2012年2月7日火曜日

ドニゼッティ:歌劇「ランメルモールのルチア」(The MET Live in HD 2010-2011)

現在最高のプリマ・ドンナはネトレプコかデセイか?ドニゼッティのオペラ・セリア、すなわち悲劇的な結末を迎える作品の中でもとりわけ人気の高いこのオペラは、その最大の見どころがいわゆる「狂乱の場」と呼ばれる第3幕のシーンである。ここを歌うのはルチア役のソプラノで、その長さは15分にも及ぶことは、いまさら言うまでもない。ネトレプコは2年前のシーズンでメトで同じ演出により歌っているから、これは時を隔てた2人の競演ということになる。

私もマリア・カラスのCDで何度も聞いてきたのだが、では他に何か有名なCDはと聞かれてもすぐには答えられないし、もとより全体をきっちりと見たこともない。有名なオペラなのに、それに触れずに老けてゆくのは何とつまらないことかと思う。そこであらゆる弊害を乗り越えて、何としても一度は見ておきたい。実演はなかなかかなわないから、ここはMet Live in HDなのである!

 東日本大震災後の公演で、案内役のルネ・フレミングはそのことにも触れている。いつものようにMaestro to the pit, please!」で始まる舞台は18世紀のスコットランド。ルチアは兄エンリーコの意向を無視してエドガルドと恋仲となる。兄は政略結婚を企画、ルチアはエンリーコとの結婚式で泣く泣く署名をしてしまうが、エドガルドがそれを知って激怒。ルチアは徐々に精神不安定となり、結婚当日にエンリーコを殺し自らも発狂して死んでしまう。それを聞いたエドガルドは自決する、というシリアスなもの。

だが歌は初期のヴェルディの作品を思わせるような朗々としたカンツォーネの連続で、重唱も多く合唱も効果的。とにかく聴衆は「狂乱の場」を待ち望んでいるので、それまでの幕はむしろ主役級の男性二人の見せ場となる。ひとりはルチアの兄エドガルドで、彼は「世間に忠実過ぎた」とバリトンのデジエは語っている。このデジエはなかなか好演しているが、それと合わせて司祭のライモンドを歌う韓国人クワンチュル・ユンがまた見事である。男の二重唱など毛嫌いする人もいるが、第1級の歌手が歌うと凄い。

デセイのルチアはどうだったか。私は上記のような体験しかないので評価が主観的になるのだが、歌は俄然素晴らしいと思う。だが、狂乱の場の演技は今一つ迫力が足りないと感じた。悪く言えばうまくまとめすぎている。取り乱している役を、彼女は計算通りに演じている。

第1幕でもやや声が出にくいところがあり、彼女のベストコンディションではなかったのだろう。幕が進むにつれて歌声は良くなったが、どことなく演技に色気がないのは、調子が悪かったからか、あるいは精神を病んでいく女性を演じるからか、あるいはあまりに緊張を強いられるからか。そう、その可能性が高い。物凄いストレスは、幕前にインタビューをするのが可哀そうなくらいだ。だがそういうそぶりを見せないところはやはり大したものだ。

そのデセイのCDを私はすでに持っている。ベッリーニの歌劇「夢遊病の女」である。彼女はここでアミーナを歌っている。私はこの時以来の彼女のファンだったので、一体どういう演技をする歌手か、今回見てみたいと思っていた。私が抱いていたイメージとは少し違ったが、それでも狂乱の場の後半のシーンは息もつかせない演技で聴衆の喝さいを誘った。来シーズンのヴィオレッタ(椿姫)が大いに楽しみである。

エドガルドを歌ったカレーハは、ホフマン物語でも標題役を歌ったマルタ出身の若いテノールだが、大変素晴らしい。狂乱の場が終わってから始まる彼の独演は、ルチアの陰に隠れてやや歩が悪いが、なかなか大したものである。だから彼にもアルフレード(椿姫)を期待したいのだが、いかがだろうか。

なお、Met Live Viewingでは他の作品も紹介される。次の演目であるロッシーニの「オリー伯爵」に出演するフローレスまで出演する。贅沢な話だ。指揮はサマーズ、演出は女性のジマーマン。どちらも無難な出来栄え。

(2011/09 東劇)

2012年2月6日月曜日

プッチーニ:歌劇「西部の娘」(The MET Live in HD 2010-2011)


 私はかねてよりプッチーニの音楽が苦手だった。いつまでも甘ったるい音楽が続くというイメージだ。もちろん生まれて初めて見た本物のオペラは「トスカ」だったし、テレビで見た初めてのオペラも「ボエーム」だったし、その時以来いくつかのアリアは良く知っている。それでも会話をそのまま音楽に乗せたような部分(レチタティーヴォ)が延々と続くとなると、なんとなく緩慢で捉えどころがなく、まあ早い話が退屈だった。

 ヴェルディの後期の作品、あるいはワーグナーにもその傾向がある。これらの時代には音楽の様式が打ち壊され、もはや表現の行きつくところに行ったという感じがある。次の段階を求めて行きつく先は、聴衆の好みとはやや乖離した玄人のみが楽しめる「芸術」の世界、とでも言おうか、そのような音楽が私をやや遠ざけてきた。

ところがプッチーニの音楽は、芸術的な作品と言うよりは、むしろ聴衆の好みを意識した作品である。であるにもかかわらず、私はむしろワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの音楽の方がまだ馴染みやすいと感じてきた。舞台で「蝶々夫人」を見ても「トゥーランドット」を見てもその思いは変わらなかった。

だから「西部の娘」と聞いた時、これはあまり行きたくもないし、どうせ感動しないだろうなどと勝手に決め付けていた。けれども1週間に3つのオペラを立て続けに見たので、私はオペラを見ない日が何か物足りないようにも感じていた。「有名なアリアはひとつもなく」「登場人物はミニー以外は男ばかり」といった紹介文を読み、多くの初心者向けオペラ本からは見向きもされない作品だったので、どうせなら騙されたと思って行こうと思った。

プッチーニの作品に一度正面から向き合ってみたいとも思っていたが、それが果たせるかどうかさえわからず、場面設定もゴールドラシュに沸くカリフォルニアが舞台だという程度にしか知らなかった。かつて出ていた映像は、ドミンゴが抗夫に扮して酒場で歌うシーンがあったのを思い出す。だが実際にはこの作品は、メトロポリタン歌劇場にとって極めて重要な作品と位置付けられているのだ。

その理由は、世界初演がまぎれもなくメトで行われたからである。指揮者はトスカニーニだった。作曲家も居合わせた初演時のエピソードは、幕間のインタビューでも触れられる。「アメリカのオペラ」と紹介された本作品は、日本人が蝶々さんに抱くおかしなイメージと似たものもあるが、そういったことはまあ良いとして、初演100周年記念として上演する以上、他の追随を許してはならないという意気込みが感じられたのである。

主演のデボラ・ヴォイトはその期待に、歌声でも容姿でも、また演技の点でも満点で答えたと言ってよい。ジョンソンを歌ったシチリア出身のテノール歌手ジョルダーニも若いながら好演だ。さらにバリトンのガッロもこの保安官役を深く理解している。彼は「男は嫉妬したら終わりだ」と言いかけて終幕の舞台に出る。スカルピア(トスカ)とは違って、ランスは悪人ではないというのだ。このインタビューは、とかく主役二人に思いを強めて見ていた聴衆に深い洞察に富む軌道修正を迫る結果となっただろう。

いずれにせよ、会話のみが延々と続くオペラで、特に第2幕の接吻のシーン辺りからの迫力は、これぞオペラの醍醐味かと思わせるような出来栄えであった。高音と低音が難しく入り混じった会話を歌いこなすのは大変なことであり、同時にカードやライフル銃なでどの使いこなしと馬の登場、さらには決闘のシーンなど、丸でドラマを見るような舞台はなかなか良くできていて楽しい。そう映画を見ているような感じなのである。

 加えて指揮のルイゾッティに触れなければならない。この若い指揮者は目立たないが、あくまで歌こそが主役であるという認識の音楽作りであった。それでいて必要な緊張感は維持している。「カルメン」の時のような音楽と歌の不自然な分離が気になることはなく、完成度の高い演奏となった。

私にとって思わぬ収穫だった「西部の娘」だったが、これは実際の舞台で見るよりも楽しめたのではないかとも思われた。映像上の完成度も高いからだ。暗い映画館で3時間半を集中して見ることは、実際の舞台でもなかなかできないことだ。メトで見ても日本語の字幕が付いていないので、そういう点でもMet Live Viewingはいい。


街中の憧れの的だったミニーは、結局サクラメントの盗賊だったディック・ジョンソンが横取りしていく。死刑に処せられそうになった彼を、最後は全員がかばい、残された保安官がひとり茫然と立ちすくすところで幕となる。アメリカ人好みのハッピー・エンドだが、住みなれた町を離れて二人が旅立っていくエンディングは、やはり西部劇を地で行く作品だ。イタリア語で歌われることがなければ、もはやミュージカルのような作品に近づいている。だが、たとえ印象的な歌がなくても、その必要とされる歌唱力は、あらゆるオペラ作品の中でも最高水準だ。こういう作品をこのような完成度で見せるメトの舞台は、やはりすごいと感じた夜だった。

(2011/09 東劇)

2012年2月5日日曜日

ヴェルディ:歌劇「ドン・カルロ」(The MET Live in HD 2010-2011)


「椿姫」や「フィガロ」を見ているだけで「オペラが好き」などと言っているのがいかに恥ずかしいことか、そう思った。なぜなら「ドン・カルロ」こそヴェルディの、いやイタリアオペラの最高傑作ではないかと思ったからだ。いままで知らなかったことが悔しかった。それほどこの作品は、ずしッとした感動を残した。

 「ドン・カルロ」を初めてきいたわけではない。私のCDラックにはサンティーニ指揮のスカラ座のスタジオ録音3枚組があり、買った時はもちろん、最低1回は聞いたはずである。だが、ヴェルディ中期の作品を好んで聞いていたその時期は、あのブンチャカブンチャカのメロディーがほとんど登場しないこのような作品を、何かとっつきにくいものだと感じていたようだ。対訳なし、音声のみ、ということもあったと思う。だが、その後しばらくたって「オテロ」を見た私は、ヴェルディの作風が年を経るごとに進化し、ワーグナーに匹敵するものになっていったことを如実に知ったのである。

そう、この作品は丸でイタリア版のワーグナーの如きである。重い歌が絶え間なく続き、バレエも子供も登場しないばかりか、低音の歌手を多数必要とし、中にはバスの二重唱などというものもある。上演時間は4時間以上に及び、全5幕、しかも場面は異端審問の時代のスペインというから、暗い。

超一級の歌手を6人も揃えるのは、メトのような大規模な歌劇場でしかできないし、そのうちの一人が低調でも、さらには指揮者が凡庸でもこの作品は成立しない。ただその割には、過去に多くの録音があり、ビデオ作品も多い。人気があるのだろうが、この作品の魅力を語れるようになるには相当な聞き込みが必要だろうと思う。

 さて今回のメト公演だが、まず主題役を歌ったのはアラーニャで安定した歌いぶりである。そのカルロと恋に落ちるエリザベッタはロシア人のポプラフスカヤ。だが彼女を妻にするのは、何とカルロの父でスペイン国王フィリポ2世で、当たり役のフルラネット。彼は悪役だが、その悩みは深く時に人間性に溢れる。第2幕の後半はその心情の吐露が印象的で、なるほどヴェルディの人気にはそのような現代に通じる部分にもあるように感じられた。

ヴェルディの作品全体を貫くテーマ、心の葛藤はこの作品のテーマでもある。「そこから解放されるのは天国でのみ」という幕切れのパッセージは非常に印象的だ。登場人物の全てが、何らかの形でそのような不完全な人格である。つまり失敗もすれば嫉妬もする。だから時代設定が古かろうが、場所が異国だろうが、見る人はみな自分の心情に重ね合わせて物語を楽しむことができる。

歌や音楽が、その一挙手一投足に合わせて感情を高め、事あるごとにフォルッティシモや超高音の音階に達する。メロディーが複雑でもその異なった心情が重なると、調和し昇華され見事なハーモニーを醸し出す。時には伴奏が消えるような時でも、美しい歌声の競演は緊張感を絶やさない。
第3幕の異端審問のシーンは、有名な合唱曲を伴い見どころは多い。だがここでも歌の複雑な見せ場の連続である。手が震え今にも倒れそうな高齢の宗教指導者が現れても、見事な低音の歌声で他を圧倒するし、カルロの親友ロドリーゴが犠牲となて死んでゆくシーンは、可憐なソプラノの歌手の死亡シーンにありがちな歌詞を、何とバリトンが演じる(「わが最後の日」)。

 それにしてもこの作品の見どころは、フィリポ2世である。「彼女は私を愛したことがない」といった名アリアは、このような作品を理解するためには幾分人生経験を踏まねばならぬことの証だろう。息子に背かれ、妻にも疎んじられ、国民には反抗される国王は、世界の半分を支配する勢力を持ちながらもひとり苦しむ。ヴェルディの作品は、この後には「アイーダ」「オテロ」それに「ファルスタッフ」だけである。

指揮者、ネゼ=セガンについてひとこと。この若手の指揮者は大変な有望株である。「カルメン」の時はやや強引で音楽との調和が欠けているようにも感じられたが、それは録音のせいだったのかも知れない。ここでの指揮は引き締まっているうえに歌手の自主性を尊重しており、緊張を保ちながらも安心して歌えるようだ。そのことがこの舞台を名演たらしめたことは確かだろう。

(2011/09)

2012年2月4日土曜日

ドニゼッティ:歌劇「ドン・パスクワーレ」(The MET Live in HD 2010-2011)

昨日の夕方に「ルチア」を見たばかりだと言うのに、今日の朝の上映が「ドン・パスクワーレ」である。同じドニゼッティの作品だし、続けて見るのもつらくなってきたので、今日はパスしようと思っていた。けれども家族は「行ってきたら」と言ってくれる。そういう時は滅多にない。いくら有名なオペラ作品でも熱中して見る機会となると、一生に一度あるかないかである。

というわけで連日のベルカント・オペラと相成ったのだが、これが期待に反して素晴らしい。この1週間で立て続けに見た6つの作品の中で、これはもっとも楽しめた作品であった。あらすじも、そしてひとつの歌も知らないのに、である。

 同じドニゼッティとは言っても「ルチア」がオペラ・セリアなのに対し、「ドン・パスクワーレ」はオペラ・ブッファである。悲劇的なストーリーで歌われる内容は悲惨で残酷な「ルチア」は、やはりどこか違和感がある。悲劇性を強めれば強めるほど舞台は暗くなるが(場所がスコットランドであることにもよる。しかも幽霊が出る)、奏でられる音楽は変わらない。デセイが「喜劇の方が難しいが、悲劇の方が自由に歌える」と言っていたのを思い出した。だがデセイは狂乱のシーンを計算した通りに演じるのだ。計算された取り乱しシーンは、そうとわかればわかるほどやはり違和感がある。

それに比べて「ドン・パスクワーレ」の喜劇的ストーリーは素晴らしく綿密に計算されて、ドニゼッティの音楽の魅力がストレートに伝わってきた。早口で重唱となるシーンもいくつかあるが、カヴァレッタの続くロッシーニとは異なりもう少しドラマ性がある。見事なのはクラシックな演出のオットー・シェンクである。まだこの人の演出が使われているのかと思ったが、その舞台のわかりやすく必要十分な配置と展開は、歌手も演じやすいのではないかと思われる。

ジェームズ・レヴァインの意外にも初めてというこの作品への取り組みが、この公演の成功の多くを占めていたようだ。ぴたりとルチアに寄り添い、時にはテンポを抑えた「ルチア」でのサマーズと異なり、レヴァインは作品の性格をグイグイと引き出す力強さが健在だった。歌手が指揮者を信頼しきっているからこそ、このような音楽が可能なのだろう。その見事な歌手陣は、リノーラを歌ったネトレプコ、エルネストを歌ったポレンザーニ、医者でマラテスタを歌ったクヴィエチェンなどで、いずれもトップクラスの出来栄え。ネトレプコは最初イタリア語の発音に少し違和感があるかと思いきや、偽装結婚により悪女と化し、徐々に迫力を増すシーンはさすがに凄いと思った。彼女は悲劇を演じることが多いが、喜劇の方が似合うような気もする。

 だが主役はもちろんドン・パスクワーレで、それはバスバリトンのプレンクという歌手によって歌われたが、彼の演技を含めた素晴らしさは上記の歌手に勝るとも劣らない。第3幕でマラテスタとの早口な二重唱に至っては、場の展開の合間に後半部分をアンコールするというオマケまでついて会場は沸きに沸く。あっという間の3時間が短く感じられ、ええ、もう終わってしまうの、という気持である。

こうなったら来週はロッシーニ「オリー伯爵」も見ておかねばならないではないか。台風による豪雨が去って、少し気温が下がったように思われた築地の町に出たがまだ午後2時である。なぜ今まで見に来なかったのかと悔みかけたが、よく考えれば昨年まではいろいろあって、それどころではなかったのだろうと思いなおした。だからこそ今年は、アンコール上演を含めてできるだけ多くの作品を見ておこうと決意を新たにした。

(2011/09 東劇)

2012年2月3日金曜日

ワーグナー:楽劇「ラインの黄金」(The MET Live in HD 2010-2011)

かつてヨーロッパをオール一等座席の昼間特急TEE(Trans Europe Express)が走っていたころ、フランクフルトからアムステルダムへ向かう列車に「ラインゴールド(Das Rheingold)」というのがあった。金色に輝くような夕日の中をライン川に沿って走るので、小学生だった私は単に、風光明媚な車窓風景を楽しむことのできる列車なのだろうと思っていた。大学生になって西ドイツを旅行した時には、確かもうこの名前の列車は走っていなかったようだが、同じ路線を旅してライン下りの船にも乗った。ベートーヴェンの生まれた街ボン(当時は首都だった)に立ち寄り、その日のうちにケルンのホテルに泊まった。宿に荷物を置いてライン川にかかる橋を歩いて渡り、対岸に見える大聖堂に見いったのは懐かしい思い出だ。

さて「ラインゴールド」とは、当然のことながらワーグナーの楽劇「ラインの黄金」にちなんだもので、私はこの作品に接するたびにあのころ旅行したライン川を思い出す。天気が悪かったこともあって、どうということのない川にも思えたが、両岸にブドウ畑が広がり、教会の尖塔のそびえる村々をのんびり眺めていると、中部ヨーロッパの雰囲気を実感することができたし、そこからはあの素敵な鐘の音色が静かな川面に響いた。

あらすじによれば、そのライン川の川底にはニーベルング族が住んでいて、3人の乙女が黄金を見守っているというのである。この3人の乙女は、言い寄って口説こうとするアルベリヒを罵倒する。けんもほろろに言われると、それはつらかろうと思うのでが、そのシーンで私は魔笛の最初のシーンを思い出す。パパゲーノが三人の待女におしおきをされる寓話的なシーンである。だが、ラインの黄金の話ではこの恨みが混乱の始まりとなる。乙女は自分たちが黄金を管理していることと、それから指環を作ることで世界を征服できることなどを、うっかりしゃべってしまうのだ。

3人の乙女は美しいソプラノで、アルベリヒはバリトンである。今回見た上演ではアルベリヒをエリック・オーウェンズという黒人の歌手が歌っている。声が太くドイツ風ではないかもしれないが実力派である。そのアルベリヒが、言わば欲望と引き換えにその黄金を手に入れてしまうことから長大な「指環」の話が始まる。

アルベリヒはニーベルング族を支配して奴隷たちをこき使い、黄金を鋳造して指環や巾着などを作る。その横暴ぶりも凄く、弟のミーメは兄の蛮行を暴く。ミーメはテノールだが歌うシーンは少ししかない。そのミーメの告白によりアルベリヒから指環を奪うのが、主役のひとりで神々の長ヴォータンだ。頭巾は魔法の頭巾で、それによって様々なものに変身ができる。例えば大蛇、あるいは蛙という風に。だから蛙に化けた瞬間に、アリベルヒは捕えられてしまうのだ。箱に入れられたままそのまま地上へと連れて行かれる。

あれ?第2場はどうなったの?そう上記は第1場と第3場を連続して語った場合である。実際にはその間に第2場がある。どのあらすじを読んでも、もちろんこの間に第2場が入る。だから第1場のあとでいきなり今度は、地上の話となるのである。それはいいのだが、登場人物がやたら多すぎてわからなくなる最初の関門だ。くわしい系統図までつけられているが、それを見るとさらに混乱する。全員が「ラインの黄金」に出るわけではないし、「ラインの黄金」にしか登場しない役もある。その役もそれなりに大声で歌うので、だんだんややこしくなってくる。リンゴだの杖に書かれた文字だのと、やたら意味ありげな話が見る人を惑わせる。ああ!

 しかも各場の音楽はつながっている。このオペラは1幕しかないので2時間半もの間、休みなく音楽がいるので、途中であらすじを確かめることもできない。イタリア・オペラのように、アリアとシェーナが繰り返すようなメリハリもない。

初めて見る人でもわかりやすいシーンとしては、ラインの川底の地下から地上へと移動する部分である。演出上の工夫により、音楽が流れている間に場面が変わっていく様は、このオペラの醍醐味のひとつで、同様のシーンは他に2回ある。すなわち地下→地上→地下→地上と合計3回の移動が行われる。最後の地上はやがてヴァルハル城のシーンにつながるので、演出上の舞台のトランジションはそうとわかる工夫が必要だ。

今回のメトのルパージュによる新演出では、これを含め、巨大な鉄板の板の列が縦に配置され、それが手前に倒れながら動くことによって垂直的な空間を表現している。だから3人の乙女は川底を泳ぎながら歌う時は、この板の前で天井からつりさげられ、空中で歌う。板の回転が様々なシーンを寓意的に表現し、主だった演出はすべてそれを軸に行われる。このあたりの演出はやはり現代風という感じで、メトもそういう時代に入ったかと思わせた。

最初の部分のあらすじを追うだけで、長い文章になってしまった。まだターフェルの歌うヴォータンも、二人の巨人についても触れていない。もちろん火の神ローゲも、ヴォータンの妻フリッカも。ただあらすじについて書かれた本はごまんとあるので、私はいったい何を語ろうか、わからなくなってきてしまった。それほど見るべきものの多いオペラである。

そう言えば、今回の上演は映画館に何と長蛇の列ができ、このようなことはそれまでのアンコール上演では見られなかったことだ。しかも続いて「ワルキューレ」(さらに5時間!)まで見て帰ろうとするつわものもいるから驚きだ。私はもう少しでチケットを確保し損ねるところだった。意外にも我が国にワーグナー・ファンは多いのである。何か特別に自分だけが知る楽しみ、という優越的な感覚はもはや古くなった。ブログを検索すれば、今回の演出はどうのこうの、歌手の出来栄えから過去のCD評まで、簡単に知ることができる。中には大変詳しいものもあって、私などははじめてこの作品を静かに見るだけで感動しているのに、そういうことを書くことも何かはばかれる思いである。

だが、今回の公演は実際に見た場合にはどうかわからないが、また他の公演を多く知っている人が見ればどうかもわからないが、大変豪華で欠点も総じて少なく、従って楽しめて感動するものであったことは確かだ。強いて言うならフライアが少し弱く、ローゲも彼のベストかどうかは疑わしい。だがそういうことは差し置いて、この長大な作品に触れていることだけで、実は自分にとっての大事件なのである。

さて指環は、3人の乙女→アルベリヒ→ヴォータン→巨人のファーフナーと略奪が繰り返される。最後のシーンで指環を奪われたヴォータンは妻と共に落成したヴァルハル城へ入城する。背後に乙女の声が響く。何度耳にしたか知らないこの入城シーンは、最後の場面でとりわけ印象を残す。レヴァインの骨格ある指揮がここでも冴えわたっている。満場の拍手とブラボーによって長大な指環の物語が始まった。もう後戻りはできない破滅への道を、われわれ観衆は2年にわたって同行することとなる。次回「ワルキューレ」からはいよいよ人間が登場する!え、いままでそうじゃなかったの?そうである。これは神々の話。その内容は込み入っているが、音楽が何とも素晴らしいので、まずはストーリーなど気にせず楽しんでみるのも悪くない。もしうっかり寝てしまっても、たぶんそれほど場面は変わっていない。だが、一度この感動を味わってしまったら、やはり後戻りはできないだろう。だから、次の「ワルキューレ」が楽しみである。

(2011/09 東劇)

2012年2月2日木曜日

ワーグナー:ニーベルングの指環の新演出(The MET Live in HD))

いよいよワーグナー作品の最高峰である楽劇「ニーベルングの指環」4部作のうちの、序夜「ラインの黄金」が始まる。Met Lin in HDシリーズ(アンコール上演)の2010-2011シーズンの作品で、続く「ワルキューレ」とともに満を持して見に行く予定である。

 「指環(リング)」は私にとって、思い出の深い作品である。まだ大学院生だった頃、NHK-BSの試験放送が開始され、パトリス・シェローが演出する「指環」のビデオ作品(Unitel)が放送された。それはもう何度目かの放送だったが、その時は1幕ずつ毎晩放送されることになり、「ラインの黄金」のみ1日、残る作品は全部で9日間、確か平日のみで2週間、計10日間という大規模な放送計画だった。
私は確か夜の8時頃に始まる放送時間に合わせ、学校やアルバイトから帰宅し、夕食などの全ての作業を済ませ、リビングルームを閉め切り、テレビをオーディオ装置につないで大音量の設定とし、電話もシャットアウト、家族もいない環境下に身を置いた。思えばこれが今日までで最初で最後の「指環」体験であった。ストーリーはその時解説を読み、聞く音楽はほとんど初めてだった。ギネス・ジョーンズやドナルド・マッキンタイヤといった歌手もほとんど知らなかったし、シェローによる物議を醸した演出上の斬新さにも無知だった。

だがこの体験は、個人的に大成功だった。私は少なくともこれによって、ワグネリアンには成り損ねたものの、リングの壮大な物語を一応は理解し、そしてその音楽と歌に驚くほどの感動を覚えた。このときの放送はVHSテープにすべて標準モードで録画したが、それを再度見ることはなかった。それはこのような空間を持つことが、以後の私の生活でもはやできないからだった。

社会人、いや学生でも、ある程度充実した音楽的空間と時間、すなわち大規模な再生装置と長期にわたる静寂が確立できなければ、おおよそワーグナーの音楽に浸ることなどできない。ましてリングのチケットとなると、本場バイロイトのものだど何年も前から売り切れているし、たとえ出かけることができても1週間をドイツに滞在するだけの財力と体力が求められる。

 そういうわけで、リングはかなり敷居の高いオペラだが、それだけ見ごたえのあるのも確かである。DVDやCDで聞くには、やはりそれなりの覚悟もいるし、問題はお金ではない!時間と空間こそが、そして聞く者の心のゆとり、それが長続きしないといけないのである。

 メトロポリタン歌劇場は、昨シーズンから今シーズンにかけて新演出の「リング」を順次上演することになった。指揮はジェームズ・レヴァインだが、今年の「ジークフリート」はファビオ・ルイージに交代することが決まっている。20年程前に発売されたビデオも評判だったが、私は見たいと思いながらも見ていない。その後、来日公演で入手したNHKホールでの「ワルキューレ」のチケットは、両親にプレゼントした。

だが、時が経ってこういう幸運にも巡り合えるのだから、生きているということはそれだけで価値があるのかも知れない。さっそく私はもうほとんど忘れかけたリングのあらすじを目下確認中である。序夜の楽劇「ラインの黄金」は休憩なしの2時間半である。字幕があるのは嬉しい。かつて見たライン川の海底と地上とを丸でエレベータのようなもので行き来するシェロー演出の舞台の光景が忘れられない。今回はメト史上初の3Dを多用したものとなるそうである。いまから楽しみである。

ニーベルング族の小人アルベリヒが3人の乙女よりラインの黄金を奪うまで、あと15時間・・・。

(2011/09)

2012年2月1日水曜日

音楽ガイド:「オペラの運命」(岡田暁生、中公新書、2001年)

オペラに関するガイド本は沢山発売されているが、そのほとんどが有名な演目のあらすじを紹介したものである。少し詳しいのになると、そこに聞き所や歌手の紹介、さらにディスクの評論が加わる。こういった類の本は、数冊をそばにおいておくと便利だが、ではそれだけでオペラが理解できるかといえば、そう単純なことではない。歌の種類や声の違いといった音楽的知識、舞台装置や衣装、バレエに関する知識、さらには舞台演出上の評論(これは最近のビジュアル化の傾向により重みが増している)なども必要になる。ではそれだけで十分か、といえばまだ足りない。

それはオペラという音楽上の形式がどのような歴史的時代背景をもとに確立され、大衆化していったかという音楽史の知識である。もちろんこれらは双方に絡み合っているので、ひとつだけを切り離して理解できる代物ではない。まさにオペラが「総合芸術」と言われる所以でもある。

ではそのような音楽上の基礎的教養とも言うべき部分・・・音楽と歴史や文化に関係する総合的な知識・・・それはもちろん西洋の、特にルネサンス以降近代までの・・・を素人向けにわかりやすく解説した本があるだろうか、と調べたら、昔は沢山あったようだが最近はてっきり見かけない。これはクラシック音楽が「教養」と見なされていた時代(それは明治以降、1960年代あたりまで続いた)の反省(というか反作用)によって、音楽をむしろ個人的な感性で語ることが主流になってしまった昨今(もちろんそれは間違っているのだが)に特に顕著な傾向で、そもそも西洋音楽の背景に乏しい我が国では、だからといって是正されるわけではなく、クラシック音楽は「教養の中心」から「オタク的趣味」へと変貌してしまった。

これは必要不可欠なものに触れる機会を逸してしまうという点で大変残念な傾向であり、それが欠如した音楽鑑賞などありえないということに気づく機会をも喪失してしまっている原因となっている。そういう意味で、「オペラの運命」は音楽鑑賞上の基礎的知識を(音楽上の側面ではなく、文化や歴史との関わり合いにおいてのそれとして)概観できるという、 最近にはめずらしいがむしろ本来「新書」とはそういうものであったはずの書物であり、しかも古臭くてお仕着せがましい権威主義の衣装を着ていない新鮮さと、説得力のある文章のお陰で、読み進めるのが楽しい一冊である。

ここで語られるのは、バロック時代に端を発するオペラの成立から、フランスのグランド・オペラの形式を経てイタリアに渡り、そこで開花して隆盛を極めたオペラの上演史とでも言うべきものである。読者はこの経験が、通常の音楽史、すなわちどちらかといえばドイツ寄りの音楽史の知識とは別の脈路が、歴然と存在するという事実に心を奪われる。もしかすると大切なもう片方の足を忘れたままで走っていたのか、と気付かされるようなものである。

管弦楽中心の音楽はそれほどにまでドイツの重みが大きいが、オペラとなるとワーグナーについて語られる程度で、そのことが読者を混乱させ、もしかすると落胆させる。だが私にとっては新鮮なパンチであった。いままで知りたくても適切な書物にめぐり合って来なかったゆえに、私の音楽鑑賞上の知識から、フランスからイタリアに至るオペラ形式上の変化や展開については、あまりに遠い存在だったのである。

そういう知識を得た後では、ただ「感想文」を書き続ける音楽評論家の、何と虚しい文章が多く氾濫していることか。そしてThe MET Live in HDシリーズで毎回注目の幕間のインタビューが、いかにオペラを多角的に捉え、その中での新しさの追求に余念がなく、その最先端上で歌手や指揮者が取り組んでいるかを知る手がかりとなる。私にとっての音楽鑑賞は、素人の趣味の域を出るものではないが、そういう人こそ本書で基礎的な知識を得て、趣味を広げるきっかけにすべきだと思った次第である。

第一章 バロック・オペラへの一瞥、または、オペラを見る前に
第二章 モーツァルトと音楽喜劇、または、オペラの近代化ここに始まる
第三章 グランド・オペラ、または、ブルジョアたちのベルサイユ
第四章 「国民オペラ」という神話
第五章 あらゆる価値の反転、または、ワーグナー以降

冒頭でオペラは「絶対王政」の時代を背景に始まったと説く。バロックのオペラの水戸黄門的ハッピー・エンディング(保守的幸福感)とあらすじの荒唐無稽さの起源がここにあったのだ。しかし市民階級が勃興するにつれ、オペラが市民化し、その中で彗星のごとく登場するのがモーツァルトなのである(グルックに対する評価は、意外に低い)。

モーツァルトの音楽史における登場は、なるほどオペラを軸に考えるとわかりやすい。しかしイタリア語のオペラを数多く残したモーツァルトも、オペラの世界での後継者となるとわかりにくい。その頃オペラの中心地はパリに移っていたからである(音楽の中心地はウィーンとパリである。バロック時代はヴェネツィアだった)。ここで登場するマイアベーアなどの代表的作曲家とその作風(すなわちグランド・オペラ)について、本書は多くを割いている。しかもそれがドニゼッティやロッシーニなどのベルカントを経てヴェルディへとつながる流れが、大変よくわかるのである。ここにはシューベルトやシューマンなどドイツの作曲家はほとんど登場しない。

ドイツの「国民オペラ」はウェーバーが確立し、そのあと間をおいてワーグナーの登場となるが、このワーグナーに触れた部分も注目に値する。ワーグナーが目指したメルヘン的世界の誇大妄想的な絢爛豪華さは、グランド・オペラに起源を持つというのである。一方、イタリアの巨匠ヴェルディについては、やや不満ながらあまり多くが語られていない(同様にプッチーニについてもそうだが)。

筆者によれば、ワーグナー以降のオペラについては、あまり語るべきことがないのかも知れない。それはあのオペラの毒々しい雰囲気がもはや失われているからだろう。その理由も本書は示されるが、本書はそのオペラが今後どこに向かうかについて、明快な記述を避けている。前半の記述が優れているのは、筆者の思いがそこに注がれているからだろう。そういう視点から見れば、ワーグナーは肥大化したオペラが行き場を失う直前の、いわば絶滅前の恐竜のような存在だということになる。そして彼が夢見た世界が、絶対王政時代の懐古趣味だった、というのである(ワーグナーは自ら「王」になったと筆者は述べている)。

だから私は読み終えて、オペラの運命に悲観的だ。現在でも新しい演出で多くの作品が演じられてはいるものの、長い目で見てこれだけ大掛かりな芸術を維持しているだけの知恵と余裕を、これからの人類が持ち続けるだろうか。オペラという投資対効果無視の歌芝居が、近代化の過程で丸で間隙を縫うように咲いたあだ花のような存在だとすれば、それを舞台やビデオで触れることができる現代の我々は、むしろまだ幸福な部類に入るのかも知れない。


映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...