2012年7月31日火曜日

ハイドン:交響曲第78番ハ短調(ロイ・グッマン指揮ザ・ハノーヴァー・バンド)

我が国では「運命」の名で知られるベートーヴェンの第5交響曲が「ハ短調」であることによって、それ以降に作曲された「ハ短調」の作品は、苦悩や陰のイメージでとらえられがちである。だがこのハイドンの交響曲第78番も「ハ短調」である。そしてこの曲は何と優雅な「ハ短調」だろうか。

第1楽章の冒頭は、この作品の瞬間的な印象を決定づける。「何かいつもとは変わった響き」というのがハイドンが表現したかったことのひとつではないかと思う。丁度、ヒット曲のアルバムに少しは曲調の異なった曲が混じっているように。それで76番、77番と続く一連の曲がひとつのセットであることがよくわかる。ハイドンの短調による交響曲は多くない。「ハ短調」では52番以来ということになる(以降では95番)。

第2楽章はしっとりと美しく、ロマンチックですらある。この楽章の調性は変ホ長調であり、もはや短調ではない(ハ短調と変ホ長調は平行調の関係にある。つまりいずれもフラットが3つ)。静かな音楽が突然大きな音で自信たっぷりに変換する部分などは、ちょっとそれまでにない感じである。長いが苦にならない。

第3楽章は短いメヌエットだが、ここはハ長調。ちょっとおもしろいのは音楽が時に休止するような気がすることである。パリ交響曲以降の作品で試みられる様々なユーモアの始まりが感じられる。それは最終楽章にも言える。 木管楽器が可愛いソロを吹きながら、流れるような数分が続く。規模は小さいが充実した音楽である。やはりハ長調で終わる。

短調が長調主体の音楽に程よいスパイスを効かせ、一種の流行を形成していた古典派の時代が過ぎ去り、ロマン派の時代になると短調はそれ自体が、人間の感情や観念を表現するテーマとなって行く。その始まりはベートーヴェンの「ハ短調」だとすると、これはそこに至る最初の一歩ではないか、などと妄想しながらこの曲を聞いた。むろんこれは素人の勝手な思いつきでしかないが。

2012年7月30日月曜日

ハイドン:交響曲第77番変ロ長調(ロイ・グッマン指揮ザ・ハノーヴァー・バンド)

交響曲第76番から第78番の3曲は同じ時に出版されているので、1つの作品群とみなすことができる。そして第77番はその前の第76番とは対照的な曲である。第76番のはちきれるような快活さに比べると、第77番はしっとりと落ち着いた趣きに感じられた。

ロイ・グッドマンの演奏は、しかしながら決して重くなったり引きずったりはしない。それどころか非常に楽天的で健康的である。それはここでもうしろでチェンバロがポロンポロンと鳴っているからであろう。この表現がこの曲につきまとうものかどうかはよくわからない。なぜなら別の演奏で聞くと、また違った感じがする。表現の幅が広まり、曲の様々な側面が現れていくのもまた、聴き比べの面白さではある。だがこのような目立たない曲では、どれくらいそういうことができるか。

第2楽章などはさらにしっとりとして、通奏低音がバロックのような雰囲気を出す。だがアダム・フィッシャーの演奏で聞くと、それはまた随分違う。第3楽章についても同じで、速度が倍くらいに遅い。好みでは、私はグッドマンの快速演奏をとる。都会的で楽しい。だがグッドマンの演奏は繰り返しも多く、演奏時間は長いようだ。

第4楽章は冒頭が平凡に思えるが、展開されていくと快速のまま突入するフーガもあり、木管の重なりは何かモーツァルトのようでもある。創作の確かな筆致が、生きた息使いを感じさせる。ハイドンは乗りに乗って作曲を進めていたのではないかと想像してしまう。

2012年7月29日日曜日

ハイドン:交響曲第76番変ホ長調(ロイ・グッマン指揮ザ・ハノーヴァー・バンド)

この第76番の交響曲は爽快な曲だ。聞くほどに味わいも深い。70番代に入ってハイドンは安定した様式を確立し、その充実ぶりは年を重ねるごとに大きくなっていく感じがするが、それは作曲者自身の自信の現れだろう。そう思わせるのも、この曲の作曲の経緯によるのだ。

第76番からの3曲は(あまり知られてはいないが)「イギリス交響曲」とも呼ばれ、ハイドンがイギリスを訪問する際に持参する予定だったようだ。これは後の「ザロモン・セット」などよりも前のことである。

第76番は特にリズムの処理が面白く、何やら列車が走る様を思い起こさせた。そう言えば当時のイギリスは産業革命の真っ盛りで、蒸気機関が発明されたのもこの頃である。機械のような連続した速いリズムが、そういう感じを表しているとしたら少し考え過ぎだろうか。

古楽奏法の広まりがもたらした効果のひとつは、それまで埋もれていた古典派の作品に新しい光をあてたことである。ハイドンのこの作品を、初めて今回はロイ・グッドマンが指揮するハノーヴァー・バンドによって聞いている。この演奏の特徴は、いつも通奏低音のチェンバロが鳴り響いていることだろう。これまでの演奏になかった効果なので、それは実に楽しく、耳に心地よい。あまりこのような演奏ばかり聞いていると、少し耳障りな感じがしなくもないが、私にとって76番にして初めて聞くグッドマンの演奏は、なかなか新鮮で嬉しい経験だった。

第2楽章の落ち着いた感じも後半になって盛り上がり、この曲がもはや試作品というようなものではなく、むしろ自信作の趣きを有している。各楽章の長さや速さのバランスもいい。そういうわけでなかなか聞き応えのある曲なのだが、でも後半の「パリ交響曲」や「ロンドン交響曲」のようなユーモアや洒落はまだなく、真面目である。そういったことがこの時期の交響曲の存在感を薄めてしまっているのは、残念であるが仕方がないことなのかも知れない。

2012年7月28日土曜日

ハイドン:交響曲第75番ニ長調(鈴木秀美指揮オーケストラ・リベラ・クラシカ)

意味ありげな序奏で始まる第1楽章は、続く第1主題で印象的な3連打の音符がそれまでにない雰囲気である。勢いがあって、バランスのあるいい曲のようにも思えるが、より後年の曲に比べるとどうしても分が悪い。

第2楽章は静かにダンスを踊るような曲で、しみじみと味わいがあるのだが、第3楽章に続くと同じような感じが長くなり、第4楽章も重なりあう感じと落ち着いた風格が好印象であるものの、これというものがあとに残らない。このブログを書くにあたって、ちょっと苦労した。

だが演奏については少し書いておきたい。この曲を私は鈴木秀美が指揮をするオーケストラ・リベラ・クラシカによるもので聞いた。録音は2005年である。

古楽的な手法によって主に古典派の作品を演奏するこの団体は、当然ながらほとんどが日本人のオーケストラである。ところがその溌剌として明るい演奏は、ヨーロッパの伝統こそ感じさせないものの技術的には引けを取ることなどなく、むしろ新鮮で新しいスタイルを持っているようにさえ思う。それは本場の演奏にはない魅力を持ち、さらにはその上を行くのではないかと思われるようなものを感じさせる。日本人の演奏家にこれほど多くの素晴らしい古楽器奏法奏者がいるのかとさえ思う。よく練習された精鋭の音楽家が、日本にもハイドンの埋もれた作品を最高の水準で演奏することができるのだと、主張している。

選曲がどのように決まられるのかはよく知らないし、私も実演を聞いたことがないのだが、このCDでは演奏会をそのまま録音したような組み合わせにより、ヴァンハルの交響曲ホ短調、ハイドンの交響曲第75番、それにモーツァルトの「プラハ」交響曲がカップリングされている。わざわざ有名でない作品を取り上げるハイドンの一連のシリーズは、私のような収集家の脇をくすぐる凝った選曲である。そしてその演奏の素晴らしさは、録音の良さも手伝って、目立たないが他には代え難い価値を放ち続けている。

もしかするとこの演奏で聞くことによって、ハイドンの75番という交響曲は新たな息吹を吹き込まれたのかも知れない。

2012年7月27日金曜日

ハイドン:交響曲第74番変ホ長調(アダム・フィッシャー指揮オーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラ)

ハイドンが古典派交響曲の作風を確立して、いよいよ名曲が続くようになる一歩手前で、その後の数多くの作品に比べるとどうしても一歩目立たないために、ちょっと損をしているような作品である。A=フィッシャーによる全集からの演奏は、充実していて大変素晴らしい。

序奏のない第1楽章の冒頭はとても印象的。どこがどうということはないが、充実した響きである。高速で駆け抜けるこの演奏は、ビブラートを押さえた古楽器の音色がとても新鮮だ。

さらにこの曲でもっとも素晴らしいのは第2楽章かも知れない。低音はチェロの響きだそうだが、最初はコントラバスかと思った。この音楽を聞いていると、穏やかな春のような気持ちになる。第3楽章のメヌエットは基本的な3部形式でトリオを伴う。今回はファゴットとヴァイオリンである。第4楽章はリズム処理が面白いが、優雅な部分もある。どこか中途半端でもあり、そのあたりがこの曲の魅力を少ないものにしているのかも知れない。

2012年7月26日木曜日

ハイドン:交響曲第73番ニ長調「狩り」(オルフェウス管弦楽団)

第1楽章の冒頭の序奏を聞くと、それまでとは違った印象を受ける。木管の和音に弦楽器が乗って、何か意味ありげな行進である。ハイドンの交響曲をここまで聴いてきた印象では、ここでまたひとつハイドンの作風が飛躍したな、という印象を受ける。

久しぶりに趣向を変えてオルフェウス管弦楽団による演奏で聞いている。メリハリの聞いた刻みとともに弦楽器の重なる音がピチカートでない!アダム=フィッシャーの演奏ではここがピチカートなので、演奏の違いも大きい。本当はどちらが正しい?のだろうか。よくわからない。

第1主題が始まる。ソナタ形式の古典派の音楽が、安定感を持って始まることが何とも嬉しい。揺るぎない形式がここでは確立され、自身たっぷりな様子である。時おりホルンが聞こえてきて素晴らしいアクセントとなっている。モーツァルトはこのような古典形式をさらに優雅に表現し、ベートーヴェンではもはやこのような音楽は見られない。

第2楽章は何か「驚愕」のメロディーを思わせる。もしかするとその原形ではないの、とさえ思ってしまう。第3楽章は3拍子だが、アクセントの置き方がどこか風変わりである。単なるメヌエットではない感じで、そう言えばベートーヴェンは交響曲第1番で「メヌエット」と言いながらスケルツォを書いたことを思い出す。

第4楽章は歌劇「報いられた誠」の序曲だそうである。ここでいきなりティンパニとトランペットが入ってくいる。別の曲であるにもかかわらず第4楽章の雰囲気に相応しい。70番代で唯一標題付きのこの作品は、大変立派な作品である。

2012年7月25日水曜日

ハイドン:交響曲第72番ニ長調(アダム・フィッシャー指揮オーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラ)

もともと少人数だった当時の音楽隊にホルンが4本も入っていることは異例であったと思われる。だがこのような曲がハイドンの交響曲には3つある。第13番ニ長調、第31番ニ長調「ホルン信号」、それにこの第72番ニ長調である。すべてニ長調なのはホルンが引きやすいからなのかも知れないが、よくわからない。

この3つの交響曲はだいたい同じ時期に作曲されたと考えるのが普通だろう。さらには作風の観点からも類似点が多く、この72番は他の2曲と同様、1960年代前半の作曲と今では考えられているようだ。これまで70番代の交響曲はすべて1770年台後半の曲だったから、10年以上も遡ることになり、順を追って聞いてきた聞き手を混乱させる。が、このようなイレギュラーは、これまでにはしばしばあったが、いよいよこの72番が最後である。

第1楽章のティンパニの強打で始まる冒頭は、なぜかプロコフィエフの「古典交響曲」を思い起こさせた。威勢のいい第1楽章は全体の中でもっとも素晴らしい。これに対して第2楽章は、フルートとソロ・ヴァイオリンの掛け合いが続く静かな曲である。

第3楽章は続く第4楽章よりも派手でホルンも活躍するが、第4楽章はそれまでの曲よりも俄然長く、延々とアンダンテが続く。ここは変奏曲ということになっているが、丸でダンスを踊っているようだ。コントラバスなどが活躍して、特徴的ではある。コーダの部分では再び威勢がよくなって、わずか30秒そこそこで終わる。アダム・フィッシャーの演奏は、きびきびして良い出来栄えである。もしかしたらこの曲は、この演奏がナンバー・ワンではないかと思われたが、他の演奏を丸で聞いていないので、それ以上のことは何も言えない。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...