ヴェルディの一連のオペラ作品のうち、1980年代に映画化されたものについて語るとき、フランコ・ゼッフィレッリが監督した「トラヴィアータ」を取り上げないわけにはいかない。これは個人的に、オペラの楽しみに触れた、最初で、もっとも衝撃的な作品であったからだ。ヴェルディ中期の音楽的な充実とストーリーの美しさが、当時傷心していた私の心を直撃した。1987年、20歳のときである。
主演のトラヴィアータ(椿姫)が、その細身で病がちな美貌を買われたと思われるテレサ・ストラータス、アルフレードにプラシド・ドミンゴ、父ジェルモンにコーネル・マクニールを配した布陣は、音楽だけを取り上げるとやや不足な要素もないわけではないが、映画としての完成度はこれ以上無いというくらいに素晴らしい。
1995年にニューヨークで、メトロポリタン歌劇場の「椿姫」を見るにあたり、この映画について書いた文章があるのでそれを転記しておきたい。この作品はやがてドイツ・グラモフォンからDVDで発売されたし、今回のイタリア文化会館における「ヴェルディ生誕200周年」に因んだ映画上映会でも取り上げられた。しかし私はこの時の印象があまりに強く、その当時の感動を壊したくないとの思いが先行して、いまだに全編を通して見ることが出来ない。購入したDVDは一度も再生されることなく、私のラックに飾ってある。
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誰もが経験するように当時大学2年生の私は、単調な丁度学生生活にちょっとした失恋が重なって何をしようとしても力が入らず、心の傷がぽっかりとあいたまま時間とプライドと望みのすべてを失ったような気がして、立ち直れないでいた。
茫然自失腑抜けのような、あまりにむなしいその日の午後、私はしとしと降る秋雨の中、授業をさぼって大阪・梅田に出た。何を思ったのか映画を見ようと思い立ち、タイトルも確認もせず堂島の「毎日ホール」地下の映画館に入った。2本立てで確か800円だった。ただ何も考えなくていい時間が欲しかった。私は1本目の「ラ・トラヴィアータ」が、ヴェルディのオペラ「椿姫」であることすら知らなかった。何気なく後ろの席に座り、沈痛な面持ちで始まるのを待っていた。
スクリーンには冬のどんよりと曇ったパリのノートルダム寺院が映るだけで、何分間も全く音すら流れてこない。私の気持ちはますます陰鬱になり、何と言う映画を見に来たのかと後悔しつつあった矢先、静かに前奏曲が流れてきた。
少年が部屋の片付けを手伝っていたところ、額に入った一人の美しい女性の肖像画に気付く。少年の心はなぜかその顔に惹き付けられ、やがってじっと見入る。ここが前奏曲の主題の部分で、画面はやがてその女性の肖像画をズームインしていく。少年の気持ちは何かにとらわれたかのように部屋をさまよい、そしてある殺風景な部屋に入ろうとして立ち止まる。そこはみすぼらしい屋根裏部屋で、ひとり咳き込むか弱そうな肖像画の女性がベッドに横たわり、それを気の毒そうに覗きこむ少年。ここが悲劇を暗示するメロディと重なっていたように思う。
何とインパクトの強い映画だろうか。音符のすべてが画面のシーンにぴたりとあてはまり、美しい画像と音楽の連関に、私はまるでその少年の心のようにスクリーンに惹き付けられていった。
前奏曲が静かに終わると、カーテンの向こうから騒ぎ声が聞こえる。「一体何だろう」女性はベッドから起き上がり、ふと向こうの部屋を見やる。するとどうだろう。第1幕の出だしの音楽が勢いをきって流れ出した。女性はみるみるうちにパーティー会場へ引き込まれ、いきなり見たこともないアルフレードという一人の純情な青年からの愛の告白を受ける。あとは有名な「椿姫」の筋書き通りである。
私は初めて見るオペラ映画なるものが、随分変わったものだと思いつつも字幕を追い、豊かに響く音楽と歌に聞き惚れていった。筋書きは知らなかった。「乾杯の歌」や「花より花へ」といった歌を部分的に覚えてはいたが、その歌の意味するところも全体のストーリーも知らなかった。ただ魅力的で美しい映像と音楽に、わたしは我を忘れて聞き入り、一種の興奮にも似た感覚を感じていた。こんな経験は初めてだった。
今でも鮮明に焼き付いて離れない数々のシーンと音楽のうちで、最高潮はスペインの闘牛士の踊りとそれに続く賭けのシーン、それから第2幕の最後の3重唱である。私は初めて知るストーリー、初めて聞く音楽でありながら、背筋が緊張して動かないくらいに感動し、そして涙を流した。映画の構成は見事というほかなかった。ヴェルディの意図した音楽的動機が、一つ残らず説明されていくような説得力を持つ画像の構成であった。
幕間の休憩もなく、第3幕のパリ祭の日にアルフレッドが駆けつけるシーンと、それに応えるヴィオレッタが形見を渡すシーンは、私を魂の根底から揺さぶった。やがて病に倒れるヴィオレッタ、映画は急転直下悲劇で終わる。
実は第3幕の前奏曲でも、あの最初の少年が登場し、ヴィオレッタの部屋をカーテン越しに眺めている。あとで知ったがこれはヴェルディのオペラには登場しない人物である。なぜ、映画監督ゼッフィレッリは彼を登場させたのだろうか。そしてこのことがこの映画をより一層示唆に富むものにしている。
私は余りに感極まって打ち震える体を静めようと努力しながら、映画館を出た。雨はまだ降り続いていて止む気配はなかった。私は大急ぎで家に帰り、しばらくは他のことを何も考えることができなかった。それ程私は感動していた。
これが私とオペラとの劇的な出会いである。それから私は立て続けに「椿姫」のCDを借りてきては聞き入り、全てテープにとっては訳を見ながら解釈本を読み漁った。次いで「オテロ」「魔笛」「トリスタンとイゾルデ」というように次々と聞いていった。学校から帰るとすぐにオーディオ部屋に籠って、その年の冬は過ぎていった。
このような魂を揺さぶられる経験は、人生でそう何度もあるものではない。私はどういうわけかオペラに縁があったのだ。もし毎日ホールの映画の上映順序が逆で、2本目の映画「恋に落ちて」を見ていたら、私は別のものにのめり込んで行ったに違いない。
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