2013年2月20日水曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)②




日豊本線をほぼ完走する夜行急行「日南」は、1993年に廃止されているので私はその8年前に乗ったことになる。周遊券で乗れるのは座席車の自由席と決まっていたので、西鹿児島駅の始発に並び、20時前の発車までを乗車して時間を過ごした。その後夜の宮崎、大分を通り過ぎ、目がさめる頃には行橋駅を通過していた。小倉駅で下車した私たちは、ここからローカル線の宝庫とも言うべき北九州の炭鉱地帯を、時刻表を駆使しながら乗車したはずである。

はずであると書くのは、その行程の記録がなく完全には思い出せないからだ。ただ私は「私の旅スタンプ」を駅で押すことを続けていたので、その順をたどることができる。そこで何とか記憶をたよりに推定した行程は、以下の通りである。

1)小倉から日田彦山線で田川後藤寺へ
2)田川後藤寺から後藤寺線で新飯塚へ
3)新飯塚から篠栗線で博多へ

この行程は今でも残っている線路を横断するだけで、廃止された添田線や上山田線などを経由していない。私はここのところがどうしても思い出せないのだが、いろいろ考えてみるとこれらの路線を走る列車は大変少なく、結局諦めざるをえなかったのではないかと思っている。しかしどこか盲腸線を折り返した記憶もある。それは何日か後に往復した宮田線だけではなかったかと思われる。

筑豊地帯は五木寛之の小説「青春の門」で有名なボタ山地帯である。炭鉱が数多く掘られ、昭和の初期は多くの炭鉱の町があった。しかし私がここに行った昭和の終わりには、すでにその面影はなく、町に活気はない。ほとんどの炭鉱は廃山となり、ボタ山だけが殺風景に存在していた。子供の頃は炭鉱の事故が時々あって、そのたびに生き埋めになった人がいた。私はそのような町がどのようになっているか、興味があった。中学校の国語の先生がここの出身で、当時の話をよくしてくれたことによるのかも知れなかった。

だが私の期待は軽く裏切られ、そもそも列車に乗る以外は降りてどこかを散策することもないマニアックな旅である。やがて列車は福岡市の近郊列車になり、朝の通勤ラッシュの時間帯と重なって混雑しはじめた。春の寒い空気と車内の蒸し暑さの影響で車窓が曇り、何か気分が悪くなるような感じを伴いながら博多駅に到着した。

博多からは特急列車に乗って長崎まで行った。列車は「かもめ」であったと推測される。車窓風景も何も覚えていないところを見ると、おそらく連日の夜行疲れで眠っていたのだろうと思う。初めて着いた長崎は坂の町で、他の都市に比べると独特の雰囲気があるように思った。次に乗る大村線の列車までのわずか1時間を、私たちは最初の20分で登れるところまで坂を上り、そして写真を撮って坂を下った。長崎湾が眼下に見えた。数少ない町の思い出である。

大村線は諫早から出ていたが、私は長崎から諫早までの上り区間を、長崎本線の旧線をはしる列車の乗った。この区間は急峻な山の縁を回るなかなかの景色で、ほの暗い当日の天候と深い入江の雰囲気に圧倒される思いだった。遠藤周作の小説「沈黙」の舞台は、このような風景が舞台である。私は朝通った炭鉱の風景と、大村湾の静かで深い風景を同時に思い浮かべた。

大村線を早岐で乗継ぎ、佐世保からは松浦線に乗り換え、最西端の駅平戸口へ向かった。九州でもこのあたりの風景は、南九州や阿蘇地方とは随分異なる。西日の差す伊万里に着く頃には日が傾き、唐津の商店街を歩いているうちに日が暮れた。肥薩線が福岡市の地下鉄に乗り入れ、夜の博多に戻ったのは9時頃だったのではないかと思う。何日かぶりに銭湯へ行き、体をリフレッシュさせると、私たちは再び夜行列車に乗り込んだ。行き先は西鹿児島である。だがこの日は土曜日で臨時列車が走っていた。それも特急である。自由席も付いていて、私たちは少しグレードの高い車両に乗り込んだ。夜中の熊本で上り列車とすれ違ったことだけを記憶している。

0 件のコメント:

コメントを投稿

ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)

ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交...