2012年9月12日水曜日

東海自然歩道⑩(延暦寺根本中堂~南志賀、大谷~石山寺)

初回から数えて10回目のハイキングは同じ年の11月の日曜日であった。例によって京都河原町へ行き、そこから京阪三条まで歩く。秋の朝の京都は清々しくて気持ちが良かった。早朝だったので紅葉目当ての観光客も少ない。京阪三条から路面電車を乗り継ぎ坂本へ。さらにそこからケーブルカーで比叡山に登った。延暦寺の根本中堂から、今度は前回のゴールであった南志賀の駅まで山道を下る。

ここをどのように歩いたのか、実はほとんど記憶にない。私は友人たちと2組に分かれて歩くことにしていたが、最初に歩いたチームと概ね10分の時差を設けることにしていた。まだ携帯電話のない時代だったので、最初に歩いたチームが東海自然歩道の標識に通過時刻を書いたテープを張って行き、後のチームがそれを剥がしていく。このようにしてどちらかが道に迷えば、そこでわかるようになる。ただ連絡手段がないのは困るので、2台のトランシーバを持って行き、にわか登山ごっこをしていたのである。

この効果は行程が単調であっても、時間や距離を感じなかったことである。20キロもの行程をただ4人が歩くだけだったら、そう長続きしなかったであろう。ゲーム感覚と、それに無線の楽しみを兼ねた作戦は、今思えば実に奇妙な光景に思えるが、それはそれで楽しかった。一種のオリエンテーリングのようなものだったとでも言えようか。

京阪電車で南志賀駅から浜大津経由大谷駅まで戻り、次は前回の出発点から石山寺までの行程である。再び蝉丸の歌碑を拝みながら、私たちは逢坂山トンネルの上を超え、山道を石山寺まで進んだ。この区間は整備されて気持ちが良かった。落ち葉を踏みしめながら歩くと、久しぶりに山道を歩く楽しみとなった。京都の北山は、観光地こそ寄るもののその間はほとんどハイキングに適さない感じだった。それに比べると今回の行程は、山道ながらも適度に往来があり、起伏もさほどではなく距離も適切だった。

石山寺には夕方に着いた。源氏物語ゆかりの石山寺は、いつ行っても数多くの観光客で賑わっているが、秋の休日は相当な人出であった。瀬田の唐橋をながら京阪電車を三度浜大津まで戻り、京阪三条に着く。再び鴨川べりを四条河原町に出て阪急京都線で帰る。東海自然歩道もこのあたりまで来ると、往復の電車の時間が馬鹿にならないようになってきた。交通費もかさむ。一体いつまで続けることにするか、私たちは電車の中で話すうち、梅田駅に戻った。

2012年9月10日月曜日

東海自然歩道⑨(大谷~南志賀)

高校生になると急に忙しくなり、日程を合わせるのも難しくなってきた。けれども夏休みを利用して私たちは次のセクションを歩く予定を立て、記録によれば1982年8月19日早朝、阪急北千里駅に集合した。ここから阪急で四条河原町まで行き、さらに鴨川を少し歩いて三条京阪に向かう、というのが私たちのここ数年来のパターンであった。延暦寺からスタートすべく私たちは、京阪大津線を坂本まで乗り継ぎ、さらにケーブルカーに乗って根本中堂に行く、というのがその日の計画だった。

ところが夏だというのにその日は天気が悪かった(と思う)。私たちは延期しようかと話し合ったが、スケジュールが合わないと次回は次の休みにまで持ち越しかねない。そこで急遽、コースを変更することにした。今回は山道を避け、主として大津市内の平坦なコースのみを歩く、ということにしたのである。すなわち、京阪大津線を逢坂山トンネルまで行き、ここと立体交差する東海自然歩道を逆行、近江神宮などを通って延暦寺のふもとの地点まで行き、次回は残りの区間を歩く、というものであった。

実際にどのように歩いたかは断片的な思いでしかないのでよくわからない。ただ今にも雨が降り出しそうな中を逢坂山トンネルの入り口まで行き、

  これやこの ゆくもかえるも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関

という蝉丸の歌で有名な逢坂の関の跡地(歌碑がある)までたどり着いたことは覚えている。ここから東海自然歩道を下りのルートで出発した私たちは、少し山道を歩いて三井寺に着いた(はずである)。

三井寺というのもまた立派な天台宗のお寺で、ここを含めて滋賀県にも数多くの名刹・古刹の類がある。そしてそれらは京都のように観光化されすぎていないため、一度はゆっくりと訪ねてみたいものである。大津市の郊外を進み、次の目的地は近江神宮であった。

天智天皇によって遷都され、一度は日本の首都でもあった時期もある近江神宮はまた、小倉百人一首のかるた会が開かれることでも知られている。

  秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ

というのは百人一首の最初の歌で、天智天皇は中大兄皇子としても知られているが、近江神宮自体は昭和に入ってから建てられた整然とした神宮であった。

東海自然歩道について書かれた本はいくつか持っている。そのうち2001年に文庫本で発売された「シェルパ斉藤の東海自然歩道全踏破」という本は、軽妙な文章で面白い。彼は1989年に歩いているようだが、もちろん東京からの出発である。この区間も石山寺から始まって野宿をしながら嵐山まで行くという強行軍で、私たちのようなゆっくりのんびり派とは異なり本格的なトレイルである。彼はアウトドアの分野では良く知られた人で、世界中の道をヒッチハイクなどをしては日本に帰り、日記風の本を出版し続けている。ガイドとしては役に立たないが、そもそもこの道について書かれた本がそう多くはないので、貴重ではある(ただ今ではホームページもあるので、多くの情報を得ることはできる)。

2012年9月8日土曜日

東海自然歩道⑧(大原~延暦寺根本中堂)

約1年ぶりの大原で東海自然歩道を再開した時には、私たちは高校生になっていた。4人とも行く高校が異なることとなったが、入学式の直前に何とか再会し、新しい生活を想像しながら京都へと向かった。今回の行程は京都からいよいよ滋賀県へと入る道で、あの比叡山の登山となる。延暦寺の境内を通るので、見所の多い区間である。

東海自然歩道のガイドは多くが下りのルート、すなわち東京を起点として大阪へ向かう。この場合、延暦寺へのコースは坂本からの上りである。ケーブルカーも敷設された上り道はなかなか急で、大変なコースだと思われた。しかし私たちは京都側から登るので、この区間は下りとなる。そういうわけでこれはラッキー、とばかりに三千院の前を素通りして歩き出す。

延暦寺は日本の仏教界においてはリーダー的な存在で、最澄の開いた天台宗の総本山は長らく(そして今でも)中心地である。ところが京都から見ると比叡山は、北東方向の山の一つではあるが、そこからお寺の一部が見えるわけではなく、ましてその登山道が整備されているとも言い難い。バスも通っているが、狭い道をくねって行く。織田信長が火を放った「迷惑な存在」も、丸でそれを隠すかのようにひっそりと裏側にいる、という感じである。

昔から延暦寺への道も、敢えて言えば目立たないものとして存在し続けたのではないかと思うほど、大原からの行程は山道そのものである。細く険しい上り道であった。景色が良いというわけでもなく、歩く人も多くはない。そのような道だからこそ、ここは修行の場として存在してきたことを思わずにはいれらない。「千日回峰行」などという気が遠くなるような修行が、千二百年にも及んでなお今でも行なわれている。

私たちは修行僧にこそ会わなかったが、その代わりに急な山道を越えてドライブ道へとたどり着いた時には、喉がからからに乾いていた。修行では飲まず食わずでここを歩き通すから、ジュースの販売機などという俗物は始めから用意されていないのだろう。だが、あまりの喉の渇きに、持ってきた水筒の水が早くも底を着き、私たちは自販機を目指して歩き続けた。そしてとうとう駐車場のそばに来た時、そこに500ミリリットル入りのHi-Cアップルが入った自動販売機が設置されていることに気づいた。傾きかけたその機械は嬉しいことに壊れてはおらず、しかも購入者が少ないためか、その缶は極めて冷たく保たれていることが想像された。私たちは一目散に買い求め、一気に飲み干した。その感覚は今でもよく覚えている。私たちは「解脱」などということからはかけ離れた存在として延暦寺に入った。

「五体投地」という、チベット仏教にも通じるような「密教」の儀式があることは瀬戸内寂聴の本で読んだ。その流れが我が国の仏教の本流である。奈良時代の「南都六宗」の腐敗によって新しい仏教への期待が高まった平安時代に、遣唐使として派遣されるエリート僧は、大乗の教えの中から密教の教学を日本に持ち帰った。大津のふもとの村の出身だった彼は延暦寺を建立したが、その中から鎌倉時代の新しい仏教の開祖が次々と誕生する。すなわち法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、さらには日蓮(日蓮宗)などである。

その延暦寺の中心が「根本中堂」ということになる。私は以後合わせて3回ほどここに行ったが、最近20年以上は出かけていない。寒いお正月明けの頃に、焚き木がしてあったのを覚えているが、その時を含め、ちゃんとお参りしているとは言い難い。近いうちに再び訪れてみたいと思っている。

密教と、さらに古くからあった山岳信仰のようなものが結びついて発展したのが我が国の仏教であると思う。しかしそれは仏陀がインドで開いたオリジナルな仏教とはかなり異なっている。私はその元の仏教なるものに大変関心が高いのだが、そういうことについてはまた別の機会に書きたいと思う。

東海自然歩道は根本中堂からまっすぐ大津側に下っていく。琵琶湖の風景が開け、晴れていればなかなかの風景である。だがその日は天候が悪く、今にも雨が降り出しそうな雰囲気であった。そのため私たちはバスで京都市内へ戻ることとし、下りの区間は次回に歩くことにした。ドライブウェイから雲の合間に見える琵琶湖もなかなか美しかったが、山中越と呼ばれる峠道を京都白川通に向けて下るあたりは道路も狭く、やはり京都の閉鎖性を思わずにはいられない。ここが近江と京の主要な道路であったというのだが、県道として整備されたのは昭和に入ってからであり、そしていまでもそこは大雨の時には規制されるようなところである。

京都の少し裏側の山で、日本仏教の総合施設とも言うべき延暦寺は、京からは分け隔てられて存在している。しかしそこがしばしば都の政治家から疎んじられる存在となったばかりか、そこから改革的に派生した鎌倉時代の新興勢力を含め、しばしば都の政治を脅かした。いまでも異様なその存在は、高校生の私にも強い印象を残した。

2012年9月7日金曜日

東海自然歩道⑦(貴船口~大原)

京都は千年以上もの期間にわたって都会であり続けたにもかかわらず、少し山地へ入るとそれは何もない田舎であって、道行く人もほとんどいない。鞍馬天狗で有名な鞍馬寺(写真は2011年秋のもの)の前から、私たちは再び山地に入り、大原の里を目指した。途中、静原という集落を通るが、ここは岩倉からさらに山を分け入ったところであって、私たちが通った30年前は、一部に道を舗装中だった箇所があるだけの、静かなところだった。

東海自然歩道の看板だけがひっそりと立っており、そこを間違えないようにしながら進むと、再び山地に入り、そしてとうとう大原の里に出た。大原三千院で知られる左京区のこのエリアは、バスで観光客が訪れるのは一部に過ぎず、それ意外の場所は何とものどかな所である。1981年の4月のことで、私たちは中学3年生になったばかりの、入学式の前日のことであり、そして桜が丁度見頃を迎えていた。

うららかな春の陽がさんさんと降り注ぐ穏やかな昼下がりを、私たちは北に向って歩いたときほど幸福な気持ちの時はなかった。今でもその時の気持ちはよく覚えており、東海自然歩道の思い出の中でもとりわけ印象に残る時間だった。付近は京野菜などを作る農家で、静かに作業をする人々がもくもくと野菜を収穫している。昔から変わらない里山の風景の中を、私たちは寂光院の前に出た。

寂光院は聖徳太子が立てたと言われる、それは古いお寺で、しかも平家の滅亡後、建礼門院が隠遁生活を送ったという大変由緒あるところである。対岸にある三千院よりも私はこちらに惹かれた。だがその時も、例にならってまた来ることがあると、拝観を避けて素通りした。三千院にも寄らずに、私たちはバスに乗って三条河原町へと帰った。もちろん次回はここからの歩きである。だがその時に拝観するわけでもないだろう。中学生にとって、往復の交通費だけでも高額になり、そこへ加えて拝観料を支払うのがもったいなかったのである。

だが2000年の5月に放火事件が起こった。金閣寺に続き、またもや貴重な文化財が焼失した。何百年も前に作られた本尊なども焼けてしまい、私はその時、ここを見ていなかったことを大いに悔やんだ。2006年には再建されたようだが、かつて何とも古い建物が、田んぼの畦道のようなところを進んだ場所にあるという風情が失われたのではないかと思う。京都はしばしば文化財が放火によって焼失する。だから行ける時に行っておくべきだと思う。


2012年9月6日木曜日

東海自然歩道⑥(玄琢~貴船口)

阪急京都線の四条河原町が私たちのハイキングの起点となった。といっても実際にはバスが三条京阪から出る。そして当時京阪電車はここが終点で、四条河原町から三条京阪までは、鴨川沿いに歩いたものだ。早朝に千里を出発して四条河原町に急行で着き、さらに三条京阪からバスで出発地点まで行くともうお昼近くになっていた。

鴨川沿いを歩くことは、しかしながら実に気持ちのいいものだった。早朝であれ夕方であれ、河川敷をゆっくりと歩きながら、ゆったりと過ぎてゆく京都の街の美しさを感じた。玄琢を出発して、車道と北山の山道を少し歩き、貴船口駅に着いた時には、少し日が傾きかけていた。だが、鞍馬寺を経由して大原まで歩くには距離がありすぎた。細切れになるのは承知の上で、私たち四人は早くも京福電鉄に乗り、出町柳に向かった。写真はその当時のもので、満員の車内から前方を撮影したものだが、向こうに見える山は比叡山で、岩倉付近を通過中ではないかと思われる。

出町柳駅も今と変わらないローカルの駅だが、そこから京阪三条を経て四条河原町までの数キロを、私たちはまたもや歩き出した。秋の日が傾き、夕日が鴨川に映えて大変美しかった。朝とは違うくつろいだ光景があった。犬を散歩させながら歩く人も、カップルも、何かとても自然な感じがする。私はその後、大学生になってからもここの付近を愛したし、今でも義理の妹が住んでいる北白川へ向かうときは、この付近を通りながらこの日のことを思い出す。

そういうわけで東海自然歩道の記憶はほとんどないが、その往復に友人四人と歩いた鴨川の景色は、私の心に長く残っている。嬉しいことに、いまでもその風景はほとんど変わっていない。

2012年9月4日火曜日

東海自然歩道⑤(清滝~玄琢)

東海自然歩道も京都に入ると、行く先々が名所旧跡で楽しさが増してくる。夏になって再び清滝に来た私たちは、ここから神護寺を目指して歩き始めた。観光コースとは言え真夏である。ただでさえ暑い京都の山道を歩くという人もそれほど多くない。清滝川沿いの道を、私たちは比較的速いペースで歩き始めた。

神護寺が見えてくると、頭の上にお寺の一部が見え、観光客が投げる「からわけ」と呼ばれる陶器のかけらが見えないかと目をこらしたのを覚えている。周山街道、すなわち国道162号線は、京と若狭を結ぶ古くからのルートのひとつで、北山の山中をまっすぐに北上するルートである。私も一度ドライブしてみたいと思いながら、いまだに果たせていない。

このハイキングからさらに数年前、私は祖父に連れられて神護寺へお参りに来たことがある。まだ市電の走っていた頃のことである。国鉄京都駅前から国鉄バスに乗ろうとしたが、あまりに人が多く足の踏み場もないような混雑だったことを記憶している。それほど昔から人の多いこのあたりだが、それはおそらく紅葉のシーズンだったからだろうと思う。

神護寺は高野山真言宗の寺院だが、ここはその開祖である空海と、そして天台宗の開祖である最澄がともに関わりのあるお寺で、そういう寺は珍しいばかりか、国宝がいくつも置かれている、なかなかのお寺である。その神護寺をベースとした我が国の仏教のふたりの巨星のエピソードは、私の想像力をかきたててかなり興味深い。いわば国費留学生だった最澄が、私費留学生ながら密教を本格的に授かって帰国した後のふたりの出逢いと決別・・・そのような話を私は最近「百寺巡礼」(五木寛之著、講談社)で読んだが、その神護寺がこのとき通ったお寺だった・・・のである。

このような名所を経ておきながら、その中間の道はそっけないほどに整備されていないのもまた京都府内の自然歩道である。次の観光地、貴船神社と鞍馬寺につくまでは、何キロにもわたって車道(つまり国道)を歩く。これでは自然歩道ではないか、と言いたくなる無愛想なところがまた京都らしい、などと考えながら、ダンプカーやトラックの行き交う道の端を歩いた。京都もこのあたりはまるで人里離れた山中で、なにやら怪しげでしかも不気味ですらある。

2012年9月3日月曜日

東海自然歩道④(南春日~清滝)

東海自然歩道を歩き始めてから丁度1年が経過し、4回目の行程となった。中学2年生となり、始業式の始まる直前に、私たちは再び南春日のバス停にやってきた。京都市の郊外の、新興の住宅地造成がところどころに見受けられるそのような街を通って進む。道路や家の工事の影響で、標識が喪失しているところや、曲げられたりして行く先の方向が間違っている標識が散見された。私たちは注意深くそれを追い、あるときはもときた道を遡って進むことを余儀なくされた。

それでも舗装のされていな山道へ入ると、そこは一本道であった。山里の散策は私たちをいい気分にさせた。昔からの山道が、いまなお当時のまま残っていると思うと不思議な感覚だった。「苔寺」として有名な西芳寺(京都市西京区)のあたりを通り過ぎた。今では世界遺産などとされているが、当時でも数多くの観光客が訪れる名刹だった。しかし私たちはまたいつでも来れる、などと言い合い、こういった有料の名所には立ち寄らなかった。これはその後に通過した各地の名所でも同様だったが、あれから30年がたっても今なお訪れていないのは少し残念な気がする。

松尾というところは、阪急嵐山線の終点嵐山の一つ手前の駅で、目立たない駅ではあるが松尾大社という広大な神社があって、その前を桂川がながれている。古事記にも登場すると言われるその風格ある神社は、これが京都になければもっと目立つ存在になったであろう、などと思った。静かで背の高い木立の参道の中を通って行くと嵐山の駅前に至り、そして有名な渡月橋を渡った。

嵐山は小さい時から何度か来たところだが、いつ来ても人が多い。欄干部分が木造の長い橋は、自動車も人も通るので狭いが、渡り終わって見る風景は写真と同じように美しい。土産物屋にたむろするおばちゃんや修学旅行生に混じって、私たちは嵯峨野と呼ばれる地区に入っていく。ここの嵐山の風景を思い出すと、何年たってもほとんど変化しない風景の良さというものを感じる。変わりゆく大都市の風景とは対照的に、変わらない美しさというものを実感する。実際はそうでもないのだろうが、いつきても、前と同じような感じがするのだ。

  小倉山 峰のもみじ葉 心あらば いまひとたびの 行幸待たなむ

という歌で知られる小倉山は、また「小倉百人一首」の小倉山のことで、この嵐山にある。調べてみるとこの歌を詠んだ藤原貞平は9世紀の人だが、百人一首を編纂した藤原定家は13世紀の人で、その間は500年もある。その百人一首を編纂したとされる小倉山荘があったという常寂光寺もその付近にある。

土産物屋の並ぶ界隈を清滝に向かって歩く。トンネルと抜けるとそこが清滝で、またもうひとつの古い観光地、愛宕山が見える。愛宕山は戦前、ケーブルカーもあった愛宕神社の山だが、今ではそのような面影がなく、ハイキング向けの山と化している。だが私の住む東京都港区の愛宕神社もここの同系列の神社である。鉄道唱歌にも登場する愛宕山が、私はどうして東京で歌われるのか、私は不思議だった。だが今では京都の愛宕山を知る人も少なくなった。

東海自然歩道を上りで歩く手引きとして、私たちは読売テレビが編集した全4巻からなる「完全踏破」ガイドブック(創元社、1973年)を持参していた。細かい分岐道まで細かく紹介しているこの本が、私たちのバイブルだった。だがいまでは入手も困難となり、そしてそのような力作が出版されることも、以後はないのではないかと思うと残念である。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...