三陸復興国立公園(陸中海岸国立公園から変更)というのはとても広く、北は青森県の八戸あたりから、南は松島近くまで、全長600キロにも及ぶ。北へ行けば断崖絶壁のリアス式海岸で、のこぎりの刃のような曲がりくねった地形を、上ったり下ったり、海にへばりつくように形成された漁村を通って行く。それらは近代まで、内陸部との交通は遮断され、冬は寒く、耕作地も極めて限られていた。生活の場といえば漁港がある猫のひたい程の入江と、そこに寄り添うように建てられた家屋で、隣の村へ行くにも峠を越えるよりは舟に乗るほうが容易く、そのようにしてわずかな交易を行うという日本でも有数の僻地であったということは容易に想像できる。
今でも高速道路はなく、南北を貫く鉄道が悲願のもとに開通したのは、構想から80年以上が経過した1984年である。手元に1983年の時刻表があるが、その東北地方の巻頭地図には、この三陸鉄道はまだ掲載されていない。そのような「陸の孤島」に、インフラ整備がようやく整えられてきた矢先、今回の大震災は発生した。
三陸地方を襲った津波は、もちろん今回が初めてではない。明治以降に限定しても、
- 1896年(明治29年)6月15日:明治三陸地震による津波(明治三陸津波)
- 1933年(昭和8年)3月3日:昭和三陸地震による津波(昭和三陸津波)
- 1960年(昭和35年)5月24日:チリ地震による津波(チリ地震津波)
といった、3回もの多数の死者を出す大津波が記録されており、その様子は「三陸海岸大津波」(吉村昭著、新潮文庫)に詳しい。このような経験から、次に来る津波に備える共同体的知恵が存在しなかったわけはないだろう。だが、時を隔てて襲った今回の大津波は、それまでの津波を大きく越える規模で、近代以降に建てられた建造物をもすべて流してしまうほどであった。
三陸海岸を旅行する計画を立てたことは、これまでに幾度もある。日本全国を回ってきた経験から、岩手県に行くと次はぜひ、北上山地を越えたいと思っていた。しかし交通の不便さのため、休みが長期間取れないとあっては、断念せざるを得なかった。それを覚悟してまで訪れたい観光地に乏しいというのも、偽らざる理由であった。
しかも震災によって、ここの旅行は一層困難なものになってしまった。交通網は寸断され、次にまたいつ来るかわからない地震に怯えながらの旅行となると、かえって復興の足かせにならないかと気が引けた。それでも徐々に訪れる人が多くなっていったようだが、私は長らく躊躇していた。いかんせん、被災地になったからという理由でここを訪問すること自体、不謹慎に思われた。阪神大震災の時は、実家がすぐそばにあって、友人が近辺で働いていたりしたこともあり、わずか1か月後には私は神戸の変わり果てた町を歩いたのだが。
加えて、今回の東日本大震災の特徴として触れないわかにはいかないのが、この途方も無い自然災害を、その向こう側に覆い隠してしまうような人的災害、すなわち原子力発電所事故が、より身近な問題としてあり続けたことである。私の住む東京から三陸へ向かうには、福島県を通過する必要が有ることが象徴するように、原発事故が収束しないうちに三陸の復興を願うだけの心理的余裕が、残念がら持てないでいたことを正直に書いておく必要がある。大震災は、いまでも身近にあり、それが一段落したとは思えないのであった。
だが原発の問題に隠されて三陸の復興が遅れるとすれば、それはまた大いに不幸なことである。そう考えると以前から・・・それは中学三年の冬以来・・・何度も足を運ぼいうとしてきた三陸地方に、丁度地震から2年半が経過した時点で、その夢を果たすことができるかも知れない・・・そう私が気づいたのは、家族が一人旅の時間をあたえてくれたからである。一人でしか行けないところへ、わずか1日とは言え、でかけることができるなら・・・私は迷わず被災地を選んだ。そして地図を片手に、どこからどこへ行くべきか連日考えた。
私が想像していたより三陸海岸は、ずっと広大であった。岩手県を南北に貫く険しい北上山地が大きな障害だった。ここを東西に移動するだけで何時間も必要だった。すべての町を一日で廻るのはとても無理であった。私は松島までは行ったことがあるので、できればより北の方・・・そこはリアス式海岸がもっとも特徴的な姿を見せるところである・・・に行きたかった。しかし東北新幹線の駅から比較的アクセスの良い場所として、岩手県の南部を選ぶしかなかった。
2013年11月22日、私は会社を休み東北新幹線「はやて101号」に乗り込んだ。一関で車を借り、気仙沼の市内へ入ったのは、もうお昼頃だった。
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