2013年2月18日月曜日

マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」(花の章付き)(小澤征爾指揮ボストン交響楽団)

マーラーの交響曲第1番に関して述べられるべき事柄のうち、避けて通れない最大のものは、この曲が作曲された経過についてである。この曲は大きくは2回の改訂が行われたことに加え、そもそもこの曲は「2つの部分からなる交響詩」として作曲されている。

マーラーは作曲家としてではなく指揮者として音楽家のスタートを切る。 これは必ずしも本人の希望ではなかったようだ。指揮の活動を続けながら、何とか時間を割いて作曲に勤しむが、最初の交響曲と書くというのは、ベートーヴェン以来あらゆる作曲家にとって大変に敷居の高いことだったのだろう。彼は最初の交響曲を交響曲ではなく、「交響詩」として作曲し、なおかつそこに詳細なガイダンスをつけている。加えてパウルの小説にちなんだという「巨人」というタイトルも。

これらは後に修正されているが、どういうわけか「巨人」というタイトルのみが生き残っている。これには合理的な説明ができない。そこで「巨人」などというからには、マーラーが最初に書いた解説を知っておく必要がある、ということになる。

  第1部 「青春の日々より」
   1.終わりなき春・・・現在の第1楽章
   2.花の章・・・後に削除された部分、アンダンテ
   3.帆をいっぱいに張って・・・現在の第2楽章、スケルツォ
  第2部 「人間喜劇」
   4.座礁・・・現在の第3楽章、葬送行進曲
   5.地獄から・・・現在の第4楽章。深く傷ついた心が突然爆発

このような解説は、「巨人」というタイトルとともに、誤解の温床となる。それでかどうかは知らないが、マーラーはこのような解説を削除し、さらには「花の章」も削除してしまった。現在のように交響曲第1番といわれるようになったのは、ブダペスト初演(1889年)、ハンブルクでの改訂(1893年)を経た2度目の改訂の時で、ベルリンで自ら指揮をした演奏(1896年)からである。着手から12年、初演時の失敗から8年も経っている。

このような解説を読んでしまうと、それをどうしても意識してしまうのだが(マーラーによれば「間違った道」に入り込んでしまうのだが)、後に削除したとはいえ自身が書いたのだから、私としてはまあ当たらずしも遠からずということではないかと思っている。

その中で気になるのは削除された「花の章」である。この曲を含めて録音されたレコードは、かつてほとんどなかった。原典主義が流行る現在ではそうでもないが、少し前にこの曲を知る手がかりを与えてくれたのは、小澤征爾がボストン交響楽団と録音した2つのうちの最初の方のものだった。この演奏を今聞いてみると、「花の章」だけでなく全体が大変素晴らしいので、そのことを含め書いておきたくなった。

小澤征爾が村上春樹と対談した単行本「小澤征爾さんと、音楽の話をする」(新潮社)は大変おもしろい本である。インタビュアーとしての村上春樹の深い音楽的知識に根ざした視点と、それを文章に起こすプロのテクニックによって、この本はそこらへんの対談本にはない深みが見て取れる。その中に小澤征爾のマーラーに関する部分が大きくあって、大変興味深く読んだ。

それを読んで改めて認識したのは、小澤はかなり以前よりマーラーの音楽に触発され、経験を積んでいることもさることながら、その経験の系譜が本流のマーラーの流れであることである。すなわち、マーラーの弟子だったブルーノ・ワルター、その弟子のレナード・バーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督だった時代に、クラウディオ・アバドよりも少し早く副指揮者となり、マーラーの音楽が世界中に広がりを見せていくなかに、彼自身が直々に存在していたことである。

そのことによって小澤の演奏するマーラーはまた、他の演奏にはない説得力と、さらに小澤流の新鮮な解釈が含まれる結果となったようだ。それには小澤がヨーロッパ出身の指揮者でないことも関係しているだろう。だが非ヨーロッパ的世界にまでテーマを広げたマーラーの音楽観を表現するぬいは、それはむしろプラスだろうと私は思う。その最初の録音が、ドイツ・グラモフォンによる1977年の「巨人」だったということになる(小澤はこの後にもボストンと「巨人」を再録し、さらにサイトウ・キネン・オーケストラとも録音している。だが「花の章」入りは最初の録音だけである)。

第1楽章のみずみずしい響きは、このコンビならではのものだ。「新しい響き」とされる7オクターブにも及ぶA音や、減4度のカッコウも、ボストンの木管楽器の美しさといったら喩えようもない。一気にクレッシェンドする主題の出だしなどは、他には見いだせない魅力で、この演奏は今でも決して色あせることのない光彩を放っている。

そして花の章。何とも美しい曲でなぜこれが削除されたかはわからない。もっと演奏されてもいいと思う。トランペットによるメロディーが、マーラーの音楽にしては古風でロマンチックである。美しい曲だが、他の楽章を全部聞いても長い曲なので、なくてもいいと判断してしまったのだろうか。

第2楽章のスケルツォは、ハイティンクの演奏ほどに弾んではいないが、重く引きずる事はない。さらに、コントラバスの独奏というユニークな開始となる第3楽章に至っても、音楽が泥臭くない。このメロディーをもっとねっとりと演奏する(ユダヤ風?)ことが好きな向きは多いだろうと思うが、私はこの演奏が大変気に入っている。兵隊のラッパや民謡を思わせる節の美しさなどはピカイチだと思う。

間髪を入れず始まる第4楽章は、賑やかな音楽が静まると再び爆発する、といったマーラー節全開の曲で、最初はわけがわからなかったが、今ではもっと総合的に理解することができるようになった。それにしても一度聞いたらもう一度始めから聞きたくなるような演奏である。

大変な曲折の末、とにかくも交響曲第1番は完成し、そして続く10曲に及ぶ交響曲作曲家の第1歩を記すことになった。この曲がそれまでの音楽にない革新性を持っていることは、上記のように十分に語られているが、それにも増して驚くのは、ここからさらに交響曲を発展させていくマーラーの作曲の軌跡である。それをベートーヴェン以来のシンフォニストであると言うのは、まったくもって正しいと言わねばならないだろう。



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