2013年12月3日火曜日

東日本大震災の記録:被災地への旅(3)

陸前高田の被災の風景は何と形容していいのかわからない。ここを通りがかるときの心情は、驚き以外の何物でもない。辺り一面何もないのである。もともとここには街があった。しかし初めてここを訪れる者には、その違いさえもわからない。

唐桑半島と広田半島に挟まれた広田湾の小さな平野は、三陸海岸では最大級のものである。広田湾奥には気仙川が流れこんでおり、その運ぶ土砂で形成された砂州には高田松原が東西に続く。高田松原は石川啄木の歌碑などもある景勝地で、ここには松の木が何と7万本も植わっていたらしい。その白砂青松の海岸の歴史は江戸時代前期にまで遡り、国道沿いに「道の駅」もある、いや、あったというべきか。その「かつての」道の駅の建物の前には、慰霊の小屋が建てられていたが、ここは新たな観光地の駐車場にもなっている。それはわずかに一本だけ津波に耐えた「奇跡の一本松」である。

バス停の名称まで「奇跡の一本松」となっていた。しかしここには小さい小屋で営まれるコーヒー・ショップとガソリン・スタンドがあるだけで、他には何もない。かつて戦争で空襲が終わると「あたり一面焼け野原になった」などと私の祖父は語ってくれたものだったが、そのような光景とはこういうものなのだろうか。肝心の一本松は、海水によって腐食が進んだが、現在は復元されて移されている。バス停からは結構歩く距離ながら、どのようにして行けばいいのか案内もなく、私は工事中のエリアを隔てて遠くに見える松の木を写真に収めた。それ意外にもやたらと工事が多く、ダンプカーやトラックが国道をひっきりなしに通り過ぎて行く。

この陸前高田では、市役所や避難所までが被災した。そして病院の4階までもが水に浸かった。陸前高田に入る前に、津波が襲った当時のままの中学校の校舎があって、一瞬ドキッとした。一方、陸前高田から次の大船渡へ向かう途中、これも津波当時のままの鉄筋アパートがむき出しになってさらされており、再びドキッとする。この2つの建物は、丸で象徴的なものとして保存されるのを待っているかのように、不思議とそこだけ手が付けられていない。震災の直後は全てがこのような感じだったのではないかと思うと、恐ろしくなる。

国道を走ると至る所に標識が掲げられている。それは津波で浸水した区間を示すもので、この先は危険ですよ、その前ならまあ安心ですよ、と言っているようなものである。また浸水区間には、避難のためどちらにどの程度逃げればいいのかが示されている。だが、陸前高田のような広い平野では、中心地にいると逃げようにも逃げられない。どうすればいいのか全く頭の痛い問題である。見上げると山の中腹が工事中であった。そこに居住地域を作ればいい、ということだろうか。だが町を復元するには気の遠くなるような時間がかかるだろう。

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