
主人公リゴレットはせむしで、道化師として生きるしかなかった男である。身体的ハンディキャップを負った彼は、時に卑屈でコンプレックスの強い人間となっていただろう。そのリゴレットにはただ一人美しい娘がいて、彼女(ジルダ)のことを愛してやまない。ジルダはそのような父を見ながら、箱入り娘として育つ。だがリゴレットはそのような自分をどこか情けなく、負い目を感じていたのだろうと思う。
自分の娘がまたもや公爵の手に落ちてしまうのを悲しむ父モンテローネ伯爵に、自分の弱い姿と同様のなものを感じてしまうのを発見し、嘲ってしまうのだ。そのことが、とうとう彼をしてリゴレットを呪わせる。モンテローネ伯爵の呪いは、自分にもある感情と同種のものであるがゆえに、心のなかで常につきまとい、あろうことかその悲劇は、自身の身にも降りかかるのである。
思えばヴェルディの他の作品、例えば「椿姫」では肺病を患った娼婦が、「トロヴァトーレ」では息子を誤って殺したジプシー女が、「オテロ」では肌の黒いムーア人が、いずれも自分の出自ゆえのコンプレックスを抱えていて、そのことが自分に跳ね返る災いの間接的な引き金となって、遂には身を滅ぼしてしまうのである。私はここで何故か松本清張の小説を思い出すのだが、このような今では少しタブーとなった差別的な部分が、このストーリーを理解する上で避けて通れない。
このオペラ映画はいまから30年以上も前の作品である。映像を見ると少し色あせていて、時間の経過を感じる。だが、私にとってこの作品は、同時期に相次いで映画化された「トラヴィアータ」や「オテロ」(いずれも監督はフランコ・ゼッフィレッリ)と並び、学生時代の私をオペラ、とりわけヴェルディの世界に引き込んだ思い出深い作品なのである。この3つの映画が同時に、ヴェルディ生誕200周年の今年、東京・九段のイタリア文化会館で上映されるのを知って私は、会社を休んで出かけた。
このうち「トラヴィアータ」と「オテロ」はいずれも映画館で見ているから、今回は「リゴレット」に的を絞り、朝11時の開演40分前に会場に到着したが、すでにそこには大勢の人が着席していて、そのあともどんどん人はやってきた。開演時には500席以上ある会場がほぼ満員となった。私は最前列に座ったが、平均年齢65歳はあろうかと思われる客は、後ろの方から埋まり始め、はたして字幕を追うことができるのだろうか、などと心配した。
北イタリアの城壁都市を実際に使ってロケをしたという映像は、カメラが劇場の舞台を飛び出して動きまわることができることでより一層、リアルなものとなった。この映画に限らずこのような演出が、オペラ映画の素晴らしいところだ。実際のオペラとはまた違う魅力がある。
圧巻は第3幕の四重唱のシーンだと、初めて全体を通して見た今回も思ったが、それ以外にも多くの発見があった。第1幕でスパラフチーレがリゴレットに初めて言い寄るシーンや、貧乏学生に扮したマントヴァ公が乳母を買収してジルダの元を訪れるシーン、それに廷臣たちがリゴレットを騙してジルダを拉致するシーンなど、実際の舞台を見てもよくわからないままとなってしまうことがある。どこまで台本に忠実かはわからないが、このジャン=ピエール・ポネルの演出は、少し饒舌すぎるにせよストーリーがよくわかるのである。
リゴレットはその弱さ故に殺し屋にすがり、そのことが結果的には愛する娘を死に至らしめる。救いようのないオペラも、ジルダは自ら身代わりとなって死んでゆくところが涙を誘う。マントヴァ公は悪役ではあるが、許せない悪ではない。むしろ愛嬌があり、さらにはいっときジルダを心から愛する者として描かれている。その役を若いルチアーノ・パヴァロッティは、美声を轟かせながら好演している。パヴァロッティの素晴らしさこそ、この映画のまず第一に触れられなければならない点だろう。
まだ若く艶のあるパヴァロッティの次に心に残るのは、もしかするとスパラフチーレ(フェルッチョ・フルラネット)の妹、マッダレーナを歌うヴィクトリア・ヴェルガーラかも知れない。そして一人二役となるイングヴァール・ヴィクセルのモンテローネ伯爵。これらの脇役がしっかりとしている。そしてエディッタ・グルベローヴァのジルダとイングヴァール・ヴィクセルのリゴレットは、及第点の出来栄えである。リッカルド・シャイーの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏が素晴らしく、この若き天才の出世作であったことを思い起こさせる。それにしても作製されて30年以上が経ったとは、自分自身も歳をとったものである、と感じた。
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