2013年12月10日火曜日

シューベルト:交響曲第8番ハ長調D944「グレート」(ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

シューベルトの音楽を楽しめるかどうかの、わかりやすい試金石は、この長大な交響曲ではないかと思う。とにかく長い(「天国的に」とかのシューマンは言った)音楽は、単調で極めて退屈、どこがいいのかさっぱりわからない、という次元を通過して、いつからかこんなにいい音楽はない、と思えてくる。私の場合、今から20年位前にその時が訪れて以来、今では丁度いい長さだと思っている。もちろん繰り返しは大歓迎である。

このきっかけとなったのは、サヴァリッシュがNHK交響楽団を指揮したものをライヴで見た時だったと記憶しているが、特に第3楽章で「その時」はやってきた。中間部のトリオでのことである。以来、ここを聞く時はいつもこの時の体験が蘇る。もっといい演奏に出会いたい、という一心から新譜は常にチェック。だが、その録音数とは裏腹に実演で聞くことは意外に少ない。

本年の春にその時はやってきて、ミンコフスキ指揮ルーブル宮音楽隊の忘れがたき演奏が、私を感動させたことは、先のブログにも書いたとおりである。だが、この曲はいつも名演奏になるとは限らない。いやもしかすると本当にただ長いだけの、つまらない演奏に終始する可能性も大きい。その境目はどこにあるのだろうか。なかなか気づくことのできない部分で、その分かれ目は存在する。丁度ブルックナーの音楽が、この傾向に類似している。

第1楽章の冒頭から、いい演奏で聞くとゾクゾクする。これからこの長い曲を楽しむのだと思うと、嬉しくなる。なにせまだ曲は始まったばかりなのいだから。最近の演奏では嬉しいことに主題提示部を繰り返してくれる。たっぷりと歌わせる演奏なら、弦楽器も木管楽器も、乗ってくるのがわかる。ベートーヴェンの「エロイカ」でも同じ感じになる。よく似ているが、シューベルトの方はもっと繊細である。

第2楽章の行進曲風のメロディーがまたいい。ここでも歌う木管楽器に酔いしれよう。散歩しながら聞いていると、この曲に合わせて足を踏み出す。だがそれも後半に差し掛かると、丸でブルックナーを思わせるような音の重なりがクライマックスを迎え、そして休止!が訪れる。この深々とした憂いに持ちた味わいは何と形容したらいいのだろうか。この部分に感動しない人は、何か勿体無い人生を送っているような気がする、というのは言いすぎだろうか。

第3楽章も繰り返すと長い。早い音楽だがいつまでも続く。けれどもその中間部にさしかかると、しびれるような音楽が突如として現れるのだ!この至福の時間は、この音楽がずっと鳴り響いてほしいと願うばかりだ。けれどももう音楽は折り返し地点を過ぎている!ああ、何ということか。

力強い金管の響きと、早いリズムで始まる第4楽章は、リズムに乗っていつまでもいつまでも、体を揺らしたくなる。そして反復!オーケストラが乗ってくると、ここの演奏は愉悦に満ち、心から幸せな気分となる。その爽快さ。ここの音楽にはあの「未完成」とは対照的な、だが紛れも無くシューベルトの音楽だ。天才はこの音楽に全ての力を注いだのではないかと思える。

お気に入りの演奏は、ゲオルク・ショルティの指揮するウィーン・フィルによる名演奏。他に何十種類の演奏を聞いたかわからないが、今でもベストである。何かが足りないように見えて、実は他の演奏にはない何かがある。ウィーン・フィルのふくよかな音色が、ウィーンの音楽に溶け合うのは当然としても、それをショルティはうまくドライブしている。強引さではなく、かと言って放任主義でもない。このような演奏は、演奏家の音楽に対する深い愛情がないと実現できるものではない。

何か特別な力が働いて類稀な名演が誕生した。録音も素晴らしい。聞き終わると、もう一度始めから聞きたくなる。この他ではジュリーニとコリン・デイヴィスの演奏が思い出に残っている。

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