2013年12月17日火曜日

ヴェルディ:歌劇「オテロ」(ザルツブルク音楽祭2008)

考えてみればこれまで節目にいつも「オテロ」を見ている。最初はミラノ・スカラ座の来日公演をラジオで聴いた時。クライバーの振り下ろす白熱した音楽が、繊細で独特の緊張感を持って迫ってきたことをおぼろげに覚えている。中学生のときだった。

「オテロ」のCDを初めて聴いたのは、大学生になってフランコ・ゼッフィレッリ監督のオペラ映画「トラヴィアータ(椿姫)」にノックアウトパンチを食らった翌日だった。レンタルショップで借りたカラヤンの3枚組CDは、しかしながらこの曲が「椿姫」のようなわかりやすい音楽ではないことを教えてくれた。ヴェルディの中で最高傑作がこんな曲だったとは、ある意味でショックだった。そのマリオ・デル・モナコが主演するデッカ録音の演奏は、効果音が大変印象的で今でもこの曲の代表的なものである。

ゼッフィレッリの監督するオペラ映画としての「オテロ」が、京都の映画館で公開されていると聞いて、私は友人を誘いわざわざ2時間もかけて見に出かけた。プラシド・ドミンゴのオテロ、カティア・リッチャレッリのデズデモナ、フスティノ・ディアスのイヤーゴらによる演奏は、マゼールの指揮だった。全編息もつかせないほどの凝縮された映画を見終った時、どっと疲れが出た。河原町の居酒屋で興奮しながら夜遅くまで語り合った。映画館を出るとき、一体どうしてこうなってしまうのだろうとこわばった表情で出てゆく女子大生の顔を良く覚えている。

そのゼッフィレッリが主演し、ドミンゴ、リッチャレッリ、ディアスの出演する本当の舞台に偶然にも触れることができたことは、私にとって一生の思い出である。ニューヨーク旅行中にたまたまクライバーの公演がメトであり、その最終公演のチケットを手にすることが出来たのだった。この時の様子はすでにブログに書いた。

メトの「オテロ」はその後、レヴァインが受け継ぎ、演出はエリヤ・モシンスキーに代わった。この公演が今でも続いている。私が次に見た「オテロ」は、デズデモナをルネ・フレミングが歌っていた。オテロは依然、ドミンゴだった。1995-96年のシーズンの幕開けを飾るこの公演は、後にDVDで発売され、私は真っ先に購入した。ただ日本語字幕の付いたDVDが発売されたのは2004年にはいってからだったと思う。最初に「オテロ」に触れてから30年以上が過ぎ、その間約10年おきに「オテロ」を見ている。「たったそれだけか」と言われるかも知れない。だが堀内修も言っている。「オテロは何十年に1回位で良い」と。

そしてヴェルディ生誕200週年の今年、Tutto Verdiシリーズのオペラ映像を映画館で見る機会があり、9年ぶりに「オテロ」を見ることになった。前日には睡眠を十分にとり、満を持して出かけた。

Tutto Verdiシリーズはそのほとんどがパルマのレッジョ劇場での公演を撮影したものである。だがこの「オテロ」だけはどういうわけか異なっていて、2008年のザルツブルク音楽祭での公演を収録したものである。イタリアのローカルな舞台とはひと味もふた味も違うインターナショナルな公演である。もちろんオーケストラはウィーン・フィル、指揮はリッカルド・ムーティである。そうだと知れば、これを見逃す手はない。パルマの公演なら「オテロ」を敬遠したかも知れない。だがムーティとなれば、行かないわけにはいかない。

始まりの映像はそれまでのレッジョ劇場の全景ではなく、ザルツブルクのお城のおきまりの遠景かと思いきやそうではなく、荒れ狂う海の風景である。音声がないままに、字幕で出演者が紹介される。オテロにアレクサンドルス・アントネンコ、デズデモナにマリーナ・ポプラフスカヤ、イヤーゴにカルロス・アルバレス、演出はスティーヴン・ラングリッジである。

海のシーンが消えるといきなり大音量の音楽が始まった。嵐のシーンである。合唱団も実に見事。何と言ってもウィーン・フィルの響きはパルマの管弦楽団とは雲泥の差である。その豊穣な響きと迫力は、瞬く間に我々をキプロスの海辺へと誘う。ザルツブルク祝祭劇場はとても横に広いので、見応え十分。カメラワークも録音も、パルマのものより一段上だ。

オテロのアントネンコは、まだ若々しい歌声で、そういえばドミンゴも若い頃はこういう声だったかな、と思いながら聞いていた。その時点でオテロに最も相応しいかと言われれば、ちょっと疑問も残る。だが、彼は汗を額にみなぎらせ、容貌もムーア人に扮してなかなかの熱演であった。私はその体当たりの姿に大いに好感を持った。バリトンにこだわったヴェルディは、「オテロ」ではその歌をイヤーゴにあて、オテロをテノールの役とした。このことはオテロが人間的に完成された人格ではなく、脆くも崩れ去っていくコンプレックスだらけの若武者だからであろう。そのことがよくわかる。

一方のデズデモナはひたすら可哀想である。可憐で美しく、しかもこのドラマに登場する多くの男性とは一段上の人格でさえある。第4幕で歌う「柳の歌」は一番の聴かせどころだが、彼女はここで自分の宿命を知っているかのようである。誤解が解けぬまま毒殺される運命にあってなお、オテロのことを気にかけ、しかも神の赦しを乞う。その哀れな歌いぶりは、最終幕の最後の瞬間に近づくほど大きな集中を見せ、圧巻であった。

イヤーゴはこれ以上ないくらいの悪役だが、「オテロ」においては非常に重要な役である。このイヤーゴがつまらなければ「オテロ」の公演は失敗である。ここでアルバレスは、最初のシーンから安定した充実を見せた。いやそれどころか、オテロのコンプレックスに対するイヤーゴの嫉妬は、その表現において一頭上を行っていた。舞台中央に斜めに配置された透明な大きい舞台が印象的でその、奥には幕ごとに様々な工夫を凝らした壁があり、上部には民衆が合唱を奏でる。見事な演出はやはり国際級と言わねばならない。

とにかく久方ぶりに見る「オテロ」は私にとって再発見の連続であると同時に、圧倒的な力を持ってその魅力を知らしめた。どうすればこのような音楽が書けるのだろうかと思う。ちょっと口ずさむという音楽ではない。だがこれほど無駄がなく、しかも完成度の高い音楽は他にはないだろうと思う。まあそういうことは無数の音楽評論家やブロブの著者によって語られているから、私がつたない言葉で表現するもの野暮なことである。ヴェルディの真髄がまさにここに極まったというべきであり、この公演は十分にそれを伝えている名演の一つに数えられるだろう。

ムーティの指揮についてはもう何も言う必要がない。今やヴェルデょの第一人者であるムーティは、ローマ歌劇場を率いて来年来日する。私は通常、オペラ・ハウスの引っ越し公演には手を出さないようにしてきたが、とうとうそのこだわりを打ち破る時が来た。私は2014年5月に「シモン・ボッカネグラ」を、6月には「ナブッコ」を見るために、発売日にチケットを購入し、今日手元に届いた所である。ヴェルディ・イヤーは今年で終わるが、私のヴェルディへの旅は、これからもまだ続く。

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