アジアを舞台にした古いオペラ作品というと「トゥーランドット」と「蝶々夫人」くらいだと思っていた。古いといってもプッチーニが活躍したのは明治時代だから、もうそのころにはアジアの情報がヨーロッパに直接伝わっていた。だから中国や日本が物語の舞台になったとしても、もはや違和感はなかっただろう。ところがビゼーのオペラ「真珠採り(Les Pêcheurs de perles)」は、なんとセイロン島が舞台なのである。
ビゼーのオペラと言えば「カルメン」のみが断トツで有名で、その音楽は知らない人など誰もいないくらいに有名であり、しかもそのような親しみやすいメロディーが延々と続くという、オペラ入門にはまさにうってつけの作品である。この作品はスペインのセヴィリャ郊外を舞台にしていて、たばこ工場で働くジプシーの女にストーカーとなってまとわりつく純情な青年の物語ということもあり、とても人気がある。
これに対し「真珠採り」 という作品が存在することくらいは知っていたが、その音楽や歌は聞いたことがなかったし、ましてその物語の舞台が、インド大陸南端の島だとは想像してもいなかったのである。METの舞台で取り上げられるのはなんと100年ぶりであり、前回の公演にはエンリコ・カルーゾーが歌ったというから大変なものである。指揮はイタリア人ジャナンドレア・ノセダ、演出はイギリスの映画監督ペニー・ウールコックである。
指揮者がタクトを振り下ろすと青い海中の情景が舞台一面に広がった。上からダイバーが下りてきて泳ぐ。真珠を採るという作業は、わが国では海女さんの仕事である。私も伊勢賢島でその様子を見た。彼女たちは素のまま潜り、貝を拾い上げては桶の中にそれを入れていく。貝の中で生成される真珠は、他の宝石とは少し異なる。昔は養殖などされていなかったから、真珠を採ることはたやすいことではなかっただろう。そして命がけである。だから真珠採りとして生計を立てる人々の間に深い信仰があった(ということになっている)。対象はインドの神だが、尼僧がいて修道院で暮らすあたりはちょっとおかしい。
短いが圧倒的な印象をもたらす冒頭のシーンは、特注された装置によってつりさげられたアクロバティックな演技によるもので、そのからくりは幕間に詳しく紹介される。そのシーンが終わると舞台は村人の集会の場面である。暗い中に金色に光る灯が適当に配置され、異国情緒を醸し出す。村人の中からズルガ(バリトンのマウリシュ・クヴィエチェン)が領主に推挙される。彼には権力が与えられるが、そこに登場するのは旧友のナディール(テノールのマシュー・ポレンザーニ)である。男同士の二重唱「神殿の奥深く」が美しく魅了し、拍手は早くも最高潮に達する。この二重唱は本当にきれいだった。
やがて巫女を乗せた船が登場。彼女は純潔と信仰を誓うことを宣誓させられるが、ナディールはそのヴェールを被った女性がかつて思いを寄せていたレイラ(ソプラノのディアナ・ダムラウ)であることを発見する。アリア「耳に残るは君の歌声」である。このメロディーは「真珠採りのタンゴ」としても有名だそうで、私もYouTubeなどで聞いてみた(アルフレッド・ハウゼ楽団)。
異国情緒にあふれ、ビゼーの美しい音楽に満たされたこのオペラは、まるで真珠を探すように指揮をした、とノセダは語っている。だが第2幕となると一転、三角関係のもつれは3人の人生を狂わせる。その有様はフランス魂満載の身勝手な自尊心に満ちたものだ。高層ヌーラバット(バス・バリトンのニコラ・テステ)の命で寺院(といっても今回の上演版では第1幕と舞台はさほど変わらない)にこもっているレイラをナディールが訪ねてくる。彼女と駆け落ちするためだ。しかし寺院の見張りに見つかりつかまってしまう。盟友ズルガはナディールを助けようとするが、その相手が自分も恋心を寄せるレイラだと知ると一転、二人を処刑することにしてしまうのだ。ドラマチックな音楽である。
第2幕が終わって第3幕までの間、逆巻く海の画像が流れている。その中から浮かび上がったのは、古い高層アパートである。カルカッタか香港のような街の画像がどうして登場するのだろうか。そしてそのあと始まる第3幕の第1場は、何とズルガのオフィスである。一面に書類を収納した書棚の前にはパソコンもある。ズルガはテレビを見ながらビールを飲んだりするのだ。この時代錯誤的シーンは、意図して挿入されている。そのことで見ているものをまるでヴェリズモ・オペラを見ているような錯覚にとらわれるのだ。音楽はまるでヴェルディのように豊穣である。慈悲を請うため現れたレイラにズルガは告白するが、彼女は今でもナディールを愛しているのだった。
アパートの画像を経て再びセイロンの村。とうとう処刑が行われることになった。鎖につながれたナディールとレイラを、あろうことかズルガは逃がしてやる。村に火を放って村人たちを立ち退かせたその隙に、である。ズルガはかつて自分を救ってくれた恩人が、何とレイラであることに気付いたからだった。レイラの首にかけられた真珠の首飾りがその証だったのだ。息絶えるズルガ。
この作品は丁度2時間程度と苦にならない長さでありながら、美しい音楽に満たされ聴きどころが満載で、あまり上演されないのが不思議である。そう感じさせるのは今回の歌手陣が総じて素晴らしかったことと、それにエキゾチックな演出が見事だったからだろう。
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