2013年2月22日金曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)④

甘木線の一番列車に飛び乗って、終点の甘木駅に着いたものの、そこには何もない。駅舎のガラスは割れていたりするのを覚えている。それで引き返し、今度は鹿児島本線を下って久留米まで行った。工場の労働者の出勤時間に重なり、駅で缶コーヒーを買う人などでごった返していたが、私はここで友人ととうとう別れた。

気の合う友人とはいえ、同じ列車にまる4日も乗り続けていると、お互い気まずい雰囲気になってくるものだ。彼は大阪へ帰ると言い出すし、お金をかけたくないそうでそのまま山陽本線を鈍行で帰べきだと主張する。私はもう少し乗っていない路線などに出かけ、追加料金を払っても最終の新幹線で帰ればいいと言ってみる。ここで話はついに決裂した。甘木線に乗ったのは時間が余ったからで、これから久大本線経由で大分まで行こうと私は考えていた。甘木線はその後間もなく廃止されてしまった。

一人で乗る久大本線は、日田英彦山行きのディーゼル列車であった。遠くに九州山地の山並みが見えるが、線路から山のふもとまでは平野が続く。いくら見ていても変化のない景色だが、それはのどかである。春の朝日が車内に入り、空いた列車はコトコトと静かに走っていく。それに合わせて私もうとうとしているとあっという間に1時間以上が経過した。さらに大分まで乗り継ぐ。由布院を通るあたりは特徴のある九州の山を眺める。そう言えば九州の山はみな個性的である。

大分に着くとわずか1分の乗継時間で豊肥本線に乗り継ぐ。今度は急行である。つまり九州を西から東へ横断し、折り返して今度は東から西へ横断する。大分を出てしばらくは平凡な上りだったが、分水嶺を超えて熊本県に入ると一気に景色が開け、阿蘇の外輪山が見事に見えた。私は感動し、ゆっくりと下っていく車窓風景を眺めた。この阿蘇から熊本までの区間は、今回の九州旅行の二つ目のハイライトであった。九州山地を一気に下る(途中にスイッチバックもある)豊肥本線の最終区間は、地形が急峻で一気に山を駆け下る見事なものだ。

熊本から特急で博多に出ると私はとっさにある考えを思いついた。これから大阪へ帰る一応の目的は、合格発表のためである。だが受験の出来が悪かった私は不合格を確信していた。不合格の場合、浪人生活を送るために必要な予備校の入試!というのが一応発表前に行なわれるので、それを受けなければならない。だが、それが終わると、晴れて?浪人生活の身となり、何にも拘束されない日々が続くはずである。予備校の入学式は4月だし、それまでは勉強する気にもなれない・・・。

それならいっそ、今回乗れなかった高千穂線や指宿枕崎線に乗ってみたい。日本一高い鉄橋や開聞岳に未練が残る。だが、これらの路線は長い盲腸線で、往復することになるから時間がかかる。そういうマニアックな旅を続けるのも徐々にバカバカしくなってはきたが、ここまできたら行かないわけには行かない。

九州ワイド周遊券は有効日数が確か14日だった。わずか5日で大阪へ帰るのはもったいない。そこで私にひらめいた考えは、旅を一旦中断することだった。周遊券で小倉までは乗車できるから、新幹線のきっぷは新大阪までの特急料金と、小倉から新大阪までの乗車券となる。今日中に最終の山陽新幹線ひかりに乗って大阪へ帰り、予備校の入試と合格発表を済ませた翌日、「青春18きっぷ」でも買って再び九州に戻ろうではないか。その時には、山陰本線経由で行くか、それとも四国を経由するか・・・。

私は3月の浪人生活最初の日々を、ただ鉄道に乗り続けることで気を紛らわす戦略を採用することに決めた。日が暮れてから乗車する山陽新幹線上り列車は、1車両にひとりというくらいにすいていた。3人がけのシートを回転させて6人向かい合わせとし、そこに一人足を伸ばして専有した。新大阪までの3時間は、世の中にこんな快適で速い乗り物があるのだろうか、というくらいに豪華に感じられた。それもそのはずで、私はとうとう九州でただの一泊も旅館などには滞在しなかったことになる。だが私はまだ若く、疲れるといった感じは何もなかった。それどころか列車の中で時刻表を見ながら、翌週にも戻る九州へのルートを検討し始めていた。

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