2016年2月7日日曜日

NHK交響楽団第1829回定期公演(2016年2月6日、NHKホール)

銀座でMET Liveを見たあと地下鉄に飛び乗り、渋谷のNHKホールに来た。18時から始まる定期公演を聞くためである。N響の演奏会は今年これが早くも3回目である。いつもの3階自由席を買おうと思ったらなんと売り切れである。こういうことは非常にめずらしい。仕方がないからD席を3600円を払って購入し、長い階段を駆け上る。

公演の最初の演目はマーラーの「亡き子をしのぶ歌」、独唱はマティアス・ゲルネ。 ゲルネの声は、その大柄な風貌からは想像できないほど繊細で美しい。私はシューベルトの「冬の旅」を聞いて以来、その表現の深さにCDを衝動買いした。ゲルネは大きな体をゆすりながら、二人の子を相次いで亡くしたマーラーの深い悲しみを表現した。その姿は3階の席からも見て取れた。

休憩をはさんでいよいよブルックナーの交響曲第5番が始まる。今日のコンサートは中高年の男性が多い。自由席には学生の姿も目に付く。そして3階席の最上部と両端だけは、わずかの隙間もなく埋まっている。みなブルックナーを聞くためである。

オーケストラの配置が興味深かった。チェロが本来のヴィオラの位置に座り、その奥にコントラバスがいる。このことで普段は右側から聞こえる低温が、左からの高い音に混じるのだ。つまりこの曲では左右の音の分離が打ち消されている。意図してブルックナーの音が、全部混じったような音になったのだ。ここで上段に並んだ金管楽器が合わさると、オーケストラがまるでひとつの楽器のようになるのだろう。金管セクションはこの長大な曲の間中、ほとんどミスをすることなくきれいなアンサンブルを披露した。いや金管だけでなく木管楽器も、そして中央最上部から打ち下ろすティンパニーも、N響の充実ぶりは最近特に目を見張るものがあるように思うが、今回の演奏もまたその一つと言える。ただ音については上記の配置の影響で、いつもとは少し異なるように感じた。

私はかつてのN響のくすんだ音が蘇ってきたように感じた。ヤルヴィの音楽はもっと風通しが良いにもかかわらず統制が取れている、という印象だったが、果たしてブルックナーとの相性はいいほうなのだろうか。

こういったことを考えるうえで、いつも問題になるのがブルックナーの音楽そのものについての、聞き手の感じ方の違いである。一方でブルックナーを称賛し、神の音楽だと崇める人がいるかと思えば、長年のクラシック・ファンの中にもブルックナーを毛嫌いする人がいる。それほど感じ方が両極端なのだ。ブルックナーの交響曲第5番は、そんな中でも最もブルックナー臭い音楽ということになっており、実際、私の場合はこの曲を生で聞くのは初めてであった。

私は特定の音楽のみを聞くような聞き方を好まないので、これまでできるだけ重複を避けるようにコンサートへ足を運んできた。今回の演奏会もそうで、ブルックナーと言えばこれまで聞いたことがあるのは、第4番「ロマンチック」、第6番、第7番、第8番、第9番、それにミサ曲というところである。ここで第4番、第6番を聞いたときには、私は心の底からブルックナーの音楽が美しいと思った。いずれもN響の演奏である。そしてそれぞれの終楽章に至っては、私は心からこんな綺麗な音楽はほかにない、とさえ思ったものだ。そうそう、第7番、第9番の時も悪くはなかった。

こういうことがあって、私の場合は、 熱狂的なブルックナー・ファンになる最初の入学試験には合格したものの、その後についてはまだまだといったところである。そしてブルックナーのむつかしいのは、演奏を極端にまで選ぶということだ。「いい演奏」で聞くととてもいいのに、そうでない場合は全くもってそうではない。これも多くの人が言っている。そして世評の高い指揮者、有名な売れっ子指揮者の演奏が、後者、つまりつまらない部類に入ることが多い一方で、ほかの曲ではさして見向きもされない指揮者が、突如として頭角を現す・・・これも多くの人が語っていることだ。

では、どういう演奏がいいというのだろうか。Webで検索し、いろいろな人の意見を調べてみる。こういうことが手軽にできるようになったのも、インターネット時代のいいところだ。ところがそこに登場する演奏は・・・ああ、何ということか・・・チェリブダッケだのクナッパーツブッシュだの・・・定評ある録音としても、せいぜいヨッフムとカラヤンが姿を現すだけで・・・カラヤンを取り上げていればまだいいほうで・・・ヨッフムともなれば正規録音でないものまでもが多数登場し・・・そして悲しいことに、それらの演奏は、今では現役で聞くことができきないものばかり・・・つまり、すでに逝去した指揮者の残した録音なのである。

現役の指揮者の録音というものがないのかと言えば、そうではない。事実私が所有して気に入っているティーレマンの演奏は、これを評するブログにあまり出会ったことがない。私はなるべく最近の演奏を聴きたいほうなので、これはとても残念なことである。そして今回聞いたヤルヴィもまた、すでにフランクフルト放送交響楽団を指揮して録音しているではないか。

前置きが長くなってしまったが、そのようにかつての古い録音でしかその魅力を語れないのでは、とても残念な気がする。私は音楽は第1に生のものだと思っているので、そうだとするとブルックナーの素晴らしさに今ではほとんど触れることができないことになる。そうは思いたくないので、私は今回聞いたヤルヴィのブルックナーについて、より肯定的な感想を記したいと思うのだ。だが悲しいことに、私の今の経験と知識では、それを満足になすことができない。正直に言えることは、これまでほかの演奏で味わった、ブルックナーの神髄に少しでも触れるかのような気持ちには、ほとんどなれなかったのである(終楽章の最後で少しは感じたが)。

第2楽章と第3楽章は続けて演奏された。その間中もオーケストラは十分鳴っていたし、一糸乱れぬアンサンブルであったと言っておこう。長いコラールのフィナーレもそれは見事であった。だが圧倒的な拍手が沸き起こる一方で、早々に席を立つ人が少なからずいた。 そのことが今回の演奏を端的に示していたように思う。両者を分けたものは一体何だったのだろうか。そして私はどちらかと言えば後者、つまり感動を持たなかったほうに入ると思う。私のブルックナー音楽の進級試験は、また落第だったのか、それとも評価に値しない演奏だったというべきなのだろうか。

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