かつてヨーロッパをオール一等座席の昼間特急TEE(Trans Europe Express)が走っていたころ、フランクフルトからアムステルダムへ向かう列車に「ラインゴールド(Das Rheingold)」というのがあった。金色に輝くような夕日の中をライン川に沿って走るので、小学生だった私は単に、風光明媚な車窓風景を楽しむことのできる列車なのだろうと思っていた。大学生になって西ドイツを旅行した時には、確かもうこの名前の列車は走っていなかったようだが、同じ路線を旅してライン下りの船にも乗った。ベートーヴェンの生まれた街ボン(当時は首都だった)に立ち寄り、その日のうちにケルンのホテルに泊まった。宿に荷物を置いてライン川にかかる橋を歩いて渡り、対岸に見える大聖堂に見いったのは懐かしい思い出だ。
さて「ラインゴールド」とは、当然のことながらワーグナーの楽劇「ラインの黄金」にちなんだもので、私はこの作品に接するたびにあのころ旅行したライン川を思い出す。天気が悪かったこともあって、どうということのない川にも思えたが、両岸にブドウ畑が広がり、教会の尖塔のそびえる村々をのんびり眺めていると、中部ヨーロッパの雰囲気を実感することができたし、そこからはあの素敵な鐘の音色が静かな川面に響いた。
あらすじによれば、そのライン川の川底にはニーベルング族が住んでいて、3人の乙女が黄金を見守っているというのである。この3人の乙女は、言い寄って口説こうとするアルベリヒを罵倒する。けんもほろろに言われると、それはつらかろうと思うのでが、そのシーンで私は魔笛の最初のシーンを思い出す。パパゲーノが三人の待女におしおきをされる寓話的なシーンである。だが、ラインの黄金の話ではこの恨みが混乱の始まりとなる。乙女は自分たちが黄金を管理していることと、それから指環を作ることで世界を征服できることなどを、うっかりしゃべってしまうのだ。
3人の乙女は美しいソプラノで、アルベリヒはバリトンである。今回見た上演ではアルベリヒをエリック・オーウェンズという黒人の歌手が歌っている。声が太くドイツ風ではないかもしれないが実力派である。そのアルベリヒが、言わば欲望と引き換えにその黄金を手に入れてしまうことから長大な「指環」の話が始まる。
アルベリヒはニーベルング族を支配して奴隷たちをこき使い、黄金を鋳造して指環や巾着などを作る。その横暴ぶりも凄く、弟のミーメは兄の蛮行を暴く。ミーメはテノールだが歌うシーンは少ししかない。そのミーメの告白によりアルベリヒから指環を奪うのが、主役のひとりで神々の長ヴォータンだ。頭巾は魔法の頭巾で、それによって様々なものに変身ができる。例えば大蛇、あるいは蛙という風に。だから蛙に化けた瞬間に、アリベルヒは捕えられてしまうのだ。箱に入れられたままそのまま地上へと連れて行かれる。
あれ?第2場はどうなったの?そう上記は第1場と第3場を連続して語った場合である。実際にはその間に第2場がある。どのあらすじを読んでも、もちろんこの間に第2場が入る。だから第1場のあとでいきなり今度は、地上の話となるのである。それはいいのだが、登場人物がやたら多すぎてわからなくなる最初の関門だ。くわしい系統図までつけられているが、それを見るとさらに混乱する。全員が「ラインの黄金」に出るわけではないし、「ラインの黄金」にしか登場しない役もある。その役もそれなりに大声で歌うので、だんだんややこしくなってくる。リンゴだの杖に書かれた文字だのと、やたら意味ありげな話が見る人を惑わせる。ああ!
しかも各場の音楽はつながっている。このオペラは1幕しかないので2時間半もの間、休みなく音楽がいるので、途中であらすじを確かめることもできない。イタリア・オペラのように、アリアとシェーナが繰り返すようなメリハリもない。
初めて見る人でもわかりやすいシーンとしては、ラインの川底の地下から地上へと移動する部分である。演出上の工夫により、音楽が流れている間に場面が変わっていく様は、このオペラの醍醐味のひとつで、同様のシーンは他に2回ある。すなわち地下→地上→地下→地上と合計3回の移動が行われる。最後の地上はやがてヴァルハル城のシーンにつながるので、演出上の舞台のトランジションはそうとわかる工夫が必要だ。
今回のメトのルパージュによる新演出では、これを含め、巨大な鉄板の板の列が縦に配置され、それが手前に倒れながら動くことによって垂直的な空間を表現している。だから3人の乙女は川底を泳ぎながら歌う時は、この板の前で天井からつりさげられ、空中で歌う。板の回転が様々なシーンを寓意的に表現し、主だった演出はすべてそれを軸に行われる。このあたりの演出はやはり現代風という感じで、メトもそういう時代に入ったかと思わせた。
最初の部分のあらすじを追うだけで、長い文章になってしまった。まだターフェルの歌うヴォータンも、二人の巨人についても触れていない。もちろん火の神ローゲも、ヴォータンの妻フリッカも。ただあらすじについて書かれた本はごまんとあるので、私はいったい何を語ろうか、わからなくなってきてしまった。それほど見るべきものの多いオペラである。
そう言えば、今回の上演は映画館に何と長蛇の列ができ、このようなことはそれまでのアンコール上演では見られなかったことだ。しかも続いて「ワルキューレ」(さらに5時間!)まで見て帰ろうとするつわものもいるから驚きだ。私はもう少しでチケットを確保し損ねるところだった。意外にも我が国にワーグナー・ファンは多いのである。何か特別に自分だけが知る楽しみ、という優越的な感覚はもはや古くなった。ブログを検索すれば、今回の演出はどうのこうの、歌手の出来栄えから過去のCD評まで、簡単に知ることができる。中には大変詳しいものもあって、私などははじめてこの作品を静かに見るだけで感動しているのに、そういうことを書くことも何かはばかれる思いである。
だが、今回の公演は実際に見た場合にはどうかわからないが、また他の公演を多く知っている人が見ればどうかもわからないが、大変豪華で欠点も総じて少なく、従って楽しめて感動するものであったことは確かだ。強いて言うならフライアが少し弱く、ローゲも彼のベストかどうかは疑わしい。だがそういうことは差し置いて、この長大な作品に触れていることだけで、実は自分にとっての大事件なのである。
さて指環は、3人の乙女→アルベリヒ→ヴォータン→巨人のファーフナーと略奪が繰り返される。最後のシーンで指環を奪われたヴォータンは妻と共に落成したヴァルハル城へ入城する。背後に乙女の声が響く。何度耳にしたか知らないこの入城シーンは、最後の場面でとりわけ印象を残す。レヴァインの骨格ある指揮がここでも冴えわたっている。満場の拍手とブラボーによって長大な指環の物語が始まった。もう後戻りはできない破滅への道を、われわれ観衆は2年にわたって同行することとなる。次回「ワルキューレ」からはいよいよ人間が登場する!え、いままでそうじゃなかったの?そうである。これは神々の話。その内容は込み入っているが、音楽が何とも素晴らしいので、まずはストーリーなど気にせず楽しんでみるのも悪くない。もしうっかり寝てしまっても、たぶんそれほど場面は変わっていない。だが、一度この感動を味わってしまったら、やはり後戻りはできないだろう。だから、次の「ワルキューレ」が楽しみである。
(2011/09 東劇)
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