2016年2月28日日曜日

プッチーニ:歌劇「トゥーランドット」(The MET Live in HD 2015-2016)

旅行好きの私は長年、社会主義国に行くことを避けていた。例外は列車で横断した東ドイツだが、この時は通過ビザ。そして本当に足を踏み入れたのは香港から橋を渡って出かけた日帰りの深圳。でも当時、深圳は経済特区であった。結局私の初めての社会主義国への旅行は、1994年1月の北京ということになった。といってももうすでに中国は、経済成長のはしりの時期であった。初めて中国に出かけたのは、中国の歴史の一端に触れることなく世界を歩きました、などと言うことがどうしてもつまらなく思えたからだった。一度は中国を見てみたい、そう思った。

天安門広場に立った私は、その向こうに広がる紫禁城に目を奪われた。何重にも何重にも城壁が重なり、いつになっても中心に到達しない。そのうち案内してくれた中国青年旅行者の若者が、当時建てられた家の高さが低いのは、この帝の位置を上回ってはならなかったからなのです、と告げた。なるほどそういえば、ホテルへ帰る途中に眺めた周囲の街並みの屋根はみな低い。今のように高層ビルなど少なく、古い家も多かったからその様子はすぐにわかった。

前置きが長くなったが、歌劇「トゥーランドット」の舞台は神話の時代の北京ということになっている。冷酷なトゥーランドット姫に数多くの若者が求婚するが、彼女の出題する3つの謎を解くことが出来たものは一人もおらず、その男たち(26人!)を片っ端から処刑しているというのだ。こういう話は神話でなくてもあり得るような気がしてならない。なぜなら中国の歴史は、不合理な圧制の歴史でもあるからだ。民を従わせることに関する様々なモデルが存在する。文明というものは本来、そういうものであるのかも知れない。

第1幕はその恐ろしい処刑のシーンである。今日もペルシャの王子が謎解きに失敗し、処刑されたのだ。そこに放浪の身である韃靼国の王子カラフ、その父(国王)で盲目のティムール、その召使で奴隷の身であるリューが再会する。リューに会えて喜ぶカラフだったが、処刑の場に現れたトゥーランドットを見て一目ぼれ、自分も求婚すると誓うのだ。

今回のMETの舞台は、過去と同じ演出である。それはつまり、もう30年も続くフランコ・ゼッフィレッリによる絢爛豪華な舞台なのだ。METライヴとしても確か2回目で、私も1996年、アンジェラ・ゲオルギューの演じるトゥーランドットを現地で見ている(指揮はネッロ・サンティ)。それはそれは目を見張るような贅沢な舞台で、音楽もストーリーもほとんど初めての身でありながら、感慨ひとしおだった。私はその時の思い出を、一緒に見た今の妻とたまに語り合うが、それでも過去の記憶は薄れていくもので、どのようだったかは次第に思い出せなくなってきた。何せ4階あたりの席からは十分に舞台が見渡せたかも定かでない。だから一度、ライブを追ったカメラの映像でじっくり見てみたいと思ったのだった。

その豪華な舞台の見せ場は第2幕である。まず前半は 宮殿の中。3人の道化師(ピン、パン、ポン)が登場する。彼らの滑稽なやりとりがまたこのオペラの見どころである。続いて出される3つの謎。丸い小さな踊り舞台が中央にしつらえた池の上を、縦横に橋で囲ったその向こうに、中国の宮殿の屋根がそびえている。池の淵を3人の高官や人々が行ったり来たり。でも古いセットだからか、今こうやってみると何か東南アジアのリゾートホテルの玄関のようでもある。

3つの謎にあろうことかすべて正解してしまったカラフにも、トゥーランドットは頑なに結婚しようとはしない。おそらく彼女は男性を拒絶しているのだろう。その恐怖心が防衛反応を起こさせ、まわりの男性をすべて見下す態度に出るのだ。だがカラフは動じない。まわりの忠告をよそに、トゥーランドットに逆質問をするのだ。自分の名を当てたら死んでもいいというのだ。トゥーランドットは北京の街中に彼の名を探させる。「誰も寝てはならぬ」とはそういう意味だ。

第3幕の最初でカラフは、このオペラ随一のアリアを歌う。その歌声の素晴らしいこと!歌手の名はテノールのマルコ・ベルティという人で、私は初めて見たがその声の艶と迫力は、トゥーランドットの技巧的な超ソプラノ音を上回る品の良さが目立つ。アリアは単独で歌われる時と違い、そのまま音楽が流れるので拍手は来ないが、ここは息をのむ歌であった。

カラフの名を知っているティムール(バス・バリトンのアレクサンダー・ツィムバリュック)と召使いで女奴隷のリュー(ソプラノのアニータ・ハーティッグ)が連れてこられ、拷問にかけられる。トゥーランドットはあくまでも結婚を嫌がるのだ。だが隙を見て自害するリューは、カラフへの愛ゆえに平気であると言うのだ。犠牲者となることを厭わぬリューに、トゥーランドットの冷たい心が解け、最後は結局カラフと結ばれる。見ているものにこれほど都合のいい結末はない。池の周りを踊る人々は、扇を頭の上でくるくる回す。大音量の音楽が流れ、大団円となる。見事な舞台だったが、それを見た私と私の妻は何故か共通の感想を述べた。つまりこのシーンがまるでオカマ・バーの踊りのように滑稽だというのである。でもこの振り付けは台湾の演出家C・チャンという女性が手掛けたもののようだ(彼女はインタービューに登場する)。だからいい加減なことを言うのはよそうと思う。

トゥーランドットはスウェーデン人ニーナ・ステンメ。高い声を広いMETの舞台中に張り上げるのは、さぞ大変である。トゥーランドットを歌えるソプラノは非常に少ない。ブリュンヒルデも歌う重量級のワーグナー歌手の出番でもある。彼女は本作品に「トリスタンとイゾルデ」との共通点を見出す、と答えている。指揮はイタリア人、パオロ・カリニャーニ。私は一昨年の「ナブッコ」で新国立劇場で指揮をとる彼を見ている。METライブは今シーズン、このあと「マノン・レスコー」、「蝶々夫人」とプッチーニが3作品も続く。


歌劇「トゥーランドット」はプッチーニ最後の作品である。彼はこのオペラを完成することなく世を去った。現在上演されているのは、フランコ・アルファーノが補完したものである。とはいえそれは第3幕の最後のシーンだけで、ほとんどこのオペラはプッチーニの作品である。プッチーニが書いたのはリューの死までというから、今回私はその部分を注意して見た。初演したトスカニーニが指揮棒を置いたとされるその部分を見ながら、この作品はオペラがオペラらしく製作された音楽史上最後の作品ではないか、と思った。

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