何と素敵なプログラムだろうと思った。直前にコンサートがあることを知るのはいつものことだが、もちろん今回も当日券があることがわかり、その座席を調べるとP席を含め安い席がまだ売り出されている。サントリーホールはどこで聞いてもいい音がするから、今回はむしろ指揮者が良く見える席にしようと、2階左手の真横に陣取ることにした。

ここのところ2日に1回のペースでコンサートに来ているが、オーケストラの第1音が鳴ったとたんに、広上の音は素敵だと思った。音に艶があって、光っている。オーケストラの技量もいいからか、開放的で弾けている。そうだ、やはりこのようでなくては。どうしても比較してしまうが、大野和士の都響やバッティストーニの東フィルからは聞こえなかった清涼感とリズム感が耳を打つ。これは指揮者の腕だと思う。

そういうわけで、シューベルトがわずか19歳の時に作曲した第5交響曲に私は聞きほれた。まるで小川に水が流れていくように、さらさらと進む音楽は、それ自体非常に瑞々しいのだが、その一音一音の音の表情付けが、また聞いていて嬉しくなるほどに面白いのだ。第2楽章になると、そのことがいっそうよくわかる。

ヴァイオリニストの米元響子は、プロフィールによれば史上最年少でパガニーニ・コンクールに入賞したとのことである。1997年のことだから、もう20年以上も前のことになるのだが、私はこれまで聞いたことがなかった。日本人も今や多くのプレイヤーが国際的に活躍しており、そのすべての人の演奏を聞くことは不可能に近い。白いドレスで登場した彼女は、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲を丁寧に演奏した。面白かったのは、ヴァイオリニストが体を揺らしながら演奏するそばで、指揮者も同じように踊っている姿である。だが笑うというのではない。なぜなら聞こえてくる古典派の音楽は、決して歪でもなければ、変に局所を強調するわけでもない。にもかかわらず、細部にまで表情が豊かであることは、その指揮姿と実は表裏一体であろう。

第4番のコンチェルトは、その前後の2曲に比べると地味で目立たないが、この作品も作曲家が19歳の時の作品である。新しい発見だったのは、この曲の各楽章に印象的な独奏部分(カデンツァ)が挟まれていることだ。米元も含め、肩ひじ張らずに自然体の演奏を繰り広げる。何の小細工もない。が、とても新鮮。演奏が終わって拍手が続くと、彼女は何とパガニーニの奇想曲から第24番をアンコールに演奏した。

休憩を挟んでいよいよベートーヴェンとなる。私がここ数年聞き続けてきたベートーヴェンの交響曲も、いよいよ第2番の番となった。この曲、私は大のお気に入りで、とりわけ第2楽章のラルゲットのメロディーを愛するのだが、この曲がまた春の音楽である。第1楽章冒頭の一音から広上節がさく裂し、序奏が終わると一気にほとばしり出る主題は、手を向ける方向を少し変えると音の表情も見事に変化。このシーンはそのまま録画して何度も見てみたいと思うほどだ。ティンパニの強打が心地よく、木管楽器の味わいも絶妙である。

それにしても広上の音楽は、速かったり遅かったりすることがなく、その印象的な指揮姿とは対照的に極めてオーソドックスである。にもかかわらずこれほどの興奮を覚えるのは一種のマジックと言ってよい。ライブではないと味わえないものがあるとも言える。オーケストラも乗ってくる。会場は8割程度の入りで、いつもとは違う客層だった。ネクタイをした人が多く、何となく聞きなれていない感じ。もしかするとスポンサー企業の招待客や地元金沢の人が大勢来ていたのかも知れない。にもかかわらず静まり返った聴衆からは、終演後の大きな拍手が贈られ、一部にはブラボーも飛んだのはコロナが終息してきている証拠である。

マイクを持って挨拶をした指揮者は、このオーケストラが岩城宏之によって創立されたことなどを紹介し、アンコールにレスピーギの曲を演奏した。18時半といういつもより早く始まったコンサートも21時になり、私も幸せな気分でアークヒルズを後にした。

オーケストラ・アンサンブル金沢は、石川県を拠点に活躍する有数の室内オーケストラだが、その設立が1988年とかなり古い。そのことを私は最近知ったのだが、これほど有名になったのは、演奏を記録したCDなどがリリースされ始めた頃だったと思う。それから20年以上が経過し、私も初めて耳にしたその演奏は、世界に引けを取らないほど艶のある魅力的な音色にあると思った。私はこのコンビで、是非ビゼーの交響曲やプロコフィエフ、それにハイドンの作品を聞いてみたい。金沢に住んでいれば、定期会員になりたいとも思った。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...