2013年2月19日火曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)①

1年間の受験生活は、私を鉄道旅行からまったく遠ざけた。模擬試験会場への往復を考慮しても、大阪府の北部を一歩も出なかったのではないかと思う。そういう禁欲的な生活が終わり、最後の受験を終えたその翌日に、私はまたしても友人のN君に誘われて、九州周遊旅行に出かけることになった。まだ合格発表もないその期間に、私たちは大阪駅に集合し、山陽本線を一路西へと向かった。肌寒い初春の晴れた日のことであった。

広島までの区間はかつて一度通ったことがあったが、それより西は初めての区間で、瀬戸内海が見えないかと随分期待した。なぜならそれまでの区間でもあまり海は見えないし、各駅停車とは言え随分混んでいた。だが広島を過ぎても列車はなかなか空かなかった。結局、山陽本線というのはあまり楽しい路線ではなかったという思いでしかない。やがて暗くなった頃関門トンネルを通った。まだ青函トンネルがない時代で、海を越えるトンネルに随分と興奮した。

門司港の駅は門司からひとつ戻ったところにある。鹿児島本線はここから始まる。九州ワイド周遊券は、九州内のすべての特急と急行列車に乗り放題であった。門司港を始発とする西鹿児島行き急行列車の自由席(座席車)に乗って、宿泊代を浮かそうと考えた。私たちはたしか急行「かいもん」の自由席に乗り込み、早朝の川内に到着するまでの時間を過ごした。以後数日間、私たちは夜行急行を連日乗り、日替わりで北九州と南九州を行ったり来たりという奇妙な列車旅行を敢行することになるのである。


川内で下車したのは宮之城線の始発列車に乗るためである。宮之城線はその後1987年に廃止されているので、私はその2年前に乗ったことになる。私はそういうことを知らずに、ただ友人について行っただけだった。一日に数往復しか走っていないようなローカル線で、山深い南九州の急峻な谷間を、ゆっくりと走っていく様子は、3月とは思えないような明るい日差しとともにわずかに記憶している。

山間の薩摩大口駅にて肥薩線の南半分を隼人まで下り、一旦西鹿児島駅まで出た後、特急列車に乗って宮崎へ行った。日豊本線の鹿児島と宮崎の間は、想像していたよりも山の中を走り、途中で大雨が降っていたようにも思う。そして宮崎で少し時間を潰した後、今度は日南線で志布志へ、さらに大隅線で再び鹿児島へと戻った。

大隅半島をめぐるこのルートは、今では日南線を残すのみとなっている。私はとにかく眠かったので、車窓に海が現れて有名な洗濯岩が見えたくらいのことしか覚えていないのだが、桜島を身近にまわる大隅線の鹿屋駅が、何となく灰におおわれて霞んでいたことと、自転車に乗ったひとりの高校生が猛スピードで広大な農道を走り、後に女子生徒が乗っていたことだけを、どういうわけか鮮明に覚えている。

私にとって初めての九州旅行、それも南九州の山間部と海岸を同時にめぐった初日が、ようやく終った。当時鹿児島の中心は西鹿児島駅で、ここで私は夕食を取り、そして再び今度は夜行列車「日南」(座席車)に乗った。今度は日豊本線を北上し、朝には北九州を乗り回す計画であった。3日間にわたって列車に乗り続け、2日連続の夜行列車に、私たちは少し疲れてきてはいたが、それでもなお、奇妙な嬉しさが続いていた。

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