いつものように最初にお断りしておくことがある。私は音楽の専門家ではない、ということだ。西洋史の専門家でもなければ、ワーグナーの熱狂的な聞き手でもない。私は(多くのクラシック音楽を聴いてきたとは思うが、それでもなお)ワーグナーのオペラの実演に接するのは、20年前の「マイスタージンガー」に続くわずか2回目に過ぎず、全体を通して「タンホイザー」を聞いたのも、1組だけ持っているバレンボイムの素敵なCDによる何度かに過ぎないのだ。実際に私は、ただ「タンホイザー」の上演を見て、それなりに感激しているという状況でしかなく、それが客観的に見て感動に値するのかどうかということまでは、残念ながらよくわからない。
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新国立歌劇場のプログラムは、今回も歌劇「タンホイザー(とヴァルトブルクの歌合戦)」に関する、簡潔ながら十分な解説を掲載してくれている。それは演出家ハンス・ペーター=レーマンのインタビューと、三宅幸夫氏による「作品ノート」である。 この2つの文章を読めば、ワーグナーが「タンホイザー」で表現しようとしたことが大変よく理解できる。
壮大で親しみやすいメロディーに溢れた序曲を数限りなく聴いてきたために、このオペラの持つ深い意味合い(キリスト教的な精神世界)が、かえってどこかに置き忘れられてしまっていた。さらには序曲に続いて挿入された派手なバッカナールやバレエが、これを助長している。ワーグナーは政治犯としてドレスデンを離れる運命になったあとで、この歌劇をパリで上演すべく改訂を施した。しかし慣例に倣い第2幕にバレエを挿入することは断固として拒否したらしい。言ってみれば妥協の産物だった「タンホイザー」にはこのようにして出来たパリ版と、より地味なドレスデン版(原典版)があって、どちらもどっちつかずの録音しかなかったことは、長年にわたり指摘されてきた。
今回上演されたウィーン版も、実際にはパリ版に近い。私も初めてこの曲の序曲とそれに続くバッカナールを聴いた時(それはワルター指揮の演奏だった)、何と騒々しい音楽なんだろうと思った。この賑やかな音楽の間にはバレエが踊られるのだが、こういうのは実際に見るまではよくわからなかった部分である。新国立劇場の舞台装置は、大変素晴らしく良く動き、しかも照明がきれいである。特に印象的だったのは、様々な角度から捉えたカメラが、後方のスクリーンにダンサーを映し出すことだ。序曲が始まってバレエが終わるまでの間は、その美しさに見とれていた。だが、快楽の世界も「ただの娼婦サロンのようであってはならない」という演出家の言葉にあるように、どことなく暗い。
快楽の世界、ヴェーヌスブルクでの騒ぎはやがてタンホイザーとヴェーヌスの対話に続いてゆく。ここからはワーグナーの世界が始まるが、それが今回は随分長く感じられたのはどうしてだろうか。タンホイザー役のスティー・アナセンとヴェーヌス役のエレナ・ツィトコーワは、どちらも不満はない出来栄えだと思ったのだが。この対話部分は音楽的には随分と工夫がこらされているようだ。しかし前半の派手さとのバランスが、後から思うと少し奇妙である。
25分の休憩時間にコーヒーを飲み、丸で春のような午後の日差しをテラスで浴びる。今年の冬は寒くて、このような日は昨年の10月以来ではないか。思えば春はもうそこまで来ているのかも知れない。
第2幕は勢いのある行進曲で始まる。オーケストラはそれなりに上手くやっているのだが、何となく華やかさがないような気がするのは気のせいだろうか。全体的に真面目なイメージは、意図された結果なのかどうか。それでも大行進曲は見応えがあった。合唱団の旨さはここで全開となった。中央にハープが置かれ、左右両側に並んだ多くの出演者の前で、いよいよ歌合戦の始まりとなる。2つの歌(ヴォルフラムとヴァルター)のあとでタンホイザーは「ヴェーヌス讃歌」を歌ってしまう。追放されるタンホイザーは「ローマへ」と叫ぶ。そう言えば一昨日見た(MET Live in HDシリーズ)ベルリオーズの歌劇「トロイアの人々」の第2幕の最後も、「イタリアへ」と叫んで終わるのことを思い出した。もっともこちらはまだローマ帝国ができる前の話であるが。
再び25分のインターミッションがあり、今度はビールを飲む。日は長くなって、5時になっても暗くはない。全部で4時間以上を要するこのオペラを、ほぼ満員の観客は興奮気味に見ている。第3幕は前奏曲では幕は上がらず、しばしオーケストラを聞く。今回は3階席ながらほぼ正面で、見え方に不満はない。
第3幕はさすがに素晴らしい出来栄えだった。ローマからの帰りを待つエリーザベト(ミーガン・ミラー)の声は、少しビブラートがかかっているが通りがよくて、なかなかの出来栄え。やがて音楽が十分な長さの起伏を伴いながら、一番の見せ場、ヴォルフラムの「夕星の歌」へと流れていく。ここのあたりの感じが、「指環」などに何度も出てくるワーグナーらしい場面の展開である。物音ひとつしない客席は、拍手がしたくてたまらないのだろうが、ワーグナーの音楽はそれをわざと遮るように、つながっている。
続く見せ場は、ローマから帰ってくるタンホイザーが歌う「ローマ語り」である。ここでは示導動機が多用され、やはり「指輪」の前触れを思わせる。ローマで贖罪がかなわなかったタンホイザーは、やけくそになってヴェーヌスの歌を歌い出すと、そこに再び舞台後方からヴェーヌスの入った入れ物(花びらのような部屋)が前方に移動してくる。だが、最後にはエリーザベトの犠牲によってタンホイザーは救われる。谷間に一人残ったタンホイザーも死に至るが、その周りで合唱団が高らかに「巡礼の合唱」を歌って幕となる。
一人の人間の過ちは、愛する人の尊い犠牲によって救われた。この物語の原作の一つ「ヴァルトブルクの歌合戦」は中世ドイツの史実に基づく話である。身分の高かったエリーザベトは、貧しい人を助け、それがもとで病気が移って若くして死んでしまう。そのような話を、当時の舞台設定で見せようとしたのが今回の演出だった。いろいろな「タンホイザー」の演出があると思うが、物語の意味するところを的確に表現しようとすると、実際にはこのような表現になるのだろう。そういう意味で「タンホイザー」ほどキリスト教的なオペラもないだろう。たとえ、それがより普遍的な人間の罪をテーマにしていたとしても。
序曲に使われるメロディーが合唱や歌手によって歌われるたびに、ああこのメロディーはこういう意味があって、こういうシーンで使われるのか、ということがわかった。取りも直さず、「タンホイザー」という劇が持つ、本来の姿に触れたということだ。だから、今日の演奏の出来がどうであったかということよりは、その姿に触れる機会を持てたということに、素直に喜びたいと思った。
ブラボーの響く拍手が最も大きかったのは、新国立劇場合唱団だった。次に「夕星」を歌ったヴォルフラム(ヨッヘン・クプファー)と、領主ヘルマン(クリスティン・ジグムンドソン)。だがそれ以外の歌手が悪かったわけでは決してない。コンスタンティン・トリンクスが指揮する東京交響楽団は、合格点の出来栄えに思われたが、考えてみれば日本でもこのような水準でワーグナーの劇が普通に上演されるようになったので、こちらの耳が肥えてしまったのかも知れない。
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