2013年2月25日月曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)⑦


九州旅行最終日の朝は福岡市近郊を行く夜行列車から始まった。夜が明けて車内アナウンスが再開される頃、原田駅に降り立った私は、筑豊本線の始発列車に乗った。先日見たボタ山を眺めながら飯塚を過ぎ、降りたのは直方だったか勝野だったか。ここから今はなき宮田線というのに乗り換えて、たったふた駅先の筑前宮田までを往復した後は、筑豊本線をさらに進んで折尾まで出た。ここは鹿児島本線との接続点だが、筑豊本線はこの先、若松まで伸びている。確かこの区間は別の列車に乗り換えたのではなかったかと思う。


若松から引き返して折尾駅で鹿児島本線に乗り換え、今度は香椎駅へ。ここはあの「点と線」(松本清張作の推理小説)で登場する駅である。香椎駅で香椎線の海側の支線に乗り換えて海の中道を行く。玄海灘に突き出すように砂州が伸びる海の中道は、かつて福岡国際マラソンのコースだったが、風が強いのか記録がでないためにルートが変わってしまった。終点の西戸崎には公園がある。そしてあの教科書に出てくる「漢委奴国王」の金印が出土した志賀島と陸続きとなっている。これは「魏志倭人伝」において卑弥呼に送ったと記録のあるものである。志賀島とは陸続きであることは、志賀島が地理で言うところの陸繋島であり、こういった様々な理由によって私はこの香椎線の博多湾側の支線に乗りたかったのだ。天気は持ち直して曇っていたが、乗客はほとんどおらず、私は何両かで走る列車の窓を開け放して春の風に打たれていた。

博多へ向かい特急「かもめ・みどり」に乗り換えて向かった先は佐世保の手前の早岐で、ここから向かい側のホームに停まっていた上りの特急「みどり」で佐賀まで戻るといったマニアックなことをするのはこれが最初で最後であった。唐津線で唐津を目指したが、数日前には行けなかった唐津と西唐津の区間を乗る。帰りは西唐津から歩いて商店街を戻り、筑肥線で博多へ戻った。


昨日からの雨もすっかりあがって、夕方からは晴れてきた。3月の終わりの九州は、桜の花が咲くのを待っていた。玄海灘からふく風は、どこかにあたたかみを感じる風で、防風林の脇を高架で走る筑肥線の窓からは、夕闇に染まる海が見えた(と思う)。博多駅のネオンサインに別れを告げ、新大阪に着いたのは23時を過ぎていた。一人旅となった後半の九州旅行は私にとって受験失敗後の感傷旅行のようでもあった。だがそれゆえに、中途半端な旅行を続けるのが徐々につまらなくなっていた。4月から再び受験生活が始まるまでの僅かな期間、私は残りの「青春18きっぷ」を使い切るために出掛けた日帰り旅行で一時の息抜きを終えた。

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