2012年2月12日日曜日

ドニゼッティ:歌劇「アンナ・ボレーナ」 The MET Live in HD 2011-2012)


ニューヨークにおけるメトのライブ中継は土曜日の夜で、ラジオ好きには好評の番組である。日本ではオペラ中継こそないものの、日曜午後の「オペラ・アワー」(NHK-FM)は、競馬中継がほとんどだった昔のラジオ番組にあって、私にはなくてはならない番組だった。何せオペラ全曲録音が聞けるのだから。

そこでいつだったかドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」を聞いたことがあるのを思い出す。そういうものだからこのオペラは結構有名なものだと思っていた。ところが全71作品中の35番目の作品であるこのオペラは、なかなか上演する機会がないらしい。そういえば序曲も知らなければ、ストーリーも、そしてただひとつの音楽も有名なものは、ない。

だが、その理由は簡単だった。主役を歌うソプラノが、ただならぬ実力を必要とするのである。全編にわたって出演し続け、歌いに歌い、最後には狂乱のシーンもあって息絶える。最高音や重唱も数知れず、しかも他の配役だって相当の実力が要求される。歌また歌の連続は、第1幕の90分が終わる頃には相当体力的にもきついが、同じかそれ以上の集中力を必要とする後半の第2幕がまたもや90分、しかも喜劇ではなく悲劇、当然ストーリーは暗い。

このようなオペラだから、ドニゼッティの出世作だからといってそう簡単に上演できるわけではない。数十年に一度というチャンスが前回訪れたのは、マリア・カラスの時だろう。だがそれから何十年もの間、この作品は知る人ぞ知る作品だったのではないか。アンナ・ネトレプコが、実にカラス以来の実力を示し、そしてついにその地位に上りつめたと言っていい。これは一にも二にも彼女のオペラとなった。

想像以上に驚いたのはこれがメトにおける初演だったことだ。これほど有名な劇場で、これまで一度も、どの歌手によっても歌われていない。だからネトレプコのこの出演は、いわばメト史上の事件である。そして彼女は期待以上の実力を発揮した。幕間のインタビューも断って、よほど集中力を必要としたのだろう。3月にはウィーンで同じ役を演じているのだが、やはりそれでも彼女は緊張を強いられた。

滅多にお目にかかることのないイギリスを舞台としたこの作品のストーリーは、難しくはないがなかなかしっかりとしている。それ故に、「連隊の娘」や「ルチア」しか聞いたことのない聞き手は、これがドニゼッティかと思いを新たにするだろう。ヘンリー8世を演じたのはアブドラザコフで、なかなかの好演。王妃アンナの初恋の相手ペルシはコステロという歌手で、これもいい。そしてアンナに横恋慕する若いズボン役のスメトンはなかなかの美女だが、この役には惚れ惚れする。そういう訳で、すべての歌手が最高位だった。

アンナを敬いながらも王に好かれてしまい身動きの取れないセイモーは、当初ガランチャの予定だったようだが(ウィーンではそうだったが)、ここではロシア人のグバノヴァに代わり(何でもオメデタのようだ)、彼女はネトレプコの地位を脅かすほどには上手くない。そこがこの配役の味噌だろう。控えめで実直な彼女の歌が、やはり胸を打つ。しっかりとした序曲からスマートな指揮をしたアルミリアートは、歌手の歌を引き立てるいつもの素晴らしさ。そういえば序曲のある作品を見たのは何かとても久しぶりのような気がする。

セクハラもパワハラも何でもありの時代背景は、現代人の日頃のストレスが馬鹿馬鹿しく思われるような気さえしてくる。それほど舞台の内容は悲劇的で歌詞も哀れだが、音楽がベルカントの明るさとロマン性を持っていて、劇的だが重くなり過ぎない。

このオペラを見て私はドニゼッティの存在を再認識したと同時に、その作品がロッシーニとヴェルディの中間に位置することを極めて明確に理解する結果となった。この作品は初期のヴェルディの雰囲気をたたえ、重唱の巧みさ、合唱の挿入のされ方、そしてレチタティーヴォにおける管弦楽の処理など、まさに若きヴェルディを彷彿とさせた。いやヴェルディがドニゼッティから多くのことを学んだのだろう。

夫婦関係の冷めた王が王妃に下した死刑と、王妃に仕えていた侍女との結婚が同時に行われるのが最後のシーンだ。アンナ・ボレーナは発狂して倒れる。重いストーリーも歌劇の中で演じられることを忘れさせない。それだから歌と音楽に一定のゆとりを保持しつつ酔うことができる。圧巻、という表現がぴったりの瞬間が何度も訪れた。熱烈なブラボーがメトの大空間を飛び回り、もちろん最後は全員総立ちである。

 「アンナ・ボレーナ」という作品をちゃんと見たというだけで自慢ができるような気がする、などと書けばちょっと有頂天になりすぎだろうか。なぜなら最初は、仕事の疲れでまったく見る気がしなかったし、実際少し眠ってしまった。だが、目を覚ましてからの2時間は圧倒されっぱなしで、「必ず満足します」というゲルブ総裁の挨拶に違いはなかった。彼の采配が功を奏した。ネトレプコは、疑いなく今一番のディーヴァである。

(2011/11 東劇)

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