
ヴェルディの後期の作品、あるいはワーグナーにもその傾向がある。これらの時代には音楽の様式が打ち壊され、もはや表現の行きつくところに行ったという感じがある。次の段階を求めて行きつく先は、聴衆の好みとはやや乖離した玄人のみが楽しめる「芸術」の世界、とでも言おうか、そのような音楽が私をやや遠ざけてきた。
ところがプッチーニの音楽は、芸術的な作品と言うよりは、むしろ聴衆の好みを意識した作品である。であるにもかかわらず、私はむしろワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの音楽の方がまだ馴染みやすいと感じてきた。舞台で「蝶々夫人」を見ても「トゥーランドット」を見てもその思いは変わらなかった。
だから「西部の娘」と聞いた時、これはあまり行きたくもないし、どうせ感動しないだろうなどと勝手に決め付けていた。けれども1週間に3つのオペラを立て続けに見たので、私はオペラを見ない日が何か物足りないようにも感じていた。「有名なアリアはひとつもなく」「登場人物はミニー以外は男ばかり」といった紹介文を読み、多くの初心者向けオペラ本からは見向きもされない作品だったので、どうせなら騙されたと思って行こうと思った。
プッチーニの作品に一度正面から向き合ってみたいとも思っていたが、それが果たせるかどうかさえわからず、場面設定もゴールドラシュに沸くカリフォルニアが舞台だという程度にしか知らなかった。かつて出ていた映像は、ドミンゴが抗夫に扮して酒場で歌うシーンがあったのを思い出す。だが実際にはこの作品は、メトロポリタン歌劇場にとって極めて重要な作品と位置付けられているのだ。
その理由は、世界初演がまぎれもなくメトで行われたからである。指揮者はトスカニーニだった。作曲家も居合わせた初演時のエピソードは、幕間のインタビューでも触れられる。「アメリカのオペラ」と紹介された本作品は、日本人が蝶々さんに抱くおかしなイメージと似たものもあるが、そういったことはまあ良いとして、初演100周年記念として上演する以上、他の追随を許してはならないという意気込みが感じられたのである。
主演のデボラ・ヴォイトはその期待に、歌声でも容姿でも、また演技の点でも満点で答えたと言ってよい。ジョンソンを歌ったシチリア出身のテノール歌手ジョルダーニも若いながら好演だ。さらにバリトンのガッロもこの保安官役を深く理解している。彼は「男は嫉妬したら終わりだ」と言いかけて終幕の舞台に出る。スカルピア(トスカ)とは違って、ランスは悪人ではないというのだ。このインタビューは、とかく主役二人に思いを強めて見ていた聴衆に深い洞察に富む軌道修正を迫る結果となっただろう。
いずれにせよ、会話のみが延々と続くオペラで、特に第2幕の接吻のシーン辺りからの迫力は、これぞオペラの醍醐味かと思わせるような出来栄えであった。高音と低音が難しく入り混じった会話を歌いこなすのは大変なことであり、同時にカードやライフル銃なでどの使いこなしと馬の登場、さらには決闘のシーンなど、丸でドラマを見るような舞台はなかなか良くできていて楽しい。そう映画を見ているような感じなのである。
加えて指揮のルイゾッティに触れなければならない。この若い指揮者は目立たないが、あくまで歌こそが主役であるという認識の音楽作りであった。それでいて必要な緊張感は維持している。「カルメン」の時のような音楽と歌の不自然な分離が気になることはなく、完成度の高い演奏となった。
私にとって思わぬ収穫だった「西部の娘」だったが、これは実際の舞台で見るよりも楽しめたのではないかとも思われた。映像上の完成度も高いからだ。暗い映画館で3時間半を集中して見ることは、実際の舞台でもなかなかできないことだ。メトで見ても日本語の字幕が付いていないので、そういう点でもMet Live Viewingはいい。
街中の憧れの的だったミニーは、結局サクラメントの盗賊だったディック・ジョンソンが横取りしていく。死刑に処せられそうになった彼を、最後は全員がかばい、残された保安官がひとり茫然と立ちすくすところで幕となる。アメリカ人好みのハッピー・エンドだが、住みなれた町を離れて二人が旅立っていくエンディングは、やはり西部劇を地で行く作品だ。イタリア語で歌われることがなければ、もはやミュージカルのような作品に近づいている。だが、たとえ印象的な歌がなくても、その必要とされる歌唱力は、あらゆるオペラ作品の中でも最高水準だ。こういう作品をこのような完成度で見せるメトの舞台は、やはりすごいと感じた夜だった。
(2011/09 東劇)
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