2014年9月17日水曜日

R・シュトラウス:歌劇「ナクソス島のアリアドネ」(1994年10月25日、サントリー・ホール)

かつて大阪で暮らしていた頃は、実際にオペラを見る機会などなかった。夏休みに海外へ出かけた時などに、ローマやヴェローナで見た野外オペラと、伯父の住むニューヨークに居候してMETで見た「オテロ」が僅かな体験だったことは先に書いた(それでもこれらは一生の思い出となる公演だった)。

1992年に東京へ移り住んでからは毎年十数回ずつコンサートに出かけるようになった。その中には演奏会形式による歌劇もあった。プログラムが大阪のように、有名曲ばかりでないことが、私の興味の対象を大きくさせた。そのような中のひとつが、若杉弘によるR・シュトラウスの「町人喜劇」であり、休憩を挟んで「ナクソス島のアリアドネ」が上演された。

「ナクソス島のアリアドネ」は短いオペラで1時間半ほどであった。それもそのはずで、このオペラはモリエールを原作とする戯曲「町人貴族」作品60の劇中劇として書かれたのである。シュトラウスのオペラといえば、「サロメ」や「エレクトラ」のような野心作や「ばらの騎士」「影のない女」のような豊穣な作品を思い浮かべるが、いずれにしても規模は大きい。それに比べるとこの作品は、室内楽のような規模のオーケストラである。

この日の都響の第397回定期演奏会は、サントリー・ホールでありながら小道具も用意され、オペラだけでなく「町人貴族」から演奏するという、最初の原作により忠実なものである。当時のプログラムが残っていたので、この機会に当時のキャストを書き写しておこうと思う。


  ・ジュールダン氏/バッカス:田代誠
  ・ジュールダン夫人/アリアドネ:岩永圭子
  ・歌手/山彦:三縄みどり
  ・羊飼いの少女/ナイアーデ(水の精):菅英三子
  ・羊飼いの少年/ドリアーデ(木の精):白土理香
  ・ツェルビネッタ:釜洞祐子
  ・ハルレキン:大島幾雄
  ・ブリゲルラ:錦織健
  ・トゥルファルディーノ:高橋啓三
  ・スカラムッチョ:吉田浩之

第1部「町人貴族」と第2部「ナクソス島のアリアドネ」で一人二役を演じる歌手が多く、何が何かわからなくなってしまうので、このオペラのあらすじは押さえておく必要があるのだが、当時の私は何も知らずに出かけた。今思えば、我が国の有名な若手歌手が出ており、華やかな舞台だったようだ。登場人物が多いにもかかわらず結構な頻度で上演され、若手歌手が総出で演じるということも多い。

なぜこの演奏会に行ったかと言えば、直前に見た若杉弘の「幻想交響曲」の実演が素晴らしかったからだが、若杉はこの曲を日本で初演している(1971年)ので、十八番といったところだろうと思う。だがこの日の上演は、初演時の状況を再現しようとする野心的なものだったようだ。だからプログラムも「町人貴族」(オペラ「ナクソス島のアリアドネ」付き)となっているが、「町人貴族」の方では8曲が抜粋されている。そして若杉は「町人貴族」の台詞を自ら編纂しているという力の入れようである。

「町人貴族」における小金持ちの舞台裏に続き、茶番劇とギリシャ悲劇が交互に上演されるという奇抜な発想に基づいたオペラは、私をはじめてシュトラウスの世界に導いたと言って良い。あらすじを理解するよりも前に、音楽の絢爛な重なりに魅了されてしまったからだ。特に「アリアドネ」の終盤では、唖然とするほどに美しい音楽だと思った。そしてP席という舞台裏で見ることになった私は、歌手や金管楽器がすべて向こうを向いて歌うというハンディを乗り越えて、生で聞くシュトラウスに聞き入った。

できればもう一度見てみたいと思いながら果たせていないが、そう言えばシュトラウスのオペラは、このホフマンスタールとのコンビで作られたものだけで7つもある。この上演を見た時に、これからまだまだ見る機会があると思っていた若い私は、その思いの半分も果たせていないまま年を取ってしまった。生誕150年の今年は、そのオペラのボックスCDも売り出されているから、買って揃えておこうと思ってはいるが、それを聞くだけの時間的なゆとりは、悲しすぎるほどない、というのが現実である。

2014年9月15日月曜日

ショスタコーヴィチ:歌劇「鼻」(The MET Live in HD Series 2013-2014)

ショスタコーヴィチが生まれたのは1906年、ロシア革命が1917年、ソビエト連邦の創立が1922年。「鼻」は1927年から作曲され、1930年に初演された。彼が24歳の時で、日本では昭和5年ということになる。私が生まれた頃まだ存命だった社会主義国最大の作曲家は、1975年に亡くなっている。そしてソビエトが消滅したのは1991年である。これは今から23年前ということになる。

前衛的とされたショスタコーヴィチの音楽は、私が小さい時に聞いた時には、これより先の音楽などあるのだろうかと思ったものだった。まるで機械のように無機的で、何の音楽的共感も感じなかったが、それこそがショスタコーヴィチの、いや共産主義国の音楽だと理解していた。だがソ連の崩壊から20年以上が過ぎ去り、このようなオペラもニューヨークで上演されるのを見ていると、やはり時代というのは移り変わり、新しものも徐々に古くなっていくものだと思った。社会主義リアリズムも、「古典的」とさえ思えるような、つまりはこの時期の作風はこうでした、と解説書に書かれてしまうような「古さ」を感じてしまう。そしてその「古典」を巧みに料理して、「現代」の劇として新鮮に上演する・・・今回のMETの上演はまさにそのようなものだった。

舞台上に現れるスクリーンに展開されたのは、時折キリル文字の中に英語も交じるアニメーションで、そこに「鼻」が登場する。「鼻」は舞台の歌手たち(その数はすこぶる大勢だったが)の歌(はもちろんロシア語である)に絶妙に呼応して、影絵のようなものになり動き回る。踊りだすかと思えば、時折ショスタコーヴィチのモノクロ写真や古いタイプライター、あるいは新聞の切り抜きといったものに変わったりと、その変化を見ているだけで楽しい。合わせて音楽が賑やかにチャカチャカと鳴り、歌も上下に行ったり来たり。ショスタコーヴィチの音楽を堪能できると言えば、その通りなのでが、では果たしてそれが楽しいのか、と問われれば答に窮してしまうのは私だけだろうか。

ゴーゴリの原作を台本化したストーリーは大変複雑で、そこに何らかの意味を見出そうとする聴衆を嘲笑っているようでもあり、そのような皮肉やパロイディを見つけようと思えば見つけられるとも思うが、かといってそれにそんな意味などない、と思えばそうすることも可能である。その難解そうで難解でない、というのがこのオペラの真骨頂なのではないかと思う。

何の事はない。ある日起きてみたら自分の鼻がなくなっていた下級官吏のコワリョフ(バリトンのパウロ・ジョット)は、そのことに気づくと嘆き悲しみ、警察署に行っても新聞社に行ってもにわかに取り合ってくれない。ところがひょんなことからその「鼻」が発見され、いろいろあって最後にはもとの顔に戻る、という奇天烈なストーリーである。2時間程の作品ながら登場人物は非常に多いので、これだけ数多くのロシア語役者を揃えるのは大変だっただろうと思う。指揮はパヴェル・スメルコフのエネルギッシュなもので不足感はないが、何と言っても見せものは南アフリカ人ウィリアム・ケントリッジの斬新かつ機知に富む演出だったろう。

観客は満員でブラボーも飛び交うあたりはさすが本場だと思わせるが、私自身はと言えば、こういうMET Liveのような機会がなければ見ることはなかっただろうと思う。それでけに貴重な経験だったとは思う。しかしスクリーンには、いつものようなインタビューや解説は、ゲルブ総裁のケントリッジ氏への短いインタビューを除けば何もなく、幕間の休憩時間もない。2時間を一気に見せたので、緊張感を維持するには役だったし、4時間にも及ぶ作品が多く、特に体力的にきつい身としては助かった、ということは言える。

今となっては歴史の教科書に載るだけとなったソビエト連邦も、私が中学生の頃は世界を二分する大勢力を誇り、その存在感はすごいものだった。私も運動会のような音楽を短波放送で聞いたものである。けれどもショスタコーヴィチは、少なくともその「証言」以後は、音楽に込められた寓意において、反社会的な思想だったという。そういうことが感じ取れる音楽・・・というのはやはり難解で想像の域をでないのだが・・・は、また別途書きたいと思う(いつのことになるかはわからない)。ただ、この「鼻」にも暗に込められた教会的、宗教的な潜在意識ともいうべきものは、やはり感じ取ることができる。彼はやはりロシア時代に生まれた作曲家だからであろうか。

2014年9月12日金曜日

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ハ短調(P:内田光子、クルト・ザンデルリンク指揮ロイヤル・コンゼルトヘボウ管弦楽団)

興味深いことに村上春樹氏の対談集「小澤征爾さんと、音楽の話をする」(新潮社)では、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番のいくつかの演奏を二人が聴き比べる、というところから始まる。この曲の、これほど多くの聴き比べの文章を読んだことはない。そのこと自体が意外だが、その対話を通して小澤征爾の音楽観に、ごく自然に迫っていく感じがとても興味深い。

対談の第1章の最後のほうで村上が引き合いに出すのが、内田光子が奏でるこの曲の録音で、伴奏はザンデルリンク指揮のコンセルトヘボウ管弦楽団である。そして「あまり時間がないので」ということで第2楽章から聴き始めるのである。それまでグールドを始めとする数々の演奏について触れ、話もブラームスからマーラー、小澤の若い頃の話などにそれたりしながら、最後に「このへんでいよいよ」と取り出すのがこのフィリップスの録音というわけである。「僕はこの二楽章の演奏が何より好きなんです」。

ここの部分を読んで私は同感したと同時に、自分の好きな演奏が取り上げられてとても嬉しく思った。グールドの演奏こそ聞いたことはないのだが、私自身この演奏が気に入っているからである。内田光子が満を持してベートーヴェンの録音にとりかかった時、彼女は競演する指揮者をザンデルリンクに頼んだ。彼女が信頼を寄せる指揮者だったからだということだった。地味な選択がとても意外に思えたし、そして新鮮だった。だから買うとすればどの曲にしようか・・・全集での発売がまだの時点で、私は第3番と第4番をカップリングした一枚に目をつけた。

村上春樹が最後にこの演奏を取り上げているのは、何か意図してのことのようにも思う。そしてそこで聞かれるのが第2楽章・・・その部分を私はまた大変愛するのだが、その理由が初めてわかったような気がしたのである。いや本当のことを言うと、この対談を読んだことで、この演奏の、特に第2楽章について再発見をしたということだ。村上の注釈は「空間に墨絵を描くような、どこまでも美しいピアノの独奏。端正で、かつ勇気にあふれた音の連なり。ひとつひとつの音が思考している。」

この演奏は内田光子の個性がよく現れた演奏であると同時に、それがうまく曲にマッチしているのだろうと思う。小澤征爾は言う。「この二楽章というのはもう、これ自体特別な曲ですよね。ベートーヴェンの中でもほかにこういうものはないような気がする」。二人が「うーん」とうなるほど感銘を受ける演奏を、私も手元のCDで聞き直してみることにした。

まず冒頭で嬉しいのは、コンセルトヘボウの素晴らしいアンサンブルである。木管楽器やヴァイオリンが見事に融合しながら、端正な音楽を形作っていく。その様子を優秀な録音が良く捉えている。ピアノが入ってくると、内田光子のよく考えぬかれた演奏が手に取るように広がる。音楽があふれるような身持ちで、一音一音大切にしながら、かといって情に溺れることはない。

そういう調子で長大なカデンツァに至る。もちろんベートーヴェン作曲のカデンツァである。ピアノ・ソナタを感じさせるその作品は、ベートーヴェンがピアニストであると同時に作曲家であり、その2つの要素が不可分であったことを示している。彼は自分が演奏することを想定してこの曲を書いたのだと思う。第2楽章の素晴らしさは、大作家の表現する通りだから、私は何も書く必要はないだろう。なお、小澤征爾はこの曲を1回だけ、ルドルフ・ゼルキンと録音している。この演奏も素晴らしいが、感銘という点では内田光子の演奏に及ばないというのが正直なところだ。もちろんこの対談集にも少し取り上げられている。


2014年9月10日水曜日

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ハ短調(P:ウィルヘルム・ケンプ、フェルディナント・ライトナー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番は、ここに何かを書くのが難しい曲である。他のピアノ協奏曲と較べても華やかさに欠けるが、かと言って平凡な曲ではない。十分にベートーヴェンらしいということは疑いようがないが、交響曲の有名作品と比べると、存在は地味である。もう若いころの作品と言うほどではないが、まだ耳は不自由ではなく、いわゆる「傑作の森」まではまだ時間がある。

この曲は交響曲第1番が初演された1800年に作曲され、作曲者自身のピアノにより1803年に初演された。ハ短調という調性が示すように、この作品の異色ぶりは第5交響曲と同様、古典的な骨格を有しながらも悲愴的である。つまり個性的で、野心的な作品。

私はこの曲を初めて聴いた時のことが未だに忘れられない。コリン・デイヴィスの指揮するBBC交響楽団は、何と無骨な演奏をするのだろうと思った。第1楽章の冒頭ほどいろいろな意味でベートーヴェン的な野暮ったさを持つ作品はないとさえ思った。長い間この曲を聞く時は、私はいつもベートーヴェン臭さとでも言うべきものを感じ、そしてそれを楽しんでいた。

けれども第2楽章に至るとそのロマンチックで、それでいてとても内省的な曲の雰囲気に、他の曲にはない美しさを感じることとなった。全体が二拍子で書かれているようだが、何度聞いても私には六拍子に聞こえる。ただ技巧的でもなければ、綺麗なだけでもない。不思議な感覚はこの楽章の終わりまで長く続き、この曲の最も大きな聞きどころだと思う。それに比べると、第3楽章がいつもちょっと不足感を感じてしまうのは私だけだろうか。もしこの曲が他のピアノ協奏曲に比べて人気の点で劣るとすれば、第3楽章に原因があるのではないかと思う。

かつてベートーヴェンのピアノ協奏曲といえば、音楽評論家が口を揃えて褒め称える3人の巨匠の演奏を避けて通るわけにはいかなかった。すなわち、バックハウス、ケンプ、それにルービンシュタインだろうか。だが百花繚乱のピアノ協奏曲にあっては、今でもなお次々と個性的な名演が現れる。いつのまにかこれらの演奏は、一部のオールド・ファンの胸の中にしまわれてしまったかのようだ。その一人、ケンプのベートーヴェンは、ひっそりと我がラックの片隅に眠っている。

ケンプのピアノ協奏曲には、モノラルの録音(ケンペン指揮だったか)があり、これはその後のステレオ盤である。ここで指揮はライトナーが受け持っており、彼はNHK交響楽団への客演でもよく知られた指揮者だが、さりとて後世の名を残す名演奏があるというわけでもない。

ライトナーは天下のベルリン・フィルを指揮しているが、その演奏は普通である。加えてケンプのピアノも、何かをひけらかすようでもなく、つまりは全体的に大人しい演奏である。私は長年なぜこの演奏がかくも評判が高いのかわからなかった。そう感じた人も多かったのだろう。その結果、今ではあまり顧みられない演奏となってしまった。だが時折、その色あせた演奏を聞くと、これが実に意外にも、堅実にこの難しい曲の魅力を巧みにしかもそこはかと表現しているように感じられた。

余裕ある人が、その範囲できっちりと固めている。指揮や伴奏もその傾向に合わせられており、目立った不満がないばかりか、ちょっとした渋い演奏に聞こえてきた。その体験はちょっと不思議だった。今では第4番とともに、お気に入りの演奏である。なおケンプは独自のカデンツァを用いている。

2014年9月7日日曜日

J. S. バッハ:ブランデンブルク協奏曲全集BWV1046-1051(クラウディオ・アバド指揮モーツァルト管弦楽団)

夏が終わったというのに秋がまだ来ない。毎年9月の上旬は私の誕生日が近いというのに、何とも憂鬱な季節である。そのような蒸し暑い季節の朝に合いそうな音楽はあまりないのだが、だからこそバロックの名曲を、ただ聞き流すという時間にうってつけとも言える。

J.S.バッハのおびただしい数の作品の中でもとりわけ有名な曲が、ブランデンブルク協奏曲である。その名前の由来はブランデンブルクの領主クリスティアン・ルートヴィッヒに献呈されたからとされている。それは1721年ということだが、作曲されたのはケーテン時代を中心とした頃全般に亘っており、作曲順も番号順とは違っている。

私はその中でも第6番、第3番、第1番、第2番という順に好きなのだが、実にこれがその作曲順と一致している(ただ今回改めて聞き直し、その好みの順も幾分修正が必要となっている。というか全てが甲乙つけがたい曲であることを発見したのである)。そして初期の第6番と第3番は、独奏楽器が特に区別されているわけではない。以下に各曲と、その独奏楽器群や特徴を列挙してみる。
  • 第1番ヘ長調:ホルン2、オーボエ3、ファゴット。第1ヴァイオリンにヴィオリーノ・ピッコロ。
  • 第2番ヘ長調:トランペット(F管)、リコーダー、オーボエ、ヴァイオリン。
  • 第3番ト長調:独奏楽器の指定なし。
  • 第4番ト長調:ヴァイオリン、リコーダー2
  • 第5番ニ長調:フルート、ヴァイオリン、チャンバロ。
  • 第6番変ロ長調:独奏楽器の指定なし。ヴィオラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオラ・ダ・ガンバも活躍する一方でヴァイオリンが存在しない!
どの曲を取り上げても、楽器のオンパレードであり、合奏協奏曲のような色合いの第6番や第3番、超高音のトランペットが印象的な第2番、リコーダーが活躍する第4番、フルートとチェンバロが活躍する第5番、楽器の掛け合いの見事な第1番と、興味が尽きることがない。私は子供の頃、これがなぜ「協奏曲」と言われるのかよくわからなかったが、ピアノやヴァイオリンの独奏楽器とオーケストラという形態が定着するのは、もう少し後の時代である。

それにしてもブランデンブルク協奏曲の魅力は何と言えばいいのだろうか。「最新・名曲解説辞典」(音楽の友社)には次のように記載されている。「『ブランデンブルク協奏曲』はじつにバッハの技能が最も自由に発揮されている好適例であって、この音楽は純粋な楽しみ以外の何物も意図されていない。それにもかかわらず、この楽曲はロマン派の音楽にききなれ、音楽から何か啓示めいたものを受け入れようとする態度になれているわれわれの心をも強く動かす」(辻壮一)。

ブランデンブルク協奏曲の演奏は、かつてカール・リヒターがミュンヘン・バッハ管弦楽団を率いていた時代に、モダン楽器による最高峰とも言える演奏が登場し未だに色褪せない。この演奏には映像もあり、YouTubeでも見ることができる。けれども70年代後半以降は完全にオリジナル楽器の全盛時代となった。その中では個人的には、ヘルベルト・ケーゲルが率いるムジカ・アンティクァ・ケルンによる瞠目すべき演奏と、我が国を代表するバロックの第1人者、鈴木雅明が率いるバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏が記憶に残っている。

だが今では、クラウディオ・アバドがモーツァルト管弦楽団のメンバーと収録したイタリアでのライブ映像こそ、現時点での最高の演奏のひとつではないかと確信している。この演奏は2007年のもので、録音で聞く音だけのものは、早めのテンポで駆け抜ける演奏が丸でジャズのように耳に心地よく爽やかで、映像で見ると名手たちの興に乗った笑顔やアイ・コンタクトがすこぶる興味深い。最後には第2番の第3楽章を、リコーダの代わりにピッコロに持ち替えて演奏しているなど、ライブ映像を見る楽しみが堪能できる。私はこの演奏で第6番を聞いていた時、なぜか涙がこみ上げてきた。

丁度この映像ディスクを手に入れた2009年に書いた文章が残っていたので、以下に書き写すことにしようと思う。

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知り合った元NHK局員の方から「これはいいですよ」と勧められたのは、クラウディ・アバドが2007年にイタリアで演奏したライヴ映像で、モーツァルト管弦楽団を指揮したバッハのブランデンブルク協奏曲だった。一度BSで放送された映像で、この人はブルーレイ録画機に収録して楽しんでいるとのことだった。

それにしてもバロック音楽が趣味とは、なかなか面白い人である。しかも彼は有名な私立高校の出身で、そこでは昔ドイツ語が必修科目だったらしい。今でも英語よりはわかるという。彼は年に一回、娘の住むハワイに出かけ、米国で発売されたクラシックCDを買い漁ってくる。そしてライナー・ノ-ツをドイツ語で読むのだ!

私がドイツ語を学ぼうというきっかけを与えてくれたこの老人は、テレマンやハイドンといった、バロックから古典派にかけての音楽を聞くことが趣味で、杉並の自宅にB&Wのスピーカーを起き、朝から音楽鑑賞三昧の日々を送っている。とても羨ましい生活も、度重なる入院生活に中断を余儀なくされた。病院のベッドでも彼はテレマンのCDを絶やさなかった。

アバドの指揮するこの映像はこれまで発売がされていなかったが、最近になってEuroArtsからリリースされ、しかもブルーレイ・ディスクの安売りが年末のHMVオンラインでなされた。この機会を逃すまいと購入に踏み切ったが、丁度その時に品切れになり、先日やっと届いたというわけである。

さて演奏だが、これが実に素晴らしい。名手揃いのプレイヤーが、軽快なテンポで次から次へと出てきては名人技を披露している。立って体をゆらしながら、楽しそうに演奏を続ける彼らをカメラはよくとらえている。アバドは指揮をしているが、カメラにはあまり登場しない。ここでの主役は各プレイヤーであって、指揮者ではないというビデオ・ディレクターの考えであろう。

ジュリアーノ・カルミニューラは別にヴェニス・バロック・オーケストラを指揮して素晴らしい演奏を残しているが、ここでは主席ヴァイオリンとして登場するのも見どころである。ドイツにこもったバッハの作品も、イタリアで演奏すると緩徐楽章の「愛情のこもった(affettuoso)」表現も、何やらシチリア島のように明るくも古雅な雰囲気である。そうバロックの都とドイツが連続していることがよくわかるかのようだ。

どの部分が、というわけではなく、全体を通じて文句のつけようがない。そして静かな熱気がだんだんと会場全体を包む様子が伝わり、見ている方も熱くなってくる。一気に、優雅に、そしてさりげなく名人技の見せどころが続く。立春も過ぎて春だというのに、今年の東京の冬は寒い。朝から雪が降り続いている。こういう日は休日でも家にいて、あたたかいコーヒーでも飲みながら、ゆっくり音楽でも聞くことにしようと思う。(2011年02月11日)

2014年8月30日土曜日

メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」(オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団)

思いついた時にしかいい文章が書けないのと同じように、有名な作曲家も、いつもいいメロディーがひらめくわけではないようだ。そのタイミングは予測不可能で、いいアイデアは往々にして散歩中やベッドの中でひらめくものだ。メンデルスゾーンもスコットランドのお城を訪れた際に、この音楽がひらめいたようである。

そのメロディーがスコットランド風であることを意識したかどうかはわからないが、この曲を聞く後世の人はみな、このメロディーからやや曇りがちで時に肌寒いスコットランドの古城の風景をイ
メージすることになる。確かに第1楽章のメロディーは憂愁に満ちて忘れ難い印象を残す。さらに第2楽章では木管楽器が奏でるメロディーは、どこか民謡風で音のスケッチブックを開いているような感じだ。そして第3楽章のほの暗いメロディーも、ロマン派の香りが出て素晴らし。マーチ風の第4楽章もメンデルスゾーンらしさが伝わってくる。

秋が来て、このような曲をひとりじっくり耳を傾ける時を持てるのは、いたっい何年ぶりだろうかと自問してみる。昼下がりの公園のベンチにたたずみながら、高い空を眺めている。そういう時に相応しい演奏というのは、少し迷ったが、やはり有名なクレンペラー盤ということになろうか。この演奏は今となっては古風であり、そして独特である。

何か大海原を大型船で行くようなゆったりとした感じは、現代の都会風でせっかちな演奏からは逆立ちしても感じられない雰囲気を持っている。別に今の演奏が良くないと言っているのではないが、こういうレトロな演奏はもはやあまり聞かれなくなってしまった。

第1楽章の第2主題が入るところは、この演奏の全体の白眉だし、第2楽章の明るくてしかもしっとりとした味わいも捨てがたい。典型的な演奏ではないかもしれないが、クレンペラーの演奏にしかない深い味わいがここにはある。そえは私の好みでもあるし、他の指揮者に求めることもできない。

私はメンデルスゾーンが、この曲を完成させるまでに12年もの歳月を要したことを知り、このタイミングで取り上げるか迷った。彼がベルリンでバッハの「マタイ受難曲」を蘇らせた直後のイギリス旅行は、しかしながら彼の音楽人生にとってかけがえのないものであったし、その間に書かれたこの交響曲こそ、メンデルスゾーンの5曲の交響曲の中でももっとも素敵なものだと信じることができる・・・クレンペラーのような良い演奏で聞けば・・・。


注)クレンペラーの「スコットランド」には、フィルハーモニア管弦楽団を指揮した当盤の他に、バイエルン放送交響楽団による録音もある。ここでは独自のコーダが用いられ、明るいエンディングではなく短調のまま終わるそうである。

2014年8月20日水曜日

メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲(初期の作品)(ヘンシェル弦楽四重奏団)

クラシック音楽をもう30年以上も聞いてきたが、それでもこういう経験をするものだと思った。何度かきいているうちに、それまでは大したことないと思っていた曲が急に何か素敵に思える瞬間があるのである。最近ではメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲がそうだった。

「今さら何言っているの?」という向きも多いだろう。だが私にとっては実は、ごく最近まで特に見向きもしなかった作品である。それが急に素敵に思えてきた。メンデルスゾーンの作品を順に聞いてきて、そろそろクァルテットでも思っていたところ、なかなか良いCDが手に入らない。もともとそれほど有名な曲ではないし、CDは全部で3枚もの長さになるのだから結構な出費である。それではと最も安かった最近のCDを手に入れた。それがヘンシェル四重奏団によるArteNova盤だった。

この演奏を最初に聞いた時はちっとも良いとは思わなかった。もっとラディカルな演奏の方が良かったかな、などと考えていた。だがそれでもあきらめずに聞いていたところ、3回目か4回目にしてやっと流れに乗るような聞き方ができるようになった。ヘナヘナとした演奏だと思っていたが、それなりにきりっとして、歌うところは歌うなかなかいい演奏だと思えてきた。ではどのような曲か、これから作曲順に見ていく。今回は14歳から20歳頃に作曲された初期の3作品について。

  ①弦楽四重奏曲変ホ長調(1823年)
  ②弦楽四重奏曲第2番イ短調作品13(1827年)
  ③弦楽四重奏曲第1番変ホ長調作品12(1829年)

これらの3曲はいずれも20代の作品で、晩年の作品と比べやはり違うと言わざるを得ない。これらの3作品には、いずれも共通した特徴がある。

まず全体に非常にのびやかである。若い、ということもあるだろう。全体にみずみずしく屈託がない。これらの作品が、その年齢を思わせない完成度を誇っているのは他の作品でも言えることで、この天才作曲家のまばゆいばかりの感性にはいつも驚く、と同時に好感が持てる。作曲年代では3つのうち最後となる第1番がもっとも印象に残った。民謡風(ユダヤ風?)の第2楽章を始め、音楽は親しみやすい(この楽章は「カンツォネッタ」と呼ばれ単独でしばしば演奏される)。

番号のない変ホ長調もなかなかの曲である。モーツァルトのような愛らしさは、第3楽章のメヌエットを頂点に全体にいきわたる。第2番はこの中では一番特徴的だが、それは単調であるからかもしれない。とりわけ第3楽章は印象的で、A-B-A-Bの緩急の差が見事である。

私はこれらの作品をiPodで聞きながら、カフェの涼しい席でしばし読書をするのが楽しくなっている。集に1回くらいの割合で、私は1時間余りをそこで過ごす。少し大きめのボリュームで聞く弦楽四重奏曲とホットコーヒーの組み合わせは、残暑の厳しい夏の日に相応しく、なかなか心地よい。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...