阪急今津線というのは大変風情のある路線で、特に私の記憶ではバブルが始まるまでの、すなわち1970年代頃の感覚で、そうだったと思っている。門戸厄神を過ぎて仁川までの区間など、夏の盛りになると静かな中に夏草が駅のホームを覆い、列車のドアがあくと蝉の合唱が聞こえてくるような、そんなローカル線の風情が漂っていた。だが1980年以降になると都市化が進むにつれて、そのような光景は急速に失われ、阪神大震災がトドメを指すように古き良きイメージを奪っていった。
その阪急今津線を舞台にした小説がベストセラーになったというので、一体どんな話なのだろうか、と興味が湧いたのがこの有川浩の小説「阪急電車」を読むことになったきっかけである。私も阪急宝塚線沿線の高校に通い、今では阪神地域に実家もある。これは私の地元を舞台にしたストーリーであるとも言える。知っている町並みや学校などが登場するので、どんなにつまらないものであっても一度は読んでみたいと思っていた。
そのストーリーは、今津線に乗り降りするごく普通の乗客たちの、数ヶ月間の間隔を置いて展開される話の集まりで、ひと駅区間ごとに入れ替わり立ち代わり、話が出てはまた戻り、少し進んでは立ち止まる。会話は現代の関西弁だが、標準語と違って人の心の中にうまく入り込み、独特の繊細さをもって登場人物の気持ちを揺さぶる。たまたま居合わせた人と会話を交わしたことによって心を揺さぶられた個人は、それぞれの人生における、大小様々な決断を行う。その底流に流れるテーマは、女性が自立することの大切さとその難しさだ。だがそれだけがテーマなら、何も阪急沿線を舞台に選ぶ必要はない。小説のタイトルとなっている「阪急電車」とは一体どのような意味なのだろうか。
登場人物の、主に女性たちは、この小説の中で様々なきっかけを得る。偶然であれ必然であれ、そのことが女性として自立して生きていくことへの自我を芽生えされる。つまり図書館の彼女は彼氏を見つけ、孫娘の相手をする時江は犬を飼い始める。PTA仲間に嫌気がさした平凡な主婦は、見栄とうわべだけの母親グループを脱退し、婚約者を寝取られた美貌の翔子は会社を辞めて沿線に引っ越してくる。暴力を振るうタツヤとようやく別れた女性、関西学院大学で軍事オタクの同級生と知り合った美帆、サラリーマンの彼と付き合いながら志望校を決めた女子高生、さらには仲間からいじめにあった女子小学生までもが、この電車に乗り降りする際に知り合った人々から励まされ、勇気づけられる。
関西の郊外には、今でもこのような出会いを生じさせ、維持するだけの余裕があるのだろうか。今は忘れてしまった古い関わり、それも田舎や下町のそれではなく、れっきとした近代人としての独立した個人が、他人とも心を通わすだけの余裕が、かつてはあったと思う。特に神戸や宝塚のそれは、近代日本の個人主義をもっとも理想的な形で実現した物質的、精神的豊かさというべきものだった。
その象徴が阪急電車であり、その沿線に点在するキリスト教の私学であった。自ら高校教師だった時江はその昔を知る、本作品では唯一の女性である。彼女が示す上品で、かつ芯の太い生き様は、わずか隣の駅に着くまでの数分の会話のうちに、確信犯のように現代の若者の、自信を見いだせない気持ちを揺さぶる。それこそがこの小説の真骨頂である。「討ち入りは成功したの?」時江は戸惑い憔悴しきったた翔子に小林駅での途中下車を薦める。「あそこはいい駅だから」・・・この一言が実にいい。
なお、この小説は映画化され、それも見た。小説ではあまり詳しく語られていない登場人物の表情や会話の雰囲気が、特に前半では役者の素晴らしい演技によって饒舌に語られている。宮本信子が演じる時江が、結婚式帰りの翔子に対して語る部分は、小説のレベルを遥かに超えた全体の圧巻であると思った。ここのシーンは、ライトノベル風の軽いタッチで書かれた(だがテーマは深い)小説を大きく凌駕していた。だがこの映画は後半で、脚本家の意見が出すぎてしまっている。そのことが少し白けさせる。またどういうわけか、宝塚中央図書館で出会う一組の男女を省略している。
このカップルは、差し迫った決断を下さない唯一の存在だが、小説の最初と最後に出てくる登場人物で、重要な役目を担っている。川の中洲に書かれた「生」の文字の意味が、最後のシーンで説き明かされるからだ。この「生」の文字は阪神大震災を象徴している。この沿線の良さを奪う最後の一撃を与えたその記憶が今や風化し、それをすぐには思い出せない世代に代わってしまっているのだ。今津線をそのことを抜きに語ることは出来ない。だからこのシーンは省略すべきではないだろう。
小学生の頃に友人たちと出かけた仁川から甲山に向かうハイキングのコースは、今はどうなっているのだろうと思った。もう40年近くも前になるこの界隈の記憶を、久しぶりに辿ってみたいと思った。
2013年6月26日水曜日
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